278 かつての幸福と今の幸福
真昼が周の誕生日のお祝いの余韻に身を浸して静かに瞳を閉じている姿を見て、今の所大成功だな、と少し自賛しつつ、最後の一ピースを、真昼がどう思うかまでは分からない周は、まだ気を抜くべきではないと唇を結ぶ。
壁をちらりと見れば、飾り付けのせいか目立たないようになっている壁掛け時計の針が、約束の時間に迫っていく姿を視認できる。
(……そろそろかな)
真昼の誕生日の最後で、恐らく一番大きなサプライズの時間が、やってくる。
もう今日のお祝いは全て終わってゆったりと幸福を実感するだけだと思いこんでいる真昼は、ソファで猫のぬいぐるみに実装されている肉球をふにふにと触って実にリラックスした様子だ。
その落ち着いた様子を崩すのは誠に申し訳ないとは思ったのだが、もう引き返せない所まで来ているので、覚悟を決めるしかない。
「……あー、真昼、その、だな」
「はい」
何も疑う事なく周を見上げた真昼は、普段より五割増しでふわふわと緩い、幸福感で彩られた表情をたたえていて、周への愛情がたっぷり詰まったとろりとした眼差しは、周の内頬に口内炎を幾つも作らせそうなくらいには耐え難い可愛らしさがあった。
内頬を噛んで今すぐ愛でたいという気持ちを痛みで押さえつけながら、平静を装いつつ続ける。
「真昼に、サプライズがもう一つあるというか」
「これだけでもう十分なのに? 用意し過ぎではないですか?」
「寧ろ今までの分まとめて誕生日やるなら全然足りてないレベルなんだよなあ。もっと欲張ってくれていいんだぞ?」
「い、いえそんな……その、私がパンクしちゃうというか、キャパオーバーになっちゃうじゃないですか」
「じゃあなったらごめんな」
「え」
というかなる事を想定して今回の最後のサプライズは用意している。
真昼は何の事が全く理解していないらしく訝しがるように周の姿を見つめているので、周は敢えて説明する事はせず、今周が出来る、一番の贈り物でありサプライズの仕上げをするべく静かに立ち上がった。
「一応準備はしてたんだけど、最後の仕上げするからそこに座っていてくれ」
困惑する真昼を置き去りにして、周は自分の部屋に戻って待機中だったノートパソコンをリビングに持ち帰る。
急に全く関係なさそうなパソコンが出て来てよりこちらを窺う視線が強くなるのだが、周はやはり答えは真昼にあげる事をせず、あくまで見てのお楽しみだという姿勢を崩さないままノートパソコンをローテーブルの上に載せた。
開いた画面は、ビデオ通話が可能な会議のためのアプリの通話待機画面だ。
「その、もしかしたら、これは、大きなお節介なのかもしれない」
周の独断と独り善がりな気持ちで決めた、今日一番大きな、周の手だけでは叶わなかった、サプライズ。
喜んでくれるだろうかと期待に胸を膨らませた反面、勝手な事をして嫌がられないかという不安がつきまとった、周にとって博打にも近いもの。
勿論このサプライズなしでも十分に喜んでもらえるとは思っていたし実際に泣いて喜んでくれた。だから、本来するべきではなかったのかもしれない。
「余計なお世話というか要らない事を、と思われるかもしれないけどさ。真昼を祝いたいのは俺だけじゃないし、真昼の事を想ってくれていた人は、居るんだよ」
真昼は、今日沢山の人に誕生を喜んでもらったし、お祝いしてもらった。今真昼が親しいと思う、大切な友人達に祝ってもらった。親のように慕ってくれている志保子や修斗達にも祝ってもらった。
きっと、彼女は文句をつけられない程に喜んでくれただろう。
ただ、一つだけ、周は足りないと思ったのだ。
今の友人達や親代わりの存在に祝福されるだけではなくて、かつての、真昼が慕い愛した、大切な人が、すっぽりと抜けているのではないか、と。
真昼の誕生を心から祝ってくれる人が、もう一人居るのではないか、と。
チャットで準備完了の旨を伝えて、周は早まりつつある鼓動を落ち着かせるべく深呼吸をゆっくりと繰り返して、受話器のマークが描かれたボタンをクリックした。
画面が、何も映さない黒から、鮮やかな色に塗り替えられる。
『お嬢様』
パソコンのスピーカーから、ふんわりと放たれる声。
高くも低くもなく、柔らかくしっとりと落ち着いた声音は、周にとっては聞き覚えのあるものではなかったが――真昼にとっては、違うだろう。
えっ、と上擦った声が、真昼の口からこぼれる。
そして弾かれたようにソファから飛び降りる勢いで床に降り立ち、ローテーブルの上に置かれたノートパソコンに顔を近付けて食い入るように画面を見つめる真昼は、いつもの冷静さとはかけ離れた驚愕に満ちた表情だった。
信じられない、と言わんばかりに瞳をこれでもかと見開き、微かに呆けたようにも見える唇の開かせ方をした真昼の姿は、困惑していると言い切ってもいい程に落ち着きがないものだ。
そんな普段とは打って変わった真昼の様子を向こうも感じ取ったのだろう。
画面に映った、自分の両親より一回りほど歳を重ねたくらいの年齢の女性はしとやかな笑みに驚きと愉快さを一匙加えたような表情で、真昼の方を向いていた。
『私はお役目を退いたので、この呼び方は正しくないかしら。そうね……』
相変わらず体を硬直させて画面を凝視する真昼と、彼女は……小雪は、画面越しに視線を合わせて、微笑んだ。
『……真昼さん、お久し振りです』
胸元に手を当てて、上品に微笑んで真昼の名を呼んだ小雪は、思考が固まっていそうな真昼にも動じず続ける。
『急にお名前をお呼びしてごめんなさいね、でも私はもう雇われていないし、お名前で呼ぶのを許してくれますか?』
「なん、で、え、うそ」
『サプライズ成功かしら。ふふ』
