序章 データ変換という仕事
伸也は呟いた
何処を見てという訳でもなく、小首を傾げながら、その呟きは喜びに満ちていた
決して他人には聞こえない位の声で「もう少しだ」
密かに思い懐いていた感情だ
「そうだよ」伸也にテレパシーが何処からか届いた
こんなにも早く夢が叶うなんて、エンジニアとして最高の事だった
「是からが本番だな」凛とした眉を顰め気合を入れなおした
ゼーマンULSI開発研究所U棟開発センター、兵庫県東部にある
Uはウルトラである
最先端の半導体製造技術開発の拠点として設立された研究所である
伸也がいつものようにワークステーションでロットの進捗状況を確認する
ホストコンピューターへのログイン、いつもの日課だ
このロットは設計最小サイズが0.15μmという物であった
そして、いつものユーザー名とパスワードを入力する
『LEB』 『EBDIRECT』
1GDRAMの開発が、まだ初期の段階で、何もかもが手作業の時代の半導体製造エンジニアの苦労話、伊藤伸也の物語です
伸也は当時27歳、『東幹久』似の働き始めて3、4年という若い駆け出しのエンジニアでした
半導体の製造装置のエンジニアとして日夜勉学に励み、プロのエンジニアとして成長する日々を送り続ける毎日でありました
「伊藤です、宜しくお願いします」
「あ、うん聞いてるよ、本田といいます。宜しくね」
伸也には三つ先輩の本田さんという、強い味方がいた。本田さんは眼鏡を掛けた『サザンの桑田』似の人で、本田さんを伸也は慕っていた
「是から、忙しくなるから頑張って」本田さんは伸也を歓迎していた
「はい、どんな事でもやります」
「君にはデータ変換をやってもらいたい、希望は装置のエンジニアという事だが、是もやってもらうから」
「はい、喜んで」
しかしながら上司、部下という関係ではなかった
レジスト開発の責任者であると同時に直描装置の運転担当者をしていた本田さんは近大の工学部修士課程を卒業したエリートだ
学生の時は超伝導素子の研究をしていたそうだ
昼食もよく一緒に食べ、カレーの早食いをした
「え、福岡出身ですか?僕もそうなんですよ」
「そっかあ、頑張ろうね」
(本田さんに就いて行こう、本田さんは信頼の於ける掛替えの無い人だ)
「今日のSEM(走査型電子顕微鏡)の時間割は、どうだったかな?」伸也はSEMの時間割が気になった
インラインSEMは時間割制で、観る事の出来る時間が決められていた
「確か、L転写の次だ」伸也は呟いた
L転写Gというのは半導体写真製版の専門グループである
写真製版とは半導体製造の前工程で、シリコンウェハー上にレジストによって集積回路のパターンを転写する技術のことである
「本田さん、SEMの時間2時間も貰って良いんですか?」
「そうだね、木村さんと上手く使ってね」
木村涼子という娘は伸也と同期で、後にレジスト開発の責任者となる人物でありました
256MDRAMまでの設計最小ルールに於いて最先端の光転写技術は当時の半導体製造に欠かせない技術であったのだ
伸也はNVL棟(新型半導体製造工場)のクリーンルームへの長い廊下を歩いてると
何処からとも無く伸也にテレパシーが送られてきた
「クリーンルームでは気をつけて。ふふふ」
半導体製造用のクリーンルーム内では、全身真っ白な無塵服を着て、目だけが出ている格好をしていた。
パッと見、誰だかは分からない
夕方から2時間SEMを使用できる。その後も誰も使わないだろうと思い、使えるなと思っていた。徹夜してでも、このウェハーは見ようと思っていた物があったのだ
しかし伸也は少し疲れていたのであった
今日は週末なので、クリーンルーム内はそんなに混んではないだろうと伸也は思っていた
予想どうりクリーンルーム内に人影は疎らなものであった
「さて今日は大急ぎだ」見たいサンプルが沢山ある事だし。そう思いシリコンウェハーのサンプルデーターの最新のものをSEMに入れた
まず、ビームの調整だ。そしてモニターする位置を目的のパターンの位置まで移動し焦点を合わせる
SEMは当時、NVLに二台あり、日立製と日電製を置いていた。伸也達は日電製を好んで使用していた
モニターにレジストによって形成されたゲートパターンが映し出されていた
幅は0.15μmである
ゲートと言うのはトランジスタ回路のゲートの事である
伸也はふと何気なく考える
シリコンがない世界、そんな怖い世界は想像も付かないくらい恐ろしい事が起こるに違いない
第一シリコン無しで半導体は出来かねない
シリコン、つまりケイ素原子の結晶であるシリコンウェハーの存在のなすべき仕事は、今のこの発展した世界の基礎をなしている
この時6インチのシリコンウェハーが主流で、最先端のU棟では8インチのものが開発されていた
