婚約破棄されたので、私は私の仕事をします
その夜、私は――王太子に捨てられる予定だった。
リディア・エルヴァインは、王宮の大広間で静かに立っていた。
今夜は春の社交舞踏会。名目上、彼女は王太子アレクシスの婚約者であり、隣に立つべき立場にあるはずだった。
けれど実際、王太子の腕に寄り添っているのは別の少女だ。
淡い光をまとい、周囲から称賛の視線を一身に集める聖女候補――セレナ。
「さすが聖女様ね」
「やっぱり本物は違うわ」
囁き声は、リディアにもはっきり届いていた。
誰も彼女に声をかけない。視線すら、ほとんど向けられない。
(……慣れているわ)
そう思おうとしたが、胸の奥がわずかに軋んだ。
婚約者であるはずの王太子は、一度もこちらを振り返らない。まるで最初から、彼女が存在しないかのように。
――無能な令嬢。
――地味で取り柄がない。
――聖女様の引き立て役。
そんな評価を、リディアは幼い頃から受け入れてきた。自分はそういう存在なのだと、疑いもしなかった。
けれど、不思議なことがある。
舞踏会の準備段階で目にした予算書。
祭事用の魔力水晶の発注数。
警備配置と人員割り当て。
それらを見たとき、リディアの頭の中には自然と「過剰だ」「無駄が多い」「ここを削れる」という考えが浮かんでいた。
(……どうして、そんなことが分かるのかしら)
誰かに教わった覚えはない。
それなのに数字を見ると、胸の奥が落ち着く。
一方で、セレナの奇跡が行われるたび、リディアは言いようのない違和感を覚えていた。
確かに光は美しい。だが、何かが足りない。持続せず、再現性もない。
(聖女様って……こんなに不安定だったかしら)
その疑問を口に出すことはできなかった。
無能な婚約者の分際で、聖女を疑うなど許されない。
リディアはただ、視線を落とし、静かに息を整える。
自分は舞台の端に立つ飾り。そう思い込もうとした、そのとき――
王太子が、場の中央へと歩み出た。
嫌な予感が、胸を締めつけた。
王太子アレクシスが高らかに手を掲げると、大広間の音楽が止んだ。
ざわめきが波のように引き、視線が一斉に彼へ集まる。
「皆に、伝えたいことがある」
その声はよく通り、迷いがない。
リディアの胸の奥で、嫌な予感が確信に変わった。
アレクシスは隣に立つセレナへ、慈しむような視線を向ける。
「私は――真実の愛を見つけた」
会場がどよめいた。
誰もが次の言葉を待っている。
「よって、伯爵令嬢リディア・エルヴァインとの婚約を、ここに破棄する」
一瞬、音が消えたように感じた。
「君が何も出来なかったからだ。
聖女と比べるまでもない」
次の瞬間、囁き声とため息、そして興奮した気配が一斉に広がる。
「やはり、そうなるわよね」
「聖女様が選ばれるのは当然だわ」
誰かの同情の視線が、突き刺さるように向けられた。
別の誰かは、露骨に安堵した顔をしている。
アレクシスは、リディアを見た。
そこにあったのは、かつて婚約者に向けられていたはずの温度ではない。
「君は……王太子妃として相応しくなかった」
「才能もなく、民を導く力もない」
言葉は淡々としていた。
だからこそ、逃げ場がなかった。
セレナが一歩前に出て、震える声で言う。
「リディア様……ごめんなさい。私は、殿下を奪うつもりなんて……」
その姿に、貴族たちは一斉に同情のため息を漏らした。
誰もが、彼女を“善良な被害者”として見ている。
リディアは何も言わなかった。
弁明も、反論も、涙すら浮かばない。
(……そう)
自分は、不要になったのだ。
王太子にとっても、王国にとっても。
頭を下げると、視界が床の模様だけになる。
拍手が起こった。祝福の拍手だ。
その音を聞きながら、リディアは胸の奥に生じた、奇妙な感覚に気づいていた。
――納得できない。
悲しみでも、怒りでもない。
ただ、どこか計算の合わない帳簿を見たときのような、引っかかり。
聖女の奇跡。
王国の判断。
そして、自分が「無能」と断じられた理由。
(……本当に、そうなの?)
