放課後の再会、あるいは氷の微笑
翌朝。
登校してすぐ、栞は教室へは向かわず職員室へと足を向けた。一昨日、図書室の帰り道に拾ったあのキーホルダーが、どうしても頭の片隅に引っかかって離れなかったからだ。
職員室に着き、落とし物箱の中を覗き込む。だが、そこにはもう、あの寂しげな姿はなかった。
「……あ、先生。すみません、ここにあった落とし物って……」
近くにいた事務の先生に声をかけると、「ああ、あれならさっき、持ち主が現れて返したわよ」と教えられた。
机の上に置かれた返却の名簿に、栞は失礼を承知で視線を落とした。
――二年生、「立花 結衣」。
(……良かった。君は、ちゃんと持ち主のもとへ帰れたんだね)
名前を見ても誰かは分からないが、栞は自分のことのように深く安堵して、職員室を後にした。
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放課後の教室。
窓の外から響く部活動の掛け声を遠くに聞きながら、栞は灯に一連の出来事を報告していた。
「へぇ、持ち主見つかったんだ。よかったじゃん」
灯は机に突っ伏しながら、どこか他人事のように、けれど栞の気持ちに寄り添うように言った。
「うん。ずっと気になってたから。……それで、今日は勉強していく?」
「あ、ごめん! 今日はちょっと用事があって、早く帰らなきゃいけないんだった」
「そっか。じゃあ、今日はこのまま帰ろうか」
二人で並んで廊下を歩く。キーホルダーが無事に持ち主の手に渡り、自分ができることはすべて終わったのだ。栞の心は、そんな凪のような穏やかさに満たされていた。
けれど、廊下の角を曲がったその瞬間、前方から歩いてくる人影を見て、栞は息を呑んだ。
そこにいたのは、驚くほど小柄で華奢な女子生徒だった。
整えられた髪に、小さな顔には少し不釣り合いなほど大きな眼鏡。だがそれがかえって、彼女の知的な可憐さを際立たせている。スカートの端まで神経の行き届いた佇まいは、同じ女性の私から見ても思わず惚れ惚れとしてしまうほどに綺麗だった。
すれ違いざま、栞の視線は彼女のスクールバッグに吸い寄せられた。
そこには、今朝職員室から消えていた、あのくまのキーホルダーが揺れている。
「……っ、あ」
漏れた声に反応するように、彼女がゆっくりと足を止めた。そして、栞たちを振り返る。
「……何か? また、あなたたち」
「えっ……あ、すみません何でもないです。……どこかでお会いしましたっけ?」
思わず、本音が口をついて出た。
言った瞬間に、自分の口を縫い合わせてしまいたいほどの後悔が押し寄せる。
目の前の女性とは、間違いなくこれが初対面のはずだ。なのに、彼女が放った「また」という言葉が、鋭い棘のように胸に引っかかる。
「……驚いたわ。一昨日、あんなに失礼な押し掛け方をしておいて、顔すら覚えていないの?」
先輩は呆れたように吐き捨て、眼鏡の端をクイと直した。
「あなたは外見でしか人を判断できないのかしら。それとも、一日経てば他人の顔を忘れてしまうほど、記憶力が乏しいのかしら。……あそこで、私の邪魔をしたのはどこの誰だったかしらね」
氷のような皮肉を浴びせられ、栞は雷に打たれたような衝撃を受けた。
この、鼓膜を震わせる冷徹な声音。一言で相手を切り刻むような鋭い口調。間違いなく、あの時聞いたものと同じだ。栞はそこでようやく、目の前の可憐な少女の正体を理解した。
「え、しお、本気で言ってるの? 彼女、二年生の立花先輩。この学校じゃ、知らない人のほうが少ない有名人だよ」
隣で灯が、呆れたような、けれどどこか楽しそうな声を上げた。
「成績優秀、才色兼備。勉強も運動も完璧。天は二物を与えずなんて言うけど、立花先輩に関しては、神様が余計に盛りすぎだよね。あーあ、一回でいいからその髪をわしゃわしゃにして、ちょっとくらい隙を見せてほしいよ」
灯の冗談めかした言葉を聞いて、立花先輩は深い、深いため息をついた。
「……下品な冗談はよして。気分が悪いわ」
冷たく言い放たれたが、栞は混乱する頭をどうにか抑え、一番伝えたかった言葉を口にした。
「……あ、すみません。その、キーホルダー……見つかったんですね。良かったです」
その言葉に、立花先輩は一瞬だけ目を見開いた。驚きというよりは、「なぜ私がこれを失くしていたことを知っているのか」という困惑が眼鏡の奥に浮かぶ。
けれど、彼女は自分のバッグに揺れるくまを指先でそっと包み込むと、静かに目を伏せた。
「……ええ。これのことなら。……お気遣い、ありがとうございます」
それ以上は何も語らず、彼女は品のある足取りで、足早に校門の方へと消えていった。
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翌日の昼休み。
賑やかな喧騒に包まれていた一組の教室が、不自然なほど急激に静まり返った。
入り口付近の生徒たちがざわめき、視線が一箇所に集中する。
「え、なんで立花先輩がここに……?」
「誰か呼び出し?」
ひそひそとした囁き声が広がる中、談笑していた栞と灯の前に、不意に真っ直ぐな「影」が落ちた。
入り口に、彼女――立花結衣が立っていたのだ。
「一年一組の……栞さん、かしら」
周囲の好奇の目に晒され、なぜ自分の名前を、と驚く暇もなく、先輩は静かに告げた。
「今日の放課後、少しお時間をいただけないかしら。もし不安なら、一昨日の……灯さんも、ご一緒で構わないわ」
どこか誘うような、けれど断らせない強さを秘めた言葉。
栞と灯は顔を見合わせ、頷くしかなかった。
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そして放課後。
案内された場所は、一昨日ひどい剣幕で追い返された、あの旧校舎へと続く道だった。
軋む床、埃っぽい空気。現校舎とは明らかに違う、ここだけ昔のまま時が止まっているような重たい静寂が漂っている。
辿り着いた扉の前で、灯が顔をひきつらせて小声で囁いた。
「……ねぇ、しお。誘われた場所って……ここ?」
栞は答えられなかった。
目の前には、一昨日と同じ古びた扉。
何を隠そう、彼女に誘われた場所は、他でもない。
あんなにも冷たく烈しく自分たちを拒絶した――あの場所だったのだから。




