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ひろしま郷土史譚《三原編》~潮風と祈りの物語~  作者: かつを
第2部:営みの物語 ~街道と塩田の賑わい~
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大名の行列と旅籠の看板娘 第4話:訳ありの浪人

作者のかつをです。

第七章の第4話をお届けします。

 

今回は少しサスペンスフルな展開です。

穏やかな旅籠の日常に訪れた一人の謎の浪人。

彼との一夜の出来事を通して、主人公・おゆうはまた一つ人生の機微を学んでいきます。

 

※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。

季節は巡り、世の中には少しずつ不穏な空気が流れ始めていた。

幕府の力が衰え、各地で一揆や打ちこわしが頻発しているという噂が、旅人たちの口の端に上るようになっていた。

 

そんなある冷たい雨が降りしきる夜のこと。

 

松屋の戸を叩く音がした。

こんな夜更けに珍しい。

父・源右衛門が用心深く戸を少しだけ開けると、そこにはずぶ濡れの一人の浪人が立っていた。

 

齢は三十代半ばか。

顔には古い刀傷が走り、その鋭い眼光は暗闇の中で狼のように光っている。

身に着けた刀は鞘がところどころ剥げ、長い困窮の暮らしを物語っていた。

 

「……すまぬが、一夜の宿を貸してはもらえまいか」

 

声は低くかすれていた。

 

源右衛門はそのただならぬ雰囲気に警戒し、断ろうとした。

このご時世、訳ありの浪人を泊めて面倒に巻き込まれるのはご免だった。

 

しかし、おゆうが父の袖をそっと引いた。

 

「父ちゃん。雨の中お困りの方を見捨てるのは、松屋の暖簾に傷がつくよ。私に任せて」

 

その言葉に父は渋々頷いた。

 

浪人は名を尋ねても、ただ「権蔵ごんぞう」と名乗るだけだった。

おゆうが用意した食事にもほとんど手を付けず、ただ黙々と熱燗をあおっている。

他の客たちもその異様な雰囲気を恐れてか、誰も彼に話しかけようとはしなかった。

 

だがおゆうは見ていた。

給仕のために近くを通りかかった時、浪人が懐から小さな古びた手毬を取り出し、そっと撫でているのを。

その時の彼の横顔は、それまでの厳しい表情が嘘のように悲しみに満ちていた。

この人にも守るべき誰かがいたのかもしれない。

そう思うと不思議と恐怖心は消えていた。

 

その夜半。

おゆうは階下からのかすかな物音に目を覚ました。

帳場の方だ。

そっと階段を下りてみると、覆面をした二人の男が銭箱をこじ開けようとしている。

旅人の金を狙った盗人だった。

 

おゆうは恐怖に声も出せず、その場に立ち尽くした。

 

その時だった。

背後の暗闇からすっと影が現れた。

浪人の権蔵だった。

彼はまるで猫のように音もなく盗人たちの背後に忍び寄ると、一瞬のうちに二人を組み伏せてしまった。

盗人たちは悲鳴を上げる間もなく、嵐のように去っていった。

 

翌朝。

権蔵は何事もなかったかのように、黙って旅支度を整えていた。

おゆうが駆け寄り、深々と頭を下げる。

 

「昨夜はまことにありがとうございました。お礼を……」

 

権蔵はそれを手で制した。

 

「……礼には及ばぬ。……わしはかつて守るべきものを守れなかった。……ほんの少しだけ罪滅ぼしができたのかもしれん」

 

そう呟くと権蔵は雨上がりの街道を一度も振り返ることなく去っていった。

 

おゆうはその大きな背中を見送りながら、人の見かけだけでは決して分からない心の奥深さと、その悲しみを知った気がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

 

治安が不安定だった時代、旅籠にとって客の素性を見極めることは死活問題でした。

しかしその一方で、こうした義侠心に厚い浪人が悪党を懲らしめるという物語は、講談などでも人気を博しました。

 

さて、少しずつ時代の影が忍び寄ってきた松屋。

いよいよ歴史の大きな転換点、「幕末」の動乱が本格的に始まります。

そしておゆうは、あの若侍と思わぬ再会を果たします。

 

次回、「黒船の噂」。

 

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