314 教えられた理由
「どうぞ、召し上がれ。料金請求したりしないから安心して。こちらの都合で手ぶらで来た人間にそんな事する程愚かではないわ」
どう考えても格式高そうな料亭の、一番奥の個室に案内された周はついて早々、何故か料理を提供されていた。
確かに到着時点でポケットのスマホを見たら正午を過ぎていたので、昼食をとるには相応しいだろうが、まさかこういう形で小夜ととる事になるとは全くの想定外であった。
「慧の一宿一飯の恩義だと思って頂戴。どうせ話は長くなるでしょうし、私も貴方とのお話が終われば仕事があるもの」
こういう場所を軽々用意して軽々と奢る事が出来る立場なら、当然の如く忙しいだろう。わざわざ、その時間を割いて慧を迎えに来た時点で彼女の慧への想いは周が思うよりずっと深いものがある気がした。
「……お忙しい所お時間いただきありがとうございます。有り難くいただきます」
ここで変に拒否する方が失礼に値するので、周は言葉通り有り難く小夜の厚意を受け取る事にして、並んだ料理に手を付けた。
小夜は手慣れた様子に美しい所作で食べ進めているが、こういう時に真昼とその姿が重なる事があるのは、親子だからなのだろう。真昼本人にはとても言えた事ではないが、仕草や所作といったふとした動作は似ている所がある。
「何ジロジロ見ているのかしら」
視線には気付いていたらしく、口元を懐紙で軽く拭った小夜から声が飛んでくる。咎めるような響きではないのは、どちらかといえば疑問の方が強いからだろう。
「不躾でした、すみません」
「どうせあの子と似ているとかそういう事考えたのではなくて?」
この人怖い、と純粋に少し怖くなったが、口からその言葉を出すのはかなりの失礼なので何とか飲み込んで「よくお分かりで」と丁寧で前向きに変換しつつ呻きにも近い声で返す。
気を害した様子はなさそうな小夜は周に視線をスイと向けて「貴方あの子で頭一杯そうだもの」と事実で否定しきれない言葉を押し付けられた。
「そろそろお腹も満たされたでしょうし、本題に入るわ。何を聞いても怒らないけど、答える事は約束しない。それでいいなら、貴方の質問を受け付けましょう」
周も小夜も粗方料理を食べ終えた所で、小夜から本来の目的であった疑問の解消の糸口を差し出されて、周は改めて居住まいを正して、彼女に真正面から相対する。
最初はどのような質問を聞こうかと逡巡したが、まずは昨日の出来事の発端となる、そしてかつての真昼の境遇に落とした理由を聞くのが、一番丸いだろう。
「……血の繋がらない子供を愛して、実子を蔑ろにする理由はなんですか」
どうして、慧に親としての全てを捧げて、真昼には情を与えなかったのか。
慧も疑問に思っていた、その理由とは。
「ふふ」
「何かおかしかったでしょうか」
「いえ? 如何にもあの子が好きそうな実直な子だな、と。あんまりに真っ直ぐに聞いてくるものだから」
「ここで迂遠に聞いたら煙に巻くのでは?」
「私は誠意を持って対応するつもりではあるわよ?」
「答えるとは言ってないのがミソですね」
「そうね、話を聞いていたようでよろしい」
にっこりと笑う小夜の表情、これは真昼に似ていない。
小夜は周の反応に満足したのか、ある種慇懃さに欠いた周の言葉に気にも留めず、呼び鈴代わりの卓上にあるボタンで仲居を呼び出して食べ終わった食事を片付けてもらうように指示していた。
その際仲居に人払いの念押しと心付けを渡していたので、本題に入るつもりなのだろう。
食器が片付きお茶を用意してもらって、改めて二人きりになった小夜は「そうねえ」と思案するように一度やや視線を上向かせてから、周に向き直る。
「話せば長くなるのだけど、何処から話そうかしら。取り敢えずは、貴方の質問に答える所からね。先に結論だけ言っておくけど、優先順位の問題よ。私の中であの子より慧を優先する理由があった、そういう事」
「……実の娘に対して、優先順位が低いと言うのですね」
「ええ。一般的な事は理解した上で、そうね」
あっさり頷かれた事にカッと頭の内側に熱が立ち昇るが、その熱に身を任せる程理性が失われている訳もなく、ただただ苛立ちと不快感となってどんどん胸の辺りまで落ちていく。
常識がない訳でもなく、感情的な訳でもなく、ただそうする必要があったからそうした、と彼女の態度から分かる。それがどれだけ真昼を傷つける事になったか、傷付けた本人は理解していても尚、慧を選んだ。
「契約してるのよ。慧の父親――玲と」
「けい、やく」
「そう。慧の母としての役割を果たす、って」
「それは、慧くんのお父様も、真昼を蔑ろにするって理解して、持ちかけたと言っていいのですか」
「結果的にそうなる事は理解していたと思うわよ。理解して尚、あの人は私に持ちかけてきたし、私も承諾した」
「どうして……ッ」
「私の利益に繋がるから承諾した、簡単でしょう?」
まるで人一人なんてどうでもいいような、そんな軽い口ぶりにまた胸の奥に煮えたぎったものが渦を巻くが、ここで口を荒らげようものならこの対談自体が終わってしまう可能性もある。
