307 今日も一日
「お待たせ。待たせてごめんな」
持ってきた私服に着替えて休憩室に戻った周を、着替えた真昼が出迎えてくれた。
既に文華は休憩室に居なかったので、事務スペースが表に出ているのだろう。
「いえ大丈夫ですよ。そんなに待ってませんし、待つのも楽しみというものです」
「待たせたって事じゃん」
「五分十分程度で待ちくたびれる程せっかちではないですよ? あと、周くんが今日はどんな服で来てくれるのかなって予想して楽しんでましたから。似合ってますよ」
「別にご期待に沿えるようなもんじゃないけどな」
一応気を付けて選びはしたが、濃いグレーのニットと白シャツのセットにネイビーのテーパードパンツにジャケットを羽織った面白みのない服装になっている。真昼が喜ぶ点があるとするなら、去年のクリスマスに真昼からもらったマフラーを巻いている所だろうか。
お互いにプレゼントしたものを身に着けるというのはなんともくすぐったいが、真昼の表情からも嬉しさを読み取れた。
「その服も似合ってる。木戸の見立てだとこうなるんだな」
「あんまり私が着ないタイプですから新鮮ですね」
「こういうオーバーサイズのものも可愛いな。後で木戸に礼を言っておこう」
真昼が着ているのは、デニム地のゆったりしたパンツタイプのサロペットに、白地に可愛いデフォルメされた猫とうさぎのイラストが胸元を飾っているフード付きのパーカー。割とジョーク的な意味合いが強い服なのか、パーカーを個性的に仕立て上げているイラストは台詞付きでダジャレを言っているもので、なんとも味わい深い。
足元を見るに若干裾が余ったせいか一度折られているあたり彩香との身長差を感じたが、あまり言うと少し膨れそうなので何も言わないでおく。
真昼は色んなジャンルの服を身に着けるが、本人の好みなのか、ボーイッシュなものはあまり着てきた覚えがないので、こういう服装は少し新鮮だった。
「そろそろ帰ろうか」
「はい」
手を差し伸べれば、躊躇いもなく手を重ねられる。
暖房の効いた空間に居たからかいつもよりは少し暖かい指先を絡め取りながら従業員用の裏口から出ると、ひんやりとした風が頬をくすぐった。
春先とはいえやはりまだまだ冬の気配が強く、夜ともなれば寒さが足元からにじり寄ってくる程。
コートを羽織っているもののふるりと体を震わせた真昼は、もぞもぞと空いている周の腕に身を寄せて暖を取ろうとしていた。
あまり寒いのは好きではないが、今は少しだけ寒さに感謝するくらいには、可愛い。
「真昼は大丈夫?」
「寒さの話ですか?」
「あー、それもあるんだけど……服汚れちゃったじゃん」
本人は気にしていなさそうではあるが一応他に誰も居ない状態で聞いてみると、真昼はまだ気にしていたのかと言わんばかりの表情で周を見上げる。
「ああ、その件ですね。私としてはそう気にする事でもないですよ。寧ろ逆に大橋さんに悪い事しちゃったなあって感じです。とても気になさっていたので」
「まあ、凹んではいたけど本人が整理つけないと多分どうしようもないからなあ。大橋さん、お客さんが入り始めて謝る時間もなかったし……」
「それだと余計に気に病みそうですよね。私からは本当に気にしないでくださいとお伝えください。ちゃんと周くんがシミを落としてくれましたし大丈夫ですから」
最後に見た大橋は大分持ち直していたもののへこみは継続しそうだったので、後日大橋から謝る機会が欲しいと言われそうな予感がした。
もしそうなったその時は真昼と相談して時間を作ろう、と心に決めつつ、相変わらず機嫌の平均ラインが高そうな真昼の顔を窺う。
「ちなみに、従業員スペース見てどう思った? 一応片付けてはいたんだけど」
「普段は客が見られないような裏の場所を見せてもらってちょっとドキドキしました」
「バックヤードは働いてないと見ないからなあ」
「思ったより裏のスペース広かったなっていうのと、コーヒーのいい匂いがしました。バイトから帰ってきた周くんの匂いがしました」
「……俺もしかしてバイト帰り珈琲くさい?」
