269 将来に向けての面談
「三者面談なあ」
樹や千歳が最大限遠回りにさり気なく真昼へリサーチをしてくれているのを感謝しつつ、周はバイトに勤しみながらもなるべく真昼に見つからないように少しずつ誕生日に向けて準備していた。
そんなある日、生徒にとってあまり嬉しくない通知が記された紙が配られた。
文化祭を過ぎたあたりで保護者へのスケジュール確認や再度の進路希望調査が行われていたのだが、やはりというか十一月ともなればそろそろ本格的に受験に向けた受験生側と学校側とのすり合わせが必要になってくる。
今回は改めて親同伴で進路希望を確認して学力や生活態度を合わせた相談になってくるだろう。
さらっと用紙を眺めて確認すれば、周は割と最初のあたりの面談になっているので、早めに志保子に伝えた方がいいだろう。
三者面談が予定されていた期間付近は仕事も融通を効かせられるという事で最初から志保子が来る事になっている。ちゃんと遠方から予定を合わせてきてくれる事に感謝しているものの、正直気は進まなかった。
(喜々として来そうだ)
基本的に息子、というか真昼を可愛がりたいし構いたい志保子にとって、こちらにくる予定があるなら諸手を挙げて喜び意気揚々とやってくるのが用意に想像出来た。
「うえ、母さんが出られるタイミングじゃないから親父に頼まないといけないやつだ。最悪」
そしてそれとは全く別の理由で面倒臭そう、というより嫌悪感すら滲ませながらお知らせの用紙を照明に透かしながらげんなりとした様子を見せているのが樹だ。
ホームルームが終わって解散になっても席に残って渋い顔をしていたのだから、余程嫌なのだろう。
あまりにも分かりやすく顔に『嫌』の文字が描かれているので、周はそこまでの拒否感もないので眉を下げて笑う事しか出来ない。
「お前ほんと大輝さんの事になると拒否感強いな」
「今回は仕方ないだろ、三者面談後にネチネチ言われるの目に見えてるから。やれ成績がどうの素行がどうの志望校はこっちにしろだの」
周にとっての大輝と樹にとっての大輝は、あまりにも抱いている感情や見える人柄が違うので同意出来ないものの、樹にとっての大輝はそういう存在なのだと受け入れるしかない。
千歳も側に寄ってきて「うーん」とほんのり困った様子を見せている。
。
「私はおかーさん来る予定だからなあ。お洒落張り切りそう」
「うちも母さんだな……というか何で保護者達があんな気合い入れるんだろうな。戦装束か何かのようにキメてる人居るよな」
部屋着は流石に気を抜きすぎだとしても如何にもやる気満々ですよ、といった服装をされても隣を歩く子供としてはやりにくいものがあるし、あまりに見慣れない姿に居たたまれなくなる事もある。
「そりゃ実質戦みたいなもんなんじゃない? 子供達がそもそも熾烈な争いに身を投じる訳だし」
「受験は戦なのはまあ分かるけど」
「それにやっぱ見栄は張りたいもんなんだと思うよー。学校で同級生達に見られる事だってある訳だし、並んだ時にあれこれ言われるのってこう、子供心的に嫌じゃん? 子供と自分が恥かかないように、ってのはあると思う」
「まあそれなら分かるけど……母さんすげえやる気満々で来そう」
「あはは、何となく想像出来るかも」
「普通にしてくれ普通に……」
TPOを弁えた服装をしてくれる事は確かだが、真昼に会う機会が出来る事、息子の将来のための相談である事、周の父親である修斗の母校である事、という要素を足していくと、どう考えても気合いを入れるという結論にたどり着いてしまうのが悲しい所である。
想像するとちょっとげんなりしてしまったので、周は一旦志保子の事は忘れる事にして、今は此処に居ない真昼が使っている席をちらりと覗き見る。
真昼は図書館に用事があるからと席を外しているが、今この会話を聞いていたら心がざわついていたであろうから、居なくて助かった、とすら思ってしまう。
(……迂闊に触れられないんだよな、こういうのは)
真昼の両親がこういった場に姿を現したと聞いた事はない。もし訪れていたなら誰かしら目撃して話題になっていたであろうから、十中八九来た事はないと予想している。
