夜の密室セッション、あるいは理性の融解
時計塔が午後九時を告げ、キャンパスから学生の気配が消えた。
薄暗い性文化研究部の部室には、ゆいとあずさの二人だけが残されていた。
「これより、実験フェーズα-2『個体間における弾性境界の融和』を開始するわ」
ゆいの声は、自分を律するようにどこか硬い。
机の上には、つむぎが残した計測デバイスと、あずさが淹れた少し冷めた紅茶が置かれている。
「先輩。……今日は、デバイスを使わずにやってみませんか?」
あずさが静かに提案した。
ゆいは一瞬、言葉を失う。数値という「盾」がない状態で他者と向き合うことは、今の彼女にとって、裸で戦場に立つようなものだった。
「数値化できないデータは、客観性を欠くわ。それではまた、あの時のように『ノイズ』として切り捨てられる……」
「切り捨てさせません。私が、全部覚えていますから」
あずさはゆいの正面に座り、その瞳をじっと見つめた。
逃げ場のない沈黙が、部室を満たしていく。
「……いいわ。実験開始よ」
ゆいは意を決して、あずさと視線を合わせた。
今回は、どちらかが目を逸らすまでの時間を競うような稚拙なゲームではない。互いの視線の奥にある「理性」が、どこで溶け、どこで混ざり合うかを探るセッションだ。
一分が経過した。
ゆいの脳裏には、かつて異世界で魂を削りながら禁呪を描いたときの、あの鋭い孤独が蘇る。人を信じ、受け入れることは、自分を失うことと同義だと思っていた。
(でも……あずさの瞳は、私を侵食しようとしていない……)
あずさの視線は、ゆいの築いた高い壁を壊すのではなく、その壁の「隙間」に寄り添うように流れてくる。
ゆいは無意識に、あずさの手を求めていた。指先が触れ、重なり、絡み合う。
「あずさ……。私のガードが、機能していないわ。心拍数が……予測値を大幅に超えている」
「それはガードが壊れたんじゃなくて、先輩が私を『内側』に入れた証拠ですよ」
あずさの声が、鼓膜を震わせる。
ゆいの視界の端で、幻覚のような「青いクラゲ」が、かつてないほど鮮やかな色彩で舞い上がった。それはもう、炎上を恐れるノイズではない。二人だけの沈黙が生み出した、純粋な創造。
理性の弾性は、最大まで引き伸ばされ、あずさという存在を完全に取り込んでいた。
それは、ゆいがかつて『魂改変画法』で目指した、他者との絶対的な相互理解の瞬間。
「……あ。……あぁ……」
ゆいの唇から、意味を持たない溜息が漏れる。
理論で固めていた心が、あずさの体温によって形を失い、ドロドロに融解していく。
それは恐怖ではなく、生まれて初めて味わう「許容」の快感だった。
「先輩、記録しますね。今日の温度は……『誠実』そのものです」
あずさが微笑み、ゆいの震える肩をそっと抱き寄せた。
夜の帳の中で、究極マナー理論は「管理」を脱ぎ捨て、「愛の設計図」へと姿を変え始めていた。




