312 天使様の家庭事情
食事の際に真昼が戻ってきて夕食を三人でとったのだが、真昼は相変わらずぎこちなさはあったものの、慧と顔を合わせた時のような底冷えする表情は消えて、気まずそうなものになっていた。それは慧も同じだったらしく、当たり前ではあるが非常に気まずそうに遠慮がちに夕食を食べていたので、逆にこちらが申し訳なくなる程だった。
とはいえ真昼の凍てついた雰囲気は消えたし周が食卓の下で偶に手を握れば落ち着いてくれるらしく、特段トラブルが起きる事もなく食事を終えた。
そうして食事の後片付けを周がささっと終わらせた所で、既に先に待っていた真昼の隣に腰を下ろす。
「……じゃあ、真昼も落ち着いたみたいだし、お話を聞かせてくれないかな。真昼が辛くなったらストップかけるけどいいかな?」
「はい」
本来は周が取り仕切るべきものではないのだろうが、この二人に任せておくと遠慮から話が始まらなさそうだったので、敢えて周から声をかける。
そこに異論はないのか慧も真昼も頷いてくれた事に胸を撫で下ろし、改めてローテーブルを挟んだ向こう側、ソファに座る慧を見上げる。
「ええと、どこから話したら良いでしょうか」
「取り敢えず、俺達が聞きたいのは、真昼に何を聞きに来た訳か、かな。真昼もそうだよな?」
「はい。あまりにも急すぎて困惑していますし、私に聞きたい、あなたの知りたい事が想像つかないので」
真昼は、今の今まで、慧の存在を知らなかった。もしかしたら愛人との子が居るかも、とは聞いていたが、それも不確定情報。小夜を母と慕う子供が、まさか自分の下を訪ねてくるなんて想定外だったに違いない。
その上で自分に聞きたい事があるなんて言われたら、警戒するのも当然だ。
そもそも、どちらかといえば慧の方が余程小夜の事を分かっていそうなのに、どうして真昼の下を訪ねたのか。
「……そうですよね。急な訪問に対応してくださりありがとうございます」
自分が真昼にとって招かれざる客だと理解しつつも引き下がらなかった慧は、周と真昼に向けて丁寧に頭を下げた。
横柄な態度、または馬鹿にするような態度であれば真昼も最初から相手にしなかっただろうが、慧は焦る所はあれど真摯に接してくれたからこそ、真昼も態度を和らげたのだろう。
そういう所は周が一瞬だけ見た小夜の姿とは全く結びつかないな、と思いながら、慧が続けるのを待つ。
「本題を話す前に、僕とお姉さんの母親についての関係を説明してもいいですか」
「……ええ」
覚悟はしていただろうが、真昼が改めて母親という単語を耳にして体を強張らせるのが見えた。
「僕と……その、日頃僕が母と呼んでいた人は、血縁関係はないです。なので、本来あなたを姉と呼ぶのはおかしな話なんですが」
「血縁関係がない……」
「僕の、その、遺伝子上における母親は、既に亡くなっています」
「要するに、ここに居る真昼の母親が母代わりをしていた、と」
「はい。便宜上今まで通り母と呼びますが……僕が物心ついた時には、もう母は僕の記憶に居るので、その頃からずっと居ました。生母は病気でなくなった、と父から聞いていたので、母が継母だとは知っていました」
今慧は十三歳だと言っていた。物心がつくのは大体二歳半から三歳頃だと言われているので、真昼は大体七歳前後。小雪が真昼の世話をしていたのはかなり小さい時だったらしいので、話も合っている。
ただ、慧の話を聞いてより小夜が真昼に関心を持たなかった事が浮き彫りになっており、真昼も気付いて幾分か表情に影を落としていた。
「僕は、母に育てられてきました。継母だと分かった上で、普通の……まあ仕事で忙しそうにはしていましたが、周りの共働きの家庭と変わらない生活をしていましたし、特に疑うような事もない、普通の家族だと思っていました」
その普通をどれだけ真昼が望んでいただろうか、と切ない気持ちになってしまったが、真昼が声を荒らげない以上周が口にするべき事でもないし、慧が悪い訳でもないので胸のモヤは内側に留めたまま。
慧は、真昼の方を見て申し訳なさそうにしていたが、それでも話をやめる気がないのが瞳から伺えた。
「ただ、その……戸籍上でも母でない事が分かって」
「つまり結婚はしていなかったと」
「はい。母と称していましたが、実際は赤の他人というか」
別におかしな話ではない。
真昼や朝陽の話を聞いた限りでは、離婚したという事実は二人は認識していなかった。あくまで母代わりをしていた、というだけで、実際慧の父親とは婚姻関係を結んでいなかった、そういう事だろう。
「バレた時は、ええと、内縁の妻だ、と言っていました。戸籍的に生母の子供のままで居させたかった、と父が。そこについては思う所もありましたが父が亡くなった母を大事に思っているのも、母がそれを尊重して当たり前のように受け入れているのも見ているので、納得はしました」
「……あなたの父君とあの人は、同意の上で関係を築いていたのですね」