そもそも、真昼が三者面談の事を伝えているかすら、怪しい。
彼女の両親に対する感情、そして両親側からの真昼への感情から思うに、情報の一つすら与えない事を選びそうなのだ。
もしかしたら、父親である朝陽は伝えたら来る、のかもしれないが、真昼が拒む事も予想される。真昼にとっては朝陽の存在と干渉が今更だと切って捨てるもののようで、やはり伝えない事を選びそうなのだ。
「ま、怒られそうだから考えるのはやめにしよ! それよりお 代官様、例の件ちょいちょい聞き出して来ましたよーへっへっへ」
空気を切り替えるように明るい声を上げた千歳が徐々に声を小さくしながら企んだようなにやけ顔を見せるので、周は「顔、顔」と突っ込みを入れつつ内心で真昼が帰ってくる前に話が変わった事に安堵して、千歳の手にしたメモを覗き込んだ。
元々ある程度の希望を取られていたので、三者面談の日は思ったよりも早くやってきた。
三者面談は放課後に行われるので志保子にも放課後の指定された時間前に来てもらう事になっているのだが、来賓用玄関に立っている姿を遠目に見た瞬間に「あ、これまあまあ気合入ってるな」と察してしまった。
基本的に志保子は黙っていれば優しげでおっとりした女性に見えるのだが、今日はその柔らかさより凛々しさを優先したパンツスーツとメイクになっている。どちらかといえば仕事に向かう時の志保子をより凛々しくした形だろう。
パリッとした、居住まいが正されるような、普段の志保子からは想像出来ないくらいに近寄りがたい硬質な雰囲気が漂っている。
自分の親ながら無駄に若く年齢不詳感が出ている立ち姿であり、通りかかった部活で残っていた生徒や同じ時間帯の面談の生徒達からチラチラと視線を受けていて、周としては非常に近寄りにくい状態になっていた。
ただあまり躊躇していても面談の時間は変更出来るものではないので、意を決して「母さん」と声をかけると、ぱっと明るい笑顔が浮かんだ。
「あらー周、大体一ヶ月ぶりかしら。元気にしてるようで何よりだわ」
笑うと先程の表情も雰囲気も吹っ飛んでしまうのが、志保子らしかった。
つい脱力してしまう周が面白かったのか「あらあら、母親に会えて嬉しくて力抜けちゃったのかしら」ととんでもない事を言い出したので「んな訳ないだろ」と半眼を向けておく。
当たり前ではあるのだがしっかり気合を入れてめかし込んでも中身は一切変わっていないらしく、ころころと軽やかに鈴を転がしたような笑い声を上げた志保子は、ゆったりとした動作で廊下を歩き出した。
まだ予定している面談時間よりも大分早い上に校舎の構造なんてほぼほぼ分かっていなさそうな志保子が移動したのは、周が適度に案内してくれると分かっているからだろう。
ため息をついて志保子の背を追えば、すぐに追いつける距離だった。
「周ってば用がないとあなたから連絡寄越さないんだもの、困っちゃうわ」
「用がない限り連絡取る事あるのか……?」
「えー雑談に付き合ってくれてもいいじゃない」
「母さんのはかなりどうでもいい事ばっかな気がするんだけど」
「雑談なんだからそんなものでしょ。コミュニケーションを取る事の方がメインだし?」
「程々にしてくれ。あと裏で真昼に写真を横流しにするのもやめろ」
「えー」
「えーじゃない」
一度叱ったというのにそれでもこっそり、しれっと真昼の手元に流れている写真があるので、流石にもう一度きっぱり断っておかねばならない。
「じゃあ周と真昼ちゃんと私でグループ作って共有するわね、これでこそこそしてないわ」
「俺の意思!」
「冗談よ」
全然冗談に聞こえない冗談を平然と言ってのけた志保子に思い切り顔を顰めたら志保子が「あら若い内からそんな顔してたら将来の顔に出ちゃうわよ」と宣ったので、取り敢えず歳を重ねた時に異様に皺が顔に出てきたら志保子のせいにしようと決めた周だった。
「それで、ちゃんと学業は頑張ってるのよね?」
ようやく顔から皺が取り除かれた頃を見計らって、志保子はフランクな調子は変わらずに問いかけた。
「今までの成績表見れば分かると思うんだけど」
周は基本的にテストや順位表、通知表といった類のものは全て両親の元に送っているし、一切隠していないので志保子が知らない訳がない。
