第十二話『忘却』
京子さんの『記憶』の力、それには、一度見た記憶は忘れることが出来ないという代償がついている。
「あたいの話が聞きたいのかい?」
いつも通り煙管を吸いながら座っている京子さんに、俺は黙ってうなずいた。
京子が当時六歳の状態から、『クロネコ』によって二十歳まで時を『進め』られて、すぐの事。
「京ちゃん? そんな驚いた顔をして、どうしたんだい?」
目の前には、着物で頭に蝶のかんざしをつけ、煙管を吸う女性がいた。
「ここは……? それにこの体……何が起こったの?」
一気に十四年の時を『進んだ』京子は、自分の身に何が起こったのか理解できず、目の前にいる人が誰なのか分からなかった。
「本当にどうしちまったんだよ、京ちゃん。あたしのことが分からなくなっちまったのかい」
村がある山の麓、そこの小さな町に住む知り合いの元に逃げたこと、そこからまた村に戻って『クロネコ』と話をしたことは覚えている。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、頭が痛くて」
「あたしは蝶香だよ。どこかで頭を打っちゃったのかねえ」
困り顔の蝶香。京子の記憶では、学生服を着ているイメージだった。
「蝶香さん? い、今何歳?」
「今? 今年で三十一だけど、それがなんだい?」
「十年以上経ってる……」
一気に顔が青ざめる。京子は一つずつ聞いていくことにした。
「京子、は、どうしてここに?」
「その言い方、昔の京ちゃんみたいじゃないか。どうしてって、十四年前に京ちゃんが村から下りてきて、あたしの親が引き取ったんだよ」
記憶が間違っていないことを認識した京子。
「村のこと、何か知ってる?」
「ああ、大火事のことかい。あれは、災難だったねえ」
そんな記憶は京子にはなかった。どうやら、両親や村の人たちは火事で亡くなったことになっていた。
「蝶香さんのお父さんとお母さんは?」
「それも忘れちまったのかい? お父とお母は、その大火事の三年後、あたしが二十歳のときに行方不明になって、京ちゃんの村で……亡くなっていたよ」
京子は考える。きっと、蝶香の両親が行方不明になり、その後村で遺体が発見されたのには、あの『クロネコ』が関わっている。
「ごめんなさい、辛いこと、思い出させて」
「いいんだよ。せっかく二十歳になったってのに、また子供らしい京ちゃんに戻っちまった。これは、ゆっくり思い出していくしかないね」
蝶香は疑いもせず、京子を二階のベッドに寝かせた。
「京子のこと、怒らないの?」
「何を怒ることがあるんだい? 明日からお店の手伝いをしてもらうから、今日はもう寝なさい」
優しい蝶香の顔を見ると、京子は静かに目をつむった。
「こんな話、傑が聞いたって何にもならないよ」
京子さんの『タイムパラドックス』は予想以上に深刻なものだった。
「そうでもない」
「何か他に聞きたいことはあるかい?」
「その十四年の記憶が抜け落ちているなら、今の精神年齢は小学生程度だろ? どうして京子さんはそんなにも達観しているんだ?」
現在、京子さんは二十六歳。さっきの話からたった六年しか経っていない。人は六年で急に大人にはなれやしない。
「それはね、途中で『記憶』を思い出したからさ」
「思い出した? でも、存在しない『記憶』なんじゃ……」
「単に忘れていただけなんだよ。あたいは時を『飛んだ』んじゃない、『進んだ』のさ。だから、あたいの中には経験が残ってる」
かつて京子さんが言っていた。『記憶』とは、生きてきた全ての経験なのだと。だからこそ、思い出すことが出来たのか。
「それなら和文の……」
「言いたいことは分かるけどねえ、それは出来ないよ。あの子は時を『止めた』だけだから」
和文は確かに存在しているのに、力の代償だからって、両親や町の人たちから和文の『記憶』がなくなってしまうなんて、どうにかしてやれないのか。
「どうしてだ? だって、確かに和文を産んだ母親がいて、和文と関わった町の人がいるじゃないか。それは『忘れて』いるんじゃないのか?」
「あれは『忘れた』んじゃない。『書き換わった』のさ。言っておくけどね、これはまだマシな方だよ」
両親にさえ忘れ去られることがマシだって? 俺がもしそんなことになったなら、多分この世からいなくなることを選ぶ。そうか、京子さんはその可能性を最悪だと考えているのか。
「和文が、いなくなっていたかもしれないってことか」
「それは自死か、はたまた時の歪みか。何が起こってもおかしくなかったんだよ」
そう思うと恐ろしい。和文が起こした『タイムパラドックス』はあまりに大きく、和文がいないということが当たり前の町に、成り代わってしまったんだ。
「京子さんは、『忘れてしまう』ことと『忘れられない』こと、どっちが辛い?」
「あたいには決められない。色んな『記憶』を見ているとね、幸せを思い出して笑ったり、トラウマが消えなくて悩んだり、その一喜一憂が、人を動かすきっかけになると、改めて思うのさ」
