第八話『タイムストップ』
テストの日まで残り三日。俺は天音と一緒に神社にお参りに来ていた。
「やっぱり願掛けはしておかないとね」
天音の学力は徐々に向上しているように思うが、願掛けしたところでどうにかなるレベルではない。
「帰ったらまた勉強だからな」
「分かってるよお」
春は終わり、夏が来ようとしている。手を合わせ祈っていると、妙なことを思い出した。
「そういえば、天音の願い事って大抵叶うよな」
「え? そうかな」
もしかして天音にも不思議な力があるのかもしれない、と思うほどに。
「あれ覚えているか?」
俺たちがまだ小学生の時、天音は何かと神社にお参りに行っていた。
「傑のこともお願いしてあげる! そしたら神様が叶えてくれるから!」
「そんなこと、あるわけないだろ」
最初、俺は全く信じていなかった。だから少しからかってやるつもりで、ふざけたことをお願いしたんだ。
「いいから、何をお願いする?」
「そうだなあ、そんなに言うなら、一日天音が猫になりますように、とかどうだ?」
「何それ、面白そう!」
天音もそれを望むかのように、二人で神社の本殿に手を合わせてお願いした。人間が猫になんて、ありえるはずがない。そう思っていたのに。
翌日、学校に天音の姿はなかった。その代わり、天音の席には灰色の毛並みの猫が座っていた。
「何この子、可愛いね」
「本当だ、猫ちゃん可愛い」
クラスの女子が寄ってたかって、その猫を撫でていた。
「ま、まさかな……」
俺は認めたくなかったが、猫は俺を見つけた途端、他を振りほどいて俺にすり寄ってきたのだ。
「なんだよ、本当に天音なんて言わないよな……」
猫は何も言わない。不思議そうな目で俺を見つめるだけだ。女子たちが羨ましそうに俺たちの周りを囲んでいる。
「さあ、授業が始まりますよ」
いつの間にか先生が来ていて、俺は咄嗟に机の中に猫を隠した。天音は学校に姿を見せず、暴れもしないその猫は、学校が終わるまで、俺の机の中で静かに眠っていた。
「天音……どこ行っちゃったんだよ」
学校の帰り道、俺は神社に寄り、猫を膝にのせて座っていた。
「答えてくれよ、お前が天音なら、もういいから、戻ってくれよ……!」
俺はとんでもないことをしてしまったんだと、自覚した。猫になってしまった天音を、俺はどうすればいいか分からなかった。
「にゃー、にゃー」
急に動き出した猫が、本殿に向かって鳴き始めた。俺は黙ってそれを見届けていたが、少しすると、その猫は満足したように、また俺の膝で寝てしまった。
「天音……ごめん……」
俺は、いつの間にか眠ってしまっていた。目を開けると、そこには天音がいた。
「あ、天音……!」
俺の膝に頭を乗せて、気持ちよさそうに寝ている。
「あれ……傑?」
天音も目を覚ましたが、どういう状況か分かっていないらしい。
「お前、今までどこ行ってたんだよ!」
「え……わ、分かんない。でも、猫になる夢を見て……」
その夢の内容を聞くと、今日俺が体験したことと一致していた。
「夢、だったのか?」
「傑と同じ夢を見ていたなんてびっくり!」
俺はもう、現実と夢の区別がつかなくなっていた。分からないまま俺たちは家に帰ったが、今後絶対にふざけたお願いはしない、と心に誓った。
「そんなこともあったねえ」
「あのあとも、神社に何回もお参りに行ってさ、『無くした物が見つかりますように』とかお願いして、本当に見つかったり。俺は正直寒気がしたよ」
違和感は、俺だけじゃないのかもしれない。
「私、いつも思ってるんだ。みんなと仲良くしたい、思い通りに過ごしたい、って」
「それが、どうしたんだ」
「きっとそれも、神様が叶えてくれてるんだなって。だって私、今すごく幸せだもん」
もし何かしらの力を持っているとしたら、『願いを叶える』ものだと想像できる。このことを、一度京子さんに相談してみようか。
「天音がそう思うなら、いいんじゃないか?」
「うん! だから、今回のテストも絶対上手くいく!」
テストの結果が楽しみだ。
なんやかんやでテストは終わり、夏休みが近づいていた。
「傑! テスト終わったんだってな!」
「あーあ、和文はいいよな、学校とかなくて」
「いいんだよおいらは。姐さんのとこでちゃんと働いてんだ!」
一応ここはBARだ。そういえば住み込みでバーテンダーとして働いてるんだっけか。
「京子さんに拾われた経緯はなんとなく分かるけど、そもそもなんで上京なんかしてきたんだ? 実家の茶屋を継いだって良かったじゃないか」
「それは無理だよ。あそこにおいらの居場所はないから」
大学に行くわけでもなく、何のあてもなく出てきたんだろう。京子さんに出会わなかったらどうしていたんだろうか。
「あんまり、言いたくなさそうだな」
「いや、別になんてことない。おいらは逆に、傑が羨ましいよ」
「どうしてだ?」
和文はいつもとは違う重い表情で、過去について話してくれた。
学校に通ってはいた和文だが、周りと上手くやれていなかった。