大成功と言っても過言ではない、それどころか成功しすぎて真昼の心臓が止まってしまうのではないかと心配する程に、真昼の意表を突いているのではないだろうか。
悪戯っぽさを滲ませた声音も下品なものではなく、大人の余裕のある上品なもので、余計に真昼を混乱させているのは少し離れた周から見てもよく分かる。
「え、え? な、なん、どうして」
『何で、というのは、私がこうしてビデオ通話している事かしら。それはもう隣の殿方に聞いた方がいいかと』
ここでこちらに振ってくるのかと思いながらも、勢いよくこちらを向き直った真昼に説明せざるを得ないので、周は小さく笑いながら取り敢えず落ち着かせるべく真昼をソファに座り直させた後、覚悟を決めた真昼を見上げる。
「あー……先に謝らせてくれ。ごめん」
「え?」
「俺は悪い事をしました」
「わ、わる……?」
「俺がどうやってコンタクトを取ったのか、不思議に思わないか?」
小雪は真昼が周と出会う前に真昼の面倒を見ていた、ハウスキーパー兼教育係だ。周は直接関係もないし話した事も声を聞いた事すらない。
当然、それなら連絡先の知りようがない、という事に真昼ならすぐ思い当たるだろう。
瞬時に理解したらしい真昼が「あ」と声を上げるので、周は非常に申し訳ない気持ちになりながら事の経緯を説明するべく、事前にどう釈明するか考えていた事を脳内で整理しながらゆっくり口を開いた。
周は、真昼の誕生日は真昼を一番喜ばせたいと思っていたし、彼女が幸せになるように何とか様々な策を考えていた。その時に丁度三者懇談があり、そこで周は真昼の親代わりであった小雪の存在を思い出したのだ。
「前さ、その、こゆ……久慈川さんにご挨拶したいとかいう話をしてただろ?」
文化祭辺りで小雪の話をした後、周は真昼から小雪が如何に良い人か聞いていたし、離れてからもこんな手紙をもらったのだと懐かしさと愛しさと切なさが混じった微笑みで語ってくれた。
「その後久慈川さんのお手紙云々とかちょこっと見せてもらった時に、連絡先見たっていうか。一緒に報告のお手紙考えようって話してた時、一緒にあったメモのアドレスと番号覚えてたっていうか」
そこで、周は小雪の個人情報に触れる機会があったのだ。
普段は手紙でやり取りしていたらしいが、一応いろんな手段で連絡が出来るようにはされていたらしい。手紙をさらっと見せてもらった時にメールアドレスや住所、電話番号がメモとして一緒に保管されていた。
そのメモをちら見した時に特徴的且つ分かりやすいアドレスだったので、特に凝視していた訳でもない周も一瞬で覚えてしまった。
正直メールを送る際に何日かこれは本当にいいのか、マナー違反どころかモラル違反にも程がある、と自問自答と自責を繰り返した覚えがある。それは今でも変わらないし、メールを送った後の胃の痛みは記憶に新しい。
自分からもいずれ挨拶に向かいたいとは思っていたが、こんな形で勝手にしていいものではないと分かっていた。
この小雪を巻き込む事も、自分のエゴだ、という事は、重々承知していた。
それでも――周は、どうしても、小雪の力を借りたかった。
「いやほんと真昼と久慈川さん、個人情報を勝手に知ってしまった上に利用してしまい誠に申し訳ありません。深くお詫び致します」
向こうにこちらの映像が映っているのは分かっているのでカメラの前に移動して深々と頭を下げると、小雪の表情は仕方ないなあと言わんばかりの苦笑いになっている。
初めてコンタクトを取った際も平謝りしたがそれでも足りないので頭を下げたままでいると『まったくもう、顔を上げてくださいな』とほんのり呆れたような声がつむじに届いた。
『最初は詐欺メールかと思って息子夫婦に相談したのよ?』
「本当に申し訳ありません」
『まあ、そこはあなたの必死さに免じて許しましょう。彼女のために何が何でもって気迫と罪悪感を感じましたので。次からは気を付けましょうね』
「ハイ、二度としません」
もうこんな段階をすっ飛ばした失礼極まりない事をするつもりはない。
小雪からすれば見ず知らずの周なんて不審者も同然だっただろうに、よくぞ話を聞いてくれた上に協力してくれたと感謝と申し訳なさが溢れてくる。
『私の顔に免じて真昼さんも許してあげてくれないかしら。彼、一生懸命あなたのために私に説明して頭をずっと下げてたのよ。無礼で不躾なお願いだという事を承知でお願い出来ませんか、って』
「お、怒ってなんか! 周くんは、いつも私のために頑張ってくれるというか、これも私のためだって思ってて、本当に、申し訳なさと嬉しさと感謝がいっぱいで」
『彼、すごく熱心に伝えてきたのよ? あなたが人生で一番嬉しい誕生日を迎えられるようにって、そのためには私の存在が大事なんだって。あれだけ頼まれたらそりゃあ協力したくもなっちゃうでしょう? それに、私が真昼さんにとっての幸せの一部になれるなら、光栄なお話だもの』
柔らかな声音で紡がれた言葉に、またぽろりと真昼の瞳からしずくが生まれ落ちた。
薄く紅色に色づいた頬を伝うようにはらはらと落ちていく、溢れた感情の塊がどういうものなのか、周は自然と理解していた。
今日一日で真昼の涙腺をすっかり緩めてしまった自覚のある周は側に置いていたハンカチを真昼に手渡すと、真昼は小さく相好を崩してから素直に受け取った。
『改めて。お久し振りです、真昼さん』
真昼から溢れた感情をハンカチで拭った事を確認した小雪が穏やかな口調で話しかけるので、久し振りの邂逅は水入らずの方がいいかと離れようとした周を、真昼の指先が止める。