問いは声にならず、胸の奥へ沈んでいく。
けれど確かに、その違和感だけは消えなかった。
顔を上げたとき、アレクシスはもうこちらを見ていなかった。
彼の世界に、リディアの居場所はない。
――今は、まだ。
リディアは静かに踵を返し、大広間を後にした。
その背中に、誰も声をかける者はいなかった。
与えられた控え室に戻った瞬間、リディアは力を失ったように椅子へ腰を落とした。
扉を閉める音が、やけに遠く聞こえる。
胸が苦しい。
けれど涙は出なかった。
(泣く理由すら、もうないのね)
そう思ったとき――
視界が、ぐらりと揺れた。
頭の奥に、流れ込んでくる光景。
白い蛍光灯。
積み上がる書類。
赤字と書かれた資料。
「この予算では回りません」という、どこか疲れた自分の声。
「……え?」
次の瞬間、息が止まった。
自分は、知っている。
この感覚を。
数字を見て、構造を理解して、問題点を洗い出す――
それは、この世界で身につけたものではない。
頭を抱えた瞬間、記憶が一気に繋がった。
日本。
地方自治体。
企画課、財政調整、住民説明会。
(私……前は……)
リディアは、ゆっくりと呼吸を整える。
そして、理解した。
自分は転生者だ。
ここは前世で読んだ乙女ゲームの世界。
そして――自分は、物語の中で“選ばれない令嬢”。
王太子に婚約破棄され、聖女に全てを奪われる。
ただの踏み台。
(……だから、なのね)
帳簿を見たときに落ち着いた理由。
違和感を覚えた聖女の奇跡。
セレナの力は、確かに派手だ。
けれど、再現性がない。
数字に落とせない。
仕組みが見えない。
(奇跡じゃない……支援の誤認)
前世の知識が、冷静に答えを導き出す。
リディアは、静かに立ち上がった。
鏡に映る自分は、相変わらず地味で、か弱そうな令嬢だ。
けれど――
(ああ――私は、使われるために生まれたんじゃない。もう、舞台装置で終わるつもりはない)
復讐は望まない。
誰かを引きずり下ろす気もない。
ただ、自分の人生を、自分で選びたい。
王太子妃でなくてもいい。
聖女でなくてもいい。
役に立たないと言われるなら、
“別の形で役に立てばいい”。
胸の奥で、何かが静かに定まった。
明日、伯爵家に戻ろう。
領地の帳簿を確認しよう。
数字で、事実で、自分の居場所を作ろう。
リディアは窓の外を見た。
夜空に浮かぶ月は、変わらずそこにある。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉でもない。
けれど確かに、それは“自分自身”への宣言だった。
伯爵家の領地に戻ったリディアを、出迎えた者は少なかった。
使用人たちは丁寧ではあるが、どこか戸惑った様子を隠せない。王太子の婚約者でなくなった令嬢を、どう扱えばいいのか分からないのだ。
「父は?」
「執務室に……おられますが、お疲れで」
その一言で、十分だった。
リディアは真っ直ぐ執務室へ向かい、許可を得て帳簿を開いた。
積み上げられた紙の束。
魔力水晶の購入記録。
祭事費、警備費、臨時支出。
(……ひどい)
思わず、心の中で呟く。
赤字ではない。だが、持続しない。
“今さえ良ければいい”という支出の積み重ねだ。
「この水晶、三割は不要です」
「……は?」
側に控えていた老執事が目を瞬かせた。
「補助魔法の持続時間を調整すれば、消費量は抑えられます。質より量で誤魔化しているだけですから」
自分の口から出た言葉に、リディア自身が一瞬驚いた。
けれど、頭の中では既に計算が終わっている。
翌日から、彼女は動いた。
魔法師たちに協力を求め、補助魔法の発動条件を一つずつ検証する。
感覚ではなく、記録を取る。
成功率、持続時間、魔力量。
