三十路ダイヤモンド
【1】
「おはよう美咲」
二人掛けの小さなダイニングテーブルを挟み正面に座った。
「…………」
__ハィハィ、返事ナシ。
俺の存在なんて無い物みたいに視線をぶらすことなくペラリと新聞をめくる。
それから、いつものマグカップを唇にあてた。
おそらく、引いたばかりであろう
控えめな色の口紅がカップの淵を彩った。
襟先までキリッとアイロンの効いた白いシャツ。傍らには灰色のスーツの上着が掛けられていた。
わかってる、わかってる……
お前はいつもそうだよな。
寝起きで忘れてたけど、俺たち喧嘩中だったな……
「ふっーー」
俺は大きくため息をついた。
全く、無愛想な女だ。
挨拶くらい返せばいいのに……
でも、こういう毅然としたところがあるから俺と違って出世が早いのかな……
英字新聞に目を落としながら、お決まりのブルーベリのベーグルを頬張り、牛乳たっぷりのコーヒーで流し込む。
あっ?違ったか?カフェ・オ・レだっけ……。
この前、コーヒー牛乳って言ったら怒ったもんなぁ。
「なぁーー美咲!
普通、喧嘩をしたら話し合うべきだろ……」
「…………」
彼女の眉間に皺がよった。
喧嘩をすると彼女はいつもこうやってだんまりを決め込む。
だから結局いつも俺が悪くなくても謝る事になるんだよなぁ。
付き合い始めた頃から美咲は俺に謝ったことは一度だってない。
うーーん。
一度くらいあったかも!?って思い返してみたけどやっぱりないわ…
強情でプライドの塊みたいな女だな。
美咲と俺が付き合い出して、かれこれ13年になるかぁ。
高校の頃からだからな……
まぁ、あの頃は俺がコイツにベタ惚れで甘やかし過ぎたからこんな可愛げがなくなってしまったのかもしれないが……
そう思うと、少し責任を感じるな。
そういえば、俺が就職したての頃にこんな事があった。
行きつけの居酒屋で、会社の上司や先輩に美咲を紹介したんだ。
アイツは愛想が悪くて、ニコリともせずに俺の隣で不機嫌そうにしていた。
酒の席で絡まれたのが、嫌だったのか……
連日、残業で帰りが遅かったのを根にもってたのか……
その場がお開きになった後、俺は美咲に怒鳴った。
実は俺は亭主関白だからな。
うちではいいけど、外では立てろってな。
だから、ついつい声を荒げたんだ。
「おい、おい、その態度はないだろう?本当に可愛げがないな!!」
「想史が居るのに他の男に可愛げ見せてどうするの?」
視線を俺から外して、むくれた顔でそんな事を言った彼女を見て、
可愛いいと思ってしまう俺はやっぱり甘やかしすぎなんだろう。
この時も、怒ってた俺の方がなぜか美咲に謝まってしまった。
そんな事を思い出していたら、美咲は立ち上がり食べ終わったお皿とマグカップを流しへ運んだ。
そのまま、俺の隣を通りすぎる。
「洗っていかないのか?」
「…………」
「しょうがないから今日は俺がやるよ」
「…………」
なんだ、「ありがとう」もなしかよ……
スーツの上着を羽織って、急いでるんだから話しかけないでとゆう雰囲気を出しながらタンブラーを手に取る。
コーヒーメーカーに残っているコーヒーを全て自分のタンブラーに注ぎ込み、鞄を持つと玄関の方へ足早に向かった。
あちゃー……
これは相当、怒ってる。
俺も、朝はコーヒー飲むの知らない訳じゃないだろうに……
玄関の扉を捻った彼女に言った。
「鍵いいぞー!
