容疑者『M』
さて、回想おーわりっ。精神が強くなったという感じはしないけど、きっと僕のステータスのどこかが向上したに違いない。
「あぁ、暇だなぁ・・・」
とりあえず声を出してみたが何も解決されない。一人しりとりを前にやったことがあるけど、あれはあまりやらない方がいいな。飽きたときになんかすげー虚しくなるから。思い出しても虚しくなることが今分かった。
「チャットでもしますかねぇ・・・」
僕が暇になるととりあえずやってしまうのがチャットだった。相手の顔が見えないというのは僕にとっては素晴らしいシステムだった。気兼ねすることなく自分の気持ちを書けるからだ。リアルでも気兼ねなく話すことができる友人を持っている人はそれだけで勝ち組だと僕は思う。羨ましいねー。
「今日はいるかなぁ」
いつもチャットをしているサイトにアクセスして、とりあえずあの人を探してみる。
あの人とはここ最近チャットを通じて仲良くなった『まちこ』さんである。年齢不詳、性別不詳と分からないことだらけだが、まちこさんとネットを通じて文字で交流をしていると不思議と落ち着く。こんな風に話せる人は僕がリアル世界で健全な少年だった時代にもいなかったかもしれない。
「おっ・・・」
いたいた。まちこさんは毎日いるというわけではないから交流をすることができるのは不定期なのだが、今日はついている日らしい。少し幸せな気持ちになれたぞ。
早速チャットルームに入室。ネットでの僕の名前は『つじた』
この際なので自己紹介をしておこうと思う。僕の名前は辻本康太。特技は引きこもることです! 履歴書に書いたら減点対象にしかならない特技だが、他に特筆することもないしなぁ。
つじたという名前は我ながらネーミングセンスがないものだと思うが他に思いつかなかったのです。ゲームでの名前入力も本名使っちゃうような人ですから。
さて、自己紹介はこれくらいにしておこうかな。今後ともよろしくー。誰に言ってるんだ僕は。
つじた さんの発言>『こんばんはー』
とりあえず挨拶を入力。現在時刻は5時という微妙な時間だがこれで問題ないだろう。随分と長いこと外に出ていないから分からなくなってきたぜ。
まちこ さんの発言>『こんばんは、つじたさん。今日も元気そうですね』
別に元気があるというわけではないがそんなことわざわざ突っ込まない。社交辞令くらいは引きこもり生活の中でも忘れることはないようだ。
つじた さんの発言>『さっき自分の過去を回想してみたんだけど、ろくなことがなかったよー。慣れないことはするもんじゃないねー。』
まちこ さんの発言>『あら、そんなことはありませんよ。人間常に新しいことに挑戦しなければ成長しませんからね。つじたさんは今日一日でスライム百匹分くらいの経験地を入手したと思いますよ』
つじた さんの発言>『それは成長したのかどうか判断がしにくいなぁ・・・』
実は『新しいことに挑戦しろ』という部分に心をぐさりとやられていたりするのだが、気にしないようにする。相手に心情を読まれないのもネットの利点だよね。これが現実の話だったら動揺ばかりでドン引きですね。
まちこ さんの発言>『ところで、今日はつじたさんに提案があるのですが』
つじた さんの発言>『おー、なになに? もしかして愛の告白だったりする?』
まちこ さんの発言>『前向きな思考は評価に値しますが、時には現実逃避にとられしまいますから注意してくださいねー』
またもや痛いところを突かれたなぁ。もしかして僕の心を読んであえて言っているのか?僕にもっと成長してほしいという意味を込めてのことだったら嬉しいような気もする。
僕はまちこさんのことを勝手に女性だと思っているが、真偽は定かではない。先程のやりとりも過去何回も交わされたものなのだが、皮肉を言われることはあっても性別を自ら明かすということは一度もなかった。
まぁ、性別を仮に明かされたとしても本当かどうかなんて本人にしか分からないからあまり意味はないけど。世の中本人にしか分からない心の暗部って山ほどあるよね!
まちこ さんの発言>『話を戻しますけど、提案というのは直接つじたさんと会うということなのです』
つじた さんの発言>『会うってリアルで会うということですか?』
まちこ さんの発言>『はい』
おいおい、マジですか。確かにチャット上では親しげに話しているし、現実で会ってもうまくいく可能性はあるが、やっぱ怖いよなぁ。
君子危うきに近寄らず、なんて言葉もあるしねぇ。僕は君子なんて呼ばれるような人間じゃないけど、昔の人の言葉は都合の良いように解釈するべきだろう。
つじた さんの発言>『いや、それは遠慮しとこーかなーっと。僕は引きこもりちゃんですので』
まちこ さんの発言>『確かに、もう一年になりますしねぇ。だからこそそろそろ外に出るべきだと私は思うのです』
おや?なんか今僕のことを知っていなければ不可能な書き込みをしなかったか?
