第三十三話:焦燥とすれ違い
社長から任された新規事業プロジェクトは、俺にとっての大きな挑戦だった。
俺のキャリア、そして葵との未来を盤石にするためにも、絶対に成功させなければならない。俺は寝る間も惜しんで仕事に没頭し、部署のメンバーたちも、俺の熱意に応えるように尽力してくれた。葵もまた、学業の傍ら、献身的に俺を支え続けてくれた。
だが、現実は甘くなかった。
プロジェクトは、当初の計画通りには進まなかった。市場調査のデータは、思った以上に厳しい結果を示し、競合他社の動きも予想以上に速い。技術開発の壁も高く、想定外の問題が次々と浮上した。俺がどんなにデータを分析し、戦略を練り直しても、状況はなかなか好転しなかった。
日を追うごとに、俺の心には焦りが募っていった。このプロジェクトの失敗は、俺の地位だけでなく、会社の未来にも大きな影響を与える。そして何よりも、葵との結婚という、俺たちの「約束」にも影を落とすかもしれない。
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焦りは、俺の精神状態を蝕んでいった。これまで冷静沈着だった俺が、小さなミスにも苛立ちを感じるようになった。部署のメンバーたちにも、知らず知らずのうちに厳しい言葉を投げかけてしまうこともあった。
「吉野室長、このデータ、もう一度見直してみませんか?」
小川莉子が、慎重な口調でそう提案してくれた時、俺は思わず強い口調で返してしまった。
「何度も見直した! お前たちも、もっと頭を使え!」
莉子は、怯えたように目を伏せた。俺はすぐに後悔したが、一度出てしまった言葉は取り消せない。部署の雰囲気は、以前のような活気が失われ、どこか重苦しいものになっていた。
高瀬さんも、俺の変化に気づいているようだった。
「吉野くん、少し休んだ方がいいわ。疲れているでしょう」
彼女は、いつものように冷静な口調でそう言ってくれたが、その瞳には、俺への心配と、そして何かを言いたげな複雑な感情が宿っているように見えた。俺は、彼女の優しさに気づきながらも、素直に応じることができなかった。この状況で、休むことなどできなかった。
そして、葵との間にも、少しずつすれ違いが生じ始めていた。
ある夜、俺が深夜までオフィスに残っていると、葵が温かい弁当を持ってきてくれた。
「吉野さん、お疲れ様です。少しは休めましたか?」
彼女は、いつもと変わらない優しい笑顔で、俺に尋ねた。だが、俺は、その笑顔に、どこか重苦しいものを感じていた。
「ああ…ありがとう。だが、俺はまだ、やるべきことがある」
俺は、弁当を受け取りながらも、すぐにモニターへと向き直った。
「でも、吉野さん、最近、顔色も悪いし、ちゃんと休んでください。無理しすぎたら、倒れちゃいますよ…」
葵は、俺の顔を覗き込み、心配そうに言った。その声には、懇願するような響きが含まれていた。
「分かっている! 分かっているが、今はそれどころじゃないんだ! このプロジェクトが、どれだけ重要か、君には分からないだろう!」
俺は、つい声を荒げてしまった。葵の顔から、みるみるうちに笑顔が消えていく。その瞳には、傷ついたような色が浮かんでいた。
「…ごめんなさい。私、余計なこと言いました」
葵は、そう言って、静かにオフィスを出て行った。その背中を見送りながら、俺は深い後悔の念に襲われた。彼女は、俺を心配してくれているだけなのに、俺は彼女を傷つけてしまった。
モニターの画面に映る数字の羅列が、俺の目には、まるで嘲笑しているかのように見えた。プロジェクトの遅延、部下との摩擦、そして、愛する葵とのすれ違い。焦りは、俺の心を追い詰め、周囲との関係までを歪ませ始めていた。
このままでは、俺は全てを失ってしまうかもしれない。そう考えると、俺の心は深い闇へと沈んでいくようだった。