飲食店で働くからには匂いにも気をつけないといけないので消臭スプレーは更衣室に常備して帰る際にも自分に使っているのだが、それだけでは打ち消しきれなかったようで帰宅した際に真昼の鼻にプレゼントとなっていたらしい。
今回も消臭スプレーを振りかけてきたが、匂いは落ちていないのかもしれない。
「くさくはないですけど、コーヒーの甘さのあるこうばしい香りがほんのりしますよ」
「消臭マジで気を付けよ」
「えー……いい匂いなのに」
「普段の俺の匂いとどっちがいいの?」
真昼は周の匂いが好きらしく、たまーに後で洗おうとリビングに置いていたシャツを見つけては暫く堪能している事がある。
脱いですぐ洗濯槽かかごに入れなかった周も悪いには悪いが、まさか嗅ぐとは思わず最初はかなりビビったし恥ずかしいからやめてほしいと懇願した。
が、真昼からも少しだけと上目遣いで懇願されて、思い切り汗かいたやつでなければ……と譲歩してジャケットや少しの間着たくらいのシャツを彼女がこっそり楽しんでいる事を黙認する事になったのだ。
いつもそっちを楽しんで嗅いでいるだろうに、と突っ込めば、真昼はあわあわと顔を寒さ以外の要素で赤らめながら視線を泳がせている。
「……そ、それを聞くのはずるいというか。味変的なものだと思ってください」
「何か俺真昼が色んな所に目覚めていきそうで怖い」
「色んな所とは?」
「匂いフェチとか筋肉フェチとかそういうやつ」
既に匂いと筋肉と声辺りにはフェチという表現がが付きそうな気がしなくもないのだが、真昼は例を上げ出した所で動きがぎこちなくなっていた。
恐らく、心当たりがありありなのだろう。
「……だ、大丈夫です、はい」
「ほんとかなあ」
「ひっくるめて周くんが好きという事で」
「フェチは否定してないよな」
「気のせいです。……周くんはそういうのないんですか」
「俺『は』って言ってる辺りもう認めてない?」
ぐりぐりと二の腕に押し付けるように頭突きされた。
こうやって誤魔化そうとするのが真昼の可愛らしい癖なのだが指摘すると「ううう」と唸りだしそうなので心に留めて、痛くも痒くもないアタックを繰り広げる真昼を好きにさせつつ空いていた片手に着けた腕時計を見る。
予定時間よりは早いが、空はとうに暗くなっている。
「それよりどうする? 予定通りセレクトショップ行く?」
店は開いているしまだ補導もされないだろうが、今日はあんな事があったので体力や気力の問題で真昼が行く気になるかどうか。
全ては真昼次第なので行きたくなかったら他に何かしたい事を教えてもらってそちらを実行するつもりだし、そのまま行くなら行くで楽しくショッピングをするつもりだ。
真昼は周の問いかけにぱちりと一度大きな瞬きをして、それから「うーん」と悩ましげな声で一言。
少し悩んでから、くっついたまま、周を見上げる。
「……それは今度のデートの時にお願いします。日常で使うものは吟味したいですから、元気のある時に。今日は」
「今日は?」
「まだいつものパン屋さん開いてますから、晩ご飯探しに行きましょう。たまには全部買ったもので済ませちゃいましょう?」
最近二人の中でお気に入りになりつつあるパン屋は、朝早くから開店し夜は十九時まで開いている。
かなりの品揃えがあるが人気なので、気に入るものが残っているかは分からないが、こうして遅くに行く事で普段訪問する時間にはないパンも売っているかもしれない。
全ては運次第ではあるが、真昼はそんな運も楽しみにしているようだった。
「そうだな。……いいのあるといいなあ」
「フランスパンか食パン残っていたら、明日の朝ご飯フレンチトーストにしましょうね」
「やった。今日はいい日だ」
掘り出し物を探す、何とも素敵なデートになりそうで笑った周に、真昼も実に楽しそうに相好を崩す。
「ふふ、気が早いですよ。でも、そうですね。とてもいい日です」
少し早いが今日一日をそう締めくくった真昼は周の腕をきゅっと抱き締めるようにしてくっついた後、いつもより弾んだ足取りで駅の方向に向かうので、周もそれに合わせて歩きながら温かな指先を優しく握った





