279 また別の幸せ
翌朝真昼が登校前に周の家に来た時、ほんの少しだけ目元が腫れていたが、本人は実に幸せそうな微笑みをたたえていた。
昨日は周のせいとはいえ何度も泣いていたので目が腫れるかもしれないとは思っていたが、幸いな事に明らかに何かあったというレベルの腫れ方ではなかったので、泣かせてしまった周としては少し安堵してしまった。
周の心配を他所に本人は気にした様子はなく、ただ自然と柔らかな表情を浮かべているのは、きっと昨日の事が真昼の中に残っているからだろう。
満たされた、と言い切ってもいいくらいに他に感情が入る余地のない表情で、寝起きの周にはあまりにも眩しく心臓に悪いものだった。
「おはようございます」
「……おはよう」
「……なんで目を逸らすのですか」
視線をさまよわせてしまったのはすぐ察知されたようで、リビングで出迎えたのはいいもののまだ寝間着を着ている周の側までやってきて、不満げに見上げてくる真昼に、一歩下がってしまう。
これはあまりの真昼の可愛らしさの火力を抑えようとした反射的な行動だったのだが、真昼にはその意図が分からなかったのだろう。
視界の端に見る見る内にしょげたように眉が下がっていく真昼が見えて、周はまずったと慌てて距離を戻して真昼の背中に手を回した。
避けるなどあまりにも短絡的な行動。真昼を傷つけるつもりなど毛頭なかったので、きちんと今の行動の意味を言葉にしなければならない。
「ごめん、嫌になったとか見たくないとかじゃなくてさ。あまりにも」
「……あまりにも?」
「真昼が幸せそうで、その、寝起きだと眩しすぎて直視出来ないというかさ。可愛くて、こう、心臓に悪かった。ごめん、俺の事情だったな。傷付けたかった訳じゃないんだ」
腕の中の真昼は周が言葉を紡ぐにつれて体の力が抜けて安心したように周に身を任せてくれたので、誤解は解けたようだ。
もぞもぞと身じろぎをしつつもあくまで周に甘えるようにくっついたままの真昼は、周を見上げて「それならいいです」と満足そうに呟いてまた周の胸に顔を埋めた。
「……そんなに顔に出てました?」
「滅茶苦茶出てた。内側から光ってるレベル」
「そ、そんなに……?」
「そんなに」
もう周の目を潰そうと輝かんばかりの微笑みだったのだが、本人は全く自覚がなかったようである。
「……昨日から、ずっと嬉しくて、顔が緩んでいて。その、き、気を付けます」
「気を付けてください。それで外行くと俺だけじゃなくて周りまでしぬと思う」
「大袈裟すぎません?」
「ほんとほんと。……真昼、素の笑顔が滅茶苦茶破壊力高いの自覚してくれ」
作られた天使様の笑顔とは全くベクトルの違う、明るくて心の底から幸せだと言葉がなくても悟るような笑顔は、浴びた人の目や脳を灼いていきそうで彼氏としては非常に末恐ろしいものがある。
顔を上げた真昼は先程の笑顔を収めてくれているので周も安心しているが、外では出さないようにしてもらいたいものだ。
「じゃあ、周くんの前だけ、ですね」
「そうしてください」
ふにゃっと、昔に比べればすっかり柔らかくなった笑顔を見せた真昼がご機嫌そうに周にくっつく力を強めてくるので、笑顔に負けず劣らずの柔らかな肢体の感触をダイレクトに感じている周はきゅっと唇を噛んで色々な衝動が内より溢れてこないように堪えた。
流石にこのままご機嫌ですりすりしてくる真昼を好きにさせると諸々まずいので、さり気なく体の間にスペースを作る形で体を離しながら真昼の背中をぽんぽんと叩く。
「……真昼、俺まだ着替えてないから。ちょっと待ってて。すぐに帰ってくるから」
途端に寂しそうな顔を見せる真昼があまりにも分かりやすかったのでつい笑ってしまうのだが、それが真昼の気に障ったのかむぅと唇がほんのり尖ってしまう。
そうして素直に甘えてくれるのは非常に可愛らしいのだが、あまりに可愛いと大変な事になるので内側の熱の冷却期間は欲しい所である。
「くっついててもいいけど、着替える所見たい?」
「寝ぼけてますか?」
「そこは辛辣なんだなあ」
流石にからかいすぎると塩になるのは分かっているのでこれ以上は何も言わない事にして、離れがたそうにしている真昼の頭を優しく撫でて、腕から解放する。
素直に離れてくれた真昼が「大人しく待ってます」とこちらを期待するように見上げるので、これは早く身支度を整えなければと小さく笑って周は自室に足を向けた。
「椎名さん、ちょっと目が腫れてるけど大丈夫?」
教室についた周と真昼に声をかけてきたのは先に教室に来ていたらしい木戸だ。
家で二人ゆったりしてから登校したせいもあって普段なら樹達より早く来ていたのだが、今日はいつもの面子の中では周と真昼が一番最後の到着になっていた。
昨日真昼は泣いた後に洗い流して冷やして保湿まできっちりしたらしいが、やはり腫れを完全に抑える事は出来なかったのかほんのりと赤らんだ目元の仕上がりになっている。
といっても目立つという程でもなく多少の違和感があるな、というくらいだが木戸はきっちり気付いたようだ。
「大丈夫ですよ。ちょっとその、色々あって」