「少なくとも僕から見ればそうだと思います。母は、生母の知り合いだったのか、大切な友人だと言っていたので。二人の母や父達が仲良さそうに写った、若い頃の写真が幾つもありましたし、そこは多分嘘ではないと思います。父も、二人は親しかったと言っていましたから。ここで嘘をつく必要はないと思います」
「あの人とあなたの血縁上のご両親は親しかったからこそ、あの人もあなたを育てた、と」
「そこまでなら、別におかしい事でもないなって思ってました。親しい友人が遺した子供の面倒を見ている内に……って、ドラマとかであるでしょう? ……ですが、おかしな事に先日気付いてしまって」
「おかしな事とは」
「あなたの存在を知ったのです」
静かに、慧は真昼を見た。
「きっかけは、母の部屋で見つけたものでした」
「見つけた?」
「母の部屋はたくさん本や書類の入ったファイルがあります。その、それで母が暫く帰りが遅い事も知っていたので、勉強に必要な本を探すために断りもなく入ってしまったのが悪いのですが……探す際に落としてしまったファイルの中から、写真が出てきたのです。お姉さんの、小さい頃の写真が」
まさか小夜が自分の写真を持っていたとは思っていなかったのか、真昼の表情にじわりと驚愕の色が滲む。
「僕には見覚えのない写真。だけど、うっすらと見覚えのある顔立ちの女の子。思わず、じっと見つめて、入っていたファイルを手に取りました。……同封されていた手紙、というか何かの報告書ではありましたが、そこには自分の娘に対する態度を非難する声が書かれていて、母には血の繋がった娘が居るという事を始めて知りました」
あ、と小さく声が漏れたのは、きっとその手紙を書いたのは、真昼が今も尚慕っている小雪だと推測出来たからだろう。
小雪は、仕事とはいえ真昼を小さい頃からほぼ育ててきたし、心から大切に思ってくれている事も、知っている。仕事の都合上成果報告はするであろうし、その際にもしかしたら真昼について小夜に何かしら指摘したのではないだろうか。
「僕にとっては、その、寝耳に水だったというか。あまりにも普通の家庭だと思っていたのに、母に子供が居る、というか、母には僕達とは違う家庭があった、という事に驚いて。僕は、ただ生母を大切にするために籍を入れていないだけで、普通の未婚の女性だと思っていたのです。それが、実際はこうです」
震えた声は、小夜に対する疑念で満ちていた。
信じたくない、という感情も滲んだ、けれどほのかな諦念も含んだ、苦々しい声。
「僕は耐えきれなくて、帰ってきた母を問い詰めました。これはどういう事なのかと」
「……問いかけたら?」
「僕には関係ない事だから、子供には分からない事もある、と答えてもらえませんでした。父に聞いても同じ。二人共、頑なに答えようとはしません。……不信感が生まれました」
言葉の通り、慧の顔も声も、疑念でいっぱいだと周達にこれでもかと伝えてくる。
「だってそうでしょう? 僕に母親のように接しておきながら、本当は自分の家庭があって、その癖自分の子供に対しては放置を貫いている、なんて」
改めて慧から突きつけられた、他人から見た現実は、真昼にとって非常に残酷なものだ。
「普通、と言っていいかは分からないですけど、他人の子供より、血の繋がった子供を優先するのは、当たり前の事だと思うんです。余程事情がない限り、自分の子供を蔑ろにするって、おかしいじゃないですか。人として、母親として」
明確な、育児放棄。
暴力こそ振るわれなかったそうだが、それでも当時の真昼にとって筆舌し難い苦痛を味わってきただろうし、親身に接してくれた小雪が居なければ真昼は壊れていただろう。今、真昼がここに居る事自体がある種の奇跡だと言えるくらいに、機能不全の家庭だった、と周は思う。
「僕にとって、母は尊敬すべき存在であり大切に愛情を注いでもらった自覚もあります。だからこそ、信じられなかったし、実の娘への仕打ちに今までの母の愛情を疑ってしまった。そして、母は、何を考えて、そんな事をしたのか。今、その娘さんはどうしているのか……気になるのは、当然の流れでした」
「……小夜さんは、答えてくれなかったんだよね?」
「ええ。だから、どうにかして母の意図が知りたくて、僕はまた母の部屋をこっそり探って、あなたの事を知りました。その、不愉快でしょうけど、どういう人なのか、どこに住んでいるのか、とか。幸いと言っていいのか、あなたの事を気にかけているのか、定期的な報告書、みたいなものがあって、現住所や写真があったので、ここまで辿り着けました」
定期的な報告書、という言葉に真昼が眉を寄せたのが見えた。
周は先に慧から身辺調査が入っている旨を聞いていたが、真昼からしてみれば初耳だろう。
隣に座った周だけが分かる程度に、真昼が肩を縮めて警戒するようにローテーブルの下で拳を握るのが見えた。
