第一話:窓際の憂鬱と予期せぬ来訪者
「あー、またこの時間か…」
俺、吉野悠斗、33歳。都心にそびえ立つ、大手広告代理店「フィーチャリングコネクト」の二十階オフィスフロア。その一角にある『データ・リンク部』は、社内じゃ『窓際部署』って陰口叩かれてる、俺の定位置だ。
朝九時。満員電車の揺れで残った疲労を引きずりながら出社する。俺の席は窓から一番遠い、通路の奥。視界に入るのは埃を被った資料の山と、無機質な灰色のパーテーションばかりだ。今日の業務も昨日と同じ。社内ネットワーク『ハーモニー・ウェイブ』の投稿を、ひたすら眺めること。
「あぁ? 吉野じゃねぇか。まだ生きてたのか、お荷物さんよ」
背後から、下品な嘲笑が聞こえた。同期の佐藤健太だ。相変わらず、いや、以前にも増して俺を見下した態度だ。大学時代からの付き合いだが、今じゃ営業部のエースとして、常にスポットライトを浴びる存在だ。
「ああ、佐藤か。おはよ」
俺の返答は、いつものように覇気がない。佐藤は俺の様子を鼻で笑いながら眺める。
「相変わらず『ハーモニー・ウェイブ』か? いや、暇つぶしだろ? オモチャでも見てる気分はどうだ? 俺なんか来期の大型案件で徹夜続きだぜ? お前んとこの仕事が何の役に立つんだか。ま、どうせ何も変わらねぇだろうけどな。俺が稼いだ金でお前も飯食えてるんだ、せいぜい感謝しろよ、給料泥棒」
佐藤はゲラゲラ笑いながら俺の肩を強く叩いた。その言葉一つ一つが、ナイフのように胸に突き刺さる。そして、フロアの奥にある華やかな営業部へと戻っていく。俺は、自分のデスクに置かれた埃っぽいPCの画面に目を落とした。
『ハーモニー・ウェイブ』のタイムラインには、社員たちの活発な交流が流れている。プロジェクトの進捗報告、ランチの誘い、趣味の話、たまに飛び交う愚痴。それらを眺めるのが、俺の「仕事」だった。誰からも期待されず、何の成果も出せない日々。俺がここにいるのは、数年前の大きな企画失敗が原因だった。あの時、自信を失い、目立つことから逃げた結果が、この窓際部署だった。周囲は皆、俺の事を『終わった人間』としか見ていない。誰も、俺の仕事に価値があるなんて微塵も思っちゃいない。
――俺は、このまま、嘲笑されながら終わるのか?
漠然とした不安と、胸の奥底で燻る屈辱感が、俺の心を占める。
その時だった。部署の入り口から、人事部の担当者と一人の女子高生が入ってきた。人事部員は、俺のデスクの方へ真っ直ぐ歩いてくる。
「吉野くん、ちょっといいかな?」
人事部員に呼ばれ、俺は立ち上がる。
「彼女は、星野葵さん。社長の姪御さんだ。夏休みの職場体験で、今日から数日、君のところで研修してもらうことになった」
社長の姪――その言葉に、俺は思わず身構えた。社長の姪が、なぜこんな窓際部署に? まさか、人事からの監視か? そんな嫌な予感が頭をよぎる。
「星野葵です! よろしくお願いします!」
葵は、はつらつとした声で頭を下げた。白いブラウスに紺色のスカート、肩まで伸びた黒髪はサラサラと揺れる。まさに「清楚系」という言葉がぴったりの容姿だ。その手に持った最新型のスマホが、彼女が今時の女子高生であることを物語っている。
人事部員が去ると、葵は俺のデスクの隣に用意された椅子にちょこんと座った。
「吉野さんって、一日中それ見てるんですか?」
葵は、俺のPC画面に映る『ハーモニー・ウェイブ』を指差した。その瞳は好奇心に満ちている。俺の部署の仕事内容なんて、普通は誰も興味を持たないし、理解もされない。
「あー、まあ、データ管理の仕事だからな。社内の情報がここに集まってくるんだ」
俺は曖昧にごまかした。こんな地味で、誰にも評価されない仕事を、女子高生に説明しても理解できるわけがない。
「へえ、面白そう! 私もSNS大好きなんです! インスタとかTikTokとか、毎日見てます!」
葵は目を輝かせ、自分のスマホを取り出した。俺は内心で呆れつつも、彼女の純粋な反応に、どこか気圧される。まさか、俺の仕事に興味を持つ奴がいるとは。
「吉野さん、今、どの投稿を見てるんですか?」
葵は身を乗り出して、俺の画面を覗き込んだ。俺がクリックした先は、社員の一人が投稿した愚痴めいた内容だった。
「最近、コピー機の調子が悪くて困る……。また経費申請の締め切り近いのに、こんなんじゃ間に合わないよなぁ」
俺は特に気にも留めていなかった投稿だった。だが、葵は画面を食い入るように見つめ、首を傾げる。
「これって、単なるコピー機の故障じゃないかもしれませんね」
「え?」
俺は思わず声を上げた。葵はスマホを操作しながら、俺の画面と自分のスマホを交互に見比べる。
「なんか、数日前の『備品発注部の発注書遅延』って投稿と、昨日の『経理部のシステムメンテナンスのお知らせ』って投稿が、全部繋がってる気がします!」
葵の言葉に、俺の頭の中で、これまで無意識に収集していた情報が、まるで点と点が線で繋がるように結びつき始めた。コピー機の故障。経費申請の締め切り。備品発注の遅延。そして、経理システム『アカウンティング・リンク』のメンテナンス。
――まさか、これは……。
俺の脳裏に、ある仮説が浮かび上がった。それは、単純なコピー機の故障ではなく、経費処理と備品発注、さらにシステム連携の裏に潜む、小さな「業務ボトルネック」の可能性だ。日々の「時間潰し」の中で、俺の頭の中に無意識のうちに構築されていた、膨大な社内情報のネットワーク。葵の何気ない一言が、そのネットワークのスイッチを、オンにしたのだ。
「葵ちゃん、これ、単なるコピー機の故障じゃないかもしれない」
俺の言葉に、葵は興味津々で「どういうことですか?」と目を輝かせた。その純粋な瞳が、俺の中に眠っていた、「社内ネットワークの断片的な情報から、潜在的な社内問題を読み解く」という超人的な才能の扉を、静かに開いていくのだった。
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本日の15時前、17時前、19時前に最低4話投稿予定です。