288 大晦日の来襲
周が働く喫茶店は年末年始は店を閉める事になっており、年の瀬はゆっくりと出来るようにされていた。
といっても、実際ゆっくり出来るかどうかは、別問題だが。
「真昼ー、この切り方で合ってる?」
一年の最後の日である大晦日。
大掃除を前日に済ませてさあ最後の日は優雅に時間を気にせずに過ごそう……なんて出来る筈もなく。
去年同様におせちを作る真昼のお手伝いとして、周はキッチンに立っていた。
料理のほぼ出来なかった去年とは違い、周ももう人並みに料理は出来るし、バイトのある日はほぼ料理を担当してくれている真昼に作らせっぱなしというのは人間として問題があるので、こうして自ら手伝いを申し出たのだ。
本来なら周が先陣切って作り始めるべきなのだろうが、おせちの作り方なんてほぼ知らないし内容も何となくでしか覚えていない周が先導出来る訳がない。
よって、真昼のお手伝いに収まっているのだ。
現在調理中だったり冷ましたりしているお節料理の色味やサイズ、量を考えて、彩りを計算しながら周に指示を出している真昼に、よくそこまで並列処理しながら出来るなあ、としみじみ。
言われたとおりに紅白が映えるように丁寧に重箱に詰める周は、去年これを一人でさせていたんだなとかなりの申し訳なさに襲われていた。
「……去年の真昼の苦労が忍ばれる」
「ふふ、結構手間がかかるのだと理解していただけたなら幸いです。一個一個はそこまででもないですけど品目を増やすと手間暇がね」
「用意していただいて頭が上がりません」
「物理的には下げないでくださいね。今調理中ですから」
「はーい」
コンロやオーブンもフル稼働している状態で無駄な動きをすると危ないので大人しくしつつ、周が出来る範囲での調理に取り組む。
周が手伝える範囲は限られている。先程田作りを焦がしかけた前科があるので、とにかく真昼の指示に従って調理するようにしていた。
「……つーか普通にお節作ってるのナチュラルにスルーしてたけど、よく考えなくても技能的におかしいな? お節料理って普通軽々と作れるもんなの?」
「小雪さんの教えの賜物ですから。何があっても困らないように、と色々と仕込まれてます」
「何者なんだあの人……」
「自称普通の主婦だそうです」
「普通……」
よくよく考えなくても小雪という人間の能力が並外れている。
子供がそれなりに一人で過ごせるようになってから真昼宅のハウスキーパーになったとの事なのでそれなりに主婦履歴は長いのであろうが、ただの主婦が真昼に完璧な家事技術を教え込み、真昼の人格は彼女に多大に影響されている事から恐らく情操教育まできっちりした、物凄い人だ。
実子ではない、仕事で面倒を見ていた子供に、偽りない真心と愛情をもって接していた。
それのどこが普通なんだと小雪に突っ込みたさはあったが、軽々と連絡してよい仲ではないので飲み込むしかない。
「小雪さんを見ていると普通が分からなくなりますよね」
「多分真昼を見ても普通が分からなくなると思う」
「ええ……?」
「ご自分がとてもすごい事をご理解ください」
小雪がすごいのはそうだが、その教育を受けた真昼もすごいのだと、本人が自覚していなそうなのは問題だ。
真昼は当たり前のように努力するし反復練習も欠かさない性質の人間だからけろりとしているが、本来それは称賛される事だし誇ってもよい事だ。
「まあ、努力したと言えば努力はしましたけど……」
「うん。すごい。いつも感心してるし尊敬してる。俺には出来ない事だからな、年月をかけて身に着けてきたものなんだなって」
「……ありがとうございます、褒めても何も出ませんよ」
「真昼の照れくらいは出るかなって」
こういう時に真昼を褒めておかないと本人は頑張った自覚をなくしてしまいそうなので、思った事は素直に口にしておくべきだ。
お世辞でも何でもなく、本当に真昼は頑張っているし周にはない部分を尊敬しているのだが、真昼は真正面から受け取るのは気恥ずかしいようで「もう」と可愛らしいため息をついた。
