272 周囲の進路先
翌朝、周が教室に入ると樹は朝から微妙な機嫌なのが丸わかりの顔付きで自席に座っていた。
どちらかといえば周の方が先に学校に着きがちなのだが今日はやけに早く家を出てきたらしい、外の寒さを忘れた顔色な事を見るに早くに家を飛び出して来たのではないか。
恐らく、周の後の時間にあったらしい三者面談で一悶着あったのだろう。
「おはよ。なんか湿気た顔してるな」
「おはよう。開口一番それ?」
あくまでいつも通りに軽く挨拶すると、樹は窓の外に投げていた視線を周に向けて、呆れたように笑っている。
その態度から周の予想は確信に至り、周はいつものように変わらない顔で 「顔に出てたからなあ」と肩を竦めてみせた。
「三者面談どうだった」
「え、それ聞きたい?」
「聞きたいっていうか、腫れ物触るみたいな態度取ったり聞かないでいたりしたら、それはそれでお前が複雑な気持ちにならないか? 気を使われてるんじゃないかってもやもやするだろ」
「そこ理解されるのが複雑なんだけど」
「それは諦めてくれ」
樹は中途半端に遠慮するくらいなら堂々とぶつかってこいというタイプなので、変な気遣いの方が樹に刺さるだろう。
それなら多少不躾でも正面から問いかけた方が彼の心情的にはよい気がしての言葉だったが、樹の少しホッとしたような眼差しからそれは間違いではなかったのだと察せた。
「まあ、なんつーか、平行線だったよ。やっぱどうしてもここに行って欲しいっていう思惑はあるらしいからオレと意見が合う事はないんだよなあ。勝手に入試に向けて履修科目決めてたら怒られたわ」
「あー」
周も割と似たような事をしているが、全体的に周のやる事を肯定してくれる両親と樹を留めようとする大輝だと結果が正反対になっていて、周はちょっと申し訳ない気持ちになっていた。
「まあもう提出しちゃったし」
「開き直ったな」
「開き直るしかないんだよなあ。弱気で居たら親父に強制されるんだから堂々と全力でゴリ押しするつもりというか、もう力押ししかない」
不貞腐れというよりは開き直りの方向に至った樹は「ほんとに困ったもんだ」とため息をつきつつも前向きな輝きを伴った瞳を見せてくれた。
「幸い母さんは『ほら見た事か、跳ねっ返りに強制しても無駄無駄』『私言ったじゃない、あんまり無理強いすると爆発して指示もアドバイスも受け付けなくなるって』『あなたもいい加減諦めなさい』と親父に諭す側に回ってたからいけるいける」
「お前の母さん本当に強烈だよな」
「我が強いというかこざっぱりというかきっぱりというか、とにかく物事をはっきりと言うし筋を通さない事が嫌いというか」
周が見聞きしてきたどの母親よりはっきりした物言いをする女性だな、というのが周の感想であるが、子供の樹からしても同じだったのだろう。
「うちはうちで普通の親とは多分違うとは思うんだよなあ、母さんはオレの進路に興味が全くない訳じゃないんだけど超絶放任というか。やりたい事やるなら好きにすればいいって一任してくれるっていうか」
「まあ認めてくれてるみたいだから樹的にはいい事なんじゃないかな」
「代わりに『絶対に受かるように努力しなさい。自分で言い出した事なのだから後から甘ったれるんじゃないよ、自分の発言には責任を持って行動なさい』とも言われてるけど」
「……ま、まあ認めてくれてるんだからいいんじゃないかなあ」
結構な言い方してるな、とは思うが、樹に発破をかける目的もありそうなので周にはとやかく言えるものではなかった。
「それはそう。オレが頑張ればいいだけの話だし」
「お互いに頑張るしかないんだよなあ」
結局の所、努力するしかないという事なのは確かで揺るぎないので、来年受験生となる者同士決意し合うしかないのだ。
「周ももう決まってそこに打ち込むんだろ?」
「一応な。俺は明確にやりたい仕事とかはないけど、学びたい分野はあるし、ちゃんと自立出来るようにはなりたいからな。やりたい事はあとで見つけるし、仮にそれを職に出来ないなら趣味でやればいいしって思って」
「そういうの決まってるならいいじゃん。つーかお前的には椎名さんと過ごすためってのが結構な原動力になってそう」
「うるせ」
「へへへ、大学ではもう同棲してたりして」
「あのなあ」
一度元気になったらからかいに走り出す樹に頬の筋肉がひくりと強張りを覚え始めた時「樹はあんまりそういう風にからかうとそのうち藤宮からしっぺ返し食らうぞ」なんて穏やかな声が通り抜けた。
声の方向に体を向けると、いつも通り安定した柔和な表情の門脇が背負っていたリュックを下ろしている姿が視界に映った。
「優太か。はよ」
「二人共おはよ」
「おはよう」
相変わらず落ち着いた門脇は樹を嗜めるように「程々にね」と注意を一つ落として、自席にリュックをかけてからこちらに戻ってきた。