それに、小夜の言葉からは粘ついたような不快さはない。本当に、あっさりとした言い方だったのが、まだ周を冷静にさせた。
「そこまで追い求めた利益とは何なのですか。少なくとも、子供一人の人生をかき乱してまでするような、利益があったのですよね」
「そうね。何処まで聞いているのかは知らないけれど、あの人と私は親の駒として婚姻を結んだわ」
「存じています」
小夜と朝陽望んで結婚した訳でもなかったが故に、望まれなかった子供――真昼は、そういう風に自分を称していた。そう言わざるを得ないような環境で、育ってきた。
「ふうん、あの子から余程信頼されてるのね。じゃあその親の親の事は?」
「え?」
「あの子からして祖父母の事。聞いた事ある?」
「……いえ」
「でしょうね。あの子とは全くと言っていいくらいに関わりがなかったもの」
真昼の口から、祖父母の話は聞いた事が殆どない。
というのも真昼自身祖父母と殆ど縁がなかったらしく、会った事すらない、と言っていた。
「貴方はおかしいとは思わなかったのかしら、親が育児をしないのであるならば、祖父母が引き取らなくていいのか、と。不和の原因を作った親側が責任を取らなかったのか、と」
「……それは、思いました。普通、親が面倒を見ないなら祖父母にその役割が回るのではないか、と」
通常、親が育児放棄をしたならばその親類に話がいく筈だが、真昼は祖父母の影も形もなかった、と言っていた。普通、娘が子供を産んだのなら、祖父母も孫の様子を気にするのではないか。
周が口にした疑問に小夜は静かに息を吐きだした。
「そうね。そうならなかった理由は単純。私達が関わらせなかったのよ」
「何故……」
「憐れんだからよ」
「え?」
「くだらない過去の再演を見るのって腹立たしいのよね、反吐が出るわ」
今までとは違う、感情が乗った、強い言葉。
失礼ながら去年の春頃に見かけた時は真昼にキツイ言葉をぶつけていたのでややヒステリーな所もあるのかと思っていたが、実際に会ってみればかなり冷静で寛容、そして余裕を持て余したような人だった。
そんな人から強い嫌悪が乗った言葉が飛び出してきて思わず小夜の顔を見てしまったが、彼女は周の視線を感じても尚侮蔑を隠そうともしない表情を作り上げていた。
「私はね、自分の親が憎くてたまらないの」
急に話が変わって一瞬頭が混乱したが、小夜の親、つまりは先程の祖父母の話である事が分かる。
小夜が自身の両親を快く思わない理由は、周が想像する範囲では政略的な結婚を強いられたから、くらいにしか想像出来ないのだが、小夜の表情からはそれだけでは説明がつかないような、憎悪すらうっすら表面に滲み出た嫌悪感が乗っていた。
「まあ理由なんてありきたりよ。他人の人生を消耗品として扱う、自分が世界の中心だと思い込んだ能力に不相応な思想の耄碌爺婆が、何よりも嫌いなの。この世に存在すると思っただけで吐き気がするわ。時代に取り残された産業廃棄物、それが私にとっての親なの」
次々に飛び出てくる言葉は、どう解釈しても負の感情がこびりついたもの。
「貴方、親にたっぷり愛されてるでしょう? 見ていたら分かるわ」
「……それは否定しません」
「私も世の中真っ当な人も綺麗な人も居る事自体は否定しないけれど、貴方が思うよりずっと、世の中に偽善者面すら取り繕えない醜悪な人間が居るのよ」
「貴女のご両親が、そうだと仰りたいのですね」
「そうよ。アレらは、自分以外……子供だろうが孫だろうが、自分の使える手駒だとしか考えない、頭に蛆が湧いてるんじゃないかっていう腐った人間以下の生物なの。大切に育てられたらしい貴方には分からない感覚でしょうけど」
周は、両親に大切に愛されて育ってきた。
気恥ずかしくて反抗する事は多少あれど、心の底から両親を嫌ったり疎んだりする事はないし、周も両親の事を尊敬し家族として愛情を向けて生きてきた。恐らく周囲の話を聞く限りはかなり自分は真っ当に、理想的な一般の家庭で育つ事が出来た。
だから、小夜が育ってきた環境がどれ程のものなのか、想像がつかなかった。
「そういう、親になってはいけない人間って、世の中にはまあまあ居るのよ。その親から生まれた子供は悲惨ね、だって全て資源として扱われるんだもの」
「資源って」
「資源よ、使っていい、消費していい消耗品。同情を買うつもりはないけれど、私はそういう親から生まれて使われできた人間で、生まれた事を後悔すらしたわ。身を削って奉仕する事を強要された事ある? ないでしょう?」
「……ないです」
「でしょうね。よい事よ。こんな事が世の中に溢れていてもらっても困るもの」
八つ当たりでも嫌味でも何でもなく、純粋にその方がいいという顔で周を眺めた小夜は、自分の二の腕辺りを軽く押さえて擦る。
「私はね、自分の血が憎いの。この体を構成する細胞も、この身に通う血潮も。元はアレらから絞り出されたものなんだって思うと、途端に悍ましくなって仕方ないの」
幾度となく自死すら考えたわ、と吐き捨てる小夜は険しい顔のまま。
