309 春の嵐の予感
急遽太刀川が企画したらしいカラオケは、紆余曲折はあったが概ね参加者全員の満足感を引き出しながら終わりを迎えた。
あわや予約していた部屋の予約名が違って開催が危ぶまれたり(電話予約したらしく太刀川が内川に聞き間違えられた)門脇が来た事によって数人の間に火花が飛び散ったりそもそもカラオケの場所を間違えた人を迎えに行ったりと、何やかんや色々あったものの、結果的には楽しめる形となった。
真昼も最初は遠慮がちだったものの慣れると本人も自覚していないくらいだが高揚していたのか、いつもより血色のいい頬でにこにこと歌う周を見つめてくるものだからその笑顔の余波に他の男子達がやられていたので、少し加減を覚えさせた方がいいかもしれない。
真昼本人もおずおずとしながらも可愛らしく涼やかな声で幾つか流行りの曲を歌ってみせたので、全員がノリノリになっていた。
そうしてカラオケで三時間程度過ごして解散となった時、真昼は少し気疲れしたような様子は見せていたがそれ以上に満たされた様子だったので、今日のカラオケは本人にも良い刺激になったのだろう。
「楽しかったな」
全員と別れてから帰路に着いた周と真昼は、手を繋ぎながらのんびりといつもの帰り道を歩いていた。
四月も近付き太陽が傾くのも遅くなってきたので、十七時前だがかなり空も明るく夕方といった雰囲気でオレンジ色の光がお互いを照らしている。
夕陽な照らされた真昼は、気持ちは少し落ち着いたらしいが足取りはいつもより弾んだもの。
「そうですね。皆さんノリノリで歌ってましたね」
「まあこういう大人数の時はおかたくするよりテンション上げておくのが正解みたいな所はあるからな」
「……もしかして私マナー違反を」
「違う違うそういう礼儀とかじゃなくてそうした方が楽しめるんじゃないかっていう事。あと、真昼もいつもよりテンション高かったぞ」
「えっ」
「真昼はあまり経験しない事を友達とか彼氏……まあ俺だけど、一緒にする時いっつもテンションが一段も二段も上になってるぞ。積極的に参加というより普段よりにこにこして俺達が楽しんでいる事を控えめに一緒に楽しんでるって感じだけど」
「そ、そんなに……」
「俺も千歳も樹も気付いてるからな」
「何で言ってくれないんですか!」
周囲に見守られていたという事に気付いて一気に頬を朱に染めてこちらを睨むものの、潤んだ瞳とムッとした顔で睨まれてもちっとも怖くなかったし、寧ろ可愛らしいとか微笑ましいという感情さえ湧いてくる。
「真昼がにこにことはしゃいでいるのがみんなにとって嬉しいしあと可愛いから」
「もうっ」
「でも楽しかっただろ?」
拗ねてみせる真昼だが、真昼が怒っているのは、周達が年相応の事で喜ぶ真昼の姿を見守っていた事であって、一緒に楽しんだ事ではない。
だからこの出来事をどう思ったか、今日の感想を真昼に柔らかく問いかけると、途端にもごもごと口を締め気味にして恥じらいの表情で視線を落とす。
「……楽しかったです。また、こういう風に仲良くなった人達と楽しく交流出来たらいいなって思いました」
「そうだな」
周もあまり人の事をあれこれ言えたものではないのだが、出会った当初の頃からは考えられない程に、真昼は天使様としての仮面を脱ぎ捨てて、一人の椎名真昼という少女として振る舞えるようになった。
まだまだ取り繕う癖は抜けていないが、それでも真昼の素の部分を見せる事か多くなり、表面的ではない『友人』が出来た。
周だけが知る真昼の部分が少なくなってしまった事には少しだけ、少しだけ寂しい思いはあったが、それでも真昼が期待に満ちた明るい日々を送れるようになった事の方が、何倍も嬉しい。
(それに、他の奴らが知らない真昼の顔は、まだたくさんあるし)
それらを見せてやるつもりはないし、今はこれで十分だ。
「結構歌ったからお腹空いたな」
気恥ずかしげに瞳に目蓋で影を作りながら、繋いだ周の手の甲にうにうにと照れ隠しの攻撃を入れている真昼にいつもの声音で声をかける。
真昼は漸く平静を取り戻したのか、一度深く呼吸をして、笑った。
「そうですね、帰ったらすぐご飯の用意しますね」
「今日は晩ご飯真昼がメイン担当だったよな。今日の晩ご飯ってなんだったっけ」
バイトがある日は基本真昼が担当でそれ以外は周が担当したり真昼がやりたがったりで公平な配分ではないものの、大体は交代で料理を作っている。
といってもどちらがメインでやるにしてもその場に居れば手伝いに入るので、当番なんて形骸化した者になっていた。
