172 椎名朝陽
夏休み最終日。
周の自宅からそう離れていないカフェの入り口付近で、周は目的の人物を見付けて背筋を伸ばした。
視線の先では、普段見慣れた亜麻色の髪とカラメル色の瞳をした、白皙の穏やかそうな男性が立っている。
一度だけすれ違って軽く話をした男性。名乗りあってはいないが、周は彼の名を真昼から聞いて知っていた。
「椎名朝陽さん」
声をかければ、彼――椎名朝陽は、周の方に視線を向けて淡い微笑みを浮かべた。
「初めまして……ではないけど、こうして互いを認識した状態で会話するのは初めてかな」
「……ええ、そうですね。話自体は真昼から伺っています」
真昼と呼び捨てした事に動揺は見られないので、おそらくその辺りもきっちり調べているのであろう。
周の言葉に朝陽は苦笑にも似た淡い笑みを浮かべる。
気弱というよりは穏やかそうな印象で、真昼を放置したような非道な人間にはパッと見見えなかった。
「それなら話は早いね。ちょっとお時間いただけるかな」
「そのために呼んだのでしょう?」
「そうだね。急な申し出を受けてくれてありがたい限りだよ。頼んでおいて何だけど、まさか承諾されるとは思っていなくてね」
「わざわざ俺を呼び出したのは何のためか気になりましたので。……俺ではなくて真昼に会うべきでは、と思いますけどね」
「それを言われるとそうだけど……あの子は僕と会いたくないだろうからね」
苦い笑みを浮かべる朝陽の姿は、後悔を滲ませているように見えた。
真昼の境遇には憤りを覚えたし許せないと思うが、目の前の男が血も涙もないような人間には思えない。それならわざわざ娘に静かに接触しようとはしないだろう。
だからこそ、より疑問は深まる。
周の探るような眼差しに気付いたのか、朝陽は頬をかいて困ったように微笑んだ。
「君も多分僕に色々と聞きたい事があるのだろう? こんなところで長話もなんだから、そこのカフェに入ろうか」
流石にカフェの入り口付近で話し込む訳にもいかないので、朝陽の提案に頷き彼と共にカフェの中に入った。
「好きなものを頼んでいいよ。貴重な夏休み最終日にこちらから呼び出してしまったからね」
周もたまに入るこのカフェは予約制ではあるが個室があり、朝陽が前もって予約していたのかその個室に通された。
向かい合うように座ったところで、柔和な顔立ちに笑みを浮かべた朝陽がメニューを勧める。
ではお言葉に甘えて、と告げてからメニューにあったコーヒーと日替わりケーキセットを告げれば、彼も同じものを店員に頼んでいた。
それから頼んだものが届くまで、彼は穏やかな表情のまま口を開く事はなかった。
店員にもあまり聞かれたくない話だからこそ黙っているのだろうが、自分の父親とほぼ歳も変わらない男と向き合って座っているのだ。非常に気まずさを感じる。
気まずさを紛らわすためにも今日こちらから聞きたい事を脳内で整理して、三回ほどそれを繰り返したところで漸く注文した品が目の前に並べられた。
「で、俺に何の用ですか」
店員が去ったのを確認して、周から口を開く。
少々不躾ではあったが、朝陽は気を害した様子もなく小さく笑う。
「そうだね。娘とお付き合いしているみたいだから、あの子がどんな風に過ごしているのか聞いてみたかった……と言えばいいのかな」
「……別に、普通ですよ」
「警戒してるね」
「されないと思うのですか?」
「そうだね、されない方がおかしいね」
納得したように頷く朝陽に、周はどうしたものかと唇に力を入れる。
たとえば、真昼の母親のような娘に冷酷な人間であれば、周も強気に出られたし、対応も幾らでも出来た。
ただ、彼からはどちらかと言えば娘を心配するような雰囲気が感じられるし、とても育児放棄していたようには思えない。会話しただけだと善良な父親のようにも思えてしまう。
それ故に、何故実際に真昼を見放したのか、とも思ってしまうのだが。
「俺からも聞きたいのですが、今更わざわざ真昼に近づこうとしていたのは何故ですか」
今更、というところに嫌味がこもってしまったのは、真昼が深く傷付いていたのを見てきたからだろう。
彼女は何年経っても刺さったトゲが抜けず、苦しんでいたのだ。
漸く最近トゲも抜け傷も癒えて来たのに、そこで新たな傷が増やされてはたまったものではない。
「……君は本当にあの子を大切にしているのだね」
向けた敵意には敵意を返されず、ただ感心したような、少し嬉しそうな眼差しを向けられた。
「別に連れ戻そうとかそういう事は考えていないよ。君が心配するような、あの子の生活を脅かすような真似はするつもりがない」
「……本当に?」
「もちろん。……少なくとも僕にはあの子の今ある生活を邪魔する権利はないし、しようとも思っていないからね」
「では、本当に何故、真昼に接触を図るのですか」
「……そう聞かれると説明が難しいね。顔を見に来ただけなんだよ」
「あなたから真昼を捨てたというのに?」
他人であり部外者が言うべき台詞ではないと自覚していた。