もう一度よく見直してみる。・・・うん、やっぱりそうだな。
これは単に『勘で書き込んでみたら当たっちゃった☆』みたいな感じなのか?それなら『すごいなぁ、まちこさんは。将来はエスパーになってテレビに出演しまくりだね☆』とユーモアのある書き込みができるのに。
うーむ・・・これは一応聞いてみるか? 一生の恥より一時の恥を選択した賢い僕は早速指をカタカタ動かす。
つじた さんの発言>『なんで一年だと思ったの? もしかしてエスパーなのかい?』
まちこ さんの発言>『いいえ、エスパーなんかではありません。私は自分の目で見たものしか信じない性質なのです』
つじた さんの発言>『それは殊勝な心がけですね』
なんか怖くなってきたぞ。なぜ知っている。いや、やっぱ冗談だろう。
この広いネット世界で個人を特定するなどよほどの知識がないと無理難題だろう。仮にそれだけの知識を所有していたとしても、その知識をわざわざ僕のような一般ピーポーに使う意味は皆無に等しいはず。
使うなら警察の機密情報見るとかそんな感じに使うもんじゃないのかな?漫画とかじゃよくありそうだな、これ。
まちこ さんの発言>『私はつじたさんのことならなんでも知っているんですよ。つじたマスターとでも呼んで下さいな』
つじた さんの発言>『それではつじたマスター。他にはどのような知識をお持ちで?』
不安や恐怖が入り混じった感情が生まれていたが、好奇心によって指はよどみなく打つべき文字を打っていく。まるで自分が自分じゃないみたい。
実は一年前のあの日に自分を既に失っているのかもしれないな。
なんてオカルトチックなことを考えてしまう。引きこもり生活で前よりは想像力が豊かになってきたのかもしれない。
まちこ『いっぱい知ってますよぉ。つじたさんの元親友菜々美さんのことや、何かを考えるときに顎に手を当てること。そういえばトマトが嫌いでしたっけ?』
驚愕。この言葉を体で表現していると言っても過言ではないほどに僕は動揺した。
もう偶然では片付けられない。間違いなくこいつは僕のことを知っている人間だ。
では誰だ? 『元』親友といった表現を使うところから見て一年前僕が引きこもる原因となった事件を知っている人間であることはほぼ間違いないだろう。
あのときの不良? ネットでネカマをやるようなやつにはとても見えなかったが、人は見かけによらないというしなぁ……
僕も昔友達に『初めて会ったときはもっと元気な奴だと思っていた』と言われたことがある。普段の僕はそんなに元気そうに見えるのかね。喜ぶべきなのか嘆くべきなのか悩ましいところである。
話がそれてしまった。今は回想タイムではないだろ、僕。
真実を追究するために僕は目の前の敵に勇敢に立ち向かった!
……4自分を奮い立たせるために前向きな思考をしてみたけど、やはり主人公のような思考は合わないようだ。所詮は村人Aくらいが限界か。
つじた さんの発言>『あなたは誰なんです?』
色々考えたが結局一番知りたいことをストレートに聞くことにした。回りくどく聞くよりはこっちの方がいいだろうと思ったのです。
まちこ さんの発言>『それを知りたいなら、私と会ってくださいな。その時全てが分かりますよ』
僕は今世界の闇に立ち向かっている・・・! これはあながち間違ってないかも。
僕の世界は現状この部屋だけだからな。プライベートに正体不明の人間に立ち入られるのは世界の崩壊に等しい。由々しき事態である。
これはなんとかしなければいけない問題だ。直感的にそう感じる。
放っておいても意外と何もないかもしれない。
そんな楽観的な考えも僕の仲に確かに存在した。元より面倒ごとは嫌いな性格だ。
楽観的な考えと同時に悲観的な考えが存在するのも事実。心の天秤で重さをはかった結果、悲観的な考えのほうが重いことが判明した。
なら行くしかない・・・か? 自分に嘘をつくの、よくない!
