あるいは、壊れた微笑
軋む床の音が、やけに大きく響いていた。
旧校舎の奥、夕陽の届かないその教室で、立花結衣は窓際に立っていた。背筋は真っ直ぐに伸びていて、いつもと変わらない完璧な佇まいのはずなのに、その輪郭だけが現実から切り離され、墨を零したように浮いて見える。
栞と灯は、入り口のすぐ内側で足を止めた。廊下から流れ込む空気さえ、この部屋の敷居を跨いだ瞬間に凍りついたかのように、止まっていた。
「……来たのね」
振り返らないまま、立花先輩が言う。
拒絶ではない。けれど歓迎でもない、温度を完全に奪われた声音。
「……あの、先輩。一昨日は……」
「謝罪は結構よ」
言葉を断ち切られ、栞は不意に喉の奥がひりつくのを感じた。
立花先輩はゆっくりとこちらを振り向いた。眼鏡の奥の視線は真っ直ぐに栞を捉えている。なのに、その焦点は栞を通り越し、もっと遠くの、ここにはない「何か」を見つめているようだった。
「あなたたちを呼んだのは、別に礼を言うためじゃないわ」
静かに歩み寄りながら、彼女は続ける。
「……確かめたかったの」
「……何を、ですか」
立花先輩は一瞬だけ沈黙した。
そして、スクールバッグの持ち手に指をかける。
取り出されたのは、あの古びたくまのキーホルダーだった。
薄暗い教室の中で、それだけがやけに生々しく、柔らかな質感を保っている。
「これを、あなたが拾ったのよね」
「……はい」
「どうして?」
間髪入れずに返された問いに、栞は言葉に詰まった。
「どうして、それを拾ったの。……どうして、私に返そうと思ったの?」
重く、湿り気を帯びた問いかけ。
「……なんとなく、放っておけなくて」
絞り出すように答えると、立花先輩はわずかに目を細めた。その拍子に、彼女の指先がくまの耳をなぞる。愛おしむような、けれど獲物を品定めするような、不自然な手つき。
「……しお、もう行こう」
背後で、灯が小さく、けれどはっきりとした声で囁いた。灯の指先が、栞の制服の袖をぎゅっと掴んでいる。
「これ、普通じゃないって。帰ろうよ」
灯の体温が、袖越しに伝わってくる。
けれど、栞は自分を引く灯の手を、静かに振りほどいた。
「……これはね」
立花先輩が、くまを見つめたまま呟く。
「私のものじゃないの」
「……え?」
「正確には、“もう誰のものでもないもの”よ」
空気が、わずかに震えた。
視界の端で、キーホルダーが奇妙な動きをした気がした。光の当たり方のせいか、くまのぬいぐるみが、一瞬だけ、先輩の指に吸い付くように「動いた」ように見えたのだ。
「……あの人はね」
不意に、言葉が落ちる。
「もう、いないの」
立花先輩は窓の外を見つめたまま、淡々と語る。慕っていた先輩の大学受験の日。終わった後の待ち合わせ。来ない連絡。そして、救急車のサイレン。
「――そこにいたわ。運ばれている途中だった。その時、これが落ちていたの。拾ったのよ。……本当は、拾うべきじゃなかったのに」
語る声に感情はない。
だが、その指先は次第に強くくまを握りしめ、ぬいぐるみの形を歪めていく。くまの中で、何かが擦れるような音がした気がした。
「それからずっと、持っていた。でも、落としたのよ。つい最近。気づいた時には、もうどこにもなかった」
彼女の瞳に、あの日と同じ、底の抜けたような焦燥が走る。
「だから、探したの。なりふり構わず。あの部屋を、地獄の底までひっくり返すつもりで」
「……でも、見つかったじゃないですか。職員室に、届けられて……」
立花先輩は、ゆっくりとした首振りで言葉を遮った。
一歩、近づく。
至近距離で合う視線。その瞬間、彼女は微笑んだ。
完璧な微笑だった。
——完璧すぎて、どこか、致命的に壊れていた。
「“そこにあった”のは、知っているわ。でも、あれは違うの。私が探していた“それ”じゃない」
「……どういう、ことですか」
栞の喉が鳴る。
目の前にあるのは、間違いなく栞が拾ったものだ。なのに、彼女はそれを「違う」と言い切る。
「だって」
彼女の唇が、ゆっくりと動く。
「あれはもう、ただの“物”になってしまっているから」
夕陽が、完全に落ちた。
教室は深い闇に沈み、立花先輩の表情は見えなくなった。
ただ、彼女の手の中で揺れるくまのキーホルダーだけが、死人のような冷たい光を放っている。
その光が、一瞬だけ脈打った気がした。
栞は、何も言えなかった。
灯の手を振りほどいた瞬間に、自分はもう、この「異常」から降りられなくなったのだと。
それだけが、逃れようのないものとして、胸に沈んだ。