不快ではなさそう、というよりは嬉しそうなので、きちんと受け取ってもらえたようだ。
「褒めてくれたので味見を許しましょう」
丁度焼き上がったらしい伊達巻の生地をオーブンから取り出す真昼に、周は熱い鉄板の危なさは仕事とケーキ作りでよく実感しているので、安全な場所に下がって距離を取ってから「焼き立て!」と歓声を上げる。
去年非常に美味しくて周が多めに食べてしまった、巻く前の伊達巻生地がほかほかと湯気を立てていい香りを漂わせてくるので、自然と口の中に期待が滲んでくる。
「……今は切れ端だけですよ、それに熱い内に巻くのでまだです」
周がお預け状態の犬になっている事を見越した真昼の窘めにしゅんと眉を下げると、おかしかったのか真昼が肩を震わせながら「ふふ」と口を開かずに笑って鬼すだれを広げた。
微力ながら周もお手伝いをした結果、朝から作っていたお節は日が暮れるよりも早く重箱を満たす事になった。
二人しか食べないので量と品目を加減しているとはいえ、よくこの品揃えを手際よく作ったな……としみじみしていたら「昨日から仕込んでいたものもありますので」としれっと真相を知らされて、改めてその手際の良さに惚れ惚れとしてしまう。
ちなみに伊達巻は焼き立てのふわふわしっとり感とほんのり甘く奥にほのかな出汁の味を感じさせてくるもので、実に美味しかった。流石に正月に食べるものなので一切れ以上の味見は「めっ」とお預けされたが、翌日の楽しみが増えて周としては非常にご満悦である。
あとはきっちり冷やすだけとなって後片付けに入っていた周と真昼だったが、来客を知らせるチャイムがリビングに響いて同時に顔を上げた。
「ちょっとインターホン見てくる」
「はい」
全く心当たりがないのであって訪問販売くらいだろうと思ったが、流石にこの年の瀬にセールスなんてしにくるか、なんて首を傾げつつも泡だらけのスポンジを手にした真昼に取らせる訳にもいかず。
丁度手が空いた周が手についた水気をさっとタオルで拭いてから、来客を示すランプの明滅を確認してインターホンの画面を見て、固まった。
「こんな年の瀬に誰、が……あ?」
「どうかしました?」
「……いや、こう、何で?」
「はい?」
「父さんと樹が居る」
「……はい?」
真昼も意味が分からないとばかりに首を傾げている。
樹単独だったらまだ理解出来なくもなかったのだが、何故遠方に住まう父親がここに居て、それも樹を連れて周の家を訪ねたのか、全く以て想像がつかないし理解も及ばなかった。
「意味が分からん。いやほんとに。父さんが居る理由も樹と一緒に居る理由もほんっとうに意味が分からん。取り敢えず上がってもらうけどいい?」
「私は構いませんけど……」
恐らく二人共ここに真昼が居るのは承知の上で来ていそうなので、真昼の許可の方が先だと問いかければ、真昼は戸惑いながらも迎え入れることを受け入れてくれた。
となれば待たせるのも悪いので、事情聴取は家に入れてからいいであろうとさっさとエントランスの鍵を開ければ、数分もしない内にチャイムが鳴った。
開ければ、本当に何故か樹と修斗が居るので、あまりにも不思議な組み合わせすぎて周の側に控えている真昼も困惑を隠せないようだ。
「こんな時期に急にお邪魔して申し訳ないね。驚いただろう」
「いや、うん、驚いたけどまあそれはいいとして……」
ちらりと視線を横に滑らせれば、冬も真っ盛りなのに外を出歩くにしては寒さの事を考慮していない、些かラフな格好の樹が居る。顔色があまり良くない。
「……椎名さんもごめん、めっちゃ邪魔してるよな」
「大丈夫ですよ。一段落ついてましたしお気になさらず。今温かいものを淹れますので」
このままだと樹の方が風邪を引きそうだと判断した真昼が、周に一度視線を投げてから二人に軽く頭を下げてキッチンに走っていく。
周もとりあえず二人に一旦落ち着いてもらおうと中に促せば、修斗は穏やかな笑みで、樹は気まずそうに視線を落とし躊躇いながら家に上がった。