袖をちょんと摘むというほんの少しの抵抗だったのに自然とその場に縫い留められた周だが、流石に真昼は良くても小雪にとっては周が再会の邪魔をする存在なのではないか、と小雪を窺うと……何故か微笑まれて眼差しで残るように指示された。
ぽんぽん、と真昼にソファの隣を叩かれて、こちらに来てと促される。
パソコンの画面を見ると、相変わらず内心の読めないにこやかな小雪が映っており、逡巡はしつつも拒まれてはいないと信じてそっと躊躇いがちに真昼の隣に腰を下ろした。
『幾度かやり取りこそしていたものの、こうして顔を……合わせているカウントでいいのかしら、今までこうして成長した姿を見る機会に恵まれてこなかったけど……この機会が得られて本当に嬉しいです』
「おひ、お久し振りです、小雪さん……」
『あら、泣いた顔より笑顔の方を見せてくださいな。折角、顔を見せてくださってるのだから』
「はい」
白い目蓋の隙間から次々と生まれ落ちてくる大粒の真珠をハンカチで受け止めた真昼が漸く明るい笑顔を見せて、小雪は安堵したような微笑みを浮かべた。
『でも、素直に泣けるようになったと考えたら、喜ばしい事でもあるのですけど。それだけあなたが弱さを他人に見せられるという強さを得た証でもありますから』
子供の頃から弱い所をさらけ出そうとせず、小雪にすら泣き顔をほぼ見せようとしなかったらしい真昼は、きっと強かったけれど同時に弱い存在でもあった。
誰にも頼る事が出来ずに、一人で抱え込むしかなかった、どんなに辛くても甘えられなかった。
今の真昼は、きっと硬さを捨てて弱く柔らかくなったけれど、強くしなやかになったのだろう。
『立派に成長しましたね、真昼さん』
「……ありがとうございます」
『最後に見た時よりも随分と表情も明るくなって。目の輝きも違うもの。よい環境に恵まれたのですね、本当に良かった』
「はい……」
心の底から安心したような声は、まさしく真昼を想ってのものだろう。
柔和な微笑みにも心配と安堵が乗っており、当時は相当に気を揉んだのだと伺えた。
真昼は泣き止んだのはよいものの、何故か体を縮めつつもぴしりと背筋を伸ばした非常に良い姿勢になっており、そんな真昼に小雪は口元に手を添えて淑やかに微笑む。
『ふふ、もう雇用関係でもないのでそんなにかしこまらなくてもいいのですよ。もう私は単なるおばちゃんに過ぎないですから』
「か、かしこまるのはその、久々で、緊張しているというかっ」
『まあ。ふふ、私は嬉しいが先行して馴れ馴れしくなってるからお互い様でしょうか』
小雪の一言で分かりやすく照れた真昼を見て小雪は先程よりもほんのりと勢いを増した笑みを見せる。
『月並みな事を聞きますが、お元気でしたか? 時折便りはもらっていたけれど、あなたの口から直接聞きたくて』
「はい、元気です。すごく……」
『ガチガチですねえ。そんなに緊張しなくても、私は怒ったりどこか行ったりしませんよ』
「はい」
『ほら早速かしこまる』
「うう……」
『これは真昼さんが慣れてくれるしかないですから』
再度指摘されても久し振りの邂逅に真昼の緊張は溶けないらしくて、未だにいつもより気合いの入った背筋の伸ばし方をしている。
それでも緊張だけではなく、信頼と親しみのこもった眼差しを画面の向こうに送っているので、慣れるのも時間の問題だろう。
『でも、本当に元気ならよかった。聞かなくても表情で分かりますけどね。……よい人と巡り会えたのですね』
「はい」
よい人、という言葉に不意打ちされた周も背筋を伸ばし直したのだが、即座に真昼が肯定された事が気恥ずかしくて視線がさまよってしまう。
『真昼さんがそう言うなら、そこまで彼の事は心配しなくても良いでしょう。まあ、彼女のために走り回ってる事も聞いているので、悪人だとは元々疑ってなかったのですけど』
長く生きていれば人の善し悪しくらいは分かりますもの、と喉を鳴らしてお上品に、そしておかしそうに笑った小雪に、微妙に周の胃がチクリと痛んだが、勝手にコンタクトを取ったのは周の方なのでおくびにも出さずに微笑んでおいた。
そんな周の複雑な気持ちに気付いているのか居ないのか、小雪はただ品のある表情を崩さない。
「……本当に、周くんには感謝してもしきれません。私のために、いっぱい準備してくれて、小雪さんの縁を手繰り寄せてくれて」
「真昼が気にしなくていいんだよ、俺が独断でした事だし」
寧ろひたすらに頭を下げる側なのだが、真昼が喜んでいるという事実は、やはり嬉しいし誇らしい。
手段がまあまあグレーだったので周側が手放しには喜んではならない、というのはあるが。
「折角真昼が生まれた日なんだから、抱えきれないくらい幸せがあった方がいいだろ。成功するかは正直半々だったけど」
迷惑がられたり怒られたり引かれたり嫌われたりするリスクを背負ったのは周自身なので、小雪にも真昼にもあっさり許してもらえたのは幸いだった。
「俺がちょっと走り回るだけで真昼が喜んでくれるなら、そりゃ労力は厭わないというか……真昼だって俺のために色々と頑張ってくれてるんだからさ、ちゃんと俺からもあげたかったんだ。真昼には、もっと笑ってほしいから。今泣かせちゃったけど」
周が言葉を続ける毎に目の縁から綺麗なしずくをこぼしてしまうので、周は慌ててハンカチを手に取って優しく布に吸わせた。
その内このハンカチが泣き出すのではないかと思うくらいには今までの真昼から想像出来ない程瞳から沢山の感情を発露させていて、それだけ真昼の心をよい意味で揺さぶる事が出来た気がした。
「その、喜んでもらえたかな」
「はい、勿論」
泣いてばかりではいられないと言わんばかりに弾けるような、年相応の屈託ない笑みを浮かべた事に安堵したのは、周も小雪も一緒だろう。
