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西日に照らされ、氷の解ける音

 翌朝、世界は何食わぬ顔をして栞を迎えた。

 窓の外では小鳥が囀り、春の柔らかな陽光がいつも通りカーテンを透かして、部屋を淡く、穏やかに染めている。昨日、あの旧校舎の闇の中で起きたことなんてすべては夢だったのではないかと思わせるほど、日常は退屈なまでに正しく反復されていた。

 けれど、栞の指先にはまだ、あの冷たくて重い空気がよどみのようにこびりついている気がしてならなかった。自分たち三人の間でだけ決定的に何かが壊れ、そして繋がってしまった。その異質な手触りだけが、この明るい光の中で唯一の「真実」として栞の胸を焦がしている。

 

 瞼を閉じれば、すぐにあの光景が浮かぶ。

 夕闇の中で、泣いているのか笑っているのかも分からないほどに歪んだ、立花結衣の顔。

 「氷の女王」と呼ばれ、完璧なまでの美しさを纏っていた彼女の、あんなにも無防備で、壊れそうな瞬間に立ち会ってしまった。その事実が、栞の胸の奥で、抜き差しならない棘のように疼いていた。

 

(……助けたいだなんて、おこがましいのかな)

 

 けれど、あの時、灯の手を振りほどいてまで彼女の側を選んだ自分の判断を、栞は一度も後悔していなかった。むしろ、あの氷のような指先に、自分の熱を分け与えたいという、得体の知れない衝動さえ抱いていた。

 

 教科書を取り出そうと机の引き出しに手を差し入れた瞬間、指先に、端正に整えられた張りのある紙の感触が触れた。

 取り出してみれば、それは糊付けの一つまで正確になされた、純白の封筒だった。

 封筒の裏を見れば、小さな、猫の形をした金色のシーリングワックスが、照れたように光を弾いている。

 

「……あ」

 

 宛名には、万年筆で綴られた、透き通るような文字。

 一年一組、白標しらべ しおりさん。

 それだけで、送り主が誰であるかは明白だった。

 灯がまだ来ていないことを確認し、栞は急いで封を切り、中にある便箋を広げた。

 

『昨日は、あんな醜い姿を見せてしまってごめんなさい。

 もしあなたが許してくれるなら、今日の放課後、図書室の整理を手伝ってもらえないかしら。

 ……あなたともう一度話したいことがあるの。

 立花結衣』

 

 「あなたと」。

 その言葉が、栞の心臓を、一度だけ大きく跳ねさせた。

 昨日のあの狂気は、二人の間の「秘密」になったのだ。

 

 

 放課後の図書室。

 そこは、現校舎の中で最も静かで、最も「光」に満ちた場所だった。

 南向きの窓からは、燃えるような茜色の西日が差し込み、高く積み上げられた本棚が、床に長い、影の縞模様を描いている。

 その一番奥。人目に付かない郷土資料のコーナーで、立花先輩は一人、机に山積みになった古い本と格闘していた。

 いつものように整えられた髪、真っ直ぐな眼鏡。けれど、今日の彼女は、どこか昨日の毒気が抜けたように、ひどく儚げに見えた。

 

「……先輩。来ました」

 

 栞が声をかけると、先輩は肩を小さく震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 西日に透けた彼女の瞳が、潤んだ琥珀色に輝く。

 

「……栞さん。本当に、来てくれたのね」

 

 先輩は、掠れた声でそう言った。

 「座って」と促され、栞は彼女のすぐ隣に椅子を引いた。あまりに近すぎて、先輩の衣服から漂う、清潔な石鹸と古い紙が混ざり合ったような、切なくなるほど清純な香りが鼻をくすぐる。

 二人はしばらく、黙々と本の仕分けを続けた。

 リストに従って背表紙をチェックし、古いラベルを貼り替えていく。

 ページを捲るかすかな音。窓の外から聞こえるテニス部の掛け声。

 けれど、この一角だけは、まるで外界から切り離された気泡の中にあるように、二人だけの親密な静寂が支配していた。

 

「……昨日は、ごめんなさい」

 

 不意に、先輩が手を止めた。

 視線は、手元の古い詩集に落とされたままだ。

 

「あんな風に言うつもりはなかったの。あなたの親切を、あんな歪んだ形で受け取ってしまってごめんなさい。」

 

 先輩の声は、微かに震えていた。

 その指先が、本の端を強く握りしめ、白くなっている。

 

「お礼も、まだだったわね。一昨日、あれを拾って、届けてくれてありがとう。あれは、私の、、、私の、たった一つの、残り香だったから」

 

 「残り香」。

 その言葉に、栞は思わず、先輩の白く細い手に、自分の手を重ねた。

 

「っ……」

 

 先輩が、短く息を呑む。

 重なった手の甲が、驚くほど冷たい、けれど確かな彼女の体温が伝わってくる。

 

「先輩……氷の女王だなんて、嘘ですね」

 

 栞は、そっと指を絡ませるようにして、彼女の手を包み込んだ。

 

「みんな、先輩のことを完璧だとか、冷たいとか言いますけど。……本当は、誰よりも優しくて、誰よりも傷つくのを恐れている、ただの女の子じゃないですか」

 

 先輩は顔を上げない。けれど、絡めた指に、微かに力がこもるのが分かった。

 

「……そう見えるのかしら。だとしたら、私の演技もまだまだね」

「演技なんかじゃありません。……私、先輩のあの悲しい顔を、放っておけないんです。……あのくまのキーホルダーが、私の手に収まったのは、きっと偶然じゃないと思うから」

