村上水軍と塩飽の船乗り 第2話:水軍の誘い
作者のかつをです。
第四章の第2話をお届けします。
今回は主人公・吉蔵が村上水軍の当主から直接スカウトされる場面を描きました。
彼に与えられた意外な役目。
それが彼の人生を大きく動かしていくことになります。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
吉蔵が通されたのは、砦の奥にある簡素ながらも威厳のある広間だった。
上座には齢五十がらみの、日に焼けた精悍な男がどっかと座っている。
その眼光は凪いだ海のように静かだが、その奥には嵐のような激しさが秘められているのが一目でわかった。
因島村上氏の当主、村上吉充その人であった。
「塩飽の、吉蔵と申すか」
「はっ! その儀に、相違ございません!」
板の間に額をこすりつけて平伏する吉蔵に、当主は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言葉を続けた。
「お前の船を操る腕は聞き及んでおる。このあたりの潮の流れも、まるで己の庭のように知り尽くしている、と。……どうだ、わしの下で働いてみる気はないか」
それはあまりにも突然の、そして破格の誘いだった。
ただの貢ぎ船の船乗りが、あの村上水軍に直接召し抱えられる。
それは船乗りとして最高の栄誉と言っても過言ではなかった。
だが、吉蔵は即答できなかった。
村上水軍に仕えるということは、故郷の塩飽を捨てることを意味する。
そして何より、彼らの仕事はただ船を操るだけではない。
時には武器を取り、血を流すこともある。
自分にその覚悟があるのか。
吉蔵の心の迷いを見透かしたかのように、当主は続けた。
「お前にやってもらいたい仕事は一つ。わしの大事な姫の船を、引いてもらいたい」
「……姫様の?」
「そうだ。わしの娘は生まれつき身体が弱い。なれど海の上で潮風に当たっている時だけは心が安らぐ、と申す。だがそこらの腕の悪い船頭では、かえって船酔いをさせてしまう。お前ほどの腕があれば姫も安心して船に乗れよう」
それは意外な、そしてどこか拍子抜けするような役目だった。
戦働きではない。ただ姫君を船に乗せるだけ。
「もちろん、ただ働きとは言わぬ。お前の故郷にいる家族の暮らしはわしが涯面倒を見てやる。米も塩ももう貢ぐ必要はない。むしろこちらから送ってやろう」
それは抗うことのできない甘い条件だった。
貧しい故郷の家族を飢えさせることなく、楽な暮らしをさせてやれる。
自分一人がこの島に残るだけで。
吉蔵に断る理由はもうなかった。
いや最初から、断るという選択肢など与えられてはいなかったのかもしれない。
「……ありがたき幸せ。この吉蔵、身命を賭してお役目を果たさせていただきまする」
吉蔵は再び深く、深く頭を下げた。
その日、吉蔵は塩飽のただの船乗りではなくなった。
村上水軍の海の武士として、新しい人生を歩み始めることになったのだ。
その先にどんな運命が待ち受けているのかも知らずに。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
戦国時代の武将が敵方や支配地域の有能な人材を、様々な条件で引き抜くということはよくありました。
特に船を操る技術や潮を読む知識といった特殊な技能を持つ者は、破格の待遇で迎え入れられたようです。
さて、姫君のお召し船の船頭という役目を授かった吉蔵。
彼はそこで運命的な出会いを果たします。
次回、「海賊か、海の武士か」。
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