表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

あるいは、壊れた微笑

軋む床の音が、やけに大きく響いていた。


 旧校舎の奥、夕陽の届かないその教室で、立花結衣は窓際に立っていた。背筋は真っ直ぐに伸びていて、いつもと変わらない完璧な佇まいのはずなのに、その輪郭だけが現実から切り離され、墨を零したように浮いて見える。


 栞と灯は、入り口のすぐ内側で足を止めた。廊下から流れ込む空気さえ、この部屋の敷居を跨いだ瞬間に凍りついたかのように、止まっていた。




「……来たのね」


 振り返らないまま、立花先輩が言う。


 拒絶ではない。けれど歓迎でもない、温度を完全に奪われた声音。




「……あの、先輩。一昨日は……」


「謝罪は結構よ」


 言葉を断ち切られ、栞は不意に喉の奥がひりつくのを感じた。


 立花先輩はゆっくりとこちらを振り向いた。眼鏡の奥の視線は真っ直ぐに栞を捉えている。なのに、その焦点は栞を通り越し、もっと遠くの、ここにはない「何か」を見つめているようだった。




「あなたたちを呼んだのは、別に礼を言うためじゃないわ」


 静かに歩み寄りながら、彼女は続ける。


「……確かめたかったの」


「……何を、ですか」


 立花先輩は一瞬だけ沈黙した。


 そして、スクールバッグの持ち手に指をかける。


 取り出されたのは、あの古びたくまのキーホルダーだった。


 薄暗い教室の中で、それだけがやけに生々しく、柔らかな質感を保っている。




「これを、あなたが拾ったのよね」


「……はい」


「どうして?」




 間髪入れずに返された問いに、栞は言葉に詰まった。


「どうして、それを拾ったの。……どうして、私に返そうと思ったの?」


 重く、湿り気を帯びた問いかけ。


「……なんとなく、放っておけなくて」


 絞り出すように答えると、立花先輩はわずかに目を細めた。その拍子に、彼女の指先がくまの耳をなぞる。愛おしむような、けれど獲物を品定めするような、不自然な手つき。


「……しお、もう行こう」


 背後で、灯が小さく、けれどはっきりとした声で囁いた。灯の指先が、栞の制服の袖をぎゅっと掴んでいる。


「これ、普通じゃないって。帰ろうよ」


 灯の体温が、袖越しに伝わってくる。


 けれど、栞は自分を引く灯の手を、静かに振りほどいた。




「……これはね」


 立花先輩が、くまを見つめたまま呟く。


「私のものじゃないの」


「……え?」


「正確には、“もう誰のものでもないもの”よ」


 空気が、わずかに震えた。


 視界の端で、キーホルダーが奇妙な動きをした気がした。光の当たり方のせいか、くまのぬいぐるみが、一瞬だけ、先輩の指に吸い付くように「動いた」ように見えたのだ。


「……あの人はね」


 不意に、言葉が落ちる。


「もう、いないの」


 立花先輩は窓の外を見つめたまま、淡々と語る。慕っていた先輩の大学受験の日。終わった後の待ち合わせ。来ない連絡。そして、救急車のサイレン。


「――そこにいたわ。運ばれている途中だった。その時、これが落ちていたの。拾ったのよ。……本当は、拾うべきじゃなかったのに」


 語る声に感情はない。


 だが、その指先は次第に強くくまを握りしめ、ぬいぐるみの形を歪めていく。くまの中で、何かが擦れるような音がした気がした。


「それからずっと、持っていた。でも、落としたのよ。つい最近。気づいた時には、もうどこにもなかった」


 彼女の瞳に、あの日と同じ、底の抜けたような焦燥が走る。


「だから、探したの。なりふり構わず。あの部屋を、地獄の底までひっくり返すつもりで」


「……でも、見つかったじゃないですか。職員室に、届けられて……」




 立花先輩は、ゆっくりとした首振りで言葉を遮った。


 一歩、近づく。


 至近距離で合う視線。その瞬間、彼女は微笑んだ。


 完璧な微笑だった。


 ——完璧すぎて、どこか、致命的に壊れていた。


「“そこにあった”のは、知っているわ。でも、あれは違うの。私が探していた“それ”じゃない」


「……どういう、ことですか」


 栞の喉が鳴る。


 目の前にあるのは、間違いなく栞が拾ったものだ。なのに、彼女はそれを「違う」と言い切る。




「だって」


 彼女の唇が、ゆっくりと動く。


「あれはもう、ただの“物”になってしまっているから」


 夕陽が、完全に落ちた。


 教室は深い闇に沈み、立花先輩の表情は見えなくなった。


 ただ、彼女の手の中で揺れるくまのキーホルダーだけが、死人のような冷たい光を放っている。


 その光が、一瞬だけ脈打った気がした。




 栞は、何も言えなかった。


 灯の手を振りほどいた瞬間に、自分はもう、この「異常」から降りられなくなったのだと。


 それだけが、逃れようのないものとして、胸に沈んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