消失のトリガー、あるいは裸の理性
「ない……。どこにも、ないんです」
合宿二日目の朝。食堂に集まった部員たちの前に、青ざめた顔のあずさが立ち尽くしていた。
いつも彼女の腕の中にあった、あの革表紙のノート――ゆいとの研究、感情、そして「誠実の温度」を書き留めた唯一の記録が、影も形もなくなっていた。
「落ち着きなさい、あずさ。置き忘れただけじゃないの?」
ゆいは努めて冷静に振る舞おうとする。だが、自身の理性ガードが、かつてない不協和音を立てているのを自覚していた。
「館内、及び周辺100メートルの熱源探査を行いましたが、ノートに貼付したRFIDタグの反応がありません。……意図的に遮断されているか、あるいは、この森の『磁場』に飲み込まれたか」
つむぎが端末を見つめながら、絶望的な予測を口にする。
「冗談じゃないよ! あの中には、あたしたちの大事なデータも入ってたんだよ!? 誰かが盗んだんじゃないの?」
みおの苛立ちが、部室とは違う開放的な空間で増幅され、鋭いノイズとなって周囲を叩く。
「……疑心暗鬼はマナーを腐らせます。ですが、この『管理できない状況』そのものが、我々を試しているのかもしれませんね」
りつが厳格な口調で場を収めようとするが、彼女自身の波形も激しく乱れていた。
「あずさ、大丈夫よ。記録がなくても、私たちの理論は――」
ゆいが伸ばした手を、あずさは無意識に避けた。
「……無理です、先輩。あのノートは、私の『外部記憶』だったんです。あれがなければ、私は自分がどうやって先輩を信じていたのか、その『作法』すら思い出せなくなる……!」
あずさの瞳から光が消える。
それは、ゆいにとって最大の恐怖だった。
理論という「言葉」や「数値」を失ったとき、人はただの孤独な個体に立ち戻ってしまう。
(私の『弾性理論』は、記録という名の支え(補助輪)がなければ、成立しないものだったの……?)
ゆいは、昨夜見た「森へ消える紙片」の残像を思い出していた。
あれは幻覚だったのか、それともこの外界が仕掛けた「悪意」なのか。
「……探しに行くわ。デバイスの探査が効かないなら、自分の足と目で。……つむぎ、みお、りつ。あなたたちは館内の『揺らぎ』を抑えて。これ以上、私たちの同期を壊させないで」
ゆいは一人、深い森の入り口に立った。
管理された光都では決して味わうことのなかった、湿った土の匂いと、圧倒的な「沈黙」。
理性のガードを脱ぎ捨て、裸の魂で外界と対峙しなければならない。
その時、森の奥から、あずさのものではない、低く冷たい笑い声が風に乗って聞こえた気がした。