「勿論、私も長年生きてきて自分自身については折り合いはつけているけれど……自分の血が入った子供を愛せる訳がないでしょう。あの莫迦の愚行のせいで望みもせずに子供に、母性なんて持てないわ。自分自身ですら嫌悪感が湧く時があるのにどうして私と、それもあの人の子供を愛せるというのかしら」
「あなたは、だから真昼を」
「愛してはいないわよ。憐れだとは思うけれど。こんな親に生まれたのが運の尽きだったわね、って。きちんと生きられるように手配はしたけど」
嫌悪が強すぎれば下手をすればそのまま事故を装って……なんて事も想像したが、小夜にとってそこまでする程でもなかったか、手をかける、手にかける程興味がなかったのか、真昼はこうして無事に育った。
超えてはならない一線は守り抜いた小夜は、内側に溜まったものを吐ききるかのように大きな吐息をこぼした。
「私は、あの外道も嫌いだし、あの莫迦も大嫌い」
「あの莫迦……は、朝陽さんの事で合っていますか」
「ええ。……あの人は、逆らう気概なんてなくてただただ大人しく従うだけ、自分なんて持ち合わせていない、腰抜け。時を待てば自然消滅するだろうからと耐える事を選んだ意気地なしの軟弱者。自然消滅しそうになってるのはどっちなのかと。愚かだわ」
両親に向ける嫌悪とはまた違った嫌悪を朝陽に持っているらしい小夜は、親指と人差し指で寄っていた眉間をほぐすように触れ、俯きつつ一瞬手のひらで顔を隠す。
次顔が上がった時には、最初の余裕ある表情に戻っていた。
「私がそれに付き合う道理はないでしょう。悠長な事を言ってないで排除した方が早いもの」
「排除って、まさか」
「誤解しないで頂戴。合法的に、よ。別に身体に危害を加えた事はないわ」
加えてやりたかったけど、と物騒な言葉を付け足した小夜は、見ているこちらが背筋を震わせたくなる程に美しい笑みを浮かべている。
「私は誰にとっても害なあれらを排除した。まあ、排除したっていうよりはほぼ自業自得だったのだけど。地獄への道を舗装してあげたのは間違いないわね。……貴方からしても、好都合だったんじゃない?」
「何で俺の好都合に?」
「私が手を打たなかったらあの子も腐れ爺婆の、利用していい存在にされていたんだから。感謝してほしいくらいだわ」
あ、と。
声を出す事を堪えきれなかったが、小夜はそれを咎める事はなかった。
今までの話は過去のもので全く想像していなかったが、小夜の言う通り「真昼が利用されるもしもの話」が現実に起こっていたかもしれないのだ。
あまりにも恐ろしく身近な可能性として提示されたもしもの話に背筋を凍らせた周に、小夜は「あの子の事しか頭にないのねえ、分かりやすい」とからかうような声を一投。
「あの子の価値としても、私にとっての価値としても、意味もない無価値な存在って思ってもらった方が都合が良かったもの。利用価値がある方に思われても困るわ、人質にでもされたらたまったものじゃない。捨て置くだけでは勝手に取られそうだし」
「……言い方があるの思うのですが」
「貴方にとっての価値と私にとっての価値はイコールではなくてよ。……貴方にとっては安心していいことなんじゃないの? もう貴方の大好きな子は自由な人生を歩める。少なくとも誰かに消費される人生を歩む事はないわ。私も、あの子を消費する事はしない」
「……消費、しない」
「親の権限であの子を支配しない、使わない、って言い換えたらいい? 最初から私はあの子に何か課した事なんてないのだけど」
呆れもあらわに肩を竦める小夜に、確かに真昼は誰に何を言われた訳でもなく自ら親にとって理想的な子供になろうとしていた。たとえ小夜が一瞥すらしなくとも。
いい子であろうとしたのは、真昼の意思。
「俺の恋人がどれだけ努力したか分かってるのか、って不満そうな顔」
その後に何を考えたのかまで分かったらしい小夜が囁きと共に笑みを周に向ける。
「分かりやすいわねえ。まあその顔だとあの子が自ら選んだ事だってのも分かってると思うけど」
何もかも見透かされているようで驚きと腹立たしさと感心がない混ぜになって押し黙る周に、やはり小夜はおかしそうに笑ってすっかり冷めてしまったお茶を音を立てずに口にする。
「私は使えるものは使うけど、選ぶわよ。他人の人生そのものを使い潰すような真似をすれば、しっぺがえしがくると分かっているもの。アレらが手塩にかけてたっぷり可愛がった部下達に裏切られて、絶望して生きる気力をなくしたのだから」
明らかにとんでもない事を何でもないように話す小夜からは、やはりうっすらと彼らへの憎悪は感じた。
「掃いて捨てる程に恨みは買ってたもの、当然の帰結ね。私も彼らも牙を磨いていたのに気付かないなんて本当に耄碌したのかしら、ふふ。老いると物分かりも物覚えも悪くなって大変ね」
「……貴女のご両親は、今」
「因果が巡ってきている最中かしら。一人、また一人と地獄に落ちていくのを、施設で怯えながら惨めに朽ちていく定めよ。あんな無様に落ちぶれていく様を特等席で鑑賞したのだから、人の人生を使う事の危なさはよーく分かってるわ」
