共生のマナー、あるいは野生の証明
深い森。踏みしめる腐葉土の感触だけが、ゆいの唯一の現実だった。
手元の端末は砂嵐を映し出し、つむぎの解析も、りつの規律も、ここには届かない。
「ハァ、ハァ……。あずさ、どこなの……」
理性のガードをガチガチに固めても、森の喧騒――鳥の羽音、木々の軋み――は容赦なくその隙間を突いてくる。
ゆいは、かつて独りで禁呪を描き続け、世界から拒絶された時の「孤立」を思い出していた。
その時、巨木の根元に、昨夜の老管理人が腰掛けているのを見つけた。
彼はあずさのノートの端切れを弄びながら、ぼんやりと空を眺めていた。
「おじいさん、それを……! あずさの記録を返して!」
ゆいが駆け寄るが、老人は動じない。
「返して欲しければ、お嬢さん。お前のその『理屈』で、この森を黙らせてみな」
「え……?」
「お前さんは、自分を守るために他者を測り、管理しようとしている。だがな、この森にある命はすべて、互いに『食い、食われ、混ざり合って』生きている。管理なんぞしねえ。ただ、そこに在ることを許し合っているだけだ」
老人がノートの端切れを指先から離すと、それは風に乗り、ゆいの足元で「青いクラゲ」のように不規則な軌道を描いて舞った。
その瞬間、ゆいの中で何かが弾けた。
(私は……守ろうとして、遠ざけていただけだったの?)
ゆいは目を閉じ、デバイスの電源を切った。
心拍数を制御するのをやめ、森のノイズを拒絶するのをやめた。
理性のガードを「壁」ではなく、森の湿度や温度をそのまま通す「網」のように広げていく。
すると、不思議なことが起きた。
あずさのノートの所在が、数式ではなく「気配」として流れ込んできたのだ。
それは、あずさがゆいを想う時に放つ、あの特有の「誠実の温度」の残香。
「……見つけた」
ゆいは老人に一瞥もくれず、確信を持ってさらに奥の茂みへと手を伸ばした。
そこには、絡みつく蔦に守られるように、あずさのノートが落ちていた。
「お見事。それが、管理を超えた先の『共生』だよ」
老人の声が聞こえた気がして振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、拾い上げたノートの隙間から、森の光を反射した「本物の青い蝶」が、ゆいの鼻先をかすめて飛び去っていった。
「あずさ……。記録は取り戻したわ。今なら、言葉以外の方法でも、あなたを安心させてあげられる」
ゆいはノートを胸に抱き、部員たちの待つセミナーハウスへと駆け出した。
彼女の理論は今、外界の不確実性を取り込み、真の『調律』へと進化を遂げようとしていた。