 

 栞は、座ったまま先輩の方へと身を寄せた。

 二人の肩が触れ合う。

 西日に照らされた先輩の横顔には、一筋の涙が、光の糸のように伝っていた。

 

 先輩は、ぽつり、ぽつりと、自分の「心臓」を差し出すように語り始めた。

 大学受験の日の、冷たい風。いつまで経っても来ない連絡。救急車のサイレン。

 そして、病院の冷たい廊下で、彼女の元へ帰ってきたのは、汚れ、ちぎれそうになった、あの小さな茶色いくまだけだったこと。

 

「……彼を殺したのは、私よ。私が呼び出さなければ、あんなことにはならなかった。……あの日から、私の時間は止まったまま。……この世界には、私と、あのくましか残っていないんだと思っていた」

 

 先輩の涙が、栞の手に落ちた。

 熱い雫だった。

 

「だから、捨てようと思ったのよ。……あの日、図書室の整理中に、わざとあの部屋に置いてきた。……彼を忘れて、私も楽になりたくて。……でも、できなかった。捨てた瞬間に、私の半分が死んでしまうような恐怖に襲われて……」

 

「先輩……」

 

 栞は、空いた方の手で、先輩の濡れた頬をそっと包み込んだ。

 先輩の眼鏡が、栞の指に触れて少しだけずれる。

 間近で見つめる彼女の瞳は、ひどく大きく、濡れていて、吸い込まれそうなほどに綺麗だった。

 

「拾ったのが、私で良かったです」

 

 栞は囁くように言った。

 唇が触れそうなほどの距離。

 

「他の誰でもなく、私が拾って、先輩の元へ届けました。……それは、先輩を過去に縛り付けるためじゃありません。……先輩に、新しい温もりを教えるためです」

 

「……新しい……温もり?」

 

「はい。……一人の重荷が半分になることはないかもしれないけれど。……でも、こうして手を繋いでいる間は、先輩の時間は、少しだけ私のものになるんです」

 

 栞は、先輩の眼鏡をそっと外し、机の上に置いた。

 剥き出しになった彼女の素顔は、驚くほど幼く、そして震えていた。

 

「……私を、壊しにきたの? それとも、癒しにきたの?」

 

 先輩が、掠れた声で問う。

 

「どちらでも、先輩の好きな方でいいですよ。……でも、私は、先輩の時間を動かしたい。……もう一度、先輩の笑った顔が見たいんです」

 栞は、先輩の濡れた睫毛を見つめながら、そっと言葉を継いだ。


「だって……今日、私がここに来た時、少しだけ困ったように笑ってくれたじゃないですか。あの時の先輩、いつもと違って……すごく、綺麗でした。あんなに表情が豊かで素敵なのに、ずっと凍らせたままにしておくなんて、絶対にもったいないです」


 その真っ直ぐすぎる言葉に、先輩は小さく息を呑み――やがて、力なく栞の肩に額を預けた。

 細い腕が、栞の背中に回され、しがみつくよに、必死で、あまりに甘やかな抱擁だった。

 

「……卑怯ね。……あなたは、本当に、卑怯だわ」

 

 そう言いながら、先輩は栞の胸元で、子供のように声を上げて泣いた。

 栞は、彼女の華奢な背中を、壊れ物を扱うように優しく、何度も何度も撫で続けた。

 西日は次第に深く、濃くなり、図書室全体を黄金色に染めていく。

 二人の影は重なり合い、床に長く、一つの生き物のように伸びていた。


 しばらくして、先輩は涙を拭い、栞の肩からゆっくりと身を引き離した。

 赤くなった目蓋を擦り、少しだけ恥ずかしそうに伏せ目がちになる。

 

「……ごめんなさい。……制服、濡らしちゃったわね」

「いいですよ。……乾けば、元通りです」

 

 栞は微笑み、机の上の眼鏡を手に取ると、丁寧に彼女にかけてあげた。

 指先が、彼女のこめかみに触れる。

 一瞬、先輩の体がびくりと跳ねたが、彼女は逃げずに、じっと栞の瞳を見つめ返した。

 

「……ねぇ、栞さん」

「はい」

「……明日も、ここに来てくれる?」

 

 それは、女王の命令ではなく、一人の少女の、切実な願いだった。

 

「もちろんです。……先輩が『もういい』って言うまで、ずっと来ます」

 

 その言葉に、立花先輩は、ふっと花が開くような、本物の微笑みを浮かべた。

 それは昨日の歪んだものとは全く違う、雪解けの後に咲く小さな春の光のような、穏やかな笑顔。

 

「……ありがとう。……少しだけ、重たい眠りから覚めた気がするわ」

 

 先輩は、バッグの中からあのくまのキーホルダーを取り出した。

 そして、栞の手のひらにそれを置く。

 

「……今度は、あなたがこれを私に『付けて』くれないかしら。……あなたがくれた新しい意味として、持っていたいの」

 

 栞は頷き、震える手で、先輩のスクールバッグにその茶色いくまを結びつけた。

 昨日まであんなに不気味に見えたそのキーホルダーが、今は二人の間の、小さな、けれど強固な誓いの証に見えた。

 

 図書室に、下校を促すチャイムが鳴り響く。

 けれど、二人はその余韻を楽しむように、しばらくそのまま見つめ合っていた。

 

 窓から吹き込む風は、いつの間にか夜の冷たさを孕んでいたけれど。

 繋いだ手のひらの熱は、いつまでも消えずに、そこにあった。

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