その様子をただ不快感というものとして受け取ったらしい慧は、申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「僕の勝手な気持ちで、突然現れてお姉さんを不快にしてしまった事は、本当に、ごめんなさい。でも、僕は抑えきれませんでした。そのまま知らない振り、見て見ぬ振りは出来なかった」
一度つむじが見えるくらいに深く頭を下げた慧は、しかし後悔はしていないようで静かな瞳を真昼に向けている。
「僕には分からないんです。母が、どうしてあなたでなく僕を育てているのか。だって、おかしいじゃないですか、実の娘は居るのに、僕みたいな血の繋がってない子供をあんなに大切にしてくれるなんて。何か目的があるからしているようにしか思えないでしょう?」
「まあ、俺も慧くんの立場なら疑ってかかると思う」
「僕から見た母は、合理的で無駄を嫌う人です。意味もなく、何となくで動くような人ではありません。その母が動いているのですから、何かしらの理由はある筈なのです」
「……純粋な愛情だけだとは思わなかったんだね?」
「母は、感情を蔑ろにはしませんが、感情だけで動く人ではないですから。僕に愛情を抱く事と目的がある事は相反する事ではないかと」
単純な愛情だと言い切れるなら慧にとって一番良いのかもしれないが、慧の立場からすれば実子を切り捨て血の繋がりのない子供を可愛がっている、となって真っ当な感性なら恐ろしくなってくるだろう。そこに愛情以外の目的を疑ってもおかしくはない。
「考えつく限りであり得るのはお金ですけど、母は少なくとも自分の会社があって、お金をかなり持っている人だって知っています。僕の父も、母とは別にお金をしっかり持っていて、そもそも二人ともお金にあまり頓着しない人達です」
「……そこには同意します。あの人、金勘定はしっかりしていますけど、私の面倒を見てくれた人にも、惜しみなく報酬は与える人でしたから。私自身も金銭に困った事は今の今までないですし、お金目的ならもっと切り詰める所はあったでしょう」
流石に他人の財産事情などあまり詳しく聞けるものではないし聞くつもりもないが、以前真昼は両親は面倒を一切見なかった代わりにお金だけはきちんと入れていた、と言った事があった。大学費用もかなりの月日の生活費にも一切困らない、と。
本当にお金が必要ならば、愛情のない真昼にかかる費用から削っていくだろう。そういう訳でもなく寧ろ増えているとかそういった事も聞くので、本当に費用面だけはきっちりしているようだ。
慧にとっては安心出来ない保証を口にした真昼は、深々とため息をついていいる。
「ですので、目的があるならばそれ以外の動機があるのではないかと」
「はい。でも、じゃあどうしてって悩んでも、僕には分かりません。僕が知れる事には限りがありますし、僕がまた探っている事がバレたら今度は完全に隠すと思うので。隠されていない事が奇跡でしたよ、母が忙しかった事に助けられました」
「あの人には珍しい詰めの甘さですね」
「仕事と親族関係で走り回ってて忙しそうでしたので……僕にとっては、都合が良かったです。とにかく、今、制限されていない内に動きたかった」
初めて顔を合わせた時、今日しかチャンスがない、と言っていた。
ここからどれくらい家が離れているかは分からないが、少なくとも小夜がわざわざ鉢合わせる可能性のある真昼と近くに住むとは思わないし、慧の父親も事情を知って尚小夜を側に置いているのだから、ある程度の距離があると見ている。
両親が揃って家を空けた、友人の協力の下そして怪しまれない状況、そして慧が自由な時間に真昼が居る状況、と限定すれば早々ない。本人がそう言うように、今この時が絶好のチャンスだったのだ。
「母の事は、尊敬していますし、母として好きです。少なくとも、僕にとっては母はよき母でありました。……ですが、分からなくなりました。僕に厳しくも優しく接してくれた母は、本当に母の真実の顔だったのか、と。僕が見ていた母は、幻影だったのではないかと。今まで見てきた母の姿は全部偽りで、愛情なんてもの、最初からなかったのではないかと。そう考えると、途端に怖くなって」
彼が知らなかった、自分の母の冷酷な一面。
その一端を掠め見てしまって、慧は急激に自分を取り巻く環境が如何に危ういものなのかを知ってしまったのかもしれない。かつて真昼を取り巻いていた環境がいびつで壊れてしまったように、いつか自分の知らない所で壊れてしまうのではないか、と。
「それで、僕は、母の娘であるあなたに、会いに来ました。あなたにとって母親がどんな存在であるのか、そして知っているならどうして僕を育てているのか、聞きたかったのです」
長く切実な本音の吐露だった。
その幼い体で抱えるには随分と重く苦しい悩みをどうにかしたくて、慧はここまでやってきたのだ。両親が話してくれないならばもう一人の当事者に話を聞こうと考えるのは至極当然で、何か解決しないにしても悩みをほぐすための糸口を掴めるのではないか、と期待して真昼に手を伸ばした。
