沈黙の定義、あるいは理性ガードの初動
光都大学の旧校舎の片隅。
埃の舞う部室の扉に、七瀬ゆいは一枚の紙を貼り出した。
――性文化研究部。
その字面は、管理社会のテンプレートに馴染んだ学生たちには、あまりにも「ノイズ」として映るだろう。だが、ゆいにとってはこれこそが、かつて異端として焼かれた自身の魂――『魂改変画法』の残滓――を、正当な学問として再構築するための聖域だった。
「先輩。本当にここ、使うんですね」
背後から、あずさが静かな声をかける。彼女の手には、昨日の夜、ゆいが落としたタブレットペンが握られていた。
「ええ。ここは大学の監視網からも、世間の『炎上』からも、物理的に距離を置ける場所よ」
ゆいは部室の古い机に向かい、ノートを開いた。ペン先が紙に触れる。
「あずさ。私の新しい研究の第一歩は、『沈黙』の定義から始めるわ」
「沈黙……ですか?」
「そう。人が向き合うとき、言葉が途切れる瞬間に発生する不快や不安。それを私は『沈黙の時間 $t_n$』と定義する。多くの人はこれを恐怖と感じて埋めようとするけれど、私はこれを『理性ガード』の最初のフェーズとして捉え直したいの」
ゆいの脳裏には、かつて自分が「異物」として排除された時の、あの冷たい沈黙がよぎる。あの時、世界は彼女を拒絶した。だが今、彼女はその沈黙を、自分の手で「管理」しようとしていた。
「理性ガードを 3.2秒 の臨界点で維持できれば、他者との接触は不快ではなく、予測可能な『現象』になるはずよ」
ゆいはあずさに向き直り、一つ、深い呼吸をした。
「……あずさ。これから私に対して、意図的に『沈黙』を作ってみて。私がそれをどう吸収し、調律できるか……最初の実証実験を行うわ」
あずさは少しだけ瞳を揺らした。だが、すぐに小さく頷くと、ゆいの正面に座った。
部室に、音が消える。
一秒。ゆいの理性ガードが、壁のようにせり上がる。
二秒。かつてのトラウマが、ノイズのように脳裏をかすめる。
(怖い……。この無音は、私を否定する世界の声じゃないのか……?)
三秒。
ゆいのペンを持つ指が、わずかに震えた。
3.2秒。臨界点。
そのとき、あずさがふっと視線を落とした。それは拒絶ではなく、ゆいの震えをそっと見守るような、柔らかい「余白」だった。
(……あ。戻れる。)
ゆいは、自分の心が壊れていないことに気づいた。ガードは衝撃を受け止めたあと、ゆっくりと元の形に戻った。
「……合格よ、あずさ。理論値通り、沈黙は制御可能だった」
ゆいは強がってそう言ったが、額には薄っすらと汗が浮いていた。
「先輩。数式では 3.2秒 かもしれないですけど……」
あずさは、ゆいの震えていた指先をじっと見つめて言った。
「今の沈黙、私にはもっと、温かいものに感じられましたよ」
ゆいは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……温度なんて、理論には不要よ。まだ、第1段階なんだから」
そう言いながらも、ゆいはノートの隅に、小さく書き添えた。
――理性ガードは、沈黙という衝撃を弾性的に吸収し得る可能性がある。
それは、冷たい光都大学の中で、初めて「人間」の呼吸が数式に混じった瞬間だった。