俺が出る時、閉めるから」
「…………」
……ガチャリ
怒った様な音をたて鍵が閉められた。
「親切で言ってやったのに、怒ってる時は本当に可愛げがないな」
俺は、立ち上がり自分のコーヒーの作りはじめた。
ポタポタと黒い雫が落ちるのをダイニングテーブルにもたれかかったまま眺めた。
朝から疲れた気分になり、また小さくため息をついた。
【2】
「30までに結婚したい」
お前は高校生の頃からそう言ってたよな。
忘れてる訳じゃないんだぞ。
俺だってお前の為に努力してる。
29歳と30歳でどれだの違いがあるのか今だに俺には理解出来ないけど女はそうゆうの気にするんだろ?
二十歳になった時に熱弁してたもんな、「19歳と20歳じゃ響きがぜんぜん違う。これが29歳と30歳だったらダイヤと石ころくらい価値が変わるって……」
何だかあの時の美咲を思い出したら笑えてきた。
男と女は脳みその種類が違うとか脳科学者のなんたら教授がバラエティーで言ってたけど、やっぱ違うもんがつまってそうだな。
美咲の言うことは俺の脳みそじゃ理解出来ない事がたくさんあるよ。
それなのに分かり合えてる気になるのはなんでなのかな?
不思議だよな。
俺は少し堪えながら笑って、コーヒーをカップへ注いだ。
「だから、ちゃんと考えてるって……」
独り言を呟いて、
出来立てのコーヒーをすすった。
窓際に立ち外を眺めると、早足にバスへ乗り込む美咲がいた。
「美咲……愛してるよ」
目を細めて、しっかり美咲がバスの扉が閉まるのを確認した。
愛してるから仕事も頑張れるんだ。
ウチみたいな社員を家畜みたいに扱う会社にだって辞めずに勤めていられる。
ブラック企業の中のブラック企業。
本当にうちの会社は漆黒の闇だよ……ハハっ
でも、部長の話によればもうしばらくの辛抱なんだ。
今のプロジェクトが終われは、余裕も出るし人員を増員する予定もあるらしい。
それに、俺の昇進話もあるみたいだ。一つ昇進すれば大分今より楽になるって部長に言われたよ。
だから、本当にもうしばらくの辛抱なんだ。
そういえば、この間もそれで喧嘩になったな。
お前は「仕事と私どっちが大事なの?」なんて、テレビドラマみたいなバカバカしい事を聞いてきたよな。
リアルにそんな事を言われるなんて思って無かったよ。
あの時の俺は仕事が立て込んでて、ずっと徹夜が続いていたから頭に血がのぼって「男は仕事が大事だろ!仕事してない男が女を幸せに出来る訳ないだろ!!」なんて怒鳴ってしまったよな……
でも、お前は涙をいっぱいに溜めて
「想史の身体が心配なの」って俺を抱きしめたな。
そんな美咲を堪らなく愛しく思って俺がやっぱり謝る事になった。
本当、結局のところ美咲はいつも正しくて、俺が間違ってるんだよな……
そろそろ、けじめつけないとな。
仕事が落ち着いたら、溜まりに溜まった有給休暇で世界一周の新婚旅行にでも行こう。
一ヶ月くらい余裕でいけるぞ、ずっと一緒だ。
でも、美咲はすぐに疲れて機嫌が悪くなるからな……
家でゆっくりした方がいいのかな?
でも、俺は新婚旅行は国内じゃなくてやっぱり海外に行きたいな。
世界一周が無理でも、
南の島とか、ヨーロッパの世界遺産とか……
【3】
ぜんぜん美咲と話せてないな。
顔を合わせても美咲はずっとだんまりで、俺を無視するし……
こんなに喧嘩が長引くのは久しぶりだな。
多分、あの時以来だな……
美咲は短大を卒業して一足早く社会人になって、
俺は大学生で、毎日遊びほうけて美咲には何にも考えてない様に見えてたんだろ?