机の上に置かれたマグカップから、ふわりと湯気が広がり、あまり顔色のよろしくない樹の顔を励ますように漂う。
体が冷えているであろう樹には取り敢えず温まってもらおうとはちみつ生姜湯、修斗には彼の好みの紅茶。
好みと状態に合わせて出した真昼は、薄着の樹にそっとブランケットを差し出してから床に座る周の隣に座布団を出してきっちり正座している。
「多分色々聞きたい事はあると思うんだけど、取り敢えず先に私から話そう。久し振りだね周と椎名さん」
樹が自分から口を開けるようになるまでは気を遣いつつ先に修斗の方の理由を聞こうと見れば、修斗は何も言わずとも分かっているらしくいつものにこやな顔を見せた。
「久し振りって言うけど文化祭にきただろ」
「うん、でも二ヶ月ぶりは久し振りでいいんじゃないかな」
「そうですよ、二ヶ月も会ってないんですから。修斗さん、文化祭ぶりです。改めて、先日はクリスマスプレゼントをありがとうございました。大切に使用させてもらっています」
メッセージとビデオ通話でお礼を言っていたが、やはり改めて会ったら礼を言うつもりでいたらしい真昼が丁寧な所作で頭を下げる。
本人の言う通り、クリスマスからそう時間は経っていないが課題や自習の際に使っていて使い勝手もよいと喜んでいた。
「良かった、ご迷惑かと心配してたんだ」
「ご迷惑だなんてそんな! とても気に入ってますし嬉しかったです!」
ぱたぱたと手を振って必死に否定する真昼を見てニコニコしている修斗は、恐らく真昼がちゃんと大切に使ってくれる事は見抜いているのだろう。
「それで、父さんの本題聞いてもいい?」
「うん。来る事自体は朝に知らせてたんだけどね、その調子だと見てないようたね」
「え、うわほんとだ。二人でお節作ってたから俺のスマホは弄らなかったし……ごめん、これは俺が悪かった」
言われてスマホを確認すれば修斗から二件程メッセージが届いていて、きちんと周の家を訪ねるという旨が書かれていた。
大晦日は家に居る、と両親には伝えていたから家に居ると確信して既読なしでもこちらに来たのだろう。これはこちらの確認不足なのであまり修斗を責められたものではない。
「私も前日に言えたら良かったんだけどね、すまない。驚かせてしまったね」
「や、まあびっくりはしたけどそっちにびっくりした訳じゃないというか」
樹が来る事も、修斗が来る事も、腰を抜かす程のものではない。驚いたのは、ほぼ接点のない二人が一緒に周の家を訪れた、という所だ。
「とりあえずは私がどうしてこちらに来たか、かな? 私の方は別に難しい話ではなくて、単純にどうしても外せない用事があってこっちまで来たから、そのついで……まあ本命といえば本命なんだけど、様子見にきたんだ」
「それは分かったしまあそうなんだろうなって納得出来る。母さんだったら信用しなかったけど」
メッセージにも用事があったから帰りがけに寄っていくつもり、という事が書いてあったので、それならまあおかしくはないと納得出来る。単に思いたちで顔を見に来るためだけにわざわざ新幹線を使うなり車で来るなりするとは思えないのだ、修斗なら。
志保子だと、ないとは言い切れない。
「ひどいなあ」
「母さんだと真昼に会いに来たメインになるの分かりきってるからなあ。むしろそのために用事作るだろあの人」
「うん、それはそう。志保子さんも行きたいってむくれてたよ」
「だろうな。で、何で父さんは樹と一緒だったんだ? 連絡先交換してたっけ?」
「いや、そうではないんだけど……周の家に寄る時に一人でそこの公園に佇んでいたから、声をかけたんだ。見覚えがあったからね。間違ってなくてよかった」
どうやら物覚えのいい修斗が樹の姿を見付けて拾ってきたようだった。
「……その様子だと相当外に居たよな樹。何かあったか?」
はちみつ生姜湯とブランケット、空調のお陰か顔色は大分良くなって平常のものに戻りつつあるが、浮かない顔はそのままだ。