誕生日の事は木戸も知っているとはいえ教室では口にするつもりもないらしく、誕生日の事は伏せながら控えめに否定する真昼は泣いた事がバレたのが恥ずかしかったのか身を縮めている。
基本他人に弱った姿を見られる事を嫌っている真昼からしてみれば泣いたと知られるのは嫌だろうなあ、と真昼のもじもじとした姿を見て結果的泣かせた張本人の周は薄く苦笑い。
「……藤宮くん、あんまり椎名さんいじめちゃ駄目だよ」
「待ってくれ誤解だ、俺は真昼に辛い思いをさせた訳じゃない」
「そ、そうです、周くんは私を気遣ってくれた側ですから。周くんはいつも私に優しいですし大切にしてくれますので」
あわあわと周は非道な真似はしていないと手を振って否定する真昼に木戸はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、何故か神妙な顔つきになって周の肩をポンと叩いた。
「……藤宮くん、ちゃんと次からは手加減してあげてね? 椎名さんは藤宮くん程頑丈じゃないんだからね?」
「待ってくれ何か違う誤解してるな!? そういうのじゃない! 本当に!」
今確実に真昼の発言から深読みした、と察した周が慌てて首をブンブンと振って精一杯違うと主張すると、木戸はそんな周の様子に相好を崩した。
「ふふ、冗談冗談。昨日は素敵なパーティーになったんだろうなって分かってたよ」
「……木戸、樹達の悪影響受けてるだろ」
「そんな事はないよう。それはそれとして気を付けた方がいいよ、椎名さん親しい人達にはぽわぽわタイプだからうっかり色んな物が漏れ出る可能性があるよ」
「ぽ、ぽわ……?」
「それは分かる」
「何で分かるんですか!」
心外です、とこちらに視線を向けてくる真昼に、周も木戸も「だって」と声を合わせてしまって、更に真昼が咎めるような視線を向けてくるのであった。
「……なんか想定外にステップアップした?」
木戸から離れて樹達の所に行けば開口一番でそんな事を言われて、怒る前にまたか……という呆れの気持ちが湧いてしまう。
「あのなあ。怒るぞ」
「いやん」
「いっくん、周がそう簡単に手出しする訳ないじゃん。まひるんの事大事にしすぎてセルフ断食してるくらいだよ?」
「やかましいわ」
千歳は千歳で要らない確信をしているので頭が痛いのだが、そんな周にお構いなしの千歳は「でも否定は出来ないでしょ」と軽やかな笑みを向けてくる。
それについてはノーコメントを貫き通す所存なのでスルーする周に千歳は生暖かい眼差しを向けてくるが、それも唇を一度噛むだけでスルーしておいた。
からかいに乗るつもりはない、という主張が通じたのか千歳は肩を竦めて静かに見守っていた真昼に視線を向ける。
真昼の表情は静かではあったが明るいものであるので、一ヶ月の準備の結果がどうなったか千歳は察しているのだろう。
「ま、その調子だと上手く行ったみたいでよかったよかった」
「皆さん本当にありがとうございます」
「いえいえオレ達も椎名さんのお祝いしたかったからね。今日はオレ達の番というか。あ、ここではするつもりないから大丈夫。あんまり広げたくはないんでしょ?」
「例のは周んち借りてやるつもりだから!」
「先に言ってくれよそういうの」
「でも周はこうなるの分かってたよね」
「そりゃな」
「いやー、これが以心伝心というやつですな」
「以心伝心期待する前に連絡した方が確実な事は覚えてくれよほんとに」
別に周の家が一番都合がいいのは理解しているしそうなるだろうという予想も立てていたが、それはそれとして先に予約の一つや二つ入れてくれた方が話がスムーズに進むだろう。
前にも似たような事があったなと思いつつ嗜めるのだが、二人はどこ吹く風だ。
全く、と呆れを隠さず、寧ろ分かりやすく乗せたため息をこれみよがしについてみせた周に、真昼は困ったように、しかしどこかほんのりと楽しそうに笑っている。
「本当にお気遣いありがとうございます。……嬉しいものなのですね、お祝いされるのって」
小さく、真昼の周囲に居る人間にしか聞こえない声量の呟きだったが、樹も千歳もしっかりと聞き取ったらしい。
「じゃあまひるんが喜び疲れるくらいのものにしないとね。なんたってまひるんが主役なんだもん」
「そうだな。椎名さんはいつも遠慮しがちなんだから、こういう時はしっかり私が主役よ! 平伏しなさい! くらいの気概で居てもいいと思うよ」
「え、ええ……? そんな居丈高なのは……」
「まあ真昼はそれだけ祝われて当然って感覚を持ってくれていいって事だよ。真昼を素直な気持ちで祝ってくれる人は、俺だけじゃないんだからさ」
今までの分仲良しの友人達から祝われたっていいだろう、むしろまだ足りない筈だ。
周からのお祝いと千歳達からのお祝いでは喜びの方向も少し違うものになるだろうし、喜びはあるだけいいので存分に幸せを味わってほしい。
そういう意味も込めて「心配しなくてもこいつらに他意はないから安心していいと思う」と笑いながら真昼の頭を撫でれば、真昼は少し困ったように視線を周と樹達の間をさまよわせた後、小さくはにかんで頷いた。