恐らく、今までもこれからも、真昼が祖父母と顔を合わせる事はないという事だけはよく分かった。
「だから、私は私を使うの。私の人生だから私がどのように使おうと勝手でしょう? 結果何があろうが、責は自分で負う。その覚悟を持って、私は今生きてるの」
「……ご立派ですが、真昼にした事は人生を狂わせたと同義なのでは?」
「ええ。だからあの子が復讐に来るならそれでもいいのよ、それも因果でしょう。黙って受け入れてあげるとは言わないけど、する事はあの子の自由ね」
小夜は別に真昼が仕返しをするというのならその選択を尊重するようだが、真昼は恐らく復讐は望まない。単純に、関わりたくない、という気持ちが強いだろうし、あまり波風立てたくないタイプの真昼がわざわざ仕返すとも思わない。
小夜も真昼の性格上しないと踏んでいるのか「平手一発くらい入れる気概があればもう少し可愛げを見出したのにねえ」とからかうように冗談を口にして、周に視線を滑らせる。
「さっきの質問で、一番貴方が不可解で不快に感じていた契約なのだけど」
「……お二人の間で交わした契約の事ですね。理解に苦しみますけど」
「理解してもらおうとは思わないわ。内容は単純、慧のよき母として振る舞い適切な教育を与える代わりに、アレらの失墜の一助となる、って。自分達にも、子供にも今後一切手出しさせないように、って。彼もまたあの屑共の被害者であったから」
「被害者って」
「アレらは人の縁すら簡単に切り貼り出来る物だと思ってたのよ。アレらのせいで私だけではなく様々な人達が苦渋を飲んだ。元来予定されていた縁組が幾つも壊れたり、ね。余計な事しかしないんだから」
「貴女も、それに巻き込まれた、と」
「そうね、私は本来あの莫迦と夫婦になる予定なんて全くなかったのよ。全て、あの俗物共が勝手にやった事」
その点では小夜が怒りを覚えるのも、無理はない事だ。周も誰かの勝手な都合で真昼と引き剥がされてよく知らない他人を宛てがわれたら、確実にキレるし抗議しに行く。どうにもならないいならば、駆け落ちくらいは厭わない。
小夜が朝陽を宛てがわれる前にパートナーが居たのかは分からないが、居ても居なくても自身の人生計画を根本から狂わされて憤慨したのは間違いないだろう。
「私はアレらを叩き潰すための利害関係を組むために、玲と契約した。私一人より、他に権力を持った人が居た方が楽に事が進むもの。……言っておくけど、朝陽も同意したわよ。流れに逆らえなかったのもあるでしょうけど、智恵の忘れ形見だもの。否とは言えなかったでしょうね」
「智恵……?」
「慧の生みの母親よ。慧は顔も覚えていないでしょうけど」
慧が物心ついた時から側には小夜が居て、亡くなった母親の代わりになっていた、という事なので、赤子の時にはもう慧の生母である智恵はこの世を去っていたのだろう。
「私が言えた義理じゃないけど、あの莫迦の方がよっぽど人としておかしいと思うわ。貴方には私よりマシには見えるでしょうけど」
「朝陽さんが、ですか?」
「ええ。貴方には、あの人はどう見えている?」
「……真昼に対してした事は最低ですけど、少なくとも貴女よりは真昼の事を気にかけているとは思います。穏やかな方かと」
一度しか話した事がないので本当によく知らない相手の印象を語る事になるが、基本的に話は通じる人だったし、温厚で儚げな雰囲気の御仁だったとは覚えている。
「そ。貴方にはそう見えているのね」
「逆に貴女にはどう見えているのですか」
「控えめに言って糞ね。クズでもいいわよ」
あまりにも堂々と、躊躇いもなく、きっぱりと言い切った小夜に、周は唖然として彼女の顔を見てしまった。
何が彼女をそう思わせているのかは分からないが、ここまで断言して罵倒するのだから、相当相性はよくないだろう。親同士に決められた望まない相手という事を加味しても、あまりにも辛辣すぎる。
「心が弱い上に中途半端なのよ、何もかも。その癖いい所だけ掠め取っていく、自分勝手な人間。私が言えた義理ではないけど、自分本意よ、何処までも」
「自分本位……とはどのような所を指して?」
「全部ね。貴方にとってはあの子の事を思って話をしに来たと思っているのでしょうけど、あれは自分のために過ぎないわ。あの人は実の所誰かを愛してるんじゃない。自分が可愛い人なのよ。どこまで行ってもね」
とことん容赦なく切って捨てている小夜に、流石に少し朝陽に憐憫を抱いてしまったのだが、そんな周すら見透かしたように鼻で笑った小夜は深くため息をついた。
「貴方はおかしいと思わないの?」
「どこを指しておかしい、と?」
「私が慧の親代わりになるのを受け入れるのと、あの人があの子の面倒を見ない事はイコールではないでしょう。私が面倒を見ないならあの人が面倒を見るべきだったでしょう? 仮にも、不本意だった私に種を仕込んだ張本人であり親なのだから。父親だろうが面倒を見るべきだったのでは? 少なくとも、玲は一人でも慧の面倒を見るつもりはあったわよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
