窓を開けない妻
これは、介護する妻と、介護される夫の物語です。
夫の章一が二階の窓際から動けなくなって、もうすぐ三年になる。
脳の血管が破れたのは、章一が定年退職して半年後のことだった。
一命は取り留めたが、右半身はほとんど動かず、言葉も失った。
医師は「意識ははっきりしていると思われます」と言ったが、
志津子には、その「思われます」がひどく曖昧なものに聞こえた。
思われる、というのは、確かめようがないということだ。
章一は一日のほとんどを、二階の和室に敷いた介護用ベッドで過ごす。
窓際に寄せてあるので、光は入る。庭の柿の木も見える。
志津子は、その窓を開けたことがない。
結婚して四十年、章一は家の中で王だった。箸の上げ下ろしから、
志津子の実家との付き合い方まで、すべてに正解を持っている人だった。
志津子が何か意見を言うと、章一は聞いていないような顔でテレビを見続けた。それで終わりだった。
志津子はいつからか、意見を言うのをやめた。
倒れてからの三年、志津子は毎日、章一の体を拭き、痰を吸引し、
経管栄養のチューブを管理し、体位を変える。
重労働だった。
けれど、その労働の中に、志津子はこれまでの人生になかった感覚を見つけてしまった。
自分が、この人の生死を握っている。
最初は罪悪感があった。そんなことを思う自分を、志津子は何度も心の中で叱った。
けれど、体位を変えるたびに、栄養剤の速度を調整するたびに、その感覚は少しずつ根を張っていった。
ある日、志津子は気づいた。
栄養剤を落とす速度を、いつもよりわずかに遅くしても、章一は何も言えない。
文句を言う声もない。睨む右手も動かない。ただ左目だけが、天井を見たまま、ときおりこちらを追う。
志津子はその日、いつもより十五分、栄養剤の投与を遅らせた。
理由はなかった。
ただ、自分にそれを決めることができるのか、確かめてみたかった。
章一の左目が、志津子を見た。
志津子は、その視線から何を読み取ればいいのか分からなかった。
怒りなのか。哀願なのか。それとも、ただの反射なのか。
医師の言う「意識ははっきりしている」が本当なら、章一は今
、自分の生活の速度を妻に変えられていることを知っているはずだった。
それから志津子は、小さな実験を繰り返すようになった。
暑い日に、部屋の温度をわざと少し下げない。
体位を変える時間を、少しだけ延ばす。
テレビのチャンネルを、章一が好きだった時代劇ではなく、志津子の見たい料理番組にする。
どれも、わずかだった。
言い訳のできる範囲だった。
介護に疲れていたから。忙しかったから。うっかりしていたから。
そう説明できる程度のことしか、志津子はしなかった。
ある夜、志津子は章一の体を拭きながら、その痩せた体を見つめた。
四十年間、家の中の王だった男。
今は動かず、声も出さず、ただ栄養を与えられて生きている。
志津子は、ふいに蛹という言葉を思い浮かべた。
殻の中で、形を失っていくもの。
その考えに、志津子は自分でも驚いた。
けれど、手を止めることはなかった。
その夜、志津子は章一の耳元で囁いた。
「ねえ、あなた。今、何を考えてるの」
答えはない。
左目だけが、天井の一点を見つめている。
「あなたは、ずっと私に何も聞かなかったわね。私が何を考えてるかなんて、興味もなかった」
志津子は章一の頬に触れた。
冷たくはない。
けれど、生きている人間の温度というより、まだ温かい何かの温度だった。
「今は、あなたが何も言えない番」
それから、志津子は章一を試すようになった。
栄養剤の量を、ほんの少しだけ減らしてみる。
水分を控えてみる。
三年間、一度も開けなかった窓を、ほんの少しだけ開けてみる。
夜風が、カーテンを揺らした。
章一の体は正直だった。
翌朝には熱を出したり、痰が増えたりした。
志津子は慌てて医師を呼ぶ。
「体力が落ちているのでしょう」
「はい。気をつけます」
志津子は頭を下げる。
誰も疑わなかった。
三年間、休みなく夫を介護してきた献身的な妻。
近所も、親戚も、そう思っている。
ある晩、志津子は経管栄養のチューブを繋ぎながら、章一の左目を覗き込んだ。
その日、初めて、章一の左目から涙がこぼれた。
志津子は手を止めた。
涙は頬を伝い、耳の近くまで流れていった。
痛いのかもしれない。
怖いのかもしれない。
何かを訴えているのかもしれない。
けれど、志津子には分からなかった。
分からないまま、ハンカチで涙を拭いた。
「大丈夫よ。ちゃんと世話してあげる」
その言葉を口にしたとき、志津子は自分の声がひどく優しいことに気づいた。
志津子は、いつも通りにチューブを繋いだ。
いつも通りの速度で、栄養剤を落とした。
何も変えなかった。
ただ、章一の左目を見つめていた。
章一も、志津子を見ていた。
その目に何があるのか。
怒りなのか、恐怖なのか、助けを求めているのか。
もう、志津子には確かめようがなかった。
そして、確かめようとも思わなかった。
窓の外で、柿の木の葉が一枚、音もなく落ちた。
誰も、それを見ていなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




