抜き打ちの審判、あるいは伝統という名の楔
「……そこまでです。記録を中断してください」
夜の静寂を切り裂き、部室の灯りが無機質に全点灯した。
入り口に立っていたのは、腕組みをした監査委員・りつだった。彼女の眼鏡の奥の瞳は、零度以下の冷徹さを湛えている。
ゆいは慌ててあずさの手を離し、乱れた呼吸を整えようとした。だが、指先に残るあずさの体温が、彼女の「理性ガード」の再構築を遅らせる。
「りつ……。監査は定時までのはずよ。これは自主的な追加実験……」
「『追加実験』。便利な言葉ですね、七瀬ゆい」
りつは一歩踏み出し、床に散らばった数式ノートと、片付け忘れた紅茶のカップを一瞥した。
「私に見えるのは、理論を隠れ蓑にした、ただの放縦な接触です。あなたの言う『誠実』とは、密室で互いに寄りかかる程度の脆弱なものなのですか?」
りつの言葉は、かつてゆいが「炎上」した際に浴びた「主観的で不誠実な論文」という世間の批判と重なり、ゆいの胸を鋭く抉った。
「違います、りつさん。これは――」
あずさが反論しようとしたが、ゆいがそれを制した。ゆいの瞳に、かつての「ルナ」としての反骨心が微かに宿る。
「いいえ。りつの言う通りよ。主観的な体感だけでは、理論は成立しない。それはただの『依存』だわ」
ゆいは震える手で眼鏡を掛け直し、つむぎの計測デバイスを起動した。
「りつ。あなたが否定するこの『温度』が、あなたの言う『伝統的な型』に組み込まれたとき、どれほどの強度を生むか。それを今ここで証明してあげる。……つむぎ、みお、入ってきなさい。外で盗み見していたのは分かっているわ」
「バレたー! さすがゆいっち先輩、ガードが裏返っても鼻は利くね!」
「データの不備を指摘されたくないので。解析準備、完了しています」
扉の影から、待機していた二人が現れる。5人が揃い、部室の空気は一変した。
「実験フェーズβ・ステージ1。りつが提示する『伝統的沈静化の型』をベースに、私たちの『弾性同期』を上書き(オーバーライド)する」
ゆいはあずさと再び向き合い、今度はりつが監視する「公の視線」の前で、深く、静かな呼吸を合わせた。
「……いいでしょう。私のジャッジは、あなたの『青い幻想』を逃しませんよ」
りつが厳格なタイマーをセットする。
個人の快楽を超え、集団としての「誠実な作法」へと理論が進化し始める。
それは、ゆいがかつて夢見た、誰にも壊されない「究極の型」への挑戦だった。