今まで小夜の育児放棄ばかりに思考の焦点があたっていたし、小夜と慧の父親との契約ばかりに気を取られていたが、何も親は一人ではない。たとえ小夜が慧の親代わりになって時間を取られたとしても、朝陽は彼女達の話的にもフリーだった訳で。
少なくとも、小夜より真昼の事を気にかける物理的な余裕はあった筈なのだ。
けれど、現実は両親それぞれにそっぽを向かれた女の子が、一人。
「それを、放棄したのは、あの人」
言い聞かせるように、小夜は一言一言確かな響きで周に告げる。
「あの人はね、結局見たいものしか見ないで逃げて自分の都合のいい世界に生きているの」
そういう所が悍ましくて嫌いなのよ、と汚物を見た時のように吐き捨てた小夜は本気で朝陽の事を毛嫌いしているのがありありと伝わってきて、周に言われた訳ではないのに胃のあたりがほんのり痛みを訴えてくる。
「貴女が受けてきた苦痛やそうする理由については分かりました。……それでも、俺としては理由があっても、どうして真昼にそんな仕打ちを、と思わずにはいられません」
「何で実の娘にそこまで出来るのか、と?」
「……そこまで、普通は割り切っていけないと思うので」
「そうねえ、例えばだけど、あなたは望まぬ相手に無理矢理組み敷かれた結果出来た子供を愛せよってって、周りに強制されて堕ろせもせず仕方なく産んだ母親に言える?」
一瞬息が止まった。
恐らくは小夜自身の事を言っているのだろう。
望まぬ結婚を強いられた上に、体を開く事を求められて、周囲から産む事を強要されて、苦痛の中子を産み落としたとしたら。
周は、とてもそんな残酷な事は言えなかった。幾ら真昼の事であっても、それだけは絶対に言えない。
これは小夜の尊厳に関わる問題であり、屈辱と苦痛を味わわせられた事を、他人の、それも男である周が軽々しく口にする事なんて出来ない。したとして小夜から軽蔑通り越して殺意すら抱かれるのではないだろうか。
「お腹の中で育てれば母性が目覚めて子供を愛するようになる……なぁんて、誰かに都合のいい母性神話なるものを持ち出して神聖視なんてやめてよね。反吐が出るわ」
それが親として正しいかは別として、小夜が真昼の事を受け入れられないのも、朝陽の事を蛇蝎の如く嫌っているのも、小夜視点では当然の事であった。
「あの人は親に逆らう度胸もなかったの。大切な人を大切にする度胸も度量も器量もなくて、ただ従って。……そうして、あの人は、弱さから逃げた。都合のいい夢に逃げ込んでね。逃げた結果、あの子が出来たのよ」
既にそれは起きた事であり過ぎ去った過去の事だと、特段苦痛にも感じていないような声で真昼の生い立ちを説明した小夜に、周は何も言えなかった。
「まあ、貴方の言う事も世間的には正しいのだけど、私はそれを受け入れ難かった。だから、私はあの子から離れた。あの子を見ない事にする代わりに、対価として不自由ない暮らしと教育、自由をあげたわ。だからあの子は今お金に困った様子なんて見せてないでしょう?」
真昼は、親からの愛は受け取れなかった代わりに、金銭的には何不自由なく育ったし、小雪というよき理解者を得て真っ当に育った。
「私みたいな人間が側に居るより、真っ当な人間が教育を施した方が真っ当に育つわ。親の愛が全てなんて吐き気がする様な甘ったるい事を言わないでちょうだいね。毒に浸しながら育つより余程綺麗に育つわ」
小夜の采配は、蓋を開けてみれば倫理的に正しくはないのかもしれないが、必ずしも間違いだとも言い切れない範疇に収まっていた。
これで無理に真昼を育てる事まで強要されていたら、それこそ真昼に苛烈な仕打ちが待ち受けていた事だろう。
過干渉と無干渉、どちらがいいのかは分からないが、こと真昼と小夜間に至っては無干渉の方が双方にマシな結果を齎したようだ。
「私の事を親失格と罵っても構わないし実際そうだけど、直接的に害を与えるより余程いいと思わない? 金銭に不自由ない環境は用意したし、強制的な婚姻も強いる事はしていないし、惜しみなく教育を施してくれて親身になってくれる人をつけた。少なくとも、親が思う理想に押し込められるより、心身をすり減らす奉仕を強要されるより、ずっとよい環境だと思うのだけど」
その羅列されたもしもは、小夜が受けてきたものだと話を聞いていて分かるからこそ、もう周は小夜の言う事を否定出来なかった。
小夜の真昼への態度はとても肯定出来るものではないが、致命的なまでに、環境と状況が悪かった。放棄された当事者である真昼から小夜に対して不平不満を口にする事は許されるであろうが、他人である周に当時小夜の置かれた立場を知って尚言うような権利はないだろう。
周が唇を結んでそれ以上真昼を持ち出して攻めるような素振りを見せなかった事に「ご理解いただけて結構」と薄く笑う。
「もう全て遅いの。あの子は、私の事を要らないと思ってるし、手からとうの昔に離れているわ。別に和解したいとかは考えてないでしょうし、あの子もそんなの御免でしょう。私も不要だと思っている」
