御調八幡宮、石の仏様が見た千年 第5話:涙の染み
作者のかつをです。
第二十章の第5話をお届けします。
物語の中で、最も悲しいエピソードです。
出征兵士の無事を祈る家族の姿と、叶わなかった願い。
石に残された「涙の染み」を通して、戦争の悲劇を描きました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
昭和の時代。
日本中が、戦争という暗い影に覆われた時。
この御調八幡宮の境内も、悲しみに包まれた。
「武運長久」
数百年ぶりに、その言葉が頻繁に聞かれるようになった。
だが、かつての武士たちとは違い、今度の参拝者たちは、皆、日の丸の旗を振られながら、どこか諦めたような、静かな目でやってきた。
出征する若者たち。
そして、それを見送る母や妻たち。
ある日、一人の母親がやってきた。
彼女は、毎日、毎日、雨の日も風の日も欠かさず、百度参りをしていた。
「どうか、息子をお守りください。……鉄砲の弾が、当たりませんように」
彼女が我輩を撫でる場所は、いつも同じだった。
そこには、彼女の手の脂と、そしてこぼれ落ちた涙が染み込み、黒いシミになっていた。
我輩は、その涙の熱さに、身を焼かれる思いだった。
第十二章の和子のように、第十一章の造船所の男たちのように、この時代、誰もが何かを奪われ、何かに怯えていた。
「神風が吹く」と人は言う。
だが、我輩は知っていた。
神や仏に、戦争を止める力などないことを。
人が始めた争いは、人が終わらせるしかないのだと。
やがて、その母親は来なくなった。
風の噂で、息子が南の海で散ったことを知った。
数日後、母親はひっそりと現れた。
その髪は一晩で真っ白になり、目は虚ろだった。
彼女は、我輩の前に座り込み、動かなかった。
祈る言葉も、もうなかったのだろう。
ただ、冷たい石に頬を押し当て、声もなく泣き続けていた。
我輩は、悲しかった。
千年の間、数えきれないほどの願いを聞いてきたが、これほど無力さを感じたことはなかった。
(すまない……。守ってやれなくて、すまない)
我輩にできることは、彼女の冷え切った頬を、石の冷たさで慰めることだけだった。
その時、我輩の石の芯に、決して消えることのない、深い悲しみの亀裂が入ったような気がした。
戦争は終わった。
長い年月をかけて、人々の傷は癒えていったかもしれない。
だが、我輩の身体に残ったあの黒い涙の染みだけは、雨が降っても、雪が降っても、決して消えることはなかった。
それは、二度と過ちを繰り返してはならないという、無言の戒めとして、今もそこに残っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
御調八幡宮には、実際に多くの出征兵士やその家族が参拝に訪れたことでしょう。
神社の木々や石は、そうした悲しい歴史の証人でもあります。
さて、長い時が流れ、現代へ。
石の仏様が、千年の果てに見つけた「答え」とは。
いよいよ、全20章の物語が完結します。
次回、「幸運とは(終)」。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




