4話 「私があなたの道を開く」
焚き火は消えて久しく、木の灰に朝日が降り注ぐ。白い光が目に染みて、アランは何度も瞬きをした。全身を包むブランケットをさらに抱き寄せ、大きな欠伸をした。彼は夜から朝まで、無理を言って見張り番をしていた。アラン一人には任せられないとアレクシも見張り番をしていて、今は朝食用の薪を割りに行っている。
鼻歌を歌いながら、鞘に入れた剣の先で灰をかき混ぜる。燃え残っている木屑が線を描いて灰の外へと飛び出た。たったそれだけのことに、何故か口角が上がる。久しぶりに清々しい気分だった。
背後で土を踏みしめる音がした。鼻歌を止めず、残る木屑を鞘の先で叩いていた。
「おはようございます〜」
すぐ後ろから、伸びやかな挨拶をされる。鼻歌を止めて振り向くと、想像通りマルがいる。今日も髪は乱れに乱れている。腫れぼったい目を三日月型に細めて、アランを見ていた。
「おはよ」
「ご機嫌ですねぇ」
アランは軽く「ん」とだけ返し、前に向き直り、昨夜のことを思い返した。
──昨夜、マルによってベルタとユゴが、エステラの死を知ることとなった。マルはベルタにエステラの耳飾りを渡し、ベルタは泣き崩れた。ただ泣いたのは彼女だけでなく、マルもだった。
泣くマルを抱きしめ、ベルタは彼に感謝をした。二人の涙が落ち着くと、彼女はマルに耳飾りを返した。
「どうして?これは元々あなたのものです」
涙の名残りが残る声でマルが言う。ベルタは首を横に振った。
「……エステラが、あなたに渡したのなら……あなたに。私にはもう、必要無いものだから……」
「姉さんは、これがあればいつでも僕を見つけ出せるからって言ったけど、でももうそんな必要も無いんです。だから……」
「私もね……これがあれば……いつでも見つけ出せるって、必ずまた会えるって言って、あの子に渡したのよ……」
ベルタの懐かしむ声に、マルが口を閉じた。
「……あの子を懐かしむものが手元にあったら、私はきっと、転生を心から祈れない……。そうしたらあの子は、転生出来ず、この世を彷徨うことになる……だから、お願い……あなたが持っていて」
マルは何かを言いたいのに言葉が出ないのか、口をはくはくと動かし、ベルタの手にある耳飾りと彼女の顔を交互に見た。赤い目が揺れ、ついに耳飾りへと視線を定める。だが袖の中に隠れた手は、一向に動かなかった。
アランが地面に崩れたままそれを見ていると、背中に温もりを感じた。横に片膝をついたアレクシが、落ち着かせるように背中を二回撫でたのだ。アランが見ると、アレクシは立ち上がって、二人に数歩近づいた。
「そのエステラって娘のことを想う奴がいる限り、誰が持ってても同じことだろ」
ベルタとマルが弾かれたようにアレクシを見た。火に照らされて、アレクシの赤い耳飾りが煌めく。アランはその昔、聞いたことがあった──アレクシのあの耳飾りは、大切な幼馴染だったルージュの形見だ。
「二人して持つのが嫌なら、そこの火にでも焚べちまえ」
「……それは!」
ベルタがアレクシから守るように耳飾りを両手で握り締めた。アレクシは息を漏らすような、微かな笑い声を響かせると、両腕を組んで、顎でエステラの耳飾りを示した。
「ちょうど二つあるんだ。片方ずつ持ってればいいじゃねぇか」
「でももう、僕が持っていて良いものじゃ──」
「エステラって娘が死んだ理由が、本当にお前なのか俺は知らん。リョウエン旅芸団は崖下に落ちて全滅したってのは有名な話だが、それはお前が引き起こしたのか?」
「僕じゃない」
低く静かな声だった。地の底を這うような恨みが籠り、戦場慣れしたはずのアレクシとアランも、思わず目を見開いた。しばしの沈黙を破ったのは、ベルタだった。
「……そうね、半分こにしましょう。……懐かしい耳飾りを見て、転生したあの子の魂が、会いに来てくれるかもしれない……」
ベルタは耳飾りの片方をマルに差し出した。
「その子はもう、エステラでは無いけれど……笑っている顔が見られるなら、それで十分だわ……」
布が無ければ、彼女の微笑みが見られただろう。それ程に柔らかく優しい声だった。彼女はエステラの母だと、その声だけでよく分かる。
マルは袖から出した小さな手で、耳飾りの片方を受け取った。金色に輝くそれを見て、彼はまた鼻を啜った。
「……アランくん」
ベルタがアランの方を見る。アランは片膝をついて立ち上がろうとしていた。片膝をついたまま、アランは「何ですか?」と返す。あまり前が見えない彼女はユゴの手を借りて、アランの前へとやって来る。視界の隅では、荷馬車の中で、蹲り震えるシェリンを団員たちが宥めていた。
「……あなたも……きっと、知らなかったでしょう……」
エステラの死のことを言っているのだ。彼女はマルの言葉で、アランも初めて知ったと思っている。頷くのは簡単だ。時間もかからずすぐ終わる。だがそれは嘘を、罪を重ねることになる。
アランは今だと思った。今