「まあそれはそうだけど、やっぱり本人視点と先生視点でまた見る所が違うのも事実だからねえ。本人からもどうかは聞いておいた方がいいじゃない?」
「……俺なりに頑張ってるつもり。少なくとも努力を欠かした覚えはない。自分に恥じないような生き方をしてる……とまでは言えないかもしれないけど、そう在ろうと努力はしてる」
一年生の頃は、元々真面目な気質の自覚はあったし成績は程々によかったものの、目的もなくただ成績の維持を望まれたから頑張っていただけ。特にやりたい事もやるべき事もなく、学生はそういうものだから、と勉強していただけだった。
二年生になってからだろう、意識が変わったのは。
真昼の隣に立っても真昼が貶されないように、そして自分で自分に誇りを持てるように、これから先のために、周は確固たる意思を持って努力するようになった。
心の在り方が変わった、と言ってもいいのかもしれない。
ただ何となくで成績を維持するのではなくて、自分のために明確に努力出来るようになった事が、一番の変化、と言えるのではなかろうか。
動機や気持ちが前向きになった事でやる気も変わったし、今年度の成績は今の所一年生の頃よりもより評定が高くなっている。学年末の評価もこの調子で行けばかなりよいものになる予想をしており、それがより自分へのやる気を引き出していた。
「うんまあ知ってるんだけどね」
「あのさあ……」
「周は一度決めた事はちゃんとやり遂げる人でしょ」
そうだと微塵も疑っていない、真っ直ぐな言葉は、続けようとしていた周の不満を押し止めるには十分だった。
「私の息子だもの、この十七年間よく見てきて分かっているわよ。あなたはそういう所ストイックだし、今まで本気で取り組んだ事は何かしら成果を出してきたでしょう。それに」
「それに?」
「真昼ちゃんが居るのにいい加減な事出来ないでしょう? 男の子って格好つけたがりだもの」
ほんのりと茶目っ気を含めたいたずらっぽい笑みでウインクしてみせる志保子に、周はきゅっと唇を結んでそっぽを向いた。
「うるさい。ほら母さん、時間近付いてるから行くぞ」
「あらあら」
図星なのかしらねえ、と余計な言葉が付け足された気がするものの周はそのあたりを全て無視して、おかしそうに笑う志保子を先導するように先程よりも歩みを早めた。
三者面談自体は元々十分から十五分程度の短時間が予定されていたのもあるが、随分とあっさり解放された。
周自体の素行が優等生側で通っている事と成績に問題ない事、そして志願している大学の偏差値と今の偏差値に大幅な差がない事も相まって、話が非常にスピーディーに進んでいったのだ。
三年生になる前、つまり受験に向けた二年生最後の三者面談のため時間がもっとかかったり話し込んだりするかと思いきや、最早担任と周、志保子の意思確認くらいのものだったので拍子抜けもいい所である。
礼をして面談室を出て少し歩いた所で、志保子は先程までのしっかりした母親の仮面を脱ぎ捨てていつもの軽やかな笑顔を浮かべていた。
一応母親として構えていたというのもあるだろうが、担任から伝え聞いた評価がよかったのでより安心したのだろう。
「お疲れ様。先生の目から見ても学校でよくしているようで何よりだわ。まあ心配とかはしてなかったんだけど、先生から改めて聞くと思ったより頑張ってて嬉しくなっちゃうわね」
「学業頑張る事がそもそも一人暮らしの条件だったろ」
モチベーションは一年生時と二年生時で天と地程差があるが、成績自体は一年生時でも充分なものは取っていた。
ここまで来て連れ戻されるとは全く思っていなかったが、交わした約束は約束なのでそこは文句の出ないようにするのが筋というものだろう。
「あー、あれはああ言っておいた方がある程度気が引き締まると思って。言わなくてもするとは思ってたけどね? 周、何だかんだ真面目さんだったもの」
「普段が真面目じゃないみたいな言い方」
「あらー、普段から真面目だけど、こう、平坦で淡々としたタイプの継続努力からね。パッと見だとやる気を一目では把握しにくかったっていうか。今はポジティブに一つの目標じゃ飽き足らず次々目標を見つけて掴んでいく感じの真面目さんになったというか? パワーアップ? いい事だと思うわよ」