「お前といると、なんか気持ち悪いんだよ」
力の存在を知らず、制御も出来なかったために、記憶のズレや認識の差があった。
「お、おいらは何も……」
「物が壊れてもすぐ直ってるし、お前、怪我とかも多いのに、次の日には傷一つないじゃんか」
顕著に表れていたのは『戻す』力。和文の罪悪感が力を発動させていた。ただ、それは誰にも気づきようがなかったのだ。
「それは、おいらにもよく分からなくて……」
「だから余計気持ち悪いんだよ。近づいてくんな」
そう言われた日から、和文は保健室登校をするようになった。
「和文くん? 今日は教室に行けそう?」
「あ、いや……」
小さな田舎だったため、学校は小中高と全て一緒にされていた。どこにいても、顔なじみしかいない。
「無理はしなくていいのよ。気分が良くなったらでいいから」
保健室の先生は優しく和文に接してくれる良い先生だった。しかし、事件は起こる。
「和文くん、今日は……」
「う、うるさいなあ! おいらはもう教室には行きたくない! どこにも、もう居たくないんだ!」
和文の心はついに限界を迎えてしまった。毎日毎日、優しくされるたびに罪悪感を抱き、そして、全てに嫌悪感を抱いていた。
「和文くん、落ち着いて……」
「もう構わないでくれ!」
和文は勢いよく先生を突き飛ばした。鈍い音が、保健室に響く。
「せ、先生……?」
棚の角で頭を打った先生は、血を流して倒れていた。和文は、何もかも我慢できなくなった。
「う、うわあああああ……!」
その瞬間、町の全てが『止まった』。
「本当はもう気づいてたんだよ、その時に」
「和文……」
京子さんに出会う前に、自分の力を自覚していたんだな。
「しばらくそのままだった。『戻す』ことも『進める』ことも、おいらは怖くて、それに、やり方が分からなかったんだ。体感だけど、一か月は『止まって』いたと思う」
「それ、最終的にどうしたんだ」
「色々考えて、町の全部をまわって、おいらはいなくなりたいと思ったんだ。そしたら、次に目を開けた時には『元通り』だったよ」
俺はそっと胸を撫でおろした。下手をすれば、その町だけ今も『止まった』ままだったかもしれない。だが、和文が言った『元通り』はそのままの意味ではなかった。
「それなら良かった」
「でもな、誰もおいらのことを知らなかったんだ。まるで最初からいなかったみたいに、先生も、学校のみんなも、おいらの両親も」
俺は絶句した。和文は出ていきたかったのではなく、出ていくしかなかったのだと。居場所がないというのは、物理的にだった。
「それは……」
「もしかしたら最初から全て幻覚で、『止まって』いないのにそう感じただけかもしれない。みんながおいらのことを知らなかったのも、気のせいかもしれない」
実際『神の力』を持っているのだから、力のせいと片付けてしまうのは簡単だ。しかし、和文が精神的に追い詰められていたのもまた事実だ。
「どうしてそんな辛いこと、話してくれたんだ」
「辛い、かあ。おいらが町で最後に思ったのは、こうなって良かった、だったよ」
和文に後悔はないように見えた。力の発動は意図せず起こったことなのに、両親も自分のことを忘れてしまったのに。どうしてそんなに吹っ切れた顔ができる?
「こうなって良かった……だって?」
「おいらは今が幸せなんだ。今があれば過去は要らない。おいらには京子姐さんが全てだ」
力の過剰発動。おそらく、町のみんなの記憶がなくなってしまったのは、強すぎる『時間』の歪に脳が耐えられず、『タイムパラドックス』が起こってしまったせいだろう。和文も同じように、全てを忘れたかったのかもしれない。
「京子さんは、本当に和文の恩人なんだな」
「そうだよ、だから傑もちゃんと姐さんの言う事は聞いとけよ?」
「ああ、分かった」
京子さんが和文の『記憶』を見たがらなかった理由は、ここにあるのだろうか。和文はあまりに大きすぎる力を溜め込んでいる状態だ。これを『覚える』のは、きっと心身ともに負担がかかる。
「いやあ、なんか暗くなっちまったな。お詫びに新しい力を見てけよ」
「こんな話をした後にか? よくやるよお前は」
「こんな話だからだろ。いいからよーく見とけよ」
和文はどこからか一輪のバラを取り出した。
「タイムフォワード」
バラがみるみる枯れていく。どうやら時が『進んだ』ようだ。
「おお、すごいな」
「だろ? おいらすごいんだよ」
「でも、待てよ……?」
俺は一つの疑問を持った。前回の過去の話からして、和文の家の花がずっと生き生きしていたなら、枯れているイメージなんてできるだろうか。
「なんだよ。なんか不満か?」
「そうじゃない。和文は花が枯れるところを見たことがあるのかと思って」
「へへ、実はな、姐さんに記憶を『見せて』もらったんだよ」
京子さんはそんなこともできるのか。
「至れり尽くせりだな」
「花が枯れるってすごいことだぜ? こんなにしわくちゃになるんだからな!」
和文の話を聞いていると、やっぱり和文は『井の中の蛙』だったんだと思う。