どちらかといえば寒がりな樹が自ら薄着でこの時期に出歩くとは全く思わないし、何もせず公園で一人で居るなんて、どう考えても普通の状況ではない。
何かしらあったので飛び出してきた、が周の予想だ。
「あー……いや、何というか」
「親父さんと喧嘩したんだろ」
大体樹が飛び出すのはこれが原因なのだ。大晦日という事で家で家族と過ごす時間も多いであろうし、元々反発している間で何かしらの諍いがあったのだろう。
案の定というか、何で分かったと言わんばかりに視線をこちらに向けてきた樹は、唇噛み締めるように閉じる。
「今回は何の理由で?」
「……今回は、親父だけが悪いとかじゃないし直接的な原因じゃないっていうか」
「というと?」
「年末だから、仕方なさそうに兄貴達が帰ってきたっていうか。それで親父が兄貴とまたあれこれ喧嘩して揉めたというか。オレも巻き添えでまあまあ言われたから外で頭冷やしつつ黄昏れてたって言うか?」
「……喧嘩の原因は、お兄さん側?」
「まあ」
樹の言う事を整理すると、例の一悶着あって今はパートナーと一緒に実家から離れて暮らしているらしい樹の兄が年末の帰省の結果、大輝と言い争いになって樹に飛び火した、結果樹がやってられるかと家を飛び出した。
そこをたまたま通りかかった修斗が見付けて、保護も兼ねて連れてきた、そういう事なのだろう。
「ちなみに大輝さんには外に出る事は」
「飛び出したから知ってるかもしれないし兄貴との喧嘩に忙しくて気付いてないかもしれない。……優先順位は跡取りの兄貴の方が高いからな」
諦めたように付け足す樹の姿は疲労と同時に物悲しさを感じさせるもので、かなり家で揉めてきたのだと推測される。
基本明るく内側を悟らせないムーブを取る樹がこうも目に見えて弱っているのだから、相当堪えているのであろう。
「樹はどうしたいんだ」
「別に、どうっていうか……オレが聞きたい。オレはどうしたいんだろうな。これからどうしたらいいんだろう」
「……揉めたって、お兄さん側がやっぱり継ぎたくないとか言いでもしたか?」
大輝の人柄もそれとなく知っている周からしてみれば厳しくはあるが無闇矢鱈に怒るタイプではないと思っており、その大輝がそこまで言い争いを繰り広げた、という事自体かなり大きな問題があったのだろう。
なら有り得そうな事で樹の兄と樹に関係する揉め事、となれば考えるのは家柄関係の事だろうと予想したが、その予想は大きく外してはいなかったらしい。
びく、と体を揺らした樹は、困ったように八の字に眉を動かす。
「継ぎたくないっていうか、まあ、落ち着いてはいたんだけどそれなりにやっぱり反発はしてたから。親父がいつまで経っても変わらないならーって。流石に洒落にならないからオレが仲裁したらしたで『子供は黙っていなさい』『跡継がない気楽な立場のお前には分からない』って二人に言われたらさ、まあどうしようもないというか」
「樹……」
「オレをどうしたい訳なんだよ、ほんと。振り回される身にもなってみろ」
苦々しく呟いた、この言葉が樹の本音なのだろう。
怒りよりもやるせなさの方が強いらしい樹は、ブランケットを握って深いため息をこぼす。
「……その、修斗さん、に聞きたいのですけど」
「私に答えられる事であれば何でも」
きっと、樹とは無関係の、大人に聞きたかったのだろう。
修斗は周の友人である樹だからといって、自分の考えを捻じ曲げる人ではない。そこに忖度はない人だと、息子である周も断言出来る。
「修斗さん、は、子供に自分の跡を継いでほしいと思いますか」
「質問に答える前に、私が責任に囚われない立場の人間だから言える事なのだとは、留意して聞いてほしい」
修斗は、樹の事情を正確には知らない。
周も友人の悩みを親に漏らすような真似はしていない。今聞いた範囲と先日大輝と会った時の様子で、判断するのだろう。
「私の家は残す程の家柄じゃないから樹くんの求める答えと少し意味合いが違うけど、自分達の歩く道の先を歩いてもらえる、というのは嬉しい事だと思うよ、親の背を乗り越えて行ってくれるって事だから」