「……そりゃどうも」
「一年時より成績もぐんと伸びてるみたいだし、私としては文句付ける所はないかな。やる気スイッチも側に居るみたいだし」
「別に真昼のためとかじゃないからな。自分のためだ。まあ、真昼を見てると俺も頑張らなきゃと燃えるというか火がつくのも事実だけど」
どちらかと言えば真面目な自覚はあるが真昼相手となると比較するのもおこがましいくらいにストイックさに違いがある。
周は真昼程自分を律した人を見た事がないし、評判に違わぬ能力を裏打ちする努力も尋常ではない事を知っている。
彼女は既に高校で習う範囲を粗方学習し終えて受験に向けての勉強と基礎固めに移っているのだから、その努力は計り知れない物だろう。
本人曰く「楽をするための努力は割と苦じゃないんですよね」なんてあっさりした態度なので無理しすぎていないか周が心配になる程だ。
そんな真昼の側に居るからこそ余計に触発されると言えばよいか。
真昼が頑張っているのに自分だけ程々で妥協する甘さが嫌になってくるので、自然と真昼につられて自分磨きも兼ねてより学習に取り組むようになったのだ。
「お互いに切磋琢磨し合える仲というのもいいわね。色んな意味で熱々だわ」
「あのさあ」
「やーね、睨まないでちょうだい。褒めてるのよ、褒めてるの。真昼ちゃんと仲睦まじいならいいじゃない、何が不満なの」
「母さんの俺への認識とちょっかいかける所」
どちらかといえば周はこの年代にしては珍しく母親との仲は至って良好な方であるが、全く不満がない訳ではない。
(母さんは余計な事を付け足すのがなあ)
わざとなのか天然なのか、はたまた是が非でも真昼を娘にするつもりなのか。
いずれかどれか、もしくはその全てのせいか、志保子は真昼に関わる事になると周を急かすというか火をつけようとわざとからかう節がある。
「まあ。ひどいわ、ちょっとしたコミュニケーションなのに」
「嫌がってる事をし続けるのはコミュニケーションじゃありません」
「分かった分かった、私が悪かったわ」
と言いつつあまり悪びれた様子はないので、周は顰めっ面をした後にこれみよがしにため息をついてほんのりと罪悪感を与える事で手打ちにしておいた。
反省していなさそうに廊下を軽やかな足取りで進む志保子に額を押さえながら来た道を戻るのだが、ふと志保子が足を止めて窓の外を見る。
周もつられて立ち止まれば、それまで然程気にならなかった、部活動中の生徒達の掛け声が聞こえた。
指示を通すためにしっかりと張られた声、息を合わせるために放たれた声、何かよい成果を得られたのか弾けるような快哉の声、合図のホイッスル音。それに紛れて何処かの教室から吹奏楽部の演奏の音が聞こえて、まるで彼らを応援しているようにも聞こえた。
「いいわねえ、青春の音」
何処か眩しそうに遠くにある小さな生徒達の姿を眺めて、志保子は静かに笑った。
「ま、さておき、ひとまず周はこれから受験に向けて本格的に勉強に取り組むつもりなのよね?」
何か思う所があるのか、と問おうとした時には志保子はいつもの表情になっていて、変わらぬ眼差しで周の方を見つめる。もう、聞いても答えてはくれないだろう。
先程の、郷愁と羨望が溶け合ったような眼差しは、忘れる事にした。
「……そりゃな。推薦受験組はもう一年後には受験している、というか終わってる生徒も居る訳だし、猶予がもう残り一年しかないからな」
ではバイトをするのは無謀なのでは、という問いが自分でも浮かんだものの、野暮なので切り捨てた。自分で両立すると決めたのだから、意地でも両立するに決まっている。
「じゃあもう来年は忙しくなるわねえ」
「大体高二から高三はそんなもんだろ。予定詰まるのは気が進まないけどさ」
「悲しきかな、受験生の通る道よねえ」
誰も進んで勉強詰めになりたい訳ではないだろう。やらなければならないから、そして自分のためにするべきだと思うからこそ、真剣に受験に取り組む訳で。
その覚悟は済ませているので忙しくなる事は納得済みの周に、志保子は「そこも織り込み済みなんだからしっかりしてるわ」と笑った。