8インチともなると流石に片手では持てなくなり、格納ケースもかなり大きくなった
従って搬送装置も大型化され、幅の大きなコンベアがU棟のクリーンルームのあちらこちらに繋がっていた
シリコンウェハーは半導体技術の土台をなしていたのだ
半導体とはシリコン結晶を刻んだシリコンウェハー上に電子回路を形成し、集積回路(LSI)を造ったものである
日記に記した
(SEMの時間がもっと欲しい、でも誰もがそう思っているに違いない、それでもSEMの時間が欲しい)
伸也は典型的な理科系男子で、数学や理科が大好きだ
その代わり国語が苦手
学生時代は、いつも赤点ぎりぎり
つまりは人と話すのが苦手、それでも人付き合いは悪い方ではなかった
また伸也はいつも、この世にテレパシーがあると信じていたのだ
伸也は理学部物理学科物性物理学研究室出身で、如何にか大学を卒業し、このゼーマンULSI開発研究所で働くことになった
ところで半導体素子のロット内のチップの出来上がりはシリコンウェハーの位置で確率的に、少し違う。歩留まりに影響するのである
確率論を言うと、伸也はエキスパートだ
確率変更時のウェハー間隔のタイミングずれによる、連続するタイミングの描画具合はビームの変化によって生じるが、確率の違いに置ける等間隔の周期の描画強度の考察をしたところそうなる
伸也は、たまに考える「タイミングがずれると言う事は、周期のずれが発生し、確率が変わってくると言う事ではないだろうか?」
と言うことは、その周期のずれを意図的に発生させればウェハー内の出来具合が変わる、そうだ、そうなんだ「歩留まりが変わるのか?」
しかし、それは簡単な事ではなかった。事実、誰もが毎日同様の事をして日々の暮らしを送っている。
そのなかで「ある日突然ウェハー内で順位を変えるなんて出来るだろうか?」
伸也はSEMのモニターを見ながら、夢物語を廻らし考えた
携帯電話のまだ普及してないこの時代に、通信機能を持つもの、それは今でも現役のインカムや棟内放送である
伸也はこれをあまり好んでなかった
しかしながら便利なことは間違いなく。様々な場所でインカムは使われている
今時の、パチンコ店ではインカムは必需品で、警備員もこのインカムを使っている
大型電器店でも使っている
SEMの設置してあるクリーンルームではインカムを使うのは極当たり前で、かなり便利である
棟内放送も仕切り無しに鳴っている
日記に記した
(夢物語を追いかけていくぞ、その為には日々の勉強が必要だ)
そんなに最近ではないが伸也はあることに気が付いた
それはSEMはスティグマを調節するのにはそんなにビームの調節はいらないと言う事を
そしてシリコンウェハーはそんなにビームの影響を受けないと言うことも
しかし、レジストは影響を受け易い
伸也はインカムで話しかけた
「今回のサンプルは上出来ですよ」
本田さんがインカムの向こうで、返事をしてきた
「そう、それは良かった」
「この分だと1GDRAMの完成も間近ですね」
「いい感じだね、すごく良いよ。でも内密だよ」
インカムで内密な話はしては駄目だ
今日は、一日が途轍もなく長かった
週末はいつもそう、永遠な時間が在るかのように
永遠とは、たとえば一光年
これは流石に長いであろう、と考える人がいるのであれば
一日が永遠に感じる人もいる筈だ
皆考えることは様々だ
伸也はよく光の速さよりも速いニュートリノが有るという実験結果を思い出す
「あれは本当なのか?光よりも速いなんて」伸也は、「それならば相対性理論が覆されるのか」と思った
クリーンルームの気温は、常に二十五度
一年中快適な環境である
そのため伸也には、季節感と言うのがあまり感じられなかったのだ
人間のために快適にしているのではなく、半導体素子のためである
日中の大半をクリーンルームで過ごす為、外の昼間の環境は通勤時のみで、そのときだけは、今日は暑いなとか、寒いなとかを感じるのである
日記にこう記した
(1GDRAMの量産も夢じゃなくなるんだ、凄い時代がやってくるぞ)
それは、寒い冬の事でありました
ホストコンピューターVAエックスを操る伸也は、データー変換プログラムプロックスを使い、設計データーをEB描画装置で描画出来るデーターに変換している
「L直描、伊藤君」
クリーンルーム内放送が鳴り響いた
「あの声は、本田さんだ。何かあったのかな?インカムじゃない」
直描というのは直接描画の事である
マスクを使いウェハー上に設計パターンを転写するのでなく
EB描画装置で直接ウェハー上に設計パターンを描画する技術、是をEB直描と呼んでいた
伸也は素早く受話器を取った
「第二シーケンサの200番接点で不具合が見付かったそうだ」
「えっ不具合、そんな馬鹿な」
伸也は驚いた
あの人のプログラムで不具合なんて、そんな事が有るんだろうか?