「結局何でそんな話になってたの?」
「あー、三者面談の話してたからかな。将来どうするのか、って話から何故かこいつが余計なお世話を」
「余計なお世話とかひどくない!?」
「樹は藤宮をからかう事に余念がないからなあ、その言葉は妥当だと思う」
「優太はオレの味方する気ないな?」
「うん」
けろっと、さも当然のように頷いた門脇に、大袈裟にショックを受けたようによろめく樹だったが、それがわざとなのも分かっているので周と門脇は受け流して視線を合わせた。
「みんなやっぱ三者面談の事でざわついてるねえ」
「そうだな。やっぱ受験が明確に近付いてきてるって感じあるもんな」
「さり気なくひどいなお前ら」
すぐに打ちひしがれた状態の振りから回復した樹がほんのり恨みがましげに声を向けつつも怒りは全くない様子で、周達の会話に参加する態勢を取っている。
これもじゃれ合いだと三人で分かっているからこそのやり取りであるので、少し離れた場所で「いっくん、実はああいう立ち回り好きでやってるよね」「その節はちょっとありますよね」なんて言っている千歳達は樹に聞こえないように言ってあげてほしかった。
「門脇は三者面談明後日だっけ」
「うん。姉さん達が居ない日で心から良かったと思ってるよ」
「ついてきたがりそー」
「あはは……断固拒否だよ流石に」
周は門脇の姉達に直接お目にかかった事はないのだが人伝にその強烈な人柄は教えてもらっているので、優太も大変だなと一人っ子の周としては同情してしまった。
「門脇は進路もう決めてるのか?」
「うん、一応スポーツ推薦狙いつつ駄目なら一般で受けるよ」
「優太は大会で結果残してるからなあ……全然あり得るんだよな」
この二年生時点でも門脇は大会で結果を残しているらしく式典で壇上に上がっているのを何度も見てきたので、その枠を狙いに行ける人材である事は周も疑っていない。
そもそも元々門脇自身スポーツだけでなく成績も良いので、選択の余地は沢山あるだろう。
「そうだといいんだけどねえ。俺くらいは割と居るからさ。まだまだ精進しなきゃなって思うよ」
「何か優太そこは卑屈だよな」
「卑屈は藤宮の専売特許では?」
「おい」
「ふふ、冗談だよ」
「優太にまで卑屈だと思われてやんの」
「うっせうっせ」
自分が卑屈だった事は認めるが、今は大分自信を持っているので、たまに自信がなくなっても自分で今卑屈になっているな、と自覚して前向きに考える事が出来るくらいには自分を磨いてきたし、色々と乗り越えてきた。
このからかいも可愛いじゃれ合いみたいなものなので、周はわざとらしくムッとした表情を作るに留めておいた。
「俺がまだまだだってのは単なる事実だからね。自分の磨き甲斐があるし、伸び代があるって監督も言ってるから。勉強と合わせて頑張らないとなーって」
「陸上部のエースは努力家だなあ」
「努力しないとエースの座なんてあっという間に取られちゃうからね。引退まで俺は譲るつもりはないし、部長として胸を張って部員達を引っ張っていきたいからね」
「あーそっか部長か……大変だな」
夏休みが終わった段階で門脇は部長に就任していた事を思い出して彼もより忙しそうで大変だなとしみじみする周に門脇はそんな素振りは見せず「まあみんなしっかりしてるから俺がやる事はあんまりないんだけどね」と何の気負いもなく言ってのけた。
「副部長は一哉だし、監督も居るからね。頼もしい部員達ばかりで助かってるよ、俺が何もしてなくて申し訳ないくらいだ」
「しっかり部長の背中見て育ってんだろうなあ」
「な」
「褒めても何も出ないよ?」
「ここは照れを引き出そうと思って」
にっ、とからかいに走る樹に門脇は動揺した様子など一切見せず、同じようににっこりと、樹を見つめる。
「ふーん? じゃあ俺も樹の照れを引き出そっかな。そうだ藤宮、こないだ樹が」
「すみません許してください」
掌返しが早い、と思わず呆れてしまったが、あまりにも樹が平謝りするので余程何か知られてはいけない事を樹はしたのだと察した。
ただその内容は残念な事に聞く前に遮られてしまったので分からないが、とりあえず樹にとっての弱みになり得るものなのは確かだろう。
「何をしたんだ、若しくは何をしようとしたんだお前」
「何でもないです聞くな」
「あはは。樹が視線で許してくれと懇願してるからやめておくよ」
「一番樹に強いのは門脇だった……?」
けらけらとした軽やかな笑みでも全く嫌味なものに見えない優太に、確かにこれは強いなと確信した周は、これからはちょっと樹への牽制に使えそうだな、なんて本人が知ったら渋い顔をしそうな事を考えながら底知れぬ笑みを見せる門脇を眺めるのであった。