『隣の彼の事も、改めて真昼さんから聞きたいですね。お付き合いしているのでしょう?』
「……はい。私が、初めて好きになった人で、一緒に過ごしていて、落ち着いて、胸が温かくなる人です。初めて、取り繕った私もありのままの私も引っくるめて好きになってくれて、私の事を知った上で大切にしてくれる、私とこれから先を見てくれる、歩んでくれる人、です」
真正面、というよりは正面の画面だが、側に真昼が親のように慕う人が居るという状況で、真摯に、嬉しそうに、愛しそうに、周という人柄を褒めて求めてくれる事が、堪らなく照れ臭くて。
それでもやはり真昼がそこまで想ってくれているという事が嬉しい、が強くて、視線は画面に向けたまま自然と隣に居る真昼の手をゆるりと求めると、同じように探っていたらしい真昼の指先と出会う。
どちらからともなく指先から滑るように掌まで触れ合わせて指を絡めると、いつもより随分と暖かくなった体温が、自分の指に溶け込んできた。
『そう、真昼さんにそういう人が出来たならよかった。本当に、よかった』
繋いだ手から信頼も幸福も伝わってくるので勝手に頬が緩んでしまっていたのを見られていたらしく、繋いだ手のひらよりはぬるい、実に生暖かい表情を浮かべる小雪に、紹介された彼氏側としてちょっと、いやかなり気恥ずかしさが戻ってきていた。
小雪は自分の母親のようにからかうつもりはないのかおっとりとした様子は崩さず、ただただ微笑ましそうに見守るだけなのが救いか。
『真昼さんは幼い頃から人よりも色々と聡かったから、人に失望していないか、気にしていたのです。でも、その様子だと杞憂だったみたいですね』
幼い頃から真昼を見てきたからこそ出てくる心配は周も頷けるもので、周的にはよくこんな自分を選んでくれたのだと真昼に聞かれたら怒りそうな事を考えてしまった。
『ちなみに胃袋を掴みましたか?』
「……掴みました?」
「滅茶苦茶鷲掴みにされてます」
『あらあら』
ここは間違いなく即答出来るものなので強く頷くと、小雪のさもありなんと言わんばかりの微笑みで迎えられた。
真昼の料理の腕前は小雪仕込みのものだとよく聞かされていたので、いつも美味しいご飯にありつけている周としては、ここは真昼の源流である小雪に平伏するべきだろうか。
取り敢えず先程とは違う位置で頭を下げようかと思ったら、何故か真昼がぱたぱたと繋いでいない手を振っている。
「あ、で、でも、私に一任しているという訳じゃなくてですね。周くんもお料理しますから! いつも一緒に作ってくれるし、周くん一人で手料理を振る舞ってくれますよ! 当番制というか交代制というか、ちゃんと一緒にその、生活してくれてるというか!」
『ええ、ええ。真昼さんが慌てなくても、よく分かっていますよ。真昼さんの理想的な人なんでしょう?』
「はい!」
瞳を揺らしながらも、はっきりと頷いた真昼は迷いなく続ける。
「小雪さんは昔、ちゃんと私を見てくれる人を選ぶのよ、って言ってくれたじゃないですか」
『ええ、言ったわね』
「やっぱり小雪さんは正しかったと思います。小雪さんが居た時もでしたけど、小雪さんが居なくなってから、色んな人と接して、改めて思ったのです。……私を幸せにしてくれる人は、私を型にはめたり、表面に見えているものだけで判断したり、私の気持ちを蔑ろにしない人なんだなって」
今まで数々の人間に囲まれてきた真昼だからこそ、真昼の対人関係の根底にある基準は他人を尊重出来るか否か、というものになっているのだろう。
当たり前のようでいて難しい、人として大切なもの。
「周くんは、私の気持ちを優先してくれて、理解してくれようとしてくれます。私の中身を見て好きになってくれたし、私の生い立ちを理解して受け入れてくれました。私を尊重してくれて、すごく、幸せです。……ちょっと尊重し過ぎて引け腰になる事はありますけど」
「真昼のためなんですが!」
「し、知ってますけど! ……大切にしてくれているのは、よく理解してます。私を尊重してくれているからこそ、って事くらい」
さり気なくへたれと言われた気がしなくもないが、これは双方で納得した上でのへたれな筈なのだが、何処かに不満があったというのだろうか。
じっと見つめると「ふ、不満とかじゃなくてですね!? もう少しこちらを伺わないで周くんの気持ちを優先してもいいんじゃないかという事でして」と恥ずかしげに付け足す真昼は、何を言っているのか分かっていなさそうで彼氏としては悩ましいものが増えてしまった。
(俺の気持ちを優先したら真昼がオーバーヒートするのが目に見えてるんだけど)
あの時の誓いを破る気は微塵もないが、誓いに抵触しない範囲でなら何をしてもいいと、真昼の言い分を聞いたら思ってしまうではないか。
あまり耐性のない真昼にそういう触れ方を、甘やかし方をしてしまうのはよろしくないのでは、と大真面目に気遣いで真昼を見るのだが、当の真昼は大胆な事を言ってしまったからか頬を染めるだけで周の考えには気付いていないようだった。
『仲睦まじくてよかったです。それはそれとして一緒に生活している、という言葉は気になりますけどね』
咎めるという声音ではなかったもののほんのり呆れが入ったような声質に、真昼が親のように慕っている女性の前でする話ではなかったと頬を引き攣らせた。
「えっ、あ、ち、ちが! 周くんは私のお隣さんというか、同じマンションに住んでいるので! 決して、小雪さんが心配するような事はなにも!」
「誓って、真昼を傷付けるような事はしておりません」
彼女からしてみれば可愛い娘のような存在が見ず知らずの男にいいようにされている、という見方が出来るだろうから、心配になってしまうだろう。