「まあ、今年の冬はうちに帰っていらっしゃい。来年は受験があるんだからあまり暇がないでしょうし」
「……分かっているとはいえ今から先を考えるとちょっとげんなりしてくるな」
「ふふ、渋い顔。まあ楽しいものじゃないものねえ。私も現役時代は地獄を見たわ」
「母さんって頭良かったっけ」
「今のは馬鹿するような意味かしら」
「何でそうなるんだよ! 当時の成績的な意味でだよ!」
少なくとも今の志保子は少なくとも知能指数は高い方であるし、色々な、若干余計な知識も込みで知識蓄えているし、話し方も理性的な方である。
恐らく一般的には賢い分類に入るとは思うのだが、学業の成績がどうだったかまでは想像出来ない。
一回機嫌を損ねるとその後が長いのは生まれてからこの十七年でよく分かっているので誤解を解こうと慌てて言葉を続ける周に、志保子は一瞬しらーっと冷めたような眼差しになったものの「全く」という一言で片付けてくれるようだった。
「んー、修斗さんと比べられたらそりゃあ私の方が賢くないけど、当時の成績的な事を言うとまあ普通だったんじゃないかしら。別に私これといって何かに突出した技能がある訳でもなかったもの、一般的な生徒だったと思うわよ?」
「一般ねえ……」
「何よその疑り深い眼差し。こう見えても地味ーで大人しーい女の子だったのに」
「地味ーで大人しーいねえ」
「さっきから言いたい事があるならはっきり言ってもいいのよ?」
「何でもありません」
「んもう」
睨みつけられるものの周が余計な事を言えば更に怒るのが見えているので、母親の扱いをある程度心得ている周は沈黙を選んだ。
ぷい、と顔を背けた事で志保子はこれ以上追求しても無駄という事を察して「しょうがない子ね」とこぼしたが、周はあくまでスルーの態勢を取る。
「とにかく、自分はこれといって秀でてる訳でも人から褒められる程真面目って訳でもなかったから、進む道を決めたのはいいけど急だったから受験するために急いで詰め込んだからねえ、当時はすごかったわよ、人相が違ったと思うの」
「人相って」
「兎に角死にそうというか余裕ない顔してたと思うのよね。当時の友人に聞いても鬼気迫るというか狂気じみた風に追い詰められていてやばかったって言われるし」
顔立ちは温厚そうな雰囲気の志保子が友人に鬼気迫ると言わしめたというのは意外も意外で思わず志保子の方を見るのだが、志保子はそんな気配は微塵も見せずに「ま、計画性がなかったって今なら言えるわね」といつもの表情であっさりと頷く。
子供から見た母親と友人から見た母親の姿が違うというのはよくある事だが、どうしても志保子の狂気じみた表情など微塵も想像が出来なかった。
今の志保子は朗らかで明るい笑顔を浮かべていて、周の視線に肩を竦めている。
「ま、私と違って周はある程度事前の準備が必要な事はきっちりしてるし普段から真面目にコツコツと基礎を叩き込んでるタイプだから、そこまで心配してないのよね。下手は打たないと思ってるし、自分の実力を弁えた上で選択するって分かってるもの」
「そりゃあ勿論」
「じゃあ心配してないわよ。まあ、進路先については事前にもっと詳しく相談して欲しかったのだけどねえ」
「それは本当にごめん」
勿論無許可で大学を決めて勝手に受験するつもりは毛頭ないので、修斗と志保子には事前に希望大学と学部は伝えている。
学費を出してもらう立場なのでその辺りは親の意見も必要だし、もし資金が足りないようなら別の大学を選ぶか奨学金制度を利用するか考えていたのだが、あまりにもあっさりと、軽いノリで承諾を得られたので話を突き詰めずにそのまま進んでしまったのだ。
「まあ周が望むならどこでもいいし資金にも問題ないから遠慮なく選びなさいって言ったのは私達だけどね。将来設計とか詳しく話すのって何か気恥ずかしいのは分かるし、私達も常々自分で後悔しないと決めた事なら止めないって公言してたもの。でも、やっぱり親としては気になっちゃうから」
「……すみません」
「私達にはあんまり語りたがらないのも仕方ないけど、ちゃんと目標があるなら面と向かって口にしてくれた方が応援出来るのよ?」
