「物質文明の愚かさだよね〜」
「物質文明の愚かさだよね〜」
ある中学生がそう呟いたとして、誰が論破できるだろうか。
なぜなら、幸福とは、心の属性である。
ゆえに、人と人とは本来、互いの心を見るべきである。
人の数だけ、色がある。色の数だけ、魅力がある。
なのに現代社会で、人間は互いをもっと物質的な尺度で測り合っている。
例えば美容整形をして、典型的で平均的な価値へと収束していく。
あるいはまた、お金や長寿で幸福を測る。
形式的な価値観で他者を蔑み自らを誇ることを通して、自身の心の幸せを見失っている。
すなわち、人類は確かに、物質文明の愚かさに染まっている。
例えば、グローバリズムが訪れるより前。
例えば、近代国家が成立するよりもずっと昔。
良かれ悪しかれ、村の誰もが村の誰もを知っていた時。
人間の流動性は低く、人は交換可能ではなく、相手の名前や顔を覚えるのみならず、心を見ざるをえなかった。
一方で、現代の市場では、売買相手の顔などしばしば無意味なノイズにすぎない。
人々は、量産品を店で買う時、恨むこともない代わりに、感謝することもない。
人間は、マニュアルで動作する労働単位へと規格化された。
ずっと昔、人の愛は、動物が愛し合うように自然だった。
キスを映画で学ぶより昔、人は、手を握り合うことも恥じらい、恥じらうことを楽しんだ。
物質文明は、繊細な心を持つ人から順に淘汰していく。
「何のために勉強なんてするんですか〜?」
方程式よりも恋愛に興味を持つことは健康なことだ。
物理学の深淵よりも異性の心に興味を持つのは健全なことだ。
恋人の瞳の中にこそ宇宙を感じるのは正しいことだ。
しかしロマンチストから順に淘汰されていく。
学校の勉強で良い成績を取った子供ほど褒められる。
逆に言えば、そうでない者ほど尊厳を軽んじられる。
なぜか?、と考える子がいたとしても自然なことだ。
将来の幸福のためだという親の言い分は理解できる。
しかしそれでは、愛すべき優しさを備えた友人の尊さが算入されない。
蔑むべき残忍な利己性を備えた者の卑しさが否定されない。
社会は、幼い子供達の価値を、心を見ることなく、情報処理能力で計測して、降順にソートして進学させていく。
情報処理能力で学歴順にソートされた子供達を、企業はラベルで選択する。
社員の学歴や生涯収入によって、企業もまた降順にソートされる。
そして、平均寿命は学歴や年収に直接的に相関する。
経済的な格差は、結果的に幸福の格差であり、それは財産や財産以外によって相続されていく。
よって、生存と繁殖の本能からして、親が子の社会的地位を望むのは自然なことだ。
人が人になるずっと前から、弱肉強食は生命のルールである。
一方で、社会の幸福は、民衆の良識に強く依存している。
社会の幸福は、良識ある市民が支えている。
しかし、個々人の良識ある善意は、報われているだろうか?
良識が合理的に報われるような再分配の構造を社会は潜在的にでも建設できているだろうか?
自由市場原理がそのためにはあまりにも頼りないことに、国民や政府はどれほど自覚的だろうか?
良識など何ら報われないことを、むしろ小学校の時から刷り込んでいないか?
「勉強するほど立派な大人になれるんですか〜?」
「総理大臣って偉いんですか〜?」
「社長とか教授とか医者とか弁護士って偉いんですか〜?」
学歴もお金も、本来は便宜的な手段にすぎなかった価値が、価値観として固定されて逆に人を支配するようになった。
人が人を心ではないスペックで測るようになり、心ではないスペックであえて測らないという美徳は忘れ去られた。
お金持ちの彼氏と美人の彼女。そんな、唾棄すべき俗物根性。
どんな男の女もその男の理想的な女ではなくなり、どんな女の男もその女の理想的な男ではなくなり、恋愛も結婚も、身分相応の妥協点を基準にした博打の反復と化す。
「ほんとはもっと稼ぎのいい男が良かったな〜」
「ほんとはもっと見栄えのする女が良かったな〜」
そう公言しないのがマナーというだけで、腹の中ではそう思う。
夫婦関係が、経済関係に帰着する。
運命の人と結ばれる、なんて甘いロマンは枯れてしまう。心の相性に注目することのない利己的なハンティングが恋と呼ばれる。
そんな世の中にあって、模範的な社員像など、企業が強いる洗脳にすぎない。
模範的な学生像もまた、企業や政府が望む洗脳にすぎない。
子に学歴や出世を望む親もまた、例えば繁殖の本能に命じられて孫を望んでいるだけであって、我が子の心の幸せなど少しも優先して考えていないかもしれない。
多数派の価値観は多数派のためのものにすぎないし、強者の価値観は強者のためのものにすぎない。
よって、外部から与えられる社会的な価値観、すなわち正義は、普遍的な価値を備えていない。
自分を自分よりも愛する他者がありえない以上は、人が言う正義とは、自分を道具として利用しようとする洗脳以外ではありえない。
世界は利己的な個人の角逐であり、自分の身を守る者は自分だけであり、自分の足で立つのでなければ生き残れない。他人の面倒まで見ていられない。
それは、陳腐な気づき、陳腐な悟りである。
促された達観である。物質文明の愚かさである。
名門大学や大企業では、馬鹿としか会わないかもしれない。
しかし、現実の庶民生活は、人々の良識に支えられている。
社会の言論の表面を覆う価値観は、まるで馬鹿馬鹿しいかもしれない。
しかし、世間には、それ以外の力が強烈に作用している。
他人への愛や、それを価値と見なす価値観は、まだ実在している。
だから、若者が生まれ落ちる場所として、この国はまだ捨てたもんじゃない。
「物質文明の愚かさだよね〜」
ある中学生がそう呟いたとして、まったくその通りだ。
世界は、そんな中学生に救われることを待っている。
あれもこれもそれも、今の世のすべては物質文明の愚かさである。
物質的価値と競争のパラダイムは、たった一言で唾棄できる。
それぞれの他者の心の幸福を願って生きることこそ、今は忘れられた普遍的な価値である。
慈悲深き心の有り様がただちに王と王族を定義する。
社会の構成員が失念したとしても社会あるところ社会正義が実在する。
しかし、人は、与えられた立場で生き抜いていかねばならない。
だから、愚痴ろう――。
「物質文明の愚かさだよね〜」