俺にはまだ難しい話だ。いや、『記憶』を操る京子さんだからこそ、分かることなのかもしれない。
「嫌になったりしないのか?」
「力のことかい? そりゃ何回もあるさ。でも、あるものは仕方がないから、あたいはこの力も含めてあたいなんだよ」
「そう、なのか」
それが受け入れられる京子さんは凄いと思った。俺はいつも普通じゃないことを呪ってきた。多分、和文も天音も、受け入れられないから逃げているんだ。
「もう店を開ける時間だ、また明日おいで」
「分かった」
そういえば、今日も和文の姿を見ていない。また神社に行っているのだろうか、そう思いながら、俺は店を後にした。
翌日、学校での天音は静かだった。
「天音、大丈夫か?」
「やっぱり傑にはバレちゃうよね」
「家でなんかあったのか?」
力のことが分かってから、天音はずっと暗いままだ。
「何もないんだけどね、ちょっと、よく眠れなくて」
「そうか、なんかいい方法は……」
「最近天気も良くないし、何回も夜中に起きちゃうの」
確かに、この頃『晴れ』の日が少ない気がする。これはもしかして、俺のせいかもしれない。
「俺が何とかするよ」
「え? そんなの申し訳ないよ……」
「今まで遠慮なんかしてこなかっただろ? いいんだよ、今日は安心して寝てくれ」
天音が、性格まで変わってしまったみたいで、少し怖い。だから、何としてでもこの陰気臭い『天気』を変えなければ。
放課後、俺は河川敷にやってきた。
「さて、どうしたもんか」
俺の力は前も説明した通り、効果範囲と持続時間が反比例する。だから、今の『曇り』を全体的に『晴れ』にして、夜は涼しいほうが寝やすいだろうから、天音の家だけが涼しくなるように、今から『天気』を調節しよう。
俺は両手を組み、静かに祈る。
「快晴」
曇っていた空は一気に『晴れ』渡った。
「とりあえず今はこれでいいか」
日が落ちて夜になると、じめじめして暑苦しかった。俺は天音に電話をする。
「寝るとき、窓を開けとけよ」
「わ、分かった」
その一言だけ伝えると、俺は電話を切り、静かに祈る。
「涼風」
天音の家周辺に、優しい『風』が吹き始めた。
「これで、夜の間は涼しく過ごせるはず」
なんだかぐったりと疲れてしまった。エアコンの効いた部屋に帰ろう。
翌日、天音の顔はすっきりしているように見える。
「昨日はよく眠れたか?」
「うん、『風』が気持ちよくて、すぐ眠れたし、夜中に起きることもなかったよ」
「それなら良かった」
俺が起こした『涼風』は、本来なら夏の終わりから秋の始めにかけて吹く『風』だ。今は七月下旬、もうすぐ夏休みになる。
「傑は……夏休みどうする?」
「俺は特訓しなきゃならないから、あまり遊べないぞ」
「そっか、そうだよね」
天音は何か言いたげな様子だ。
「別に、どこか行きたいところがあるなら、一緒に行くか?」
「い、いいの?」
「断る理由なんかない。それと、他の友達とも思い出作れよ。高校生は今年が最後なんだから」
俺のそばから離れることも、天音には大事なことだ。俺がいないと何もできない、では困るし、もし本当にいなくなったとき、今のままでは天音はもう、誰にも心を開かなくなるだろう。
「友達、かあ」
「いるだろ? よく声だって掛けられてるじゃないか」
「友達なのかな」
こんなに鬱な天音、俺は知らない。
「な、何言ってるんだよ」
「誘ってくれたりするけど、特に話したことあるわけじゃなくて……」
「一度くらい、誘いに乗ったらいい。一番悪いのは、見て見ぬふりをすることだぞ」
どんなことでもそうだ。『見えていない』ふりをすることは、自分を余計に苦しめる。
「わ、分かった……」
「そんなに身構えるなよ。大丈夫だから」
天音はこんなにも臆病で、根暗だったのか。俺が天音を慰めるときなんて、来ないと思っていたのに。
「傑……私……ううん、なんでもない」
「そうか? じゃあ、俺は席に戻るよ」
放課後、俺は天音の様子を遠くから見ていた。
「伊豆さん、今度の日曜日って空いてる?」
「あ、空いてるかな……空いてるかも……」
「新しくできたクレープ屋さん、一緒に行かない?」
二人組の女子が天音に話しかけている。天音は甘いものが大好きだから、この誘いなら喜んで乗るはずだ。
「私で良ければ……全然いいよ」
「良いに決まってんじゃん。じゃあ、連絡先交換しとこー」
「う、うん」
なんだかおどおどしているが、無事に約束できたようだ。でも、天音の表情は暗いままだった。俺はしばらく天音に話しかけず、気づかれないように見守ることにした。
「なんなら、今日一緒に帰らない?」
「え? あの、えーっと……」
「あれ、厳しい感じ?」
いや、天音と帰る奴なんて俺しかいないはずだ。そして、その俺は天音と帰る予定など、今日は持ち合わせていない。
「だ、大丈夫! 帰ろっか」
「確か、伊豆さんの家って、うちらの家と近いよねー」
「そうそう、河川敷を通り過ぎた辺りでしょー?」
何とか会話が続いている。なんだろう、親から見る子供って、こんな感じなのかもしれない。俺ってこんなに心配症だっけ?