事情を知らなかったらこの年齢で同棲しているのでは、という疑惑を覚えても仕方ない。
迂闊だったと反省しきりなのだが、小雪は先程より困ったような呆れたような、やれやれといった雰囲気でため息を落とした後、真昼に柔らかな視線を向けた。
『私からそのあたりとやかく言えないですが、少なくとも共に過ごす時間が多い上で、今その仲睦まじさならよかった。接する時間が長ければ長い程、お互いの嫌な部分は見えてきますからね』
「い、嫌な部分なんて……その、仮にあったとしても、話し合ってお互い改善していける相手ですので」
同棲していると次第に相手の生活習慣や金銭感覚、衛生観念、常識に倫理観などが見えてきて辟易してくるというのはよく聞く話であるが、ほぼ一緒に過ごしている状態でも周側からは真昼の嫌だな、合わないなという面はほとんど見えない。
強いて言うなら我慢しがちな所と喜んで欲しいがゆえに千歳に吹き込まれて大胆な事をしでかす所だが、前者は素直になってきたので改善されつつあるし、後者は寧ろ千歳側に問題があるのでそっちを一度〆た方がいいだろう。
となると今度は真昼にとっての周の不満になる訳だが、真昼からあまり指摘される事はない。いや、出会った当初は割と遠慮なしに指摘されていたのて、粗方直して欲しい所は直し終わっていた、のかもしれない。
それでもまだ真昼から見て直してほしい部分はあるかもしれないと「嫌な所があれば遠慮なく言ってくれよ? 真昼を困らせたい訳じゃないからさ。お互いに気持ちよく過ごしたいし、直せるなら直すから」と大真面目に告げると、真昼は慌てた様子でぶんぶんと首を振った。
「周くんは寧ろ私に気遣いすぎですし大丈夫ですからね!? 私にとってすごく素敵な人ですからね!?」
「お世辞はいいぞ?」
「……じゃあそういう所です。褒めたらちゃんと受け止めるように直してください」
むす、と唇を分かりやすく尖らせた真昼が周の太ももをぺちぺちと叩くので、これ以上拗ねさせる訳にもいかず「分かったよ、ありがとな」と返して真昼の頬ぎ膨らむのを未然に防いでおいた。
『真昼さんはすっかり心を許しているのですね』
しみじみと呟かれた言葉に視線を画面に戻せば、周達のやり取りを黙って見ていた小雪の視線が周達のじゃれ合いしていた手辺りに向けられているので、ばっちり見られていたのだろう。
流石の真昼も恥ずかしくなったのか肩を縮めて顔を上気させている真昼に、周も迫り上がってくる羞恥が表に出ないように必死に留める事になった。
そんな周と真昼の様子を見て楽しそうに喉を鳴らした小雪は、その笑顔のままゆるりと視線を周の方に傾ける。
『藤宮さんから見て、真昼さんはどうですか』
「どう……」
『ああ、これだと面談みたいになってしまいますね。そうじゃなくて……あなたの目から見た、真昼さんが、知りたいのです』
見定めるような眼差しで柔らかく問いかけられて、周はどう答えたものかとすぐに答えを口にせずにゆっくりと内側で思考を働かせる。
真昼をどう見ているか。
つまり、周にとっての真昼がどんな少女に見えているか、という事だろう。真昼が中身を見て選んでくれたと言った周が本当に真昼の事を理解しているのか、という疑問を晴らすための問いのように思えた。
それも全て真昼のために、というのが小雪の態度から分かる。
その意図を理解した上で、周はどう答えるべきか悩んでいた。
(俺の目から見た真昼)
静かに視線を滑らせて隣に居る真昼を見やれば、どう思われているのか気になるらしくほんのりと期待と不安を孕んだ瞳と視線がぶつかる。
その窺うような眼差しに、周は一切取り繕わない、素直な気持ちを言葉にする事に決めた。
「……結構、強がりで我慢しがちだけど、本当は寂しがりで甘えん坊な子ですね」
これが周の思う真昼の姿だった。
「周くん!?」
「いや、だってその、俺に甘えるの好きそうだから」
「好きですけど! それを小雪さんの前で堂々と言わないでください!」
急に自分の人に見せない姿を暴露された真昼は先程よりも顔を赤く染めてぽこぽこと二の腕を叩くのだが、周は撤回する気など一切なかった。
「基本的に真昼って自分で何でも出来るし他人を内側に入れたくないが故に全部自分でこなそうとするタイプだと思うんです。あんまり人を頼る事が出来なくて、たまに自縄自縛というか自分で課した制限に苦しめられていたというか」
いつだって謙虚で遠慮しがち、自分の事を優先出来ない控えめな真昼は恐らく無意識に迷惑をかけたくない、見放されたくない、という気持ちで周にすら完全に寄りかかる事を避けていたようにも思える。
それが周以外ならより顕著であり、そもそも人を信頼しきれないが故に、いい子であるべきだという無意識での強迫観念が故に、自分の弱い部分を見せる事を厭うあまり、彼女は外で仮面をつけて完璧な少女を装って、その状態を普通に見せかけてすらいた。
それが皆の見ていた「天使様」なのだ。
でも、今の真昼は、違う。
「今は、人を頼る事を覚えてくれたし、寄りかかってくれる事を覚えてくれた、俺を側に置いてくれた。俺を信じてありのままを見せてくれた。これは真昼にとって大きな決断だったと思うし、真昼からの大きな信頼と愛情の証だと思ってます」
取り繕わなくていい、頼っていい、甘えてもいい、そう真昼が信じてくれたからこそ、今の感情豊かで寂しがりで、素直な心で周を求めてくれる真昼が居るのだ。
それが、とても誇らしい。
「俺の前では、いい子で居なくてもいいって、頑張らなくてもいいって、飾り気のない本心で甘えてくれているの、すごく可愛くて……俺も滅茶苦茶甘やかしてしまうというか」
