51 天使様とバレンタイン
バレンタインとはいえ家ではイベントムードなどある訳がなく、実にいつも通りに帰宅して休んでいた。
夕飯を作るには早すぎるので、隣には真昼が居たが、これっぽっちも浮わついた気配がないし周に何かアクションを起こす様子もない。
もらえるとは期待していなかったので構わないのだが、微妙に悲しみを覚えたのは男の矜持というやつによるものである。
「今日は学校に甘い匂いがたちこめてたな」
「バレンタインですからね」
交友のある女子には渡したらしいが男子には義理すら渡さなかったらしいので、天使様に恋している男子達からはひどく落胆した声が聞こえていた。
周的には何故大した関わりがないのにもらえると思うのか……という疑問があったが、期待はやはりしてしまうのだろう。
「まあ、バレンタインとか一部のイケメンだけが関係あるイベントで俺らみたいなぱっとしない男子は関係ないんだけどな」
「悟った風ですね」
「自慢じゃないが本命なんてもらった事がないぞ。千歳からロシアン義理チョコもらっただけだし」
「ロシアン義理チョコ」
「普通のチョコの中に何個か刺激物入りのチョコが混じってるらしいぞ」
激辛激すっぱ激甘激苦とそれぞれ味覚を破壊してきそうな内容物のチョコレートが混ぜられているようなので、食べるのが怖かった。
「またすごいものを……」
「あとで食べるけど悶えていたら察してくれ」
「きちんと食べるんですね」
「そりゃ、何だかんだ俺のために用意してくれたんだからな。食べるよ。毒って訳でもないし」
刺激物であれど体に害があるものではないので、作ってもらった事を感謝しつつ食べるつもりだ。
わざわざ時間を割いてもらったのだから、貰い手はそれを食べるべきだろう。刺激物のせいで非常に気は進まないが。
「……そうですか」
「ま、それ以外はもらってないし、俺みたいな非リアにはバレンタインとか関係ない話なんだよな」
義理チョコを一つもらえただけでも充分だろう。
お返しはどうするかな、と一ヶ月後に待ち構えるお返しの日を考えて困ったように眉を下げた周を、真昼は静かに見ていた。
夕食後、千歳のチョコレートを食べて机に突っ伏した。
千歳からもらった箱には等間隔に仕切りがあり、十二個程トリュフが入っていた。
はずれは四種類。つまり三分の一ではずれを引く事になる。
その内の大外れは激辛の一種類なので、まあそれ以外なら普通に食べられると思って摘まんだのだが――この有り様だった。
「当たったんですね」
「……数日かけて食べようとしてこの有り様だ……」
キッチンで飲み物を作っていたらしい真昼が周の様子に気付いて、若干のあわれみを込めた声をかけてくる。
何とか飲み込んだものの、口の中は辛いという範疇でなく最早痛い。辛味が味覚でないのは重々承知しているが、もうそういう問題ではなかった。
幸いというか、本当に食べられないというものではなく、耐えられるけどきついといった程度に収められている。
鼻に抜けてくるわさび特有のツンとした刺激に、よく揮発成分閉じ込めたなと感心しつつもそこまで手を込めなくていいんだと生理的な涙をこらえつつ悪態づく。
鼻と目を攻撃しているのはわさび、舌を焼くのは唐辛子とハバネロパウダー。強烈な味……というか痛みに、たった一粒でボコボコにされていた。
「ご愁傷様です。考えようによっては先に地獄を見て残りは天国ですから」
そうは言っても、今のきつさがどうにかなるものではない。
早くこの痛みが去ってほしいと心から願う周に、そっとため息の音が聞こえて、コトリと硬質な音が側から聞こえた。
「ほら、口直しどうぞ」
顔を上げれば、側に湯気を立て甘い匂いを放つマグカップがある。
中には、濃い茶色の液体。
「ココア?」
「似てますね。ショコラショー……まあ分かりやすく言えばホットチョコレートです。甘さは控えめにしてますけど、口直しには充分かと」
「助かる……」
今はとりあえずこの痛みを洗い流したい。
マグカップを手にとってホットチョコレートを口に流し込めば、まったりとしたコクのある味が広がる。
チョコレートの甘い香りはするが、甘いかと言えばさほどでもない。ビターといった感じの甘さで、非常に飲みやすくほっと落ち着けるような味だった。
「うまい」
「それはよかった」
淡々と返されたものの、気にせず口の中の痛みを誤魔化すようにホットチョコレートをゆっくりと味わう。
刺激物は大量に入っていた訳ではなく、あくまでガナッシュに混ぜて固めたものをチョコレートで厳重にコーティングしてから粉糖をまぶしていたので、最初のインパクトは強かったが時間が経てば引いてきた。
飲み干す頃にはようやくいつも通りの舌になってきたが、まだひりひりしている。
「はー……ほんとに全部混ぜてやがったあいつ……」
「そんなに辛かったのですか?」
「そりゃ唐辛子わさびハバネロ入れてるからな。ったく……口直しがあったからよかったものの、これ外で食べてたらしんでたわ」
「まあ不幸中の幸いという事ですね」
「まったくだ」
千歳め、と小さく毒づきつつも、彼女なりにサプライズをしようとして作ったのだろうから、あまり責められない。