柔らかく、まあるい声で責めるでもなく優しく声をかけられると、自分が非常に不義理をしている罪悪感がチクリと胸を刺す。
ここで言わなくても志保子は責める事はないだろうが、親として心配しているが故の言葉という事も息子として理解しているので、周は迷いながらも自分の気持ちをまとめるべくゆっくりと瞳を伏せる。
「……目標っていうかさ、正直、真昼と生活に不満なく暮らせて程よい余暇がある充実した仕事に就けるなら、そこまでより好みしないというか」
一応相談したとはいえほぼ独断で決めた大学とその学部は、どうしてもそこでないといけないと固執している訳ではない。
「やりたい事云々じゃなくて自分の実力を考慮して就職に最大限有利になりそうな大学の学部を選んだって自覚はある。勿論興味のある分野というのが最初で前提の条件ではあったけど」
選んだ先は、自分が学びたいと思う分野が学べる中で自分の今の学力とこれからの努力で受かりそうで、更に言うなら就職に有利そうな大学だ。
将来就きたい職業、大学でやりたい事がはっきりとある生徒達と比べれば、周の決め方はいい加減側に天秤が傾きそうなものだった。
それを自覚しているが故に、あまり積極的に話したくなかった、というのもある。
大学を受験する事、その努力をする事に対する覚悟はもちろんあるし自分に恥ずかしくないように全力を尽くす気でもあるのだが、将来なりたいもの、という事になると途端に自信がなくなってしまうのだ。
「第一に社会人になった時に余裕のある生活の維持、次点で時間の余裕、最後に職に対する個人の好みで兎に角健やかに暮らしたいってのが俺にとっては条件だから。そりゃ大学って本来専門の分野を学びに行くための場所ではあるんだけどさ、それだけで選べる程に俺には熱量がないというか……その先の事を優先して考えてしまうっつーか」
大学に受かるための熱量は多大にあるのだが、その後をどうするかというビジョンも、そこで学びたいと決意するような熱量も、周は未だ持てずにいた。
熱意があるのにないという矛盾に内側で呻くしかない周に、志保子は怒りも悲しみもせず、ただそうなのねと言わんばかりの静かな瞳で周を見つめる。
「夢があるんだかないんだか分からないわねえ。そういう現実主義な所は周らしいというか」
「現実主義っていうか、決めきれていないが故の条件の羅列というか」
最初から何がしたいから卒業後はこの職業を選択する予定で条件面を企業で比べて選ぶ、なんて事は今の周には出来そうにない。
「何がしたい、とか明確に決まってる人達が羨ましいよ。俺は地元から離れた先で静かに暮らしたいからって父さんの母校に来たからさ。慣れて来て、ちゃんと自分の居場所を築けた事はよかったけど……結局こうなりたい、ああしたい、ってビジョンはあんまりないんだよ」
「私も結構勢いとノリで美大に行ったからあまりどうこうは言えないのだけど、周が後悔しないように選びなさいね。あなたの人生だもの」
「分かってる。人生の大事な選択って事くらい」
学生時代にある程度の人生の基盤が出来上がるのは百も承知で、だからこそ決めあぐねてうだうだしている自分が居る。
こういう時に両親は周の自主性を尊重するので、全ての選択権が自分と自分の実力に委ねられているが故の不安を感じてくるのだ。
進路が親に決められていたり金銭的な問題で進学を断念しそうになっている生徒に比べれば随分と贅沢な悩みなのかもしれないが、自由があるからこそ責任は自分が負うものだという意識はより強くなってくる。
自分で選んだのなら、こっぴどく失敗しても、自分の責任なのだ。
「私達が干渉するのは独り立ちするまでだし、そこからは二人で生きていくのでしょう? 周がこれから切り開いていく道なんだからちゃんと悩んで決めなさいな」
「分かってます」
「ま、なりたいもの、したい事なんてコロっと変わっちゃうかもしれないけど、その時にその道を選ぶのに苦労しない程度には知識や技術は身に着けておきなさいな。手札を増やすのが学生の内の優先事項よ。後から増やそうと思っても時間かお金が足りない事が多いのだから、親を頼れる内は頼るのよ」