柔らかくもやんわり跳ね返されるような透明な壁を隔てた真昼から、壁も遠慮も全てを取り払って控えめながらも本心から甘えてくれる真昼の移り変わりを見てきたからこそ、素直に甘えてくれる真昼の可愛らしさがより際立って仕方ない。
もちろん普段のしっかり自立した真昼もこちらを駄目駄目にしようと企む小悪魔真昼も言わずもがな可愛いのだが、それとはまた違ったベクトルでの可愛さなのだ。
愛しさのあまりてろてろのとろとろに溶かして溺れさせたいという気持ちが湧かない事もないが、それは真昼の気持ちに反する事でもある。
なので、真昼が望む分を汲み取って甘やかすという制限をかけているのを、真昼は気付いているだろうか。
兎に角真昼は周の言葉を受ける度に羞恥のゲージが溜まっているらしく今は真っ赤な顔でぷるぷる震えて泣きそうになっているのだが、この場合の泣きそう判定はセーフだと信じたい。
「あ、ただ可愛いから甘やかすって訳じゃなくてですね。いつも頑張り屋で努力を惜しまず自分を律している真昼を尊敬して尊重しているからこそ、俺が真昼にとっての安らぎの場になれたらなって事でして。真昼が嫌がるタイミングではしてないです!」
幾ら真昼の事が好きだからと本人の望まない過度な甘やかしは双方のためにならない。周も箍を自ら外すような真似をする訳がないのだ。
一番は真昼が幸せに穏やかに日々を過ごす事が優先なので、これでも手加減しているつもりである。
「ええと、久慈川さんが心配しているような、真昼から何かを奪ったり一方的に要求したり傷付けたりする事は、絶対にしないと誓います。言葉だけじゃ軽く聞こえてしまうかもしれませんけど、破るつもりはないです」
ここで小雪が少しだけ目を丸くした後、感心したようにそっと息を吐く仕草を見せたので、やはり問いかけの意味は合っていたし、彼女が求める答えはこれで良かったのだろう。
「俺にとっての真昼は、愛おしくて大切で俺が幸せにしたい子で、でもその、対等な存在です。一方的な負担を押し付けたり意見を無視したりせずに、お互いによく話し合って、より心地よく過ごしていけるように努力し合える存在というか、お互いがお互いの、幸せな居場所になれたらな、と思ってます。俺と真昼なら、出来ると思ってます」
甘やかす事が好きだし真昼に尽くしたいとも思っているが、真昼はそれを享受するだけの存在になる事は望んでいない。
真昼が望むのは、お互いの良い所も悪い所も受け入れ納得の行く形を変化させていき、お互いを思いやって穏やかに生きて行く事だ。
どちらかが背負い過ぎても駄目。負担を分かち合い、支え合って『二人』で生きて行く事を、望んでいる。
それは、周も全く同じ気持ちだ。
「だから、心配しないでください。俺が、真昼を幸せにします。二人で、幸せになります」
傍から聞けば我ながらクサイ台詞だとは思ったものの、紛れもない本心であり、変わる事のない信念であり、これからも努力し続けるという宣誓の言葉であった。
お互いに敬意を持ち信頼し尊重して、違いを受け入れ苦労を分かち合い支え合う事が共に生きる事であるし、幸せに繋がる事だ。
その幸せになる努力を、周は真昼とならしていけると思ったのだ。
気恥ずかしさが全くなかった訳ではないがこれだけは正確に、素直に伝えたくて、真摯に小雪の目を見つめながら告げた周に、小雪はゆっくりと深呼吸をする素振りを見せた。
心臓の鼓動がいやに早くなってくるのを何処か他人事のように感じながらも小雪の言葉を待っていると、小雪は花が綻ぶようなふわりとした柔和な笑みを浮かべた。
ふっと力が抜けたように、今まであった居住まいを正さざるを得ないような威圧感とも違う雰囲気が霧散して、ひたすらに柔らかな微笑みが内側から滲み出たようだった。
『改めて、真昼さんが選んだ相手に間違いはなかったって思えました』
それは周に聞かせるためのものだったのか、自分に言い聞かせるものだったのか。
分からないが、少なくとも認めてもらったのは確かだろう。
『真昼さんの見る目は信用していましたけど、一応念の為……と探ってすみませんね。もし人間性に問題がありそうなら老体に鞭打ってでも引き剥がしに行こうと思ってたのですが』
一歩間違っていたら結構な騒動に発展しかねなかった事に今気付いて、彼女のお眼鏡に適ってよかったと顔にはおくびにも出さずに安堵した。
人生をかけて幸せにする気満々だった真昼と引き剥がされてはたまったものではないが、そもそも仮に認められなかったら小雪の判定ラインに届かなかった自分の至らなさの方が堪えそうである。
「そ、そんな事しなくて大丈夫ですから! 周くんはいい人ですし、ご両親もとても素敵な人で……!」
『まあ、もうご両親にご挨拶済みと』
この人実は志保子のように割と都合の良い言葉を拾ってくるタイプだな、と少しだけ思ってしまった。志保子とは性格が勿論違うのだが、割と強かな人なのではないだろうか。
『いいですね、自分を大切にしてくれる人を確保して外堀を埋めておくのは大切ですよ。今時貴重な人材ですからね』
「う……ううっ、小雪さんそういう所明け透け過ぎというか、言い方がよくないのです。そういうつもりじゃ……」
「すみません、どちらかといえば俺が外堀掘ったかもしれません」
「周くん!?」
「というか母さんが半分は掘りまくったというか……こんなに可愛くて礼儀正しくて滅茶苦茶いい子を娘にする機会を逃してたまるかって気合だった気がする」
思い返してみれば、志保子は周が真昼に惚れる前から意気揚々と周囲の埋め立て作業に精を出していた気がしてならない。恐るべき嗅覚と察知能力と言えばいいのか、猪突猛進と言えばいいのか。