小夜は今更真昼の母親として接するつもりもないし、真昼はそんな母の事を親だとは思わず関わる事を拒否した。お互いに、もう取り返しのつかない所まで距離を空けて干渉しない事を選んだ。
全ては二人の間で、ある意味合意の上で今の関係に至った。
周が、これ以上口出しする事は出来ない。
「これで貴方の聞きたい事は終わりかしら」
「……そこまで旦那さんを嫌うなら、何故、離婚しなかったのでしょうか。その方が早かったのでは?」
小夜にとって朝陽が唾棄すべき存在だという事は理解したが、それならそれでどうして縁を切るという事が出来なかったのか。
「あの下衆共の凋落に暫く時間がかかったのと、仕返しするにあたって婚姻したままの方が都合が良かった。あと、そうね……憐れみかしら」
「憐れみ?」
「大人しくて都合のいい、愚かな人だったあの人への同情が一つ。それから、頼まれているもの。復讐だったとしても、恩義には報いるものよ」
それ以上は周に語るつもりはない、と態度で示した小夜に、周は復讐と恩義という二つの言葉を口の中で転がす。
小夜の言う復讐が、実親に対してのものなのか、それとも別の人に対してなのか。頼まれているというのも誰に、という疑問がある。離婚しない事を頼まれている、なんて普通聞き入れないだろう。聞き入れるだけの関係性がある相手、という事だ。
ただ、それは今考える事でもないし、聞いた所で小夜が答える訳でもない。小夜のプライベートかつ繊細な部分に触れる話であるため、周はこれ以上嘴を入れるのは避けたい。
「もう一つ。あなたは、どうして真昼の事をわざわざ調査していたんですか? 慧くんのお話を聞く限り、ここ一年で一回は調査が入っていますよね」
「ああ、貴方ごと身辺調査していたのが不愉快だった?」
「それもありますけど、貴方のスタンス的にわざわざ真昼に手間をかけるとは思っていなかったので」
今回話を聞いた限り基本的に興味関心がない、という方向に振り切っている小夜が、わざわざ真昼の周囲の事を探っている、という事が改めて違和感があったのだ。
「そういう事。そうね、変なものが寄ってきて、あの子を利用して、私の邪魔をする事になったら困るでしょう?」
「あなたは……!」
「貴方にもあの子にも都合が悪いわけではないのに何故怒るのかしら。少なくとも、あの子にとって不利な事はしていないわ」
言い方が悪いとは小夜も分かっているだろうに、敢えて周を挑発するような言い方をしている気がして、更に言えば周が表情を変えるのを楽しんでいる節すら感じる。
かといって周を馬鹿にしているというものは感じられなくて、ただただ子供を見守るような、微笑ましそうだとすら思ってしまう。
「で、貴方はどうしたい訳?」
「どうしたい、って」
「見るからにあの子を好きそうだし、多分あの子の人生を背負っていくつもりなんでしょう?」
「……だったら、どうするのですか?」
「別に何も? ただ、変わった人も居るものね、と。お金が目当て? それとも顔? あの子、私と父親に似て観賞用にはいいものね」
「そんな訳ないでしょう! あなた、子供の事をなんだと……!」
流石にそれは聞き捨てならないと眉を吊り上げて講義しようと腰を浮かしたが、小夜がおかしそうに笑っている事に気付いて浮かせかけた腰を落ち着ける。
(からかわれた)
やはり周の反応を楽しんでいるらしい小夜は、周が意図に気付いた事にも微笑ましそうに頬を緩めていた。
「甘いわねえ、貴方。そのくらい冷静に躱した方がいいわよ。ちょっと刺激されるだけでそうやってすぐ憤る。弱点をさらけ出してもいい事がないでしょう。貴方を動かすには本人を揺さぶるより周囲に手を回した方がいい、って認識されて利用されてしまうわよ」
「……ご忠告痛み入ります」
「これからも自分を磨きなさいな。あの子を守りたいのであれば」
それはまるで、周に真昼を託す、と言わんばかりの言葉で。
「……真昼をもらう事は許してもらえるのですか」
「いいんじゃないかしら」
あまりにもあっさりと、平然と頷かれて、周は今日一番の間抜けな顔を披露する羽目になった。
小夜にとっては興味がない子供とはいえ、多少は抵抗があったり周では駄目と言われたり、受け入れられないのではないかとも考えていた。
その予想を大幅に覆されて固まる周に、小夜は何でもない様子で続ける。
「だって私に関わりはない子だもの、あの子の人生はあの子のものなのだから、あの子がいいと言うならそれでいいでしょう」
そう言われればそうなのだが、ここまでとんとん拍子に許可がもらえるとは全くの想定外で、周の反対された時用に用意していた内心の勢いがみるみるうちに萎んでしまう。
「何その顔。あの子を私の一部だと捉えて好きにするように見えるの? だとしたら、あなたの事はとんだ見込み違いだったって、評価を下方修正するのだけど」
「そういう訳ではないですが……その、本当に彼女に興味がないのですね? 憎いとかでもなく、ただ興味がない、でいいのですか?」