はずれ以外は恐らくちゃんとした味だろうし、悪意があった訳ではない。人に食べさせるだけでなくて本人も味見の上なので、周は苦笑するしかなかった。
「にしても、めずらしいな。ホットチョコレートとか。普段ホットミルクとかだろ?」
「……ええ、まあ」
「これ、もしかしてバレンタインだから作ったのか?」
基本的に真昼はココアよりはホットミルクやミルクティーを飲むのだが、珍しくこういった飲み物を作ったので、やはりというか少し期待を込めて聞いてしまう。
「……まあ」
「ん、さんきゅ。助かったわ」
小さく頷かれて、周はそっと安堵の吐息をこぼす。
これで否定されたら自意識過剰みたいでかなり恥ずかしかったのだが、どうやら合っていたようだ。
真昼的にはバレンタインだから折角なので、といった気分なのだろう。イベントにのっかっただけだとは思うが、ありがたかった。
改めて「美味しかった」と告げれば、真昼がなんだか居心地悪そうに身じろぎしていた。
「どうかしたか?」
「……あの、その」
「うん?」
隣に座って、急かすと言いにくくなるだろうから優しくを心がけて聞き返す。
あくまでそっと促せば、真昼は抱き締めたクッションに半分顔を埋めながら、こちらを見上げてくる。ほんのり背が丸まっていて不安げとも取れる上目使いをされて、つい可愛さに頭を撫でたくなった。
小動物のような仕草をする彼女が妙に可愛らしく微笑ましかったので静かに待っていたのだが、真昼はぷるぷると震えるだけで一向に続きを紡ごうとしない。
「……か、帰ります」
それどころか、急に立ち上がって荷物を掴んだ。
へ、と声を漏らした時にはぱたぱたと足音を立ててリビングから去っていた。
周が固まっている内に玄関が開かれて扉が閉まる音、それから施錠音がして、あっという間に真昼は居なくなってしまった。
あまりの早業に思わず「えぇ……?」と声が漏れてしまう。
(俺何かしたっけ……?)
流石に逃げられるとは思っていなかったので困惑が半分と、もしかして自分は何か彼女の機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろうか……と不安が胸を占める。
明日会う時に機嫌が悪いままだったらどうしよう、と心配しつつ立ち上がって彼女が消えた玄関を見に行こうとして、ふと自室のドアノブに紙袋が提げられている事に気付いた。
去り際に彼女が持っていた淡いピンク色の紙袋であり、外側にシールで固定されたメッセージカードがある。
『いつもお世話になってますし、日頃の感謝を込めて』
真昼らしいやや丸みを帯びながらも几帳面そうな丁寧な字でそう記されていて、中を覗いてみれば、チョコレート色のリボンでラッピングされたパステルピンクの箱が入っていた。
なんでここに、と思ったものの、すぐにあの時にかけていったのだとも気付く。
どうやら、直接渡すのが気恥ずかしかったらしい。男には渡さないと言った手前もあってかなり躊躇ったようだ。
(普通に渡せばよかったのに)
そういうところはかなり控えめな真昼に苦笑しつつ、ソファに座って中身を取り出す。
可愛らしいラッピングの施された箱は真昼らしい女性らしさが出ている。
一応もらっていいんだよな、と微妙に不安になりつつもゆっくりと包装を解いて蓋を開けた。
中には、ビニールの個包装に入った輪切りの砂糖漬けオレンジをチョコレートに浸した、いわゆるオランジェットが入っている。
鮮やかなオレンジ色と光沢のある深いチョコレートカラーの対比が目に眩しく、なんとも美味しそうであった。
コーティングに使っているチョコレートもホワイトチョコのバージョンがあったり、果実がレモンのバージョンも一緒に個包装されて入れられているので、飽きがくる事はまずなさそうだ。
オランジェットと一緒に、もう一つメッセージが添えられている。
『甘いものがあまりお好きではないようなので、食べやすいものにしておきました。お口に合えばいいのですが』
そんな風に書かれていて、十日ほど前の事を思い出す。
『どんなのがいい?』
『甘いものは好きでも嫌いでもないしな……あんま甘くないやつかな』
千歳との会話を、彼女はちゃんと覚えてくれていて、好みに合わせてくれたらしい。
真昼らしい繊細な気遣いと、好みを覚えられていたという事と、そもそも彼女からもらえたという事実につい照れてしまい、頬がうっすらと熱を帯びてしまう。
じっと、食べやすいように一つずつ包まれたノーマルのオランジェットを見つめ、手に取った。
艶やかな光沢を放つチョコレートと鮮やかなオレンジのコントラストが美しいそれをゆっくりと一口分口にする。
口に広がるのは、砂糖漬けオレンジの甘酸っぱさと、ビターチョコレートの甘過ぎずほどよい塩梅のほろ苦さ。
双方がそれぞれの味をうまく引き立てていて、見事な調和を果たしていた。
(……美味しい)
市販品のものより美味しく感じるのは、おそらく真昼の手作りだからだろう。
そう思って、もう一口かじる。
真昼のオランジェットは、甘酸っぱくて、ほろ苦くて――何故だか、無性に甘かった。
レビュー一件いただきました、ありがとうございます(´∀`*)





