夜の帳(カーテン)と、理性のガード
――夜の帳が、光都大学のキャンパスに降りた。
七瀬ゆいは、冷たい高架橋の下にある、人通りの途絶えたベンチで目を覚ました。 周囲は灰色のコンクリート。空を見上げれば、大学の象徴である巨大な時計塔が、監視AIのような無機質な青い光で街を見下ろしている。
「……失敗、したの?」
ゆいの右手は、微かに熱を持っていた。 それは、かつて彼女が学会で発表し、激しい批判――「炎上」という名の追放――を浴びた旧理論の残滓だ。
かつてのゆいは、人の魂や感情すらも記述できると信じていた。だが、その「禁忌」に触れるような鋭すぎる理論は、学問の秩序を乱す「ノイズ」として拒絶された。結果、彼女の名誉は灰に帰り、彼女自身もまた、自分の心を記述する言葉を失った。
(私は、世界の秩序を乱す異物。今の私は、存在を消されるべきノイズに過ぎない……)
絶望が、ゆいの体を包む。彼女は手に持っていたタブレットペンを、冷たいベンチの端に押し当てた。画面の中の数式が、微かな光を放って消える。
「もう……書けない。」
彼女は、自分を「理性」という名の殻に閉じ込めた。二度と傷つかないよう、二度と炎上しないよう、冷たいガードを心の周りに築き上げたのだ。
*
ゆいが絶望の淵で項垂れていると、高架橋の向こうから、一人の少女が現れた。
竜ヶ崎あずさ。 派手な衣装を纏うわけではないが、その存在感はどこか現実離れしている。ゆいの後輩であり、数少ない理解者(候補)だ。
「あれ? 七瀬先輩。まさか、まだこんな所にいたんですか?」
あずさはゆいの姿を見て、静かに首を傾げた。
「あずさ……。ごめん、また、失敗した。私の理論は、やっぱり誰にも受け入れられない。」
ゆいは顔を上げることができない。 だが、あずさはゆいの目の前に屈み込んだ。その瞳は、夜闇の中でも真っ直ぐにゆいを見つめている。
「失敗なんかじゃないですよ。先輩は、自分の魂を削ってまで、あの『正しさ』という名の牢獄から戻ってきたんじゃないですか?」
ゆいの背筋が凍る。あずさは、ゆいがかつてどれほどの覚悟で理論を構築し、そして壊されたかを知っているかのように語った。
「どうして、それを……」
あずさはゆいのタブレットに残った微かな光跡を見つめ、静かに答えた。
「先輩が最後に描こうとした、あの不完全な理論が、私に教えてくれたんです。先輩の中にある『誠実さ』は、まだここで燃え続けているって。」
あずさはゆいの手を取り、立たせた。 「帰りましょう、先輩。また否定されたって、いいじゃないですか。この冷たい光都に、先輩の本当の『温度』を、もう一度見せてやりましょうよ。」
時計塔の青い光が、ゆいの背中を照らす。 ゆいは、あずさの手を、震える指先で強く握り返した。
(理性のガードは、壊れるためにあるんじゃない。……いつか、誰かを受け入れるために、今は固く閉ざしているだけだ)
ゆいの胸の奥で、新しい理論――**「究極マナー理論」**の最初の1行が、静かに鼓動を始めた。