藤宮家は赤澤家のような名家という訳ではないし、多少一族で相続していくものはあれど、一般家庭だ。
だから樹の悩みの本当の部分で理解を示す事は出来ないが、修斗はそこすら理解している様子で続ける。
「ただ、それは私達が強制するものではないな、とも思う。気楽な立場だから言える事なのだけど、家が絶えると言うならそれまでだろう。私は構わないと思っている」
「……続いてきた道を途絶えさせる事になっても?」
「そうだね。勿論、私達が辿ってきた道の先を拓いてくれるというのは嬉しい事だと思うから、子供の意志に任せるつもりだけど」
「父さん……」
「ああ、私は家を残すという事自体は悪いとは思っていないよ。連綿と受け継がれてきたものを次世代に託すのも重要な事だと思っている。そうして成り立っているものもあるからね、一概に否定出来ないし、君のお父上が間違っている、とも思わない」
「そう、ですか」
「ただ、強制した所で上手く行くとも思わないけど」
人間押されれば押される程押し返したくなるものだからね、とうっすら苦笑を浮かべる修斗は、一瞬遠い目をした。
「結局の所、親と子なんて別人格、別個の人間だからね。思い通りになんてならないさ。私だって親に反発したものだ」
「えっ」
「私はそこまでよい子ではなかったからね。両親には苦労をかけたよ」
周視点父方の祖父母と修斗の仲は良好だし確執なんて全く見当たらない、実に理想的な親子の関係に見えていたのだが、修斗が若い頃に何かしらあったのだろう。
今の修斗は穏やかで落ち着いた大人という認識だし息子から見てもよく出来た人だと思うのだが、本人曰く「まあまあやんちゃだったよ」との事。
「樹くんは、家の都合で自身の身の振り方に悩んでいる、でいいのかな」
「……はい」
大輝と千歳との関係、家柄の事、跡継ぎ問題――そのあたりに振り回されている樹が暗い顔で頷くと、修斗は穏やかな顔で続ける。
「私が何を言っても無責任なのだけれど。私から見れば、樹くんの父上は話を聞いてくれる人ではあるように見える」
「そんなの、」
「うん、樹くんからはそう見えないと思うし、実際樹くん視点では分からず屋なのだと思うけど。本当に話の通じない頑固者ではないと思う」
これは周も思う事で、大輝は全く息子の話を聞かない頑固者で自分の意思を貫き通す融通の効かないタイプ、という訳ではない。そんな人なら周が声をかけても聞き入れもしないだろう。
頑固なのは確かだし明確な一本芯が通っている揺るがない人ではあるが、温かみのある人だ。ただ、樹と千歳の一件以降、心配から頑なになってしまっている、と周は見ている。
「ただ、現状だと話を聞いてもらう席に着いてもらえていないんじゃないかな。父君の心の準備も出来ていないように思える」
「席……?」
「何事にも事前準備は必要、という事だよ。嵐の中建設的な話し合いなんて出来ないからね」
修斗は湯気の収まってきた紅茶を口にして、静かな眼差しを樹に向ける。
柔らかく慈しむような眼差しでもあるが、同時に奥底を見据えるような、真っ直ぐなもの。
「……オレは、どうしたらいいんでしょうか」
「樹くんの望みはなんだい?」
「ちぃと、千歳と共に在る事です」
「お父上の望みは?」
「手っ取り早く別れてもらう事でしょう」
「違う」
「周?」
「それは、違う、と思う」
周は大輝を庇うつもりはないし心情的にも樹の味方ではあるが、樹と千歳と無理に引き剥がそうとしている、という樹の認識には、否を唱えたい。
確かに大輝は千歳の事を受け入れられてはいないし認められてはいないが、かといって彼女を排除しようと行動に移す様子は見られなかった。寧ろ、本人的には受け入れたがっていたようにすら感じた。
ただ、それが彼の中でどうしても納得の行かない部分があるからこそ受け入れられず葛藤している、ように見えて。
「周がそういうのは、根拠があるからなんだよな?」
