先の見えない希望
家に入る前に回りを見渡すと辺りは既に暗くなっており、長い間外にいたのかと驚かされる。
「ただいま」
一応言ってみるも返答はない。無視されているだけかと思ったが、どうやら両親は現在外出中らしい。靴が明らかに朝見たときよりも減っているからな。
「おかえりー。お散歩はどうだった?」
誰もいないと思っていたのでいきなり綾理が飛び出してきて少し驚く。よく見ると今朝僕が勧めた赤い靴が玄関に揃えて置かれていた。履物を揃えて置くとは感心だ。
「特に変わったことはなかったけど、気分転換にはなったと思うよ」
「それはよかった! 少しでも早く外に出ても大丈夫でいられるようになるといいね!」
綾理が笑顔で僕にそう告げてくる。綾理を心配させていることに少し罪悪感。
綾理のためにも正常な人間になりたいけど、それはまだまだ先になる気がしてしまう。こんな風に思っているからいつまでも変わることができないのかもしれない。
精神面を鍛えることが今後の課題かな。夜町さんはどう思っているんだろう。
「あっ!」
綾理が急に声を荒げ、慌てふためく。何か忘れ物でもしたのだろうか? 僕の顔に何か付いているというありがちな展開も否定できない。
「友達の家に忘れ物をしちゃった・・・取ってこなきゃ」
予想は的中。特に嬉しくはないが。
「もう今日は遅いし明日とかにとりにいけば?」
「今日じゃなきゃ駄目なの。今からとってくるね」
綾理は用意もせずに玄関へと向かい、再び赤い靴を履く。朝見たときと比べて少々汚れが付いているのを発見し、ちゃんと履いているのだなぁと当たり前のことに何故か心を打たれる。
「じゃあ、いってくるね。あんまり夜遅くに外出とかしちゃだめだよ!」
それはこっちのセリフだ、と言う前に綾理は飛び出していった。あの慌てようからしてよほど大事なものを忘れてしまったとみた。
兄へのプレゼントとかだったりしたら感激のあまり泣いてしまうかも。すぐに妄想してしまう自分自身に涙を流しそうになってくる。
綾理の後を追っても恐らく嫌われるだけなので、とりあえず自室に戻る。早速夜町さんにメールでもしてみようかな。でも今は忙しいかもしれないなぁ。
こんなことをワクワクしながら考えることなんて何年ぶりのことだろうか。元々友人が少なかったので経験は数えるほどしかない。
自室に戻り、まずは自分の所有する携帯電話を探しはじめる。これがないと何も始まらない。
捜索には時間がかかるであろうと覚悟したいたが、思いのほか早く発見することができた。
いまではほとんど使うことがない学習机の端の方にぽつんと置かれていた。埃をかぶっていて使う気が少し失せたが、どんな状態であろうと携帯電話であることには変わりないと思うと汚れなど気にならなくなった。
見つけたはいいが、いざメールを送ろうとすると羞恥心が携帯のボタンを押す指の動きを鈍らせる。チャットをいつもやっているのでその延長線上にあるものだろうと侮っていた。
少しの間黙考したのち、夜町さんにメールを送ることを決意する。夜町さんなら仮に今メールをする余裕がないほど忙しくても怒ったりはしないだろう。
文面を考えてみるが夜町さんが唸るような素晴らしい文が思いつかない。どうやら僕には文才がないようだ。
ユーモアのある文章を送るのは無理だと早々に断念し、ありきたりな文章を打ち込んでいく。
『メールしました。これからもよろしくお願いします』
自分で打った文章を見直してみると呆れるほどつまらない文章であることがよく分かってしまう。
絵文字とか打ったら少しは面白くなるかな? いや、下手に冒険すると帰って傷つく可能性もあるしここは安全ルートでいこう。何も最初のメールから飛ばす必要はないのだ。
深く考えずにそのまま送信。送信完了という文字を見て達成感が体中を駆け巡る。
たかがメールを送るだけでも僕にとっては大きな仕事だ。
メールを送って余裕ができた僕は今までのことを少し振り返ってみることにした。
こうして人と関わったり菜々美との確執が消滅したのも夜町さんが僕を誘ってくれたからだ。
会ったときから少し行き過ぎなところがあるとは思っていたが、僕を思うゆえの行動であると考えたらそれも感謝の対象になる。
ちょっと前の僕だったら『これからもよろしくお願いします』なんて文打たなかっただろうな。何がなんでも外に出ることを拒み、人との関わりを断絶することに全力を注いでいたはずだ。
夜町さんが僕を変えてくれた。他人から見たらほんの僅かな一歩でも、確かに僕は前に進むことに成功したのだ。
後は人の目線を意に介さなくなったら、僕も正常な人間の仲間入りだ。そこへたどり着くにはまだまだ時間がかかるだろうが、それでも前に進もう。
大丈夫。僕には夜町さんという心強い味方がいる。
一年前の事件が起きたときには誰も信じることができていなかったのに、いつのまにか信じることができるようになっている。気づかぬ内に自信が成長しているということに喜びを感じる。
いつかは学校に行けるようになるかな。クラスメイトの冷ややかな目を想像すると身震いしてしまうが、それでも夜町さんがなんとかしてくれるという淡い期待もある。
しかし学校に行くとしたら、いつでも夜町さんがそばにいるわけじゃない。基本的には全て一人で行動をし、問題を解決していく必要がある。
それを考えると少し不安だ。でもこのまま夜町さんの社会復帰プロジェクトの通りに行動したらこんな不安も霧散するかな。するといいな。
そんな前向きな思考が巡り、気持ちが高揚しはじめた頃、机の上に無造作に置かれた携帯電話が震えだす。
いきなりのことだったので驚いてしまう。心臓に悪い機械だ。
携帯を開いて確認すると、英語の羅列が画面に表示されている。
一瞬迷惑メールかと思ったが、単に夜町さんのアドレスを登録していなかっただけだった。携帯の機能をほとんど忘れてしまっているな。
遂にアドレスに『母』以外の人物が登録されるのか。感慨深い。
綾理は携帯を所有していないからな。我が家では高校生にならないと購入してくれないというルールがあった。
チャットをしていると今時の中学生は携帯を持っていることが普通らしいので少し綾理を気の毒に思う。
夜町さんのアドレスを登録してから早速内容を確認。
きっと『メールくれてありがとうございます。これからも頑張りましょうね』とかそんな感じの内容だろうなぁと予想してから文に目を通すと目を疑いたくなるような文章がそこにはあった。
『緊急事態。すぐに今日いた公園にきてください。これは康太くんの社会復帰レベルを上げる大チャンスでもあります』
これは一体どういうことだ。夜町さんは僕のことをからかっているのか?
予想と反する緊迫したメールにひどく動揺してしまう。大体社会復帰レベルを上げるチャンスってどういうことだ。意味が分からない。
このまま混乱していても時間の無駄だととにかく心を落ちつかせることに努める。
公園に行ってみよう。全てのことは公園にいけば理解できるはずだ。
帰ってきたときの格好そのままで何も用意もせず家を飛び出す。これがただのドッキリとかだったらいいんだけどなぁ。いや、よくもないか。
夜町さんの言う緊急事態ってどんなことだろうか? 僕に会いたくなったとかだったら僕の心が緊急事態になってしまいそうだ。流石にありえないか。
運動不足な体に鞭打ち、ひたすら公園への道を走っていく。どうか全てが無事に終わりますように。僕にだって幸せな展開を願う資格くらいあるはずだ。