あの押しっぷりに余計な事を、と思った事がないとは言わないが、結果として真昼と結ばれた一因に両親の存在もあるので、迷惑だとも言い切れなかった。それはそれとして自分で事を進めたかった周としては余計なお世話だとも言ってやりたい気持ちはあるが。
「……それを言われたら後半は私がショベルカー貸し出した事になっちゃう気がします」
「え?」
「いえなんでも」
真昼は小さな声で周を補足する口ぶりで何かを言ったのだが、脳内の志保子に多少文句を言っていた周は聞き取れず聞き返す。
しかしもう言う気がないらしい真昼は、ぷいっとそっぽを向いた。
これは真昼が何かを隠したい時に使う素振りなのだが、無理に聞き出すつもりはないのでまたいつか彼女が話してくれるのを待つしかないだろう。
どうやらマイクが真昼の言葉を拾っていたらしくきっちり聞いたらしい小雪は、それはそれは愉快そうに、しかし隠しきれない品を滲ませた笑みで『それはそれは』と真昼に相槌を一度打って流した。
『見ている限り心配する必要はなかったですね。私も耄碌したものというか……要らぬ警戒とお節介をしてしまいました』
反省するように瞳を伏せた小雪は、慌てたような真昼を視線だけで留まらせている。
『これでずっと胸にあったつかえが取れました。私はもう無闇に首を突っ込んでいい立場ではないですから、心配していたのです。真昼さんの行く先を』
あ、と小さな声が、隣から聞こえた。
『でも、もう大丈夫ね。今の様子なら、あなたに任せてもいいと思えました。一度離れた上に部外者な私が言っても何様だ、って思われるかもしれませんけど、真昼さんを見守ってきた一人の大人として、そう思ったのです』
どこまでも、小雪は真昼のためを思って周を試してきていた。そんな事は、周にも分かる。
小さい頃から真昼が孤独に苛まれないように側に居て、真昼が他者に損なわれないように正しく教育を施し、真昼が将来に困らないように自らを磨かせ、誰かに心を寄せる事が出来るように、人に失望しきらないように沢山の愛情を持って接して。
そしてそれ程までに心を砕いて大切にしてきた真昼を、周に託してもいいと、思ってくれたのだ。
『次は二人一緒にこちらを訪ねてくださいな、私の息子夫婦にも紹介したいですから。もう一人の可愛い子供と彼氏さんだって。あ、息子は私に子供が一人二人増えたくらいじゃ嫉妬したりしないから安心してくださいね』
子供、という言葉に真昼が耐えきれなくなったのか、一度収まった涙がまたとめどなく生み出されていく。
今までの人生で流す筈だった分を今ここで消費しているかのように、脆い部分が剥がれていくように、微かな嗚咽を響かせながら真昼は涙を堪える事なく泣いた。
そんな姿を見て、小雪はひたすら自愛に満ちた温かく包み込むような笑顔をたたえて、周と共に静かに真昼が自分で感情の波を乗りこなすのを待った。
『うふふ、私はまだ結婚は認めませんよ。通話でなくて、この目で直接どんな殿方なのか確かめないといけませんから』
真昼が落ち着いて来た頃合いを見計らって、茶目っ気たっぷりにわざとらしく告げて周は思い切り咳き込みかけた。
唇をわなわなと震わせて小雪に言葉を返そうとしたが、つまりそういう事なのだろう、と言わんばかりに意味ありげな眼差しを投げられては、周も反論は全く出来ないのでただ唇を波打たせる事しか出来ない。
(やっぱり根幹がうちの母さんに似てる!)
志保子と混ぜたら危険その二(一は千歳)になりかねない事に戦慄したものの、追撃はしてこない辺りは志保子や千歳よりも優しさがあった。
周が強く出られない事について察しているらしい小雪の小さな笑い声を受け取った所で、小雪は改めて真昼に向き直るように背筋を伸ばして、誰が見ても母性を感じるような、愛し子を見つめる時そのものの表情を見せた。
『だから、遠慮なく二人でいらっしゃい。歓迎しますから』
「……はい!」
「ありがとうございます」
まるで実家への挨拶を約束したようで、擽ったさと共に緩やかな湧き上がって来る歓喜と安堵に口元を綻ばせた周と、嬉しさ故か枯れたと思っていたが一滴を瞳から落とした真昼を、小雪は美しい微笑みで迎えた。
『あ、真昼さんを泣かせたら承知しませんので』
「……今のは俺が泣かせた訳ではないですが?」
『あら、それは……ふふ、セーフにしてくださいな』
そこはお茶目に笑ってみせた小雪に、周も真昼も顔を合わせて堪えきれなかった笑い顔を浮かべる。
『嬉し泣きならどんどんさせてあげてください。真昼さんは幸せにあまり慣れていないように思えますから、今までの分を取り返せるようにお願いしますね』
「では遠慮なく。これからも嬉し泣きさせられるように頑張る所存です」
「ちょ、周くん」
何を言うのか、と慌てたような真昼だが、周は撤回するつもりなど毛頭ない。
悲しみや怒りで泣かせるのは言語道断であるが、喜びの涙はまた別だ。涙は心から溢れてしまった感情で、その感情が正のものであるならば、喜びに起因するものであるならば、厭うものではないだろう。
今まで彼女がその機会を得てこなかった分、周がたくさん、色々な喜びに連れ回したとて誰も文句は言えないだろう。その涙を周が独り占めしても、文句は言えないだろう。
『じゃあ任せましたよ。……彼にたくさん幸せにしてもらって、次に会う時のお土産話にしてくださいね。楽しみにしていますよ』
周の返答は小雪を満足させるのに十分だったのだろう、明るい表情でにっこりと、二人を慈しむように深く柔らかな視線でなぞる。
それは、在りし日に志保子から受けたような眼差しだった。
『では、また。これからも真昼さんが健やかに幸せに過ごせますように』
一点の曇りもない、澄んだ声で真昼のこれからを祈った小雪は、少し名残惜しげに感動に震えた真昼を視線で一撫でして画面を暗転させた。