「……うん」
「安心しなさいな、こう見えても私と修斗さんの二馬力できっちり貯めてきたもの。私達は周が一人で無事に巣立てるようにちゃんとたくさんの物を積み重ねてきたから、存分に頼りになさい」
どこまでも周の自由を重んじて、信じて、力を貸してくれる姿勢を崩さない志保子は、周が悩む事を理解した上でただ背中を押してくれるのだろう。
こういう時に普段は困った母親だと思っていても本質的には立派で抱擁力のある母親なのだと理解させられて、胸の奥がじんわりと滲み染み渡るような熱さを覚えた。
本人は、周の感動と感謝を知ってか知らずか、いつもの微笑みを絶やさず、自信に満ち溢れた姿で胸を叩いている。
「ふふ、周は一人で頑張ろうとするんだから、少しくらい頼りなさいな。あ、でも私に勉強の事を頼られてもちょっと不安だからそこは修斗さんにお願いね」
「そこで自分に頼れと言い切らないのは母さんらしいなあ」
「何事も適材適所だもの」
「それは勉強については自信がないという事の肯定になってるんだが」
「何か言ったかしら」
「何でもないです」
「全くもう。あ、代わりにお洒落については幾らでも聞いてくれてもいいのよ? お母さん、周のためならはりきっちゃうわよ?」
「遠慮しておきます」
「んもう!」
べしん、と地味に重い音と衝撃が背中に走ったものの、それは痛みを齎すものではなかった。寧ろ奥に留まり縮こまった不安で臆病でいた自分の背を文字通り押してくれて、知らずの内に淀んでいた底を掻っ攫うような風が吹き抜けた気がした。
結構図太い自覚はある自分でもナイーブになる事はあるんだな、と我が事ながら少しだけ呆れる余裕が出来た周は、どこまでも軽やかな笑顔の志保子に、つられるように小さく口元を綻ばせた。
「さぁて、真昼ちゃんの所にでも行きましょうかねー。真昼ちゃんの面談 は今日なの?」
「真昼は明日」
何の気なしに志保子としては言ったのだろうが、周からはこれ以上何か言える事はなかった。
三者面談、と銘打った一対一の面談になるとは察しているので、話に触れると真昼に小さな棘を打ち込む事になりそうで。
志保子もある程度の事情は分かっているからか、周が不安に思った事を口に出す事はせず「あらそうなの、同じ日だったら一緒に帰るついでにお買い物にでも行けたのに」と残念がる様子を見せるだけだった。
「じゃあおうちで挨拶しようかしら。この間会ったばかりなのに何だか久しぶりの気分だわ」
「そうしてくれ、真昼も喜ぶ」
「んふふ、会う事を止めはしないのね」
「止めても無駄だし、そもそも真昼も母さんもお互いに会って喜んでるのに俺が止める訳ないだろ」
志保子に余計な事を吹き込まれる心配と真昼が素直に慕っている志保子に会える喜びなら、後者を選ぶのは当然だろう。
元来甘えたがりの気がある真昼が素直に甘えられるのは、恋人である周か、母親のように慕っていて同性の志保子くらいなもので、その真昼の大切な人との再会を拒む筈がない。
それはそれとして志保子が余計な知恵を与えていないか心配になるのは変わらないので、側で見守る事は決定事項なのだが。
(真昼がピュアなのをいい事にたまに変な事吹き込むからな)
修斗セーブがないと志保子が勢い余って、というか嬉々として真昼にはまだ早いような事や周に関する余計な知識を真昼の耳に入れるので、その辺りは息子から信頼も頼りもなにもない志保子である。
「随分と優しくなったわねえ」
「母さんが落ち着いたらもっと優しくなれる自信があるぞ」
「落ち着いてないなんてひどい言い草」
「頼むからもう少し声を抑えてくれ、あとジェスチャーをもう少し控えてくれ。話はそれからだろ」
息子の前だと年齢より随分と若々しい言動をしがちなので、そこを控えてくれたならもっと尊敬出来るのに、と言葉にはしないが思っていると、志保子は肩を竦めてさもこちらが神経質だと言わんばかりの表情を浮かべている。
「……可愛げなくなったわねえ」
「元々なかったので好きに言ってくれ」
「まっ、そういう所よ」
まったくもう、と言わんばかりに、しかし楽しそうに笑いながら周を小突く志保子に周はわざと大きなため息をついて足取りを早めた。