村上水軍と塩飽の船乗り 第7話:船乗りの見た夢(終)
作者のかつをです。
第四章の最終話です。
時代の大きなうねりの中で引き裂かれていく二人の運命。
彼らの切ない最後の航海を静かに描きました。
この物語のテーマである「過去と現代の繋がり」を、改めて感じていただけたら幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
その夜、吉蔵は誰にも見つからぬよう闇に紛れて鶴姫の小早船を出した。
櫓を漕ぐ音さえも立てぬよう、細心の注意を払う。
船はまるで夜の海を滑る幽霊のように、静かに進んだ。
鶴姫は何も言わなかった。
ただ吉蔵のすぐ後ろに座り、彼の背中をじっと見つめているだけだった。
船はいつもの入り江をゆっくりと巡る。
月明かりに照らされた島々の影が、水面に静かに揺れていた。
聞こえるのは優しい波の音と、遠くで鳴く水鳥の声だけ。
吉蔵はこの時間が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
だが東の空は無情にも、少しずつ白み始めていた。
「……吉蔵」
港が見え始めた頃。
鶴姫が初めて口を開いた。
「わらわは行く。小早川の元へ。それがこの村上の家を、この海を守るためのわらわの戦じゃ」
その声にはもう一片の迷いもなかった。
「……そなたも達者でな。塩飽の、日本一の船乗り」
鶴姫はそう言うと、懐から小さなお守り袋を取り出し、吉蔵の手にそっと握らせた。
「……姫様」
吉蔵はそれ以上言葉を続けることができなかった。
込み上げてくる熱いものをこらえるので精一杯だった。
港に着くと、鶴姫は一度も振り返ることなく砦の中へと消えていった。
夜明けの冷たい風が、吉蔵の頬を撫でていく。
……それから長い長い年月が流れた。
吉蔵はその後も因島村上氏の水軍の一員として、生涯を海の上で過ごした。
毛利と織田の天下を懸けた海戦にも加わった。
彼が鶴姫と再会することは、二度となかった。
だが彼は生涯、鶴姫からもらったあのお守り袋を肌身離さず身に着けていたという。
そして年老いた吉蔵は、時折若い船乗りたちに夢のような話を語って聞かせた。
月夜の晩、この芸予の海で天女のように美しい姫君を乗せ、夜が明けるまで船を漕ぎ続けた、と。
それはわしの船乗り人生で、最も誇らしい一夜だったのだ、と。
◇
……現代。三原港。
因島や他の芸予の島々へと向かうフェリーが、白い航跡を描きながら行き交っている。
もしあなたがその船の甲板に立ち、潮風に吹かれながら静かに海を見つめれば。
遠い戦国の世、この海を愛し、この海を守るために自らの運命を受け入れた気高き姫君と、その姫君に生涯仕え続けた名もなき船乗りの、切ない恋の物語が聞こえてくるかもしれない。
(第四章:芸予の海を駆ける者 ~村上水軍と塩飽の船乗り~ 了)
第四章「芸予の海を駆ける者」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
村上水軍の華々しい戦の歴史の、その裏側にはきっとこんな名もなき人々の語られることのない物語が、無数にあったのでしょう。
さて、戦国の世が終わりを告げ、物語は再び平和な江戸の世へと戻ります。
次回は、この三原の地に今も篤い信仰を集める、あるお寺の創建の物語に光を当てます。
次回から、新章が始まります。
第五章:佛通寺の鐘は誰がために
戦乱の世に人々は仏に何を求めたのか。
全国屈指の禅道場の創建の裏にあった、名もなき人々の祈りの物語です。
引き続き、この壮大な郷土史の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第五章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