「それは、無いですよ」と伸也はテレパシーを送ったが、反応は無かった
全く予期せぬ出来事であった
あの人のプログラムは100%完璧なはずだ
かなり驚き気味の伸也は慌てて答えた
「ちょっと確認してみます」
今日は厄日だな、伸也はSEMをフリーズさせて、素早くロットを格納ケースにしまった
伸也は直描装置の制御盤へ向かうことにした
この時、既に伸也はシーケンサのプログラム回路が読めていた
あのプログラムは本当は伸也の処女作のはずだった
決して伸也はプログラムが得意な訳ではなかった
しかし、頑張った甲斐あって完成させたはずのプログラムだったが、あの人の指摘を受け、最後にはほとんどあの人の作品となった、曰く付きのプログラムだ
ULSI開発第5部L直描グループは、たった5人の小規模グループで伸也もその中の一人である
ULSI開発第5部は元々プロセスではなく最先端のプロダクトであった
プロセスとは転写技術や加工技術、薄膜技術等、個々の技術開発をプロダクトとは一連の製品の開発をしているグループをそう呼んでいる
ホストコンピューターはシミュレーションGの管理下にあり、直描Gは、そのシステムを間借りしているようなものだった
伸也は時々ジョブを、そのホストに流すのであったが、ジョブの使用容量が大きすぎて詰まる事が多かった為、シミュレーションGからは煙たがられていたに違いないと伸也は思っていた
実際のところ、そんなことはなかったと何年も後で聞かされたのだが
「いつも、すみません神山さん」
「ああ、いいよ。大容量のやってるんだろ?仕方ない」
「データ量が結構膨れ上がってしまって」
「大丈夫、手は打ったから」
「そうなんですか?じゃあ早速使います」
伸也は「申し訳ないです」と神山さんにテレパシーを送った
今になって思えば、ジョブはバッチ処理で働いているため、管理人即ちスーパーバイザーの神山さんくらいしか判らなかった事なのだ
実際の記録によると、ジョブを詰まらせホストのサーバーを止めていた時間で最大は十二時間と言う記録が残っている
詰まらせたとか止めていたとか言うのは誤解がある
事実はフル回転させていたのであった
「十二時間ですか?すみません」
その他チョコチョコVAエックスの心臓DSエンジンをフル回転させていた
本当、迷惑な話だったに違いないと今でも思っていた
『ごめんなさいホストコンピューター』伸也は思った
いや、それを言うなら『ごめんなさい管理人さん』である事は間違いない
日記に記した
(一度にバッチ処理を1つから3つ出来るように、変更していた。流石、神山さんだ。明日から気兼ねなくジョブを流せる)
設計変更が有る度にデータ変換は行わなくてはならない
これはEB描画装置の宿命だった
データ変換は設計データをEB描画装置で描画出来るようにパターンを細かく刻むのであった
その為、切り刻んだデータは容量の莫大なものになった
その他にもエッジの処理や近接効果補正等、そのデータに対して行わなくてはならない処理があった
大容量のデータ変換は当時の課題となっていた
「神山さん、DSエンジンの調子は如何ですか?」
「うん、順調だよ」
「よかった、是が無くなったら明日から途方に暮れます」
伸也はその言葉を聞き安心してデータ変換が出来ると確信した
EB直描では特定のパターン、ゲートやフィールドそしてホール等のパターンの最先端の加工技術として扱われ、一連の行程の部分的活用を任されていた
一度だけ、第1アルミという行程のレジストパターンを形成するためにデータ変換したが、そのデータが十二時間という途轍もない時間DSエンジンを回し続けたのだ
「バッチ処理があってよかった。それが無ければ十二時間見張らなければならないところだった」伸也は呟いた
こうして伸也は設計図面のデータ変換とEB直接描画装置のエンジニアとして日々成長をしながら、研究に没頭した