人生生きているだけで他人に嘘を重ね続けるのなら、せめて自分にくらいは正直でありたい。その結果が現在の引きこもり生活だと思うとこの考えは間違っているかもしれない。
多分、僕はただの我侭野郎ってことですかね。
つじた さんの発言>『分かりました・・・そちらの要求をのみましょう』
まちこ さんの発言>『急にそんなかしこまらないでくださいな。いつもみたいにキューティーまちこちゃんと呼んでください』
つじた さんの発言>『そんな呼び方で呼んだことは一度もないよ、ハニー。てかさっきつじたマスターと呼べと言っていなかったか?』
まちこ さんの発言>『そういえばそうでしたね。過去は振り返らない主義なんです、私』
僕だってそうなのにお前のせいで思い出したくもない過去を思いだしちゃったぞこのヤロー。思わず心中を書き込みそうになってしまったが自制する。
相手の正体が分からない以上、無闇な挑発は控えたほうがいいはずだ。
なんだか高度な心理戦みたいになってきたなぁ。そう思っているのは僕だけで、多分まちこさんは遊び感覚なんだろうな。
手のひらの上で踊っている、みたいな感じ? まさしく雑魚じゃないですか。
つじた さんの発言>『ではいつ会いましょうかキューティーまちこさん』
まちこ さんの発言>『状況に適応する能力はそれなりにあるんですね。日時は今日の深夜十二時というのでどうでしょうか?』
「急すぎる!」
おもわず声に出てしまったじゃないか。両親とか妹に聞かれたらどうするんだ全く。この家で住んでいる人は全員僕を物静かな子だと思っているんだぞ。
ちなみに妹の名前は綾里である。由来は忘れてしまったがきっと素晴らしい意味が込められているに違いあるまい。シスコンというわけではないので、誤解なきようにお願いします。
つじた さんの発言>『ちょっと急すぎやしませんかね?』
まちこ さんの発言>『人生何があってもおかしくないということをつじたさんに知ってもらいたいと思い、日程を急なものにしてみました』
つじた さんの発言>『余計過ぎるお世話ですな』
文字で交流をしているうちに、いくらか心が落ち着いてきた気がする。そう思いたいだけという線も十分ありえる話だが。この際それでも構わない。
正体不明の相手に身元が判明しているという緊急事態だが、これ以上取り乱しても精神が磨り減るばかりだ。相手のペースに乗せられないように注意することにしよう。
そしてまちこさん(なんだかさんを付ける必要はもうない気がしてきた)の要求にどう対応するかをしばし黙考。
今日のことを全部なかったことにして、いつも通りの怠惰な日常に身を沈めるのも悪くない。むしろ僕としてはそちらの方を強く希望している。
しかし、臆病な僕が正体不明の相手に知られているという状況に耐えることができるだろうか?
今までこの生活を続けられたのは代わり映えのない日々がずっと流れ続けてきたからだ。
このままでは僕の日常に変化が訪れてしまう。すなわち、僕の世界の崩壊に直結する。
崩壊とまではいかなくても、この変化は悪い変化だろう。それくらいは予想がつく。
そんなことはあってはいけないのだ。
なけなしの勇気と微々たる好奇心を奮い立たせ、僕は目の前の敵に立ち向かうことにした。レベルが低くてもなんとかなるさ。そんな楽観的な思考を携えて。
つじた さんの発言>『分かった。わがままな君の要求をのんで、僕は一つ大人になるとするよ』
まちこ さんの発言>『まあ、ありがとうございます。つじたさんと会えば私も一つ大人になれる気がします』
大人になるということはつまりそういうことか?ちょっとドキドキ。
あ、そういえば性別が不明だったな。もし同姓なら先程のやりとりはおぞましいものに変貌してしまう。考える必要性はないし、そもそも考えたくないので思考の彼方へ投げ飛ばした。
まちこ さんの発言>『では、近くの公園で待っていますね。楽しみにしていますから』
どうでもいいことを考えていると返信が遅いことにしびれを切らしたのか、勝手にやりとりを終了させた。せっかちな人なのかねぇ。
了承してしまったものの、本音を言うと非常に行きたくない。
窓を開けるのも多少躊躇ってしまう僕には難易度の高すぎる試練だ。神様、もうちょっと簡単な試練を与えてください。成功させる自身がありません。
時刻は午後七時を回ったところ。約束の時間までまだ時間がある。
かといってやることがあるはずもない。何が起きてもおかしくない事態にそなえ、何かしらの準備をするべきなのかもしれないが、特に思いつかない。
思えば小学生のときの遠足も大した準備をせずに出発していたなぁ。結局何かしら忘れて知り合いとギリギリいえるような間柄の人に借りたり助けてもらったりしていた。
多分、僕の力になってくれていた人間の大半は乗り気じゃなかったろうに。小学生くらいだとなかなか先生に逆らいにくいからな。言いなりになるしかないわけだ。
なんだか今日は過去を回想してばかりな気がする。無意味なことかもしれないし、今後の人生に何かしらの影響を与えるかもしれない僕の記憶たち。
できれば後者であってほしいなぁ。無意味なことにこそ意味があるという矛盾を聞いたこともあるけど、やっぱりストレートに意味があったほうが分かりやすくていいよね。
ちょっと哲学的な考えじゃないかこれ? いや、そんなことはないな。
自問自答で時間を潰しながら、できるだけこれから起きることを考えないようにすることにした。
こう見えても目の前の問題から逃げることは結構得意なんですよ。