140 のけもの
帰省して三日目、真昼がすっかり我が家に馴染んでいた。
「あら真昼ちゃん、上手ねえ」
キッチンでエプロンを身に付けた三人が仲良さげに何やらお菓子を作っている。周は戦力外な上に誘われてすらいないので、リビングで一人彼女達の様子を遠目に眺めるしかなかった。
折角遠いところから来たという事で、志保子と修斗は真昼に事あるごとに構っている。息子より真昼の方が優先らしく、それはもう嬉々として一緒に過ごしていた。
可愛くて素直でいい子な息子の彼女を可愛がる気持ちは分からなくないが、肝心の息子は放置。
別に用もないのに構われたいとは思わないが、ここまで放置されるとなんとも複雑な心境にならざるを得ない。
真昼は志保子や修斗に話しかけられ可愛がられて嬉しそうにしているのは、もちろん嬉しい。
仲のよい家族に憧れを持っている真昼がこうして擬似的ながら家族を味わえるのなら、自分が多少蔑ろにされてもよかった。
少しだけ困るのは、両親が真昼に構うあまり周が真昼と過ごす時間が少なくなっている事だろう。
(別に、帰ったら一緒に居るからいいんだけどさ)
今の家に帰ったらまた真昼と二人きりの時間でほぼ占められると分かってはいるが、それはそれとしてやはり複雑だった。
とりあえず今のところ真昼も二人と話す事に夢中だし、両親も真昼に構う事に忙しいので、居心地の悪さから逃れるようにリビングを出て部屋に戻る。
折り畳み机の前に胡座をかき、持ってきた参考書を開いた。
やる事もないし、部屋にあった娯楽の大半を今の家に持って行っているので、これくらいしか時間を潰せるものはない。どちらにせよ夏期休暇明けのテストが控えているので、順位を保つためにも勉強は必要だし、元々好きなので苦ではなかった。
非常に学生らしく勉学に励みつつ、静かに時間を潰す。
新しい参考書だろうが楽々と解けるのは日頃の努力のお陰だろう。両親に言われているのと真昼の隣に相応しくなれるように努力は欠かしていないので、その成果が見えているのだ。
キッチンはさぞ賑やかなんだろうな、と答え合わせの際にぼんやりと思いながら、赤で丸をつけていく。ケアレスミスはあったもののほぼ正解を導いていてほっとしつつ、静かな空間になくなった筈の居心地の悪さを感じた。
(元々一人で過ごすのが当たり前だったのに、いつから隣に誰かが居ないと物足りなくなったんだろうな)
間違いなく、真昼のせいだ。
真昼が居るのが当たり前になってしまったから、こうして一人で居る事に物足りなさを感じるようになっていた。
手慰みに赤のインクがつまったペンをくるくると回しつつ、小さくため息をつく。
参考書なんてすぐに終わってしまう、と本来は喜ぶべき事を嘆くように呟いてペンをシャーペンに持ち替えようとした時、ドアの方から三回ほど硬質な音が響いた。
「周くん」
ノック音の後に聞こえてきたのは、控え目な真昼の声だ。
キッチンで料理していたんじゃないかと思っていたが、時計をちらりと見れば二時間ほど経っていたので料理が終わったようだ。
「どうした」
「いえ、その、いつの間にか居なくなってたから……」
「勉強してただけだよ。暇だったし」
まさか二時間も経っていたとは思わなかったのだが、それだけ集中出来たという事だろう。いや、ある意味気もそぞろだったが、頭から追い出すために意識的に勉強していた、というのが正しい。
「……そうですか。その、部屋に入ってもいいですか?」
「いいけど、母さん達と話してなくていいのか」
「……今は、周くんとお話ししたいです」
気を使っているのかもしれない。でなければわざわざ周の部屋を訪ねたりしない筈だ。
まだまだ未熟だな、と反省しつつ、追い返す訳もなく「どうぞ」と扉に向かい扉を開けてやる。
開かれた扉の向こうには、トレイを持った真昼がおずおずとした様子でこちらを窺ってる姿があった。
どうやら先ほど作ったとおぼしきシュークリームと、カフェオレが二人分載っている。
「おじゃまします……」
遠慮がちに入るので、こっちとしても微妙に気まずい。
急いで参考書と筆記用具を片付けつつ真昼用にクッションを引っ張り出して置いて、真昼からトレイを受け取って折り畳み机に置いた。