ただ、周からしてみれば、恐らくその行動も無駄になってしまうのだろうな、とは予想がつく。
何故ならば、真昼は全て遠ざけられて、家族の絆など知らないままここに居るのだから。
「お話は理解しました。けれど、私がお答えする事は出来ません」
「そんな……」
「答えて差し上げたいのは山々ですが、残念な事に私が知っている事はあなたが思うよりずった少ないです。……あの人が貴方を育てている理由は分かりませんが、少なくとも私の認識では愛人の所に入り浸っている、というものです」
「あいじ、」
「不貞、不倫、そう評した方がいいでしょうか。私の実の父親も、それを知って尚何もしなかったので、公認で外に愛を求めたのかとばかり」
事実がどうであるかは分からないが、少なくとも真昼の視点では小夜は外に家庭を作っていて、朝陽はそれを黙認していた。破綻した夫婦関係と親子関係であった。
どんどん冷えていく声音に呼応するように、真昼の表情も温度が失せていく。繋ぎ止めるように手を握れば心なしか冷えた感触が伝わってきて、それがより一層真昼の痛みを周に突き付けてきた。
「……てっきり、外で子供を作っていたと、思っていました。それで、貴方が半分血の繋がった弟なんじゃないかと疑っていました。一目見て母に似ていなかったですし、その線は薄いかも、とも思っていましたが」
やや光が翳った瞳で慧を映す真昼に、周も改めて慧の顔を視界の真ん中に置く。
まだまだ幼さの強い少年である慧は、少なくとも真昼には似ていない。
利発そうな雰囲気と眼差しで隠れがちではあるが、よく見れば少しおっとりとしたような柔らかな容貌。小夜の姿は一瞬見た程度でうろ覚えではあるのだが、小夜ともまた違った顔つきだ。恐らくは父親か亡くなった母似なのだろう。
周と真昼の視線に慧は何とも気まずそうに視線を泳がせたが、そっとため息をついてから二人分の視線をしっかり受け止めた。
「……お姉さんにとって、母は、愛人を作るようなタイプに見えていたのですね」
「あの人にそういった感情や欲求があるのかは疑問でしたが、少なくとも外にパートナーを作っている事自体は聞いていたのでそういう事もあるものだと」
「パートナー……確かにパートナーではあるのだと思います。でも、僕からしてみたら、父と母はそういう……その、愛情、というもので結ばれた関係には見えてなかったです。その、ビジネスパートナー、って言ったらいいんですか? 相手を大切にしているのは分かりましたけど、そういう、恋愛とかそういうものには見えなくて」
「子供の前でそのような雰囲気を出さないだけというのは考えられるかと」
「……そうかもしれませんけど、僕にはそうは見えませんでした。僕の感想ですけど」
「そうですか」
「はい」
温度のない淡白な真昼の返事にも慧はやや臆するだけで退きはしない。それだけ自分の両親を見てきたという事なのだろう。それだけ、両親と一緒に過ごしてきた、という事。
「事実がどうであれ、私にとっては関係のない事です」
「関係の、ない」
「事実関係がないですから。あの人があなたのお父様とどういった取り決めをしていようが、私には何もするつもりはありません。無論、問い質す事も。その行為をした所で私に何の益もないどころか不利益を被るだけ。今の私には、あの人に干渉しないでほしい、関わらないで欲しい、という気持ちです。どんな理由があっても、あの人達が私を捨てたのは事実です」
「捨てた、って」
「ハウスキーパーに家事どころか教育まで全て任せて他の家庭を築く事は、捨てたと称するのに相応しいのでは? どれだけ努力しても、あの人の関心はあなたに向いていた、あなたにしかなかった、という事を私は今日突きつけられたのですよ」
いつも以上に辛辣な態度で淡々と話す真昼は、深く傷ついた、というよりは塞がったものの突っ張る傷痕を撫でて煩わしそうにしている、という風に見える。
慧の中では現在進行系でも、既に真昼の中では過ぎた事なのだろう。傷付いて傷付いて、漸く傷がくっついた、でも痛みは残り続ける過去。
「金銭面に不自由ないようにしてくださった事、ハウスキーパーの方を手配してくださった自体は感謝していますけど、それだけです。私はあの人を親として見る事は出来ないですし、見るつもりもありません。あの人もそれは承知の上でしょう」
真昼にとっての親代わりは、小雪だけ。大切に慈しんでくれたのも、小雪だけ。
もう、何もかも、今更なのだと……真昼の眼差しから伝わってくる。
「ですので、今更あの人の事を持ち出されても、私はどうするつもりもありません。あなたの家庭の問題です。ご本人と話し合って今後の態度を決めるべきだと思います」
「悪いけど俺も賛成。……君が悪い訳じゃないのは念頭に置いてほしいんだけど、今回の件はあくまで君とお母さんの問題だろう?」
「それは……」