昨日は真昼が買い物に行って献立を用意していたので、夕食の内容は真昼のみぞ知る。
「昨日お買い物行ったら豚ロースが安かったので、生姜焼きと千切りキャベツ、トマトのおひたし、お味噌汁ですかね。あ、そろそろ食べ切りたいので作り置きのピーマンのきんぴら残ってる分も追加で。お味噌汁の具は何がいいですか?」
「選択肢ほしいな。今日はこのまま寄らずに帰宅だろ?」
「お豆腐とわかめとあおさは常備があって、えのきと舞茸は数日前に冷凍していたのでいけます。あとは人参と玉ねぎ……小口切りでいいなら冷凍のネギもありますよ」
「じゃああおさと豆腐とえのきがいいな。あおさ好き」
「了解です、あおさたっぷりめですね。……今日はあんまり手伝う事ないからゆっくりしてくれていいですよ?」
「やだ」
「もー」
真昼は周がバイトを始めてからは疲れているだろうと周に料理をさせたがらないのだが、周としては真昼に全部任せる方が嫌だし、何より一緒に真昼と作った方が真昼と過ごしている時間も、早く終わって真昼とゆっくり過ごす時間も増えるので、やれる事はやりたい。
「俺、最近千切り上手くなったと思わないか」
「確かにちゃんと細かく切れるようになりましたね。前は……」
「鉛筆くらいの太さで切ってたからな」
「何でそこで自慢げなんですか」
「めざましい進歩だろ、という気持ちです」
「ええ、とても上達しましたね、偉いですよ」
「だろー」
腕前的には、もう真昼が太鼓判を押す……程ではないが、周が一人で作ったものを真昼に食べてもらっても大きな駄目だしはなくなった程度には作れるようになっている。一人暮らしするだけなら十分すぎる程の腕前、と言ってもいい。
それくらいにはなれた周を遊ばせておくのは、勿体ないと真昼に思ってほしかった。
「という訳でその上達を見せ付けようという事だ」
「……もう」
この場合のもう、は周を拒否するものでないのは、今までの付き合いでよく分かっている。妥協と共に喜びが混じった、もう、である。
その証拠に真昼の唇は柔らかく撓んでいて、眼差しも愛しげなもので。
ああ、こんなにも愛されているんだな、と察するには十分で、周は何だかこそばゆくなった胸にたっぷりの温もりを感じながら、真昼の手を改めて握り直した。
「んじゃあ、帰ったら夕食の準備、だな」
「その前に手洗いうがいですからね」
「分かってるって」
なんとも保護者のような真昼の言葉を耳にし、背中を震わせて笑いを堪えた周に「今お母さんみたいとか思ったでしょう」と唇を尖らせる真昼。
周は今自分でそう認めてしまったのではないか、なんて突っ込まず、ただ笑って真昼の指を絡め取ったまま、随分と長い影を穏やかな気持ちで眺めながらゆったりと周達の家路を歩いた。
多少のんびりした足取りで景色を楽しみながらマンションに戻ると、エントランスの閉じられたドアの前に、一人の少年が立っていた。
年の頃は十代前半だろうか、真昼より少し身長が高いくらいの背丈で、明るい髪に、幼さが強い整った顔立ちながら利発そうな眼差しが特徴的な少年だった。
二年近くこのマンションに住んでいると、何となくではあるが住人達の顔は覚えている。
全員ではないので確証は持てないが、このマンションで子供を見かけた覚えはない。少なくともこの少年のような目立つ少年は一度見たら覚えているであろう。
閉め出されでもしたのか、それとも何処かの部屋に用事でもあったのか。
何も分からないが、表情は何か困り事を抱えているようにも見えた。
「うちのマンションあんな子居なかったよな」
「私の記憶では見た記憶はないですね。困ってるみたいですけど誰かに会いに来たのでしょうか」
真昼も見覚えがないのだから、恐らくこのマンションの住人ではなさそうだ。
何にせよ自動ドアを通らない事には家に帰れないので、この時間に出歩くのは子供だと危ないし声をかけておこう、とインターフォンの方に向かうのだが、少年の顔がこちらが近付くにつれて強張っていくように感じた。
「そこの君、どうしたんだ? 何かこのマンションに用事かな? 人呼び出したいなら部屋番号分かる?」
なるべく威圧感を感じさせないように軽く屈みつつ柔らかい声を心がけて問いかけるが、視線は周と合わなかった。
目を逸らされた訳ではない。
少年の視線は、明確な意思を持って側に居た真昼の姿を捉えていた。
「……ねえさん?」
まだ声変わりのしていない、甘さのある高い声が、たどたどしく言葉を紡ぐ。
決して強くも鋭くもない小さな声だったのに、その声は周も真昼も聞き逃しを許さないと言わんばかりにはっきり人気のないエントランスに響いた。