「確かに流れる血が憎いとは思うけど、だからって私の延長線にあるという認識はしてない。私、そこまで自他境界線曖昧な人間でもないし、子を通して人生の追体験をしようなんて頭の悪い自分勝手な人間でもないわよ。私は私、あの子はあの子。その線引きは明確よ」
ここまで話してきて小夜は自他共に厳しい人であるとは察していたが、自分と他人の境界についてもはっきりと区別をつける人なのだろう。
食えない人ではあるし親としては人でなしであるとも思ってしまうが、致命的なまでに倫理観が欠如したという訳ではなく、むしろ備えているからこそ冷酷な線引きが出来る人で、娘の人生は娘の人生だと割り切って過ごしてきたという事だ。
真昼の人生を抱え込むつもりの周にとって好都合であるが、同時にこんなに都合よく行って何か裏があるのではないか、と疑いもする。
そんな周の考えを見透かしたらしい小夜が「顔に出さないようにと言ったでしょう」と鋭い指摘が入る。
「貴方、もしここで私が駄目ね、って答えたら多分何でもするでしょう? 文字通り、何でも。そういう人よ、貴方」
本当に、周という人間の理解力が高い人だ、と素直に思った。
最悪の場合、前にも考えたように育児放棄の証拠や証言を持ち出して交渉に当たる予定だったが、小夜の様子からその心構えも無駄になったようで、周本人としては一安心であった。
「子供だからって侮りすぎるのもよくないわ。貴方みたいな愚直な子は、時に想像出来ない事をするものよ。私もよく見てきたわ」
「お褒めの言葉だと受け取っておきます」
「好きになさい。貴方が必要だと言うならどうぞ。そもそも、成人したら許可しようがしまいが勝手にするでしょう。私の許可云々なんて要らないでしょうに。だから、当人同士が納得の上ならいいんじゃないかしら。どうぞご勝手に」
「……では、有り難く彼女の事はこちらがどうにかしますので。返せと言っても返しませんからね」
「お好きにすれば? ああでも、あなたが渋い顔をするのを楽しんでもいいかもね」
「あなたは……」
「ふふ、冗談よ。私、そんなに暇じゃないの。子供に構ってる程暇人ではないわ」
「子供を侮るなと言ったのは貴女ですよ」
「ええ、だから侮らずに最大限尊重してあげているつもりなのだけど。まだ足りない?」
「結構です」
この人やっぱり性格は褒められたものではないな、と自分に返ってきそうな感想を抱きながらも半分程呆れを混ぜて小夜を見遣るのだが、小夜は相変わらずというか大人の余裕に満ちた微笑みで喉を鳴らしている。
「ホント、青いわねえ。人の心なんてすぐに移り変わるものなのに。簡単にもらってくって言っちゃうけど、変わった時の事を考えないの? あの子、相当に重いと思うのだけど。逃げさせてくれないわよ?」
恐らく、一応、かなり迂遠なものではあるが、周の事を案じての忠告なのだろう。
人一人の人生を抱えるという事は、生半可な事で諦める訳にはいかなくなる。やっぱやーめた、が出来ない。取り返しがつかない事でその覚悟はあるのか、と彼女は遠回しに問いかけてきているのだろう。
周にとっては、その質問は今更なものだった。
「人の心がすぐ変わるという事は現実としては否めませんけど」
周は人の心が変わる様をたくさん見てきた。
いい方向にも、悪い方向にも。
感情というのは移ろいやすく、不確かなもの。
けれど。
「あなたの親が憎いという気持ちがずっと続いているならば、俺が真昼を愛している気持ちがずっと続くというのもあり得る話でしょう」
「あら、それもそうね。ふふ、それは盲点だったわ」
多くが変わるものだったとしても、変わらないものもあると、変わってもより良い方向にいく想いがあると、周は信じている。それを生涯で証明し続けてみせるという覚悟があった。
周のこの言葉には否定する材料を持っていなかったのか、愉快そうに口の端を吊り上げて薄く瞳を眇める小夜は、やはり喜びの感情が見えた。
「いいわ、貴方のその覚悟がどれだけ続くか見物ね」
「どうぞお好きに。貴女の期待に関係なく死ぬまで貫き通しますので」
「大言壮語にならないといいわね、あなたにとってもあの子にとっても」
幸せになれとも不幸になれとも言わず、ただ成り行きを見守るという姿勢を崩さずに居る小夜に周は軽くため息をついてから、ちらりと小夜を窺う。
最後に周は気にしていた事を聞くべく、ゆっくりと口を開いた。
「慧くんはどうするおつもりなのですか」
慧の事は、周にとってよくも悪くも副題。本題は真昼の事であり、慧の事情は周に関係のないものではある。
ただ、一緒に過ごした事で慧に共感や同情する事はあったし、慧が今後求めていた情報を得られるのか、得た後どういった扱いになるのか、というのはやはり気になる所であった。
慧の名前を出した途端に顔が渋くなるのは、彼女にとって事情を話す事は頭痛の種なのかもしれない。
「貴方人の厄介事抱えるのも程々にした方がいいわよ。貴方が抱えられるのはあの子まで。見誤らないように」
「……それは仰る通りですが」