それでも――彼女の両親が真昼にした仕打ちを、許せるものではない。
周にしては珍しい明確な敵意を向けられた朝陽は、怒るでもなく、ただ静かな表情でその視線を受け止めている。
「はっきり言うね。……そうだね、今更僕に、あの子の親ぶる権利はないと思うよ。あの子も僕を父親だと認識しているかすら危ういだろうし。血の繋がった他人程度に思ってるんじゃないかな」
「……それを自覚しているくらいには、ご自分がなさった事を理解しているのですね」
「自分のした事にいつまでも目を背けていられないからね。……僕と小夜は、あの子の親と名乗れるような事はしてきていない。世間ではネグレクトと呼ばれるような事をしてきただろうね。非難されて当然だよ」
穏やかに、だが冷静に自分達の所業を客観視する朝陽の姿に、周は唇を噛み締めた。
(何故、もっと早く)
もっと早く、我が身を省みる事が出来なかったのか。
出来たなら、真昼はあんなにも傷付かなかったし、母親からの愛情は得られずとも、父親からは愛情を得られた未来があったのかもしれない。彼女が幸せに笑う未来があったのかもしれない。
どうして今更悔い改めるのか。どこに怒りを向ければいいのか分からなかった。
周が怒る資格はないのかもしれない。理不尽な怒りなのかもしれない。
それでも、思わざるを得ないのだ。
何故、もっと早く彼女に手を差し伸べてやらなかったのか、と。
「困るなら、産まなければよかったのに。……これ、誰が言ったと思いますか。真昼本人が言ったんですよ。あなた達がそう言わせるくらいに、真昼を追い詰めたんです」
「……そうだね」
声が震えるのを何とか抑えながら平坦な声で告げれば、悟りきって全てを受け入れるような眼差しが向けられる。それが、余計に腹立たしく思えてしまう。
「真昼を放置しておいて今更後悔するくらいなら、最初からそんな態度を取らなければよかったんです。そうしたら、真昼はあんなに傷付かずに済んだのに」
「返す言葉もないよ。……もちろん、僕は親として最低の事をしてきた自覚があるよ」
「……本当に、何故今更真昼に会おうとするのですか。俺は、あなたと真昼が会う事で傷付くなら、会わせたくない。部外者の出すぎた発言だと分かっていても、真昼が苦しむくらいなら会わせたくないです」
本来は親と娘が会うのを邪魔する訳にはいかないが、今回ばかりは真昼が会う事をまだ望んでいないので、こういった強い語気になってしまった。
朝陽は周の鋭い視線を申し訳なさそうに受け止めて、苦い笑みを浮かべる。
「何故あの子に会いたがるのか、か。……どうしてだろうね」
「はぐらかすのですか」
「はぐらかすつもりはないよ。ただ、中々に言語化するのは難しくてね。……そうだな、今のうちに会っておこうと思ってね」
「将来的に会えなくなる、もしくは会わないつもりという事で?」
「そうだね」
肯定した朝陽に、口の中に苦いものが滲む。
「……身勝手ですね」
「そうだ、身勝手だよ。それを変えるつもりもないし、もう変えられるものでもない。ただ、あの子をこれ以上不幸にするつもりもないよ。だから、むしろ嫌われていた方がいいのかもね」
「意味が分かりません」
「いずれ分かるさ」
達観したような眼差しに、周は彼がこれ以上話すつもりがない事を悟って、追求をやめる。
「聞きたい事は、まだあるかな?」
「……いいえ、俺はもういいです」
「そうか。……では、僕からも一つだけ聞かせてくれないかな」
「どうぞ」
「……あの子は、今幸せかな」
何を聞くつもりだろうか、と少し身構えたのだが、朝陽は変わらない穏やかな表情で問いかけた。
まるで娘の幸せを願うような声と眼差しに、周は一度ゆっくりと息を吐く。
「……それは本人に聞かないと分かりませんが、俺が幸せにしたいと思っています。幸せにする自信もありますし、幸せにしてみせます」
それは、願望であり、自負であり、そして決意の言葉だった。
あの、心優しく繊細で、誰よりも愛に飢えた少女を、手放すつもりはない。
彼女にはずっと笑顔でいてほしいし、この手で幸せにしたい。幸せにすると決めている。誰がなんと言おうと、その意思は曲げるつもりがなかった。
決して大きくはない声量だが揺るがない声できっぱりと言い切ると、向かい側のカラメル色の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間には紛れもない安堵で緩んだ。
「そうか。それが聞けてよかったよ」
柔らかい笑顔を浮かべた姿は、どこか真昼を想像させた。
「……僕が頼める義理ではないけれど、あの子の事をお願いします」
「頼まれなくとも幸せにしますので」
「そうか……ありがとう」
失礼だと咎められてもおかしくない声や態度であったのに朝陽は嬉しそうに笑ったので、周は何とも言えないもやもやを感じつつも「礼を言われる筋合いはないので」と先ほどよりも少しだけトゲを抜いた声で返した。





