第二章 EB直接描画技術者
朝九時、伸也の起きる遅めの時間
伸也は朝は菓子パンで済ませる、たいていウィンナーの挟んである大きめの菓子パンだ
コーヒーと菓子パン、これがお気に入りだ
伸也はキャスターマイルドを一服し、出勤する準備をした
フレックスタイム制の伸也は朝十時までに出勤する
伸也の勤めている研究所はゼーマンULSI開発研究所というが、そうあの物理学におけるゼーマン効果のゼーマンである
こや池の近くの泉ハイツから、徒歩十分西へ向かって、ずが池の畔にある研究所へ小走りに急ぐ
たいてい途中からお腹の具合が悪くなり、研究所に向かうのはいつも小走り、研究所の敷地内のC棟(コンピューター棟)セミナールームの隣のトイレに駆け込む
同僚の『佐藤浩一』似の鈴本は、朝九時は夢の中、九時四十分鈴本の目覚ましのベルがなる
「いつも大丈夫?遅刻してない?」
「大丈夫、走ってるから。体力付くね、健康に良いよ」
こんな事で良いのだろうか?よく遅刻しないよな
「テレポーテーションでもしてるのか?」
伸也はいつも思う
「ま、人は人」
伸也は呟く
伸也と鈴本は2LDKに一人一部屋で研究所の借り上げマンションに同居している
伸也と鈴本は、同期で同級生だ
相性も良い
昔二人が初出勤の日、こや池から西へ十分なのにこや池の外れから南の方角へ歩いていってしまった
途中運良く気が付き、後戻りして、ずが池の方向へ向かった
大体、どちらも研究所へ行く道を確かめていなかった
二人は、相手が知っているものと思っていた
「はは、危なかったね」
「でも良く気づいたよな」
テレパシーで「そっちは違うよ」ってきたんだ
「へぇ」
その時は時間に充分ゆとりを持って行ったので、何事もなかった
そして、やっとの思いで研究所へ着いた
日記に記した
(道に迷うなんて、笑い話だ。同期の皆が笑っていた。自分も笑った)
伸也は密かにシリコンウェハー上でゼーマン効果が起こりうる、懸念を懐いた
そんな事がウェハー上で起こったらチップのデータが破壊され、大変な事になると考えた
ゼーマン効果とは、1896年にオランダのピーター・ゼーマンが発見した現象であるが、「果たしてそんな事がシリコンウェハー上で起こりうるのであろうか?」
「単なる考えすぎであって欲しい物だ」と伸也は思った
EB描画装置ではEBを照射するため磁場が発生して、ゼーマン効果が起こりうるかも知れない
実際は殆んど無いが
スペクトルが分裂するため、粒子エネルギーが拡散されてもおかしくはない
これは、量子力学の成立後に電子のスピン角運動量と軌道角運動量がカップリングされるために起こることが判明し、ウェハー上ではその影響が近接効果補正によって、ほぼなくなる事も判っている
これにより伸也の思いは叶うことになる
「良かった」伸也は呟いた
伸也はデスクのパソコンを眺めながら、コーヒーを啜った
そのとき、電話のベルがなり響いた
「もしもし、伊藤ですが?」
「本田です、近接効果補正の事でお話が・・・」
「プロックスの事ですか?」
「情報によると、そのプロックスで補正の掛け方は光転写のマスク作製の時よりも、強めに掛けたほうが良いと聞いたもので」
「大丈夫ですよ、既に手は打っています、プログラムを直描用にしたので従来のジョブで行けます、詳しくはメールしときますから」
「そうなんだ、ありがとう」
ありがとう、そんな言葉が伸也はとても嬉しかった
携帯でメール?