「経緯としては、君が母親に不信感を持ったから事情を知っていそうな人に聞きに来た、って事だよね? でも真昼は何も知らないし、どうしようもない立ち位置に居る。これ以上真昼に何か求めても真昼は出せないと思うよ」
慧の目的は、真昼が事情を知っているならそれを聞き出す、という事。
しかし、真昼は小夜と慧の父親との間での取り決めや、隠している事など知りもしない。そもそも慧の存在を明確に知ったのは今日で、知る筈もないのだ。
これ以上、慧にとって有益な情報を真昼から引き出す事は不可能だ。知らない事を教えてほしいと言われても教えようがない。
何より、これ以上真昼に心を痛めてほしくなかった。
「君がするべき事は、君が母親と向き合う事だろう。君たちの間で生まれたものであって、解決するのは慧くんと小夜さん。……そして、出来る事なら、その問題に真昼を巻き込まないでやってほしい。部外者が言うべき事ではないのは承知の上だけど、真昼では君が知りたがっている答えは出せないよ。真昼は知らないし、どちらかといえば逆に、真昼がどうしてと君に問いかける事すらあり得たんだよ」
何を思って、実の娘を放置して、他所の息子に母親として振る舞うのか。
その息子がやってきたのだから、真昼の方がそう問い詰めるという未来もあり得た。現実は、関わりたくないから知らなくてもいい、という選択を取ったが。
「……不躾でした、すみません」
「いえ、こちらこそ大人気ない態度ですみません。……勘違いしないで欲しいのですが、私はあなたに対して恨みとか怒りといったようなものは持っていません。仮に私があの人に怒りを抱いていようが、あなたとあの人は別の人間なのですから」
真昼が慧に対して悪感情を持っている事は本人の言葉通りなさそうだった。
確かに真昼からしてみれば慧はある意味では加害者側に位置するが、本人は何も知らなかったし、大人の事情に振り回された、立場を同じくした被害者でもあるのだ。
それを理性で理解しているからこそ、真昼は怒ったり恨んだりはせず、ただ急に厄介事を持ち込んできた人程度に接しているのだろう。
「……お姉さんは、母の事を」
「もう、あの人に期待をする事はやめていますし、人として軽蔑しています。出来得る限り、関わりたくはありません」
取り付く島もない程に淡々とした、そして淀みのない返答は、真昼の本心からのものだろう。
もう、母親としての愛情を求める事はない、と。
「あなたは、ちゃんと愛されているのですね」
「……それが本当か疑わしくはなっていますけど、大切に育ててもらいました」
「そうですか。よい事です」
嫉妬もなにもない、どこまでも平坦な声。
「あなたにとっては、よい母親だったのですね」
「……はい」
答えにくそうに肯定した慧に、真昼は深々と大きく重い息を落とした。
「そういう、母性みたいなもの、あの人にあったんですね」
その声音は、先程のものとは違った、慧へのほんの少しの羨望、小夜への失望、かつての自分の絶望を混ぜに混ぜて薄めて表面に塗り拡げたかのような、物悲しい響きだった。
「ごめんなさい」
「あなたが謝る事ではないでしょう。あなたは大人達の勝手な都合に振り回されている被害者ですから」
「いえ、僕が、自分の勝手な都合であなたを傷付けたのは事実です。許さなくていいです。許さないでください。あなたの幸せを、僕が奪い取っていたのですから」
真昼の僅かに揺らいだ感情を見抜いたらしい慧は、きっぱりと責任を口にした。
本来ならば、責任のない彼が、それでも傷付けたのは事実だと真っ直ぐに真昼に言ってのける様は、幼さはあれど立派な姿だった。
「……こんな幼い子が覚悟を持って真実を求めてきたというのに、あの人は蓋をしてしまえばいいと思っているのですね」
「幼いって言われるのは複雑ですが、母は決めたら頑なな人ですから。僕が曲げられるとは思いません」
「でしょうね」
よく知っている、と言わんばかりの真昼は、きっと小さい頃から小夜の頑なさを感じ取ってきたのだろう。どれだけ真昼が手を伸ばしても、彼女はその手を取るどころか払い除けてきたのだから。
「……こちらからも質問はいいでしょうか」
「僕に答えられる範囲でなら」
「確認なのですけど。あの人が私について隠していたのは分かりました。あなたの口ぶりからして、あなたの父親も私の存在について知っていて、黙認していたという事で合っていますか?」
「正確に聞いた訳ではないですけど、反応を見る限り父も知っていてそれを受け入れていたと思います」
分かってはいたが、改めて慧の口から聞かされると、部外者である周の胃にもズンと不快な重みを感じる。
真昼も会った事のないであろう、慧の父親。他人の娘が不幸になると分かっていて、それでも慧を優先した。
小夜が真昼を蔑ろにするのは逆にまだ理解出来るのだ。
だが、他人である、それも自身は妻を亡くして遺された子供を抱えた人間が、他人の子供に対して自分の子供のような思いを――否、それよりももっと苦しい思いをさせる事が出来る親が居るなんて、あまりにも、人としての情に欠けているのではないか。