「……人の親に憶測でこういう事を言うのはよくないけど、大輝さんは、樹に千歳と無理に別れてほしい、とまでは思ってない、と思う。少なくとも俺は一言も、別れろ、なんて聞いてない」
「子供の友達に気遣ったからとは考えないのか?」
「それも考えた上で、違うと思う」
「……周がそう捉えるなら、周の中ではそうなんだろう。オレには、結局、ちぃと別れろって結論が出ているように、見えるから」
周から見た大輝と実の息子から見た大輝が違うのは当然の事だし、樹からして見れば友人が怒りの矛先を庇ったように見えたのだろう。
暗かった顔にさっと赤みが走るのが、見えた。
「ちゃんと子供を見てくれる周の親とは違うんだよ! アレは、オレの気持ちなんて考えてない!」
言ってすぐに樹が表情を曇らせたのは、自分が興奮しているのだと客観的考えて理解したからだろう。
一瞬で申し訳無さそうな表情を浮かべて怒らせた肩もぺしゃりと落とした樹が、深刻な顔付きで「ごめん」と謝ってくるものだから、寧ろこちらが申し訳なくなる程だ。
「気にすんな。他人にあれこれ言われても嫌になる気持ちはよく分かる、何も知らない癖にってなるだろ。いい気分しないよな、大輝さんの肩持ったように聞こえただろうし。樹が悪いんじゃない。俺が悪かった、本当にごめん」
「……何でお前が謝るんだ、馬鹿」
「俺が悪かっただろ」
「んな訳ねーよ、どう考えてもオレが勝手に怒って八つ当たりしただけだ。周は悪くない。オレが、ここで管巻いてるだけ」
「はちみつ生姜湯で?」
「うっせ」
樹の性格的にあまり深刻な空気を続けてもよくないと敢えて明るく聞き返せば、樹もそれを理解してくれたらしくわざとらしく乗ってくれた。
憤り自体はなくなった訳ではないだろうが、さりとて周に強く吐露するとい訳でもなく、樹は飲み込んで、普段通りの軽い笑みを見せてくれた。
口を出す訳でもなく見守っていた修斗は、周と樹の間の空気が軟化した事を確認してから続ける。
「私と大輝さんでは親としてのスタンスが違うから深くは言えないけれど。一度、冷静に話をした方がいい。全てを頭ごなしに否定するような方ではないと思うけど、大輝さんが話を聞かないという樹くんの主張も理解出来る。……話を聞いてくれるようにカードを持っていくべきだ」
「カード」
「相手の弱み、メリット、デメリット……何でもいい。席に着いてもらわなければ話すら出来ない。手札もなしに一方的に理解を求めたりやり込めたりするのは、まず無理だと思った方がいい」
「……その手札がなければ、話を聞く価値がない、という事ですよね」
「ないとは言わないけど、少なくとも聞く耳は持たないだろうね。本当は、そういう駆け引きなしに真正面から話し合いが出来るのが理想ではあるけど、今までそれが出来なかったから樹くんは苦労しているんだろう?」
「……はい」
「君の父上は、多分君を対等な存在だとは認めていない。まだ庇護されるべき子供だ、という認識なんじゃないかな」
それは樹も薄々感じていた事なのだろう。頬に力が入って引き締まったのが見えた。
「樹くんは、決裂までは望んでいないんだろう? なら、交渉の場に引きずり出せるように準備するべきだろう。無闇に騒いだり反発したりすれば、向こうも頑なになるのは見えているのだから」
話したのはほんの少しの時間だけだろうに、修斗は大輝の人柄をうまく掴んでいるように思えた。
周もあまり深く関わらなかったので、周から見た大輝の姿と修斗が感じた大輝の人柄が一致した、という事だが、少なくとも樹が否定する程人物像が乖離している訳でもなさそうだ。
「人間誰しも物分かりがいい訳ではないし、価値観が一緒だとも限らない。君が望んだ事を望まない人だって出てくる。それが正しいか正しくないかなんて、解釈は幾らでもあるものだ」
「……親父が言う事がオレには正しくはないと思うけど、それが親父にとっては正しさだと思っている、という事ですか」
「逆も然りだね。樹くんが望むものが父君にとって正しいとも限らない。だからこんなにも譲れないのだろうし」
