源流の沈黙、あるいは魂の筆跡
監査チームを退けた翌朝。古民家を包む潮騒は、どこか弔いの鐘のように静かだった。
寝所に横たわる祖母の傍らで、ゆいは彼女の手を握りしめていた。
「……ゆい。驚かせてすまないね。でも、これでいいんだ。マナーの真髄は、相手に『すべて』を与えた時に完成するんだから」
祖母は震える手で、枕元にある古い筆と墨を指差した。
それは「魂の直接調律」――かつてゆいが「禁呪」と恐れ、学界が「精神支配」と断じた技術の正体だった。
「いいかい。相手の心を無理やり変えるのは暴力。だが、相手の心が自ら『変わりたい』と願うための場所を整えるのが、本当のマナーだよ」
祖母の指導のもと、ゆいはあずさを対面に座らせた。
デバイスも数式も使わない、最後の沈静化セッション。
ゆいは筆を執り、あずさの掌に目に見えない「マナーの軌跡」を描いていく。
それは、ゆいの記憶、痛み、そしてあずさへの深い感謝を直接「体温」として流し込む行為だった。
(あずさ……私の理論は、あなたを縛るためのものじゃない。あなたが、あなたらしく呼吸するための『余白』でありたいの)
その瞬間、二人の周囲に、これまでで最も鮮やかで、最も静かな「青いクラゲ」の光が溢れ出した。
あずさの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「先輩……。聞こえます。言葉じゃない、先輩の『魂の筆跡』が。……私、もう何も怖くありません。たとえ記録がすべて消えても、この温度だけは忘れない」
セッションが終わった時、祖母は満足そうに目を閉じ、深い眠りについた。
彼女の命の灯火が、ゆいの理論へと完全に「同期」し、継承された瞬間だった。
「……ゆいっち先輩、りつさん、つむぎん。見て」
みおが窓の外を指差した。
撤退したはずの監査チームが残していった観測機器が、すべて「青い花」に覆い尽くされていた。
ゆいの放った「調律」の波が、無機質な機械のロジックを、生命の揺らぎへと書き換えてしまったのだ。
「理論は完成した。……でも、これはあまりに強すぎる」
ゆいは、自分の手を見つめて震えた。
救済の術は、一歩間違えれば世界を書き換えてしまう「神の業」に近い。
祖母から受け継いだ「魂の筆跡」を胸に、ゆいたちは古民家を後にする。
光都大学へ戻る列車の中で、ゆいはあずさの肩に頭を預けた。
次なる舞台は、理論を社会へと問う「最終調整」。
だが、和先輩はすでに、ゆいの理論を「根絶すべきバグ」として処理するための、最終兵器《ORACLE》を起動させていた。