「数値化、ですか……?」
「ええ。再現できなければ、意味がありません」
地味な作業だった。
奇跡のような光も、喝采もない。
それでも、結果は確実に出た。
同じ効果を、半分以下の魔力で維持できる。
水晶の購入数は減り、余剰は医療やインフラに回せる。
「お嬢様……これは……」
会計担当の文官が、信じられないものを見る目で帳簿を見つめる。
リディアは、少しだけ視線を伏せた。
「私が得意なのは、奇跡じゃありません。仕組みを整えることです」
誰かの役に立っている。
それを、初めて実感した。
数週間後。
領地の収支は安定し、現場の混乱も減った。
その月、伯爵領の支出は、はっきりと黒字に転じた。
使用人たちの態度が、変わる。
「お嬢様、こちらの判断でよろしいでしょうか」
「助言を、いただけますか」
名前を呼ばれる。
必要とされる。
夜、一人で帳簿を閉じたとき、リディアは静かに息を吐いた。
(……私は、無能じゃなかった)
ただ、向いている場所が違っただけだ。
王宮では役に立たなかったとしても、
ここには、自分の居場所がある。
リディアは、次の資料を手に取った。
まだやるべきことは、山ほどあった。
同じ頃、王都では小さな綻びが、確実に広がっていた。
聖女セレナによる祝福の儀が、予定通りの成果を出せなかったのだ。
作物の成長は鈍く、治癒の奇跡は持続しない。
「おかしい……前回は、もっと……」
魔法師たちが首を傾げる中、原因は曖昧なまま先送りにされた。
水晶を追加で用意し、祈祷を増やす。
――その場しのぎの対応。
だが、数字は正直だった。
国庫の報告書を見た財務官が、顔色を変える。
「支出が……説明がつきません」
「祭事費が、前期の倍です」
王太子アレクシスは、苛立ちを隠さなかった。
「細かいことはいい。聖女のための必要経費だろう」
そう言い切ったものの、心の奥に不安が残る。
かつて、この手の報告書は、婚約者だったリディアが静かに整えていた。
(……いや、考える必要はない)
彼女は無能だった。
そう、決めたはずだ。
だが、問題は積み重なる。
補助魔法の持続時間が不安定になり、現場の混乱が増えた。
魔法師たちは疲弊し、責任の押し付け合いが始まる。
「以前は、こんなことは……」
誰かが口にしかけて、言葉を飲み込んだ。
そして、決定的な報告がもたらされる。
「伯爵領の支援体制が、模範事例として評価されています」
国王の前で、文官が淡々と告げた。
「魔力消費を抑え、安定した成果を出していると。担当は――リディア・エルヴァイン嬢です」
空気が、凍りついた。
アレクシスは、思わず立ち上がった。
「……彼女が?」
無能な令嬢。
王太子妃に相応しくないと切り捨てた存在。
だが、報告書に並ぶ数字は、嘘をつかなかった。
「国王陛下は、次回の政策会議に彼女を招くよう仰せです」
その言葉に、アレクシスの喉が鳴る。
(なぜだ……なぜ、今になって)
脳裏に浮かぶのは、婚約破棄の日。
何も言わず、静かに頭を下げた彼女の姿。
その沈黙が、今になって重くのしかかる。
「……連絡を」
絞り出すように命じる。
「リディアを、王都へ呼び戻せ」
その頃、伯爵領では。
リディアが新しい帳簿を閉じ、静かに息を吐いていた。
「王都から、使者が参りました」
そう告げられても、彼女の表情は変わらない。
(来るべき時が、来ただけ)
準備は、すでに整っていた。
王城の会議室は、重苦しい空気に包まれていた。
国王、重臣、魔法局の責任者たちが席に着き、その中央にリディアは立っている。
かつて、王太子の婚約者として立つはずだった場所。
だが今、彼女は“報告者”として呼ばれていた。
「では、エルヴァイン嬢。伯爵領での取り組みを」