でも、俺だって何にも考えてなかった訳じゃないんだぞ。
だって美咲はあんな立派な会社に就職するし、どんどんしっかりしていくから取り残されたみたいで不安だったんだ。
就活もなかなか思うようにいってなくて、でも美咲にはかっこ悪いところ見せたくなくてさ……
まだ、本気だしてないだけだぞみたいに見栄を張ったんだ。
本当は必死で美咲を養えるようにって……
幸せに出来るようにって……
自分には何が出来るんだろうって悩んでたよ。
何社も落ちて、もしかしたら俺は社会に不必要なんじゃないかなんて、悲劇の主人公気取りでさ。
そんなタイミングで喧嘩しちゃったから、ついあんな事を言っちゃたんだ……
「別れよう」なんてさ。
美咲は絶対に「うん」って言わなかったよな。
俺はそれが、すごく嬉しかったよ。
でも、美咲が大切だったから俺なんかの物にしてちゃダメだと思ったんだ。
こんな、俺じゃ美咲と釣り合わないって。
もちろん、そんな事をそのまま言えないから「好きじゃなくなった」なんて嘘までついてさ……
美咲は見たことない様な顔で泣いて、「私の17歳から24歳の一番綺麗だった時間返してよ」なんて俺を責めたよな……
今となっては懐かしいけど、あの時は恐ろしかったよ。
結局、今の会社に内定が決まってよりを戻せたんだけど。
そう考えたら、17歳から29歳……
もう、30歳の誕生日だもんな。
俺は美咲の20代を全部もらっちゃったんだな。
俺たちって何で喧嘩してたんだっけ?
思い出そうとしても思い出せないんだ。
ここのところ仕事が忙しいから脳みそがパンクしてんのかな……
でも、そんな火に油を注ぐようなこと美咲には絶対に聞けないよ……想像したら背筋が凍った。
本気でブルってしたよ……ハハっ
まぁ、もうすぐ嫌でも仲直りすることになるんだけどな……
誕生日にとっておきを用意してるんだ。
花束に……
ケーキ……
それに半年前から予約した特別なもの……
俺、美咲の誕生日は有給とったから。
お前も仕事終わったら早く帰って来いよ。
【4】
今日は美咲の誕生日だな。
ギリギリになっちゃったけど許してくれよ。
お前は30歳になる前ってのに、こだわってたけど、これからずっと一緒なんだから結婚式とか婚姻届出すのは一ヶ月や二ヶ月ずれたってどうってことないだろ?
それより機嫌を直せよ。
いつまで無視するんだよ?
こんなプロポーズだったから怒ってんのかよ……
俺、照れくさいの苦手なんだよ……
知ってるだろ?
「…………」
それでも、何も答えてくれない美咲の顔を見ていたら、何か大切な事を忘れてる様な気がした。
なんだったかな……
考えてもぜんぜん思い出せないぞ。
美咲は俺の言葉を無視したまま、鞄をもって玄関へ向かった。
本当に強情な女……
普段なら放っておくけど、
今日は美咲の誕生日だし……
プロポーズしようと思ってた大切な日だし……
仕方なく美咲を追いかけた。
美咲はバスに乗る。
俺たちの地元行きのバスだ。
「なんだよー?
実家に帰らせて頂きますみたいなことか?
まだ、結婚してないんだから夫婦喧嘩には早いだろ?」
おちゃらけた俺を無視して、美咲は窓の外を眺めている。
「…………」
バス停を降りて早足で歩く。
このバス停懐かしいな。
遊びに行って帰って来た時はこのバス停でバイバイだったもんな。
なかなか別れれなくて、ここで何時間も話したこと、あったよな……
人が感傷に浸ってるのに、色気ないなぁ……
ズンズン歩きやがって。
流れる景色を懐かしみながら美咲を追いかけついていく。
あれ?
ここって美咲の家じゃなくて俺の実家じゃん……
わかったぞ!!
俺のプロポーズが口先だけだと思って実家で言えって事か?