綺麗に膨らんだシュークリームは見事なもので、ケーキ屋に置かれていてもいいほどの見かけだ。真昼の事だから味も美味しいだろう。
「先ほど出来たものです。あまり冷えてないですけど……」
「ん、ありがとな」
わざわざ持ってきてもらってありがたい限りなので素直に礼を言うと、何故か真昼が気まずそうに瞳を伏せた。
「……周くん、怒ったり、してませんか」
「何でだよ」
「ふ、雰囲気がとげとげしてます。近寄りがたいというか」
どうやら見抜かれていたらしい。
ただ、違うのは別に怒ってなどはいないという事だ。複雑な気持ちになったし寂しさを感じはしたが、怒りというものは全くない。そもそも、両親にも真昼にも悪いところはなく、ただ周が一人で靄を抱えただけだ。
「別に怒ってる訳じゃないよ。ただ、真昼が取られて寂しかっただけ」
「え、……その、それは……」
「ごめん。真昼が母さん達と過ごすのが楽しいのは分かってるんだよ。俺が勝手に拗ねてるだけだよ」
我ながら子供らしいな、と笑って肩を竦め、注いできてくれたカフェオレを一口飲む。
真昼が家族に飢えている事なんて分かりきっているのだから、微笑ましく見守っておけばよかったのに、居場所がないと逃げてきた自分が悪い。
真昼が幸せならそれでいいと思っているが、一人ぽつんと取り残される事が嫌で、こうして自分で一人になる事を選んだのだ。これで不機嫌になるなんて身勝手であり、真昼や両親に当たれる訳がない。
カップを置いて一息ついた周に、真昼は静かに周を見つめて――周の胸に、飛び込んだ。
飛び込んだというよりは胸にもたれるように体を寄せてきたのだが、突然のスキンシップに困惑するしかない。
急にどうしたのかと思ったが、とりあえず宥めるように背中をぽんぽんと軽く叩いておくと、真昼がゆっくりと顔をあげまっすぐに周の瞳を見つめた。
「……志保子さん達と過ごすのはもちろん楽しいし幸せですけど、一番は周くんの側に居る事、ですからね」
そう囁いて、おずおずといった動作で、周の頬に唇を寄せた。
ふに、と微かな柔らかさを覚えた頃には、真昼の顔は離れていた。
先ほどとは打って変わった赤い頬ととろみを帯びたような潤んだ瞳に、思わず周も真昼の柔らかな頬に口付けを落とした。
(……自分が馬鹿みたいだ)
勝手に拗ねていた自分は、大馬鹿者だ。こんなにも、真昼は自分の事を想ってくれているのに。
好きだなあ、と改めて思い知らされて、溢れんばかりの気持ちを滑らかな頬に表現していく。
頬とはいえ、あまりキスは慣れていない。真昼もそれは同じで、周が唇を触れさせる度にびくびくしていた。
最初は羞恥から逃げそうだったが、周が抱き締めて優しく触れていくと、次第に周に身を任せて心地よさそうに瞳を細めている。
時折真昼が返すように周の頬にはにかみつつまた口付けてくるから、可愛さのあまり思い切り抱き締めかねなかった。
「……なあ真昼」
少しの間頬にキスしあってから、真昼の瞳を覗き込む。
真昼はもう恥じらいも喜びもいっしょくたになったふやけた表情で周を見上げている。
「あのさ。明日、二人で出かけようか。母さん達は仕事だしさ」
「二人で、ですか」
「地元、まだ案内してなかったなって。今住んでるところみたいに何かがある訳じゃないけど」
ただ二人で一緒に居たくて提案したものだが、真昼は目を丸くして、それからキスをしていた時よりも緩んだ笑顔を浮かべる。
「行きます。……その、周くんと二人なら、どこへでも」
「おう」
「今日は、もう少し、こうして居たいです。……志保子さん達も、周くんと過ごしておいでって言ってくれましたし」
「余計なお世話……と言いたいところだけど、見抜かれた俺が至らなかったな」
両親も、周を気にしていたらしい。
余計に自分が馬鹿らしくなって体を震わせるように笑って、真昼をゆっくりと離す。
剥がされた事にショックを受けたような真昼だったが、周がシュークリームを指差して「真昼のお手製のお菓子食べたいから」と囁けば、すぐに照れたように瞳を伏せた。
「……一緒に食べようか」
「はい」
抱き合う代わりに真昼の隣に座って手を握れば、温かい笑みが浮かんだ。