「正直、この点に関しては人としてどうかと思います。お姉さんが不幸になるのをみすみす見逃している、という事ですよ? おかしいでしょう」
「それをおかしいと思える感性でよかったです」
「……お姉さんにとっては、僕の両親は人でなしに取られても仕方ない事をしていると思いますし、面と向かって罵っても許されるレベルだと思います」
「そんな機会は私には不要ですけどね」
とにかく関わりたくない、というスタンスを前面に押し出した真昼に、慧はきゅっと唇を噛んでいた。
「……つまり、私の事は、両家公認で放置していた、という事になりますね。それはもう怒っても仕方ない事なのでいいですが、あの人が愛だの恋だので動く所が想像出来ないので、やはり何かしらの利益や目的があっての事ではないかと思います」
「利益や目的があろうと育児放棄は鬼畜の所業だと思うけどな」
「それだけあの人達にとって重要な何かがあったんだと思いますよ。まあ、単純に要らなかったのかもしれませんけど」
自分で自分の事を不必要だと口にする真昼は、どんな気持ちだったのだろうか。
こういう事を言わせてしまう要因になった真昼や慧の親達に言いしれぬ不快感を感じながらも、周はひんやりとした真昼の手を温めるように優しく撫でた。
「まあ、慧くんは自分の事だけに集中してくれ。真昼の事は俺が責任持って対処するので。頼りないかもしれないけどさ」
真昼については、最悪成人してしまえば親の同意なんで必要なくなってしまうので、それまで待ってから籍を入れてしまえばいいのだ。
彼は優しい子なので真昼の事も気遣っているが、幼いのに抱え込むものが多くても潰れてしまうだろう。まずは、自分の事を優先してほしい。
「あと、俺からもいい? 慧くんは、この後どうするつもり?」
「どうする……とは?」
「いや、お母さんに内緒でここにやってきて真昼に話を聞いてより疑問と疑念が深まった訳だろ。そのままお母さんに問い質す方向になるの、それとも黙って疑っておくつもりになるの、って」
ここに来た理由が真昼から事情を聞くためだというのは分かったが、その目的が果たせなかった今、疑問を解決するためには当事者である彼の両親に聞くしかないだろう。
ただ、周としては再度尋ねる事を安易におすすめしたくはない。
「……本音を言えばもう一度母に聞きたいとは思います。お姉さんに裏取りをした上で、と念頭に置いて」
「一応慧くんのために言っておくね。止めるつもりないけど、聞くのはちゃんと考えた上で聞いた方がいい」
慧の訝るような表情は分かっていたが、それでも周は意見を変える気はなくて、彼に分かるように、傷付けないように、どう話したものかと思案する。
「その、君のお母さんは、真昼の話を聞く限り、割と苛烈な人だと思うんだ。君視点でも、頑な人。そして慧くんは、お母さんが何か目的があって、自分を育てていると疑ったんだよね?」
「はい」
「じゃあもし、もしもだけど、愛情がなくて目的があって育てていたけど、慧くんの質問攻めで気が変わる、という事もある訳で。目的のために育てていたのなら、別にそこに愛は必要ないだろう? 隠し事を聞いてきた時点である程度慧くんは育ったと判断して、態度を変えるっていう事ももしかしたらあるかもしれない」
「……あ」
慧の話を聞く分にはそうではないとは信じたいが、追及される事で小夜と慧の父の間で交わされた約束が無意味になった、という事にでもなれば、そこから態度が変わってしまうのもあり得る。
周は真昼と慧の話でしか小夜を知らないので言い切る事は出来ないが、少なくとも、直接問い質す事で少なからず小夜も慧も相手への意識が変わる事は予想されるだろう。
真実を知りたい、という気持ち自体は周もよく分かるが、その真実を求めた先にある変化という影響が考慮から抜けている気がしたのだ。
「お母さんが変わってしまう事は、怖くないかい? そして自分もそれを受けて両親への見る目が変わってしまうかもしれないって、怖くないかい? 改めて聞くなら、覚悟を持った方がいいと思う」
「……蓋をしろという事ですか」
「いいや、俺は君がどちらを選んでも構わないと思ってる。……非情だと思うかもしれないけど、君達の家庭は、俺達の問題ではないから。短絡的に動くより、よく考えた上で決断をした方がいいだろう」
慧は、今中学生という事なので、確実に親の庇護下に居る。その親に刺激を与える事によって起きる影響は、少しでも頭の片隅に置いていた方がいい。
ここまで慧を心配して声をかけたが、周としては慧がどちらを選んでも止める事はしない。慧はあくまで他人であり、慧の家庭は慧の家庭でしかない。選ぶのは、慧であり、後悔しないように選ぶべきだと思っている。
これが真昼と小夜の話だったら周ももっと動いたし真昼の都合がいいように事が運ぶように努力しただろう。
真昼は恋人とはいえ他人、しかし他人とはいえ他人ではなくなるつもりの女性なのだから。