そう、この時代は携帯電話が、まだ普及していなかった
パソコンの通信を使ってのメール
通称ユードラ
実にユードラは携帯メールの初期の初期である
伸也には、近接効果補正についての応用物理学会での発表が数ヵ月後に待っていた
「発表か、腹こわしそうだな」伸也は思っていた
伸也は、この発表に掛けていた
「近接効果補正はマスクにも適用しているんですよね、ということはプログラムはそのまま使用できてるんですか?」今更ながら伸也が本田さんに尋ねた
「そのままって言うわけではないけど、使ってるみたいだよ」
近接効果補正と言うのは、集積回路の設計に置いて予め描画強度を近接について変化させて補正する技術である
この技術は光転写のマスクを作成するときに置いても一般的に使用されている
EB直描についてはこの技術が欠かせなかった
EB直描はこの時代、0.15μmのライン&スペースをレジストによりシリコンウェハー上に形成する技術として研究された
伸也はその一端を追及するため、研究していた
0.15μmと言うのはこの時代、光の波長を考えると設計上限界に近い値であった
その時の一般的な光転写技術の露光限界に近かった
そのため1GDRAM開発にとって、この時代EB直描技術は必要であった
後にレベンソンと言う技術に取って換わられるかもしれないという事になるのもまだ知る由も無い、現在ではEB直描技術はどうなったのかは、伸也に知る由もなく
また、それは残念な事である
然しながら伸也は研究に明け暮れた毎日であった
そして出来上がったデータを設計ツールで確認する
広い意味の設計データである描画用のデータはこうして手作業で造られていた
このデータを描画可能なデータに変える事を一般的にデータ変換と呼び、伸也の担当する技術であった
朝ジョブをバッチ処理しようとプログラムを組んで、その処理が終わるのは夕方出来上がるのであった
技術が進むに連れデータは集積率を増していった
データの集積率によっては熱雑音が発生し、雑音は温度による
雑音を有効活用している例としては、熱雑音による乱数発生を活用しランダムな値を得る方法として使用する技術がよく知られている
データ変換は集積回路の設計パターン描画においては必要不可欠なものであった
今日の昼食はカレーだ、伸也はこよなくカレーが好物であった
カレーの早食いは得意だ、まるでカレーを飲み物のようにぺろりと食べる
しかし、本田さんはその上をいく速さでカレーを食べる、先に食べ終えたことは記憶には無い
「今日入手した設計データは、新型の設計変更で出来た全く新しいタイプのカテゴリーを使用したものなんですよ~」
「そうなんだ」本田さんは素っ気無く簡単に受け流した
「なんと0.08μmのゲートを使用してるんですよ~」
「そんなの、出来るわけ無いじゃん?」
「それが、実はゲートを横から観たら幅が0.2μm有るんですよ~」
「ふ、レジストが無理だよ、ゲートのパターンが倒れてしまう」
「ま、設計はいつも夢をみてますからね、俺も設計に転向しようかな?」
「もうすぐフラッシュメモリーが最先端の奴、実用化されるからね」
二人とも設計ツールを操ることが出来たのだ
今日のカレー早食い記録は二分、最速だ
これでシムシティーをして遊ぶ時間が48分も出来る
ちょうど向かいのテーブルに写真製版技術グループの女の子連中が座っていた
通称L転写ギャルグループだ
「ふふふ」
どうも二人のカレー早食いを笑っているような、雰囲気がしていた
彼女たちは、未来のリソグラフィーに欠かせないレジストの開発もしていたが
光転写ではレジスト開発がどう頑張ったとしてもL&S(ライン&スペース)で0.2μmが限界の値で、次の仕事としてはEB直描用のレジスト開発を担って頂かなくてはならない事は明白で、伸也達のグループもそれに期待していた
昼休み時間が終わりかけていた時に、電話が鳴り響いた
「もしもし、伊藤です」
中本グループリーダーだ
L直描Gを取りまとめている人物
見るからに『良いおじさん』そのものであった
「あ、君ね特許申請してるね」
「はい」
「あれ、内容診たよ、なかなか面白いが現実では不可能だよ」
「は、はい?」
「真空中に電子ビームが走っている中、ビームの周りに保護する新たなビームを形成させる。なかなか良いアイデアだが、不可能だ」
残念な報せであった
「また、別のを考えます」
前向きに返答をしたが、内心悔しかった
ふと、パソコンの画面を見るとシムシティーがフリーズしていた
「午後から会議か」伸也は気を取り直して、会議で応物での発表の練習をさせてもらえる為、その用意を始めた
『大容量に置けるEB直描用データ変換技術とこれによる0.15μmL&Sの形成技術』
これが、今回伸也の発表の表題であり、結構何回も書き直した
ちょうど年末の慌しい時期であった
「え~あ~あ~」