「……オレは」
「だからこそ、話し合うためにも、その席に着かせるために動いた方がいい。最悪の手段を避けたいのなら、まずは交渉材料を用意する方が無難だよ」
最悪の手段というのは絶縁して家から飛び出す、というものなのは予想がつく。その可能性も恐らく樹は想定していただろう。
ただ、それを実行に移すにはかなりリスクがあるし、恐らくではあるが千歳が望まないものである。
自分のために樹が親と縁切りするなんて知れば、拒みそうなものだ。
「カードを揃えた上で、樹くんがどうしたいのか。どういう願いなのか、現実問題として願いをどう叶えるのか、目処は立っているのか、どこまで妥協出来るか、そのあたりは整理してから話し合いに挑んだ方がいい。曖昧な希望を口にして明確なビジョンを固めていないなら、その言葉を受け入れてもらえるとはまず思わない方がいいよ。君の父君は、そこの所は厳しそうに見えるから」
頑固で真っ直ぐ、揺るぎない大輝は、生半可な覚悟では聞き入れてくれない。
それは樹も理解しているようで唇を結んで眉を寄せるので、修斗はそんな樹を見守るように柔らかい眼差しを向ける。
「もし、どうしても分かり合う事が出来ないというのなら、私もそのカードになるつもりではいるよ。他の大人が味方してくれる、というのも手札になるからね」
「……何でそんなに肩入れしてくれるんですか。修斗さんには何のメリットもないし、あなたに気に入られるような事をした覚えもないです」
樹には、それが分からなかったのだろう。
樹からしてみれば修斗は周の父親という訳で、直接的な交友を持っていた訳でもない。先日挨拶を交わしただけの、ほぼ初対面と言ってもいいだろう。
そんな、あくまで他人である修斗がしっかりと話を聞いてアドバイスをしただけでなく直接的な助けになるとまで言うのだから、疑うのも無理はない。周も、例えば大輝から親身になって助けてもらったら、何かあるのではないかと疑う。
当の疑われた修斗はぱちりと大きな瞬きを繰り返した後、ふっと解けるような微笑みを浮かべた。
「恩があるからね」
「恩……?」
「うちの周を救ってくれたのは、君だと思うよ。君が声をかけてくれたから、手を差し伸べてくれたから、周は暗い所に落ちていかずに済んだ。今こうして、穏やかに過ごしている。……それだけでは、理由にならないかな?」
存外に、周が想定するよりもずっと、修斗は樹の存在を喜んでいたのだろう。
周は両親に樹の事を詳しく話した事はないが、心を許せる友人として第一に上がる程度に親しいという事は理解している。
周が塞ぎ込んだ時に、一番に心配してくれたのは、両親だ。
そして周が不快な喧騒から離れて誰も知らない場所に一人で向かう事を心配したのも、そしてそれでも送り出してくれたのも、両親だ。
一人で過ごす事を選んだ周を友として受け入れてくれた樹に、周も知らないくらいに修斗が感謝していたのだと、今思い知った。
(……聞いている当事者としては滅茶苦茶恥ずかしいけど)
親が友人に友達になってくれて嬉しいという事を伝えているのを側で聞いていたら恥ずかしさの一つや二つ湧くものだが、樹にも修斗にも感謝している周では何を言っても照れ隠しに取られるだろうから黙っておいた。
「それでも足りないなら……そうだね。私は、責める訳ではないけど、樹くんに対する樹くんのお父上の態度はよくないと思うし、一個人として樹くんの選択を見守りたいと思っているから、かな。一途な人は好きだよ、よい事だ」
今度は茶目っ気たっぷりに、樹を好ましく思っている理由を口にした修斗に、樹は呆気にとられたように柔和な雰囲気を崩さない修斗を捉えて、それから何か耐えるようにへにゃりと眉を下げた。
「……ずるいなあ」
何に対してずるいのか、周は何となく察してしまったが、口にする事はなく押し黙る樹を見守る。
修斗もそれ以上は何も言葉を発さず、樹が何かを決心するまで静かに静かに彼の項垂れた姿を見守った。