もし不都合があれば親から引き剥がして面倒を見る、まあ見られている気がしなくもないが自分と共に生活する気がある。周の親もそれを許可している。
詰まる所、慧にはそこまでする情も気力も持っていない、これだけの違いだ。
それでも不幸になれとは思わないので、慧にはよく考えた上で自分で選択するように忠告だけはする。
「僕は――」
慧が自分の決断を口にしようとした時、慧の服のポケットから軽やかな音声がくぐもりながらも主張してきた。聞き覚えのある音は、慧が慌ててスマホを取り出した事によってより鮮明な音を響かせる。
「……お父さんだ。嘘でしょ、向こう夜中な筈……」
画面を見て呆然と呟く慧に、まるで図ったかのようなタイミングだなと思考の端で思い浮かべる。
向こう夜中、というのはつまり父親が日本に居ないと思って出た言葉だろう。確かに父も母も家を空けている今日この時がチャンスだと言っていた事にも改めて頷けた。
「俺達席を外そうか?」
「……いえ、この際です。聞いていてもらえますか」
「え?」
「父がどんな人なのか、聞けば分かると思います。本当に、普通の父親なんですよ、僕の前では。あなた方にはもっと非道な人として受け取られているでしょうけど」
苦いものを含んだ笑みを浮かべた慧は、戸惑う周と真昼を一度視線で捉えてから、通話の方にフリックした。
「……はい、もしもし。慧です」
『慧か。そろそろ春休みだと思って連絡したのだが――違ったか?』
スピーカーモードにしたのか、周達にも聞こえる声量が響く。
低いながらも穏やかな声が聞こえてきて、周も真昼も自然と背筋を正しつつ存在を悟られまいと口をしっかり閉ざし、耳を傾ける。
「いや、もう春休みだよ。だから友達のおうちにお泊まりするって言ったじゃん。お仕事忙しいからって忘れちゃって」
『そういえばそうだったな。家に居なかったから驚いたんだ』
「僕も驚いてる。いつ帰国したの」
『つい数時間前程だな。急な予定変更で日にちがかなり空いたから一旦帰国したんだ。折角だし慧と過ごしてから仕事に戻るつもりだったんだが……そうか、お泊りか』
やや残念そうにしている慧の父は、少なくとも慧への愛情がしっかりと感じられる。仕事にかまけるならわざわざ帰国しないであろうし、つかぬ間の休息を共に過ごすという選択肢すら浮かばないだろう。
慧の言う通り、本当に息子として愛している、という事だ。
『中学に入ってから友達が出来るか心配していたが、泊まりの約束が出来るくらいに親しい友人が出来たようでよかったよ。出来る事なら父さんにも直接挨拶をさせてもらいたかったが……』
「お父さんが急に来たらびっくりするからやめてよ。お父さん自分の顔分かってる? 威圧感あるからね? 突撃訪問されたら友達のご両親やおばあちゃんがびっくりしちゃうよ?」
恐らく協力してくれた友人の家族構成を前提に話しているのだろう。
滑らかに嘘を交えて話す慧は度胸があるなと思ったが、そうしてもらわないとこちらにも何かしら影響が出てくるので、うまく取り繕ってくれている事に感謝した。
『自覚しているからそういう事言うのはやめてほしいな。……そこにお友達のご両親は居るかな、居たら挨拶を』
「今ご飯の準備してるから無理だと思うな。というか今挨拶されたら僕が滅茶苦茶居心地悪くなるからやめてよー、僕も友達のご家族も気を使うでしょ」
流石に友達の両親代わりを周達に求めるのはまずいと思ったらしい慧がにこやかに、それでいて若干の冷や汗をかきながらさらりと挨拶は無理な方向に持っていくので、ちょっと感心してしまった。
『そうか、それなら仕方ない。折角数日余裕が出来たのだが、またの機会にするとしよう』
特に怪しい所はないと思ったのか、慧の父は疑う事もなく小さな笑い声と共に納得してくれたようだ。
「そうしてください。僕はあんまり気にしなくていいと思うけどね」
『こういうのは挨拶が肝心だからな。慧も覚えておくといい』
「散々言われたから分かってます」
『それならいい』
「ただ確認の電話しただけ? 心配性だなあ」
『そうだな。慧がご迷惑かけてないか気にするのは父親として当然だろう?』
「僕はそんなにやんちゃではありませんー」
『どうかな。慧は時々妙に行動力を発揮して突飛な事をするだろう?』
「……父さんは僕に失礼だよ」
まさに今その行動力を発揮している所なのだが、今はそれを指摘する訳にもいかず、周は唇を改めて結ぶ。
『まあ、問題が起きていないならそれでいいんだ。お友達の家にお邪魔して何かしてしまわないかとひやひやしていたからね』
「信用ないなあ。じゃあそろそろ切るね」
『ああ。では、そちらの二人にも、よろしく伝えておいてくれ』
「心配性だなあ、分かった分かった。お父さんもお仕事お疲れ様。明日には帰るからまたね」
そうして慧は父親に何の違和感も抱かせないように振る舞いながら通話を切ったが、周は先程の会話に違和感を覚えていた。
