02 天使様の申し出
「周、鼻うるさい」
「お前こそうるさい」
翌日、風邪を引いたのは周の方だった。
級友、というよりは悪友である赤澤樹に指摘され、周はフンと鼻を鳴らそうとして失敗した。
代わりに鼻呼吸をすればずず、と水音がしてある意味鼻が鳴っている。
体調は最悪で、鼻がつまっているせいなのか風邪そのもののせいなのか、頭の奥からずきずきと痛みを訴えられていた。
一応で市販の薬は飲んできたものの、完全に症状が抑えられる訳もなくこの様である。
あー、と鼻づまりに顔を歪めつつティッシュと仲良くしている周に、樹は心配というよりは呆れたといった風な目線を向けた。
「昨日まで元気だったろお前」
「雨に濡れた」
「ドンマイ。つーか昨日傘持ってなかったっけ」
「……人に渡した」
流石に学校で真昼に渡した、なんて言える筈もなく、曖昧に濁す。
ちなみに真昼の方は学校でちらっと見た感じ顔色も悪くなく元気そうだったので、傘を渡した自分だけが風邪を引いて笑うしかない状況だった。
まあ、しっかり風呂で暖まらなかったのが原因なので自業自得なのだが。
「あんな雨降ってたのに貸しちまうとか、お人好し過ぎないか?」
「しゃーねえだろ、渡しちまったんだから」
「わざわざ風邪引くリスク背負ってまで誰に渡したんだよ」
「……通りすがりの迷子の子供?」
子供と言うには随分と立派な体つきをしているが。というかそもそも同い年なのだが。
(……ああそうか、迷子みたいな顔だったのか)
自分で言って、ようやくしっくりきた。
あの時の真昼の表情は、迷子の子供が親を求めていた時のようなものにそっくりだったのだ。
「お優しいこった」
昨日の真昼の事を思い出している周の心情は知らず、樹はからかうように笑った。
「でもまあ、傘貸したにせよ何にせよ、お前その後適当に体拭いて終わっただろ。そっちが原因な気がするが」
「……何で分かるんだよ」
「お前の不摂生具合はお前んち行ったらすぐ分かるわ」
だから風邪引くんだよバーカ、とさりげなくけなされて、周は口をつぐむしかない。
樹の言うとおり、基本的に周はあまり自身の事に頓着しない。
もっと言えば整理整頓が苦手で部屋はぐちゃぐちゃだし、食べるものもコンビニ弁当か栄養補助食品、それか外食となっている。
よくそれで一人暮らしすると言えたな、と樹に呆れられるほどだ。
そんな生活を見ている樹からしてみれば、周が適当に過ごして風邪を引くのも頷けるだろう。
「今日はさっさと家に帰って早く休むんだな。土日あるし、さっさと治してこい」
「そうするわ……」
「せめて看病してくれる彼女でも居たらよかったのになあ」
「うるせえ。彼女持ちは黙ってろ」
ちょっと誇らしげに唇を緩めた樹に、周は無性に腹が立って自前のボックスティッシュで手の甲をはたいた。
時が経つにつれて、体調は悪化の一途を辿っていた。
頭痛と鼻水だけで済んでいた風邪の症状は、喉の痛みと倦怠感まで仲間にして体を支配していた。
放課後脇目も振らずに道を急いだものの、思ったよりも体は風邪に負けているらしく、遅々とした足取りとなっていた。
それでもようやくマンションのエントランスにたどり着き、重たい足を動かしてエレベーターに乗った所で、壁にもたれる。
はー、とこぼれる息は平常より荒く、熱い。
どうやら学校では耐えていたらしいが、もうすぐ家につくという事で油断したのか、体が一気に不調を訴えかけてきていた。
エレベーターの独特の浮遊感も、普段なら平気なのに今は地味な苦痛になっている。
それでも、もう家につく。
自分の住まう階にエレベーターが止まり、周は緩慢な動作でエレベーターから降り、自分の部屋がある廊下に足を向けて――一度固まった。
視線の先には、もうろくに話す事もないだろうと思っていた、亜麻色の髪をなびかせた少女が居た。
見たところ、可憐な容貌には生気があり、肌も血色がよさそうだ。
どう考えても彼女の方が風邪を引きそうだったのに、ぴんぴんしていた。普段から体に気を付けているのか、如実に差を見せつけられている。
真昼の手には、先日押し付けた傘がきっちりと畳まれて握られている。
返さなくてもいいと言ったのに返しに来たのだろう。
「……返さなくても、よかったのに」
「借りたものは返すのが当たりま、……?」
途中で言葉を切った、というより切れたのは、周の顔を見てからだ。
「あの。……熱、ありますよね……?」
「……あんたには関係ないだろ」
最悪のタイミングで出くわした、と周は眉を寄せる。
傘は極論、返却しようがしまいがどっちでもよかった。
しかし、今のタイミングで会うのはよくない。賢い彼女なら、すぐに周が風邪を引いた理由にたどり着くだろう。
「でも、それは私に傘を貸したせいで……」
「俺が勝手にやった事だから関係ないだろ」
「関係あります。私があそこに居たからあなたは風邪を引いてしまった訳で」
「いいんだよ別に。お前が気にする事じゃない」
周としては、こっちが自己満足でやった事なのに気にされるのは、嫌だった。
しかしながら、真昼にそのままはいそうですかと放ってくれそうな様子はない。端整な美貌には焦りが浮かんでいる。
「……もういいから。じゃあな」
問答している方が周としてはつらいので、無理矢理にでも真昼の追及と心配から逃れる事にした。
ふらりとよろめきながら雑に傘を受け取り、ポケットから鍵を取り出す……所までは、よかったのだ。
周が若干もたつきながら自宅を開けた瞬間、体から力が抜ける。
ようやく家に入れる、と安心してしまったのが悪かったのだろうか、ふらっと後ろの壁に向かって体が傾いだのだ。
やべ、とは思ったものの、柵は頑丈でぶつかった程度で壊れる心配はないし、高さもあるので落ちる事もない。別に多少打ち付けようが痛いで済むから、まあ仕方ない……と痛みを覚悟した。
ところが、ぎゅっと腕を引っ張られて無理に体勢が元に戻る。
「……さすがに放っておけません」
か細い声が、少しぼんやりした意識に届く。
「借りは、返します」
熱が上がってきたのかぼんやりとしだした頭で彼女の言う事を噛み砕こうとして、やめた。
理解する前に、真昼は力が抜けかけている周の体を支えて周の家の扉を開けたのだから。
「入りますけど、致し方なくなので許してくださいね」
静かな声音は有無を言わさないものだった。
風邪っぴきの周は抵抗する気力がなかったので、引っ張られるまま、初めて同年代の女性を伴って帰宅した。
看病してくれる彼女は持ち合わせていなかったが、どうやら看病してくれる天使は居たようだ。