「別に、貴方が心配するような事はないわよ。慧には帰ったら事情を話すわ。そろそろ理解出来る年でしょうし、隠しきれるものでもないもの。あの子の事も、慧の実の両親の事も」
今周が説明してもらった小夜側の事情もだが、慧の実の父親である玲側の話は周ですら知らないもの。そこも含めて、小夜は慧に話すのだろう。
「これ以上部外者に言う必要はないでしょう? 少なくとも、あの子に危害を加えるつもりはない、貴方がもらう事に反対するつもりもない。この事実だけあれば貴方の危惧していた事に対する答えになると思うのだけど」
「将来的に慧くんがこちらに何かしてくる可能性は?」
「ないとは言い切れないけど、あの子は賢い子よ。自分で判断して、分からない事は人に聞きに行くだけの判断力と柔軟性もある。理性も良心も備えている。ホント、両親の良い所を継いだ子だわ。智恵が見たら喜びそうね。変な所で玲に似なくてよかったわ、あの人に似たらもっと腹黒だったでしょうし」
周は玲の人柄を知らないが、あの小夜の言い分からするとかなり食えない人ではありそうだ。
「貴方の不安はあの子とこれから生きていく上で過去に害されないか、でしょう? 私は必要以上に接するつもりはないけど貴方がそれを信用出来るかって言ったら否でしょうし。……そうねえ、望むなら公正証書でも何でも作ってもいいけど、そこまでしたい?」
「……結構です」
「そ」
不安ではあるが、小夜が意見を翻して真昼に執着してくるようにはとても思えないし、小夜は小夜なりに最低限、真昼が望まぬ事態に陥らないように目を光らせている程だ。その点については素直に有り難いし信じてもいいだろう。
過去そのものは警戒して然るべきではあるが、小夜自身には然程警戒は要らない、というのが周の結論だった。
周の至った結論に小夜は短く頷いてみせるだけ。
「じゃあ、これでおしまい。私は必要以上に関わるつもりはないわ。貴方の覚悟をじっくり高みから眺めておくから」
「見物料取りますよ」
「あら、おいくら支払えばいいかしら? 薬指一本分くらい?」
しれっと出された言葉に周の頬が引き攣りかけたが、小夜の忠告を思い出して冷静になれと自分に言い聞かせ、緩やかに首を振った。顔が歪んでいたのは小夜も見えているだろうが、彼女はおもちゃを見つけたような眼差しを向けるだけ。
「それこそ結構です。自分で払ってこそでしょう」
「知ってるわ」
「……隠れて探られるのってすごく不愉快ですね」
「ふふ、そうね。でも甘んじて受け入れて頂戴」
「愛情はなくても興味関心はあるのですね」
「貴方は人に向ける感情が正と負の二つに分けてラベリング出来るものだと思わない方がいいわよ」
「肝に銘じておきます」
小夜は真昼を愛してはいないけれど、全く情がない訳でもない。その情がどのようなものなのかは、小夜だけが名付けられるものだろう。
そして、周はそれを知る機会はきっともう訪れない。
「そうそう、言っておく事があったわ」
席を立とうとした周を縫い止めるように、小夜は動きを制する。
「貴方、あの子のためなら何でもするのでしょうけど、すべき事は見極めた方がいいわ。貴方が代理人として立った事があの子にとって正解だったとは思わないわよ。……逃げてばかりで、真正面から聞きに来ない。自分の意志を私にはっきりと言わない。それでいいと思っていて?」
向き合えないという指摘は正しいのかもしれないが、よりによってそうした本人が言うのだから流石の周も癪に障って、和やかな雰囲気を崩すように小夜に遠慮なしに鋭い視線を突き付ける。
「かつての貴女がした事がそれだけ心に残っているとは思わないのですか」
「そうね。……だから? 立ち向かわずに逃げている事には変わりないわ。そういう所があの人に似ていて嫌いなの。夢にまで逃げない辺りはあの人よりマシだけど」
「……その夢って」
「乗り越えるべきものを乗り越えられず、飲み込むべきものを飲み込めなかった結果の、現実逃避よ。未だに見ているんじゃないかしら、あの人。時々起きているみたいだけど、いつか、そのままずっと眠ってしまうかもしれないわ」
婉曲的な表現で罵っている小夜ではあったが、今回の小夜は怒りというよりも呆れと哀れみの強い、どうしようもない相手に向かって言っているようにも見えた。
「いっそ怒りで起きてくれた方がよいのだけど、それすら出来ない意気地なしだから、無理でしょうね。嘆くだけ嘆いて、自分からどうにかしようという気力もないだけの、我が身が可愛い弱虫で口を開けて待つだけの、永遠の雛だったもの」
周には、小夜が何を言っているのか分からなかった。
「ふふ、何言ってるか分からないって顔」
やはり顔に出ていたのであろう、今度からポーカーフェイスを身に着けようと心に誓いつつ頷くと、小夜は「でしょうね」と。
「私はあの人の事が死ぬ程嫌いってだけ。許す事は二度とないわ」
それはそれは美しい微笑みに平坦な声音は、それ以上周から何も受け付けないとという確かな主張で、周は彼女の心の柔らかい部分からそっと離れて唇を閉ざした。