促され、リディアは一礼する。
「はい。私が行ったのは、新しい魔法の開発ではありません」
机の上に、整理された書類を置く。
数値、手順、比較表。
「補助魔法の効果を分解し、条件を揃え、再現可能な形にしただけです」
魔法師たちが、思わず前のめりになる。
「同じ効果を出すために必要な魔力量は、従来の六割以下」
「水晶の消費量も、半分に抑えられました」
ざわめきが起こる。
アレクシスは、言葉を失っていた。
そこにあるのは奇跡ではない。
だが、国を支えるには十分すぎる成果だった。
「……では、聖女の力は不要だと?」
誰かが、恐る恐る問いかける。
リディアは首を横に振った。
「いいえ。聖女の力は、触媒として有効です」
「ただし――単独では、持続しません」
その瞬間、セレナの顔色が変わった。
「そ、そんな……私は……!」
言葉を遮るように、魔法局長が資料をめくる。
「検証の結果、聖女の奇跡は、周囲の補助魔法が整って初めて成立していたと確認されています」
逃げ場はなかった。
セレナの魔力が、不安定に揺れる。
光が暴れ、制御を失う。
「やめ……て……!」
衛兵が前に出る。
沈黙の中、アレクシスが一歩踏み出した。
「リディア……戻ってきてくれ」
「君が必要だ。王太子妃として――」
その声は、かつての命令口調ではなかった。
だが、リディアは静かに首を振る。
「私は、誰かの立場を補うための存在ではありません」
視線をまっすぐ向ける。
「自分の仕事を、選びました」
その言葉に、会議室は静まり返った。
国王が、ゆっくりと口を開く。
「聖女セレナは、職務停止とする」
「王太子アレクシス……判断について、後日協議が必要だな」
「……私が、間違っていたのか」
裁きは、淡々と下された。
リディアは一礼し、踵を返す。
誰も、彼女を止めなかった。
それから一年後。
王国の政策文書の末尾には、新しい役職名が記されるようになっていた。
――支援魔法監査官。
補助魔法の運用を数値で管理し、再現性を担保するための職。
その初代任命者が、リディア・エルヴァインだった。
王城の一室で、彼女は今日も帳簿を閉じる。
机の上に並ぶのは、奇跡の報告書ではない。
成果と手順、改善点をまとめた実務の記録だ。
「助言を、お願いできますか」
声をかけてきたのは、文官の一人。
年上で、派手さはないが、仕事の確かさを尊ぶ人物だった。
「ええ、ここは――」
リディアは自然に言葉を返す。
かつて、自分の声が必要とされなかった日々が、遠く感じられた。
伯爵領は模範領地として知られ、
王都の支援体制も、徐々に安定を取り戻している。
元王太子アレクシスの名を、リディアが耳にすることはほとんどない。
意識する必要もなかった。
夕刻、城の回廊を歩きながら、彼女はふと立ち止まる。
かつて、自分は誰かの隣に立つことで価値を得ようとしていた。
けれど今は違う。
自分の名前で呼ばれ、
自分の判断で仕事をし、
その結果に責任を持っている。
月明かりの下、リディアは小さく息を吸った。
(私はもう、誰かの脇役じゃない)
肩書きでも、婚約でもない。
積み重ねた仕事が、彼女の居場所だった。
そして明日もまた、帳簿を開く。
それが、彼女が自分で選び取った人生だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
感情で殴るざまぁではなく、
**「仕事と事実で立場が逆転する話」**を書いてみました。
もし
主人公の在り方が好き
静かなざまぁが気持ちよかった
この先も少し見てみたい
と感じていただけたら、
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