(気のせいか、今俺達を認識してなかったかこの人)
慧は友達の保護者として両親と祖母が居るという旨を伝えていたが、慧の父親が口にしたのは『二人』。敢えて二人という単語を使った事に違和感が拭えない。
今日慧が来たのはこの日しか自由に動けなかったから、という事だが、逆を言えばこの日に動くというのが予想がつく、という事でもある。
(まさかな)
流石に考えすぎか、と過ぎった考えを頭から振るい落して、電話を終えて緊張が溶けたのかソファに身を預けている慧の方を見上げた。
「……お父さんはこういう人です。お二人が思ったよりも、普通の人だと思いますよ」
「普通というか、息子さん思いのお父様だな、と思いました」
「亡き母の分までしっかり可愛がってくれた父だと思ってます。本当に、忙しくはしてますが、僕の事を大切にしてくれています。仕事の都合上家を空ける事も多いですが、休みの日はこうして家に帰ってきて勉強を見たり遊びに連れて行ったりしてくれるというか。よき父だと、思ってます」
慧が心から父親の事を慕っているのは、今の声音や表情からも見て取れる。周も、何の情報もなしに先程の電話だけ聞いたらよい父親だと手放しに褒めただろう。
「だからこそ、お姉さんへの仕打ちを看過しているのが信じられない、というのもありますけど」
付け足された言葉に、一気に現実に引き戻される。
どれだけ息子に対して優しく理想的な親であっても、真昼にとっては自分を間接的に害してきた人に他ならない。人には幾つも側面があり、見る面が違えば印象が変わるなんてよくある話だ。
初めて父親の別の面を知った慧が困惑するのも当然であり、彼を駆り立てたのだろう。
取り敢えず今慧は父親に対して困惑や失望の方が強く軽蔑や嫌悪の感情まではいっていないようだが、これで帰って後日改めて小夜に問い詰めた時にどう転ぶか。
「……あのさあ、慧くん」
そこで、一つ、気付いてしまった。
「はい」
「これ、慧くん家に帰れなくない? 君のお父さん、雰囲気的に家に居るっぽいんだけど」
「あ」
「……あー」
先程の電話で、慧の父親は一時帰国したら慧が家に居なかったから、という理由で連絡を取ってきた。
つまり、家に居る、という事になる。
慧が友達とのお泊り会だと嘘をついたのは家を空けても不自然ではないようにするためであり、実際は話をしたら家に帰るつもりだったのだろう。周の指摘にまずいといった焦りが瞬時に浮かんだのだから、この想像は間違っていない筈。
たっぷり五秒程沈黙した慧は「計画が狂いました」と呟き、盛大なため息と共に肩を落とした。
「……ごめんなさい、迂闊でした。どちらとも家に居ない事は事前に確認したんですけど、まさか仕事が早く終わって帰ってくるとは思わず……」
「予定変更っぽかったし慧くんがどうにか出来る問題でもなかったと思うよ。……その予定変更がこの訪問のせいでなかったらいいんだけど」
「何か言いましたか?」
「いや、これは俺の杞憂だから」
もしかしたら、慧を泳がせておいて頃合いになって探りの電話を入れたのではないか、とも思ったが、わざわざ不確定要素を彼の不安材料にするのも悪いので、あくまで推測の一つとして飲み込む。
「野宿は論外だし、未成年が保護者なしにホテルとか手配も無理だろう。ネカフェも未成年は無理。電話がなかったら帰っても友達に用事が出来たからとかで誤魔化せたんだけどなあ」
「本当に想定外というか……どうしよう」
「そうなると、まあ、うちに泊まるしかないかなあ」
夕食を食べ終えて話をしている間に時刻は夜の八時半となっており、外は当たり前だが真っ暗。仮に外に泊まれるような所があってもとても子供が出歩ける環境ではないし、不審者か警察に捕まる可能性が高い。
そんな中放り出すのは良心が痛むので、もう諦めて一晩ここで過ごしてもらう方がいいだろう。
「……いいんですか?」
「そうした方が俺の精神衛生的にもよいというか? このまま帰して何かあっても嫌だし。大したお構いは出来ないけど、それでいいなら」
「何から何まですみません……」
「真昼は大丈夫そう?」
「大丈夫とは?」
「や、まあ本人を目の前にして言うのも悪いけど、真昼にとって俺の家は大切な居場所っていう自負があるから」
今は出会った当初程忌避感はなさそうだが、それでも彼に全く思う所がない、という事はないだろう。
真昼にとって周の家は自宅のようなもので、居場所の一つ。そこに他人を上げる事は、なんとなく不快感があるのではないか、という心配だ。ただそれは杞憂だったらしく、ゆるりと亜麻色の髪をなびかせながら首を横に振った。
「家主が許可するならよいと思いますよ。そもそも、家に帰れない子供をこの時間に放り出す方が私の心が痛みますので」
寧ろこのまま何の策もなく帰す方が嫌だ、ときっぱり言ってのけた真昼に頷いて、改めて慧の方を見つめると、慧はどこかホッとしたような表情で「申し訳ないですが一晩だけお願いします」と丁寧に頭を下げた。