どんだけ、信用ないんだよ。
でもな……
母ちゃんにはもう、電話で報告済みだよ。
母子家庭だからめちゃくちゃ喜んだよ。
家族が増えるってな。
呼び鈴を鳴らしたら、すぐに母ちゃんが出てきた。
実家に帰って来たの久々だな。
母ちゃん、なんか小さくなったな……
なんて思ったけど、口には出さなかった。
なんか、母ちゃんは俺たちが来るの知ってたみたいにご馳走を作ってるじゃん。
「おっ!母ちゃん、いきなりごめんな」
中に入り、茶の間に座る。
久々だけど部屋はちっとも変わってなかった。
食卓に豪華な料理がならぶ。
母ちゃんのとっておきばっかりじゃん。
煮っころがしに唐揚げ、出し巻き卵……
ビール飲んじゃおうかな?
なんか、二人の会話が弾んでるなぁ……
美咲、最近は俺の事を無視してずっと無口だったもんな……
うちは嫁姑問題はなさそうで良かったよ。
「なんだ、もしかして来ること言ってあったのか?」
「母さん?ビールまだ?」
「…………」
なんなんだよ……
母ちゃんまで、俺を無視してるみたいじゃん。
二人でグルになってるのかよ?
いつまで、無視するんだよ。
なんだか、二人が楽しそうに話してる姿をみてたら腹が立ってきたぞ。
「なぁいいかげんにしろよ、美咲!」俺は我慢の限界で美咲の肩を掴んだ。
「そっ想史……」
美咲の唇がやっと俺の名前を呼んだ。
どうせまた、俺の心を鷲掴みにするような事を言って俺に謝らせるんだろ……
わかってるよ。
13年も一緒に居るんだ……
わかってる……
母ちゃんが急に涙ぐんだ。
「母ちゃん……?どうした?おいって……?」
「…………」
……なんで無視するんだよ?
俺がぜんぜん帰って来なかったから怒ってんのかよ?
母ちゃんが堰を切ったように泣き出した。
それから独り言みたいに呟いた。
「あんなグータラ息子だったくせに……
過労死なんかして」
ハハっ……
何を唐突に変な事をを言ってんだよ。
「なぁ?……美咲……?」
「…………」
美咲はおもむろに立ち上がり、
奥の部屋へ歩きだした。
「そっちの部屋なんて、何もないぞ。あるのは仏壇くらいだ……」
不安になりながら美咲の後をついていった。
彼女は心細そうに仏壇の前に正座した。
美咲はボソっとつぶやいた。
「ごめんなさい……」
美咲の目の前には俺の遺影があった。
美咲が俺に謝るなんて、はじめてじゃないか?
驚いたよ。
でも、悪いのは俺だよ。
今まで喧嘩して美咲が悪かったことなんて一度もなかったもんな……
だから、謝るなよ。
喧嘩してた理由も、自分が死んだことも思い出したよ……ハハっ
なんでこんな大切なこと、忘れてたのかな。
俺はバカだな。
本当に、死んでも死にきれないよ。
俺は力強く、拳を握った。
仏壇の前に青色の小さな箱があった。
ダイヤの婚約指輪。
半年前から準備してたとっておきだ……
仲直りの切り札。
店の人に言われて無理やり書いたメッセージカード
美咲はいくつになったって
ダイヤモンドだよ。
30歳、おめでとう。
愛してます。結婚して下さい。
_______想史
……らしくないことはするもんじゃないな。
一生に一回だからってサプライズしようと思ってさ……
だから、結婚のことなんて考えてないふりしたんだよ。
こんなことなら黙っておくんじゃなかったよ……
美咲と過ごした時間は俺の宝物だよ。
最後に思い出せてよかった。
だって、死ぬ前の俺は忙しすぎて過去を振り返る時間なんて無かったから……
あぁ……
そうか……
そろそろ時間みたいだ。
俺たち、ちゃんと仲直りできたよな?
「美咲……本当にごめん」