いつに無く緊張した面持ちの伸也の第一声がこの長い「え~」であった
練習とはいえ、みんなの目がこちらを見ている中、言いたいことを思い浮かべて台本なしで発表
結構緊張するものだ
時間は十五分、短いようで長い時間が過ぎていった
「ま、ぶっつけ本番でやるよりは良かろう」中本さんが感想を述べた
「はい、有難う御座いました」
「細かい所は又後で」
結局、手直しが入り、数箇所の変更を余儀なくされたが、伸也はまあまあだと思った
この研究所でかわっているのは、パソコンがすべてマッキントッシュであることだ
MACはまだ初期のウィンドウズ95が無く、この時代の開発用に使われていた
今となっては昔話である
会議も終わり。また、コーヒーを啜る伸也であった
もちろんやっているのはOHPの手直しである
「後は、どれだけスムーズに話せるかだな」
「緊張するなあ」伸也は呟いた
今回の応用物理学会の発表会場は金沢工業大学であり、伸也は初めて行く所だ
そこは、広いキャンパスを持ちまるで公園のような敷地を持っている所でした
応用物理学会にて
『・・・と言うわけで、EB直描による0.15μmのライン&スペースをレジストで形成する事が出来ました』
金沢工業大学の12講義室で伸也の発表がおこなわれました
伸也にとって十五分というのは長かったような気がした
ちょうど午後2番目の順番で、伸也は昼ご飯が喉を通らないほど緊張して、心臓はどきどきと鼓動をたてていた
質問の時間になって、ある人からの「写真は縦のラインだけですが、横はどうしましたか」という質問に、緊張のあまり「はい、観ていません。ビームが縦と横同じなら良いと考えました」とあっさり、不恰好な答えをしてしまった
この事は今でも心残りであった
(発表か、如何すれば緊張しなくてすむのか?誰か教えて欲しいものだ)
日も暮れる夕方になりかけたところ、新しいチップのデータ変換もそろそろ終わっているはず
直描装置はシーケンサによる自動運転で、一回プログラミングすれば出来上がりまでほぼ自動的に描画する仕組みになっていた
これはすべてVAエックス内で操作されるため、プログラムはVAエックスのエディターで作成された(総称してVMSと言う)
「さてと」
伸也はU棟からC棟を抜けNVL棟に走った
そして、素早く真っ白の無塵服に着替え、クリーンルームへ飛び込むように入った
NVLのクリーンルームは1Fが後行程、2Fが前行程と分かれていた。伸也は2FのEB描画装置室へ階段を上がり、すたすたと向かった
ところであなたは、シランボンベをご存知でしょうか?
シランとは常温で発火する、大変危険なガスで、そのボンベがNVL棟の2Fに存在しました
そのガスの使用目的は、詳しくは伸也の知る所には無いのであった
クリーンルーム内の通路の途中にいつも使っているSEMが二台並んでいた
その中の一台に小柄の人が真剣な眼差しでモニターを観ているのに気が付いた
彼女がL直描Gのポジ型レジスト開発の責任者、木村だ
「確か木村さんは足を怪我していた筈だが?」
その様子からもう治ったようだと言うことが判った
「何観てんだろう?」
伸也は、SEMの映像を観て「はっ」とした
スケーラーから見ると0.05μmのホールの様子である
「出来たんだ~0.05μのホール、良かったね」
「凄い?」
「そだね」
「もっと喜びなさいよ」
「それはそうと断面SEMとかも観るんやろ?」
「そうよ、明日ね」
「なるほど、頑張ってね」
「無理はしないように」と伸也はテレパシーを送った
すると、木村はうんうんと肯いていたような気がした
レジストにはネガとポジがあるが、ホールパターンはポジのレジストによって形成されていた
露光された部分が溶けて無くなるのである
逆にネガは露光された部分が残る
ホールパターンの場合インラインSEMだけでは真上から見るだけであるため、断面SEMでの観察が必要になってくる
ゲートパターンも当然の事に断面SEMの映像を観ることが好ましい処である
処でレジストは有機溶剤の一種なので有機溶剤作業主任者の講習を受けることが必要とされて、伸也もその講習を受けていた
日記にこう記した
(EB直接描画技術をライン化するには、今やっている作業の固定化が必要だ。そして自動化出来る所は全て自動化出来る様にしよう)
年末、忘年会シーズンがやって来た
「今年もいろいろ有ったが、皆お疲れ様でした」GLの挨拶が終わり、皆いっせいにビールを飲んだ
「木村さん、本田さんとどうなん?」
「そうね、良き先輩であり、只の後輩でありって所かしら」
「2、3年したら若しかするわけ?」
「ばか言わないで、そんなの分からないわ」
この時は皆、L直描がずっと有り続けるものだと思っていた
あの悪夢が襲い掛かることになるとは夢にも思っていなかった
そのときは悪夢とはこんな事なんだと思った
思ったと言うより、後で考えさせられたのだ