外界への扉、あるいは予測不能な揺らぎ
「……ここが、私たちの新しい『実験場』ね」
ゆいは、照りつける日差しを遮るように手をかざした。
光都大学の無機質な空調管理から遠く離れた、人里離れた山間部。古い洋館を改装したセミナーハウスが、今回の「外界適応合宿」の舞台だ。
「わあぁ! セミの声がすごい! 先輩、これってノイズキャンセリング効かないタイプのやつだよ!」
みおがバスから飛び出し、野生児のように森へと駆け出す。
「気温、湿度、気圧……。すべてが学内のシミュレーション値から逸脱しています。ゆい先輩、今のあなたの理性ガード、数値が不安定になっていますよ」
つむぎが、さっそくポータブル端末を片手に冷淡な指摘を飛ばす。
ゆいは自分の胸元に手を当てた。確かに、管理社会の静寂に慣れきった彼女にとって、絶え間なく変化する木々のざわめきや、不規則な風の感触は、暴力的なまでの情報量として襲いかかっていた。
「わかっているわ。だからこそ、この合宿が必要なの。……あずさ、準備はいい?」
隣に立つあずさは、大切そうに一冊の分厚い革表紙のノート――彼女がゆいとの日々を綴っている「秘密の記録」――を抱え、小さく頷いた。
「はい、先輩。どんな場所に行っても、先輩の温度だけは私が記録し続けますから」
だが、一行を出迎えた洋館の管理人――白髪の老人は、ゆいたちの持ち込んだ「デバイス」を一瞥して鼻で笑った。
「お嬢さん方、そんな機械で何を測るつもりかね? ここじゃあ、風の向き一つ、虫の鳴き声一つ、誰にも『管理』なんてできやしないよ」
その言葉は、ゆいの背筋に冷たい戦慄を走らせた。
合宿初日の夜。ゆいは一人、月明かりの下でノートを広げる。
(私の理論は、この『予測不能な揺らぎ』の中でも機能するのかしら。それとも、またあの日と同じように、私は自分を見失ってしまうの……?)
その時、背後の闇で何かが動いた。
不意のノイズに、ゆいの理性ガードが過剰に反応する。
「誰……っ!?」
振り返ったそこには、誰の姿もなかった。ただ、あずさが持っていたはずの「記録」の表紙に似た断片が、夜風に吹かれて森の奥へと消えていくのが見えた。
究極マナー理論は、その根幹を揺るがす「紛失」と「混乱」の渦に飲み込まれようとしていた。