音もなく色が消えた画面は、周達の姿と部屋の飾り付けを反射させるだけ。あっさりとしたお別れだったが、周の胸には確かに残る、温かい余韻で満たされていた。
それはきっと真昼も同じで、暫くその余韻に浸るように、どこか呆けたように真昼にとっての幸せを映していた画面を見続けていたが……やがて、ゆっくりと周の方に体を傾けた。
二の腕と肩に寄り添うようで甘えるようにもたれてきた真昼は、そのまま静かに一度深呼吸する。
艷やかな髪が胸の上下に合わせてさらりと肩から流れ落ちるのを見ながら、周は真昼が自分の内側で言葉を整理し終わるまで待っていた。
「……周くん」
「うん」
小さな、呼び声。
「……何言っていいのか、分からないというか、本当に、嬉しくておかしくなりそうです。……こんな日が来るなんて、思ってもみませんでした」
きっと、心の奥底で望んでいたのだろう。小雪と家族のように接する事を。
けれど実行するには押し切るだけの意思が持ちきれなかった。
真昼はいつだって他人を優先しがちで、もっと言うならば臆病で。
連絡を取る手段も、声を聞く手段も、顔を合わせる手段も、幾つも思いついただろうに――それを形にしなかった、出来なかったのは、真昼が小雪に拒まれる事を恐れて無意識にセーブしていたからではないか、と思うのだ。
その恐れや不安をかき乱してしまった事は今でも反省する事ではあるのだが、周は小雪とコンタクトを取った事は、後悔など一ミクロンもしない。
何故なら、全てを終えた真昼は、こんなにも満たされたような表情をしているのだから。
「……少しは幸せになれた?」
答えを分かって聞いているのだから自分でも性格が悪いと自覚はあるのだが、どうしてもこの答えが聞きたかった。
自己満足でも、愛しい彼女に幸せを齎せたのか、その答え合わせがしたかった。
「勿論。その、嬉しくてたまらないし、幸せで、頭がふわふわするし、どきどきもする……でも、これが終わると思うと切なくて。情緒がおかしくなってる自覚は、あります」
「うん、いっぱいあったからな、少しずつ飲み込んでいこうな」
いつもより幼さの強い声音でとつとつと、周に聞かせるというよりは自分の中で生まれた感情を整理するように呟く真昼に、周は急かす事なく相槌を打った。
まだまだ訪れた感情の波を乗りこなせていないらしい真昼は、肩にもたれかかっていた体勢から、周の腕にくっつくように、自分の腕を絡ませて周の二の腕に顔を寄せている。
ぐりぐり、と額が押し付けられて溜まっているらしい衝動を発散している真昼に小さく喉を鳴らして笑い、余った片手を伸ばして乱れた亜麻色の川を指先で整えた。
「……大丈夫、この幸せはなくなったりしないし、ゆっくり、味わってくれたらいいんだ。今日真昼が嬉しかった事、ちゃんと一緒に記憶していこうな」
「……はい」
「今日が、いつの日か思い出した時に、幸せだったなって笑って振り返られる日だったらいいな」
願わくば、沢山ある幸せの思い出の一つになってほしい。
これから数多くの幸せを真昼と共に感じていきたいし、実際真昼を幸せにするつもりであるから、今日というこの日だけ幸せでなく、日々ある幸せの一つとして、幸せだったと思いだしてもらえたら、嬉しい。
「……ほら、まだ誕生日は終わってないぞ?」
「もう満たされて、お腹いっぱいになりそうです」
「そうか、困ったなあ。ケーキまだあるんだが……」
どんな意味でお腹いっぱいなのかは分かっていたが敢えておちゃらけたように残念そうな顔で呟くと、真昼はもじもじとした様子で、甘えるように周の腕に額を押し付けた。
「……周くんが食べさせてくれるなら、もうちょっと、食べますよ」
「ん、真昼がして欲しいなら幾らでも」
こちらを控えめながらも期待するように見上げた真昼は、彼女なりに色々と周に甘えてみせたのだろう。
それを受け止められない程器も小さくないので、真昼が望むなら何でも叶えるとばかりに優しく頭を撫でると、真昼はこそばゆそうにゆったりと瞳を細めた。
「幾らでもは食べ切れないので、周くんにもしてあげますね」
「うん、ありがとな。……来年は、もう一個小さいサイズで作るようにするから。そしたら、無理なく二人で食べ切れるだろ」
「来年も……」
来年、という単語に、思いを馳せたように消え入るような声で来年という言葉を反芻した真昼は、きっと遠くない未来を、周と居る所を想像してくれたのだろう。
ぽうっと暗がりから灯りが浮き上がるように淡くもはっきりと頬を色付かせた真昼は、窺うようにこちらを見上げた。
その瞳は、隠しきれない期待を孕んでいて。
これから先を楽しみにしてくれた事を、誕生日という日を厭う様子を見せなかった事を、誕生日という日を心待ちにした様子を見せてくれた事を、周はその表情から噛み締めて、心の底から湧き上がってきた喜びをそのまま表情に乗せた。
「そう、来年も。楽しみになったか?」
「はい」
「よかった。俺も来年が楽しみ」
真昼と過ごすこれからの日々も、真昼をこの手で幸せに出来る喜びも、真昼が周を信頼して期待してくれている高揚感も、全てが周にとっての楽しみであり喜びであり幸福なのだ。
きっとそれは、真昼にとっても同じものだ、という確信が、今なら持てる。
「……生まれてきてくれて、本当にありがとう。俺を好きになってくれて、ありがとうな。幸せにするから」
真昼に聞かせる訳ではなく勝手にこぼれ出た言葉だったが、真昼の耳には完全な形で届いていたらしい。
真昼は琥珀を思わせるような艷やかな瞳を落とさんばかりに見開いた後、へにゃりとふやけて溶けそうな甘い笑みを浮かべて、周に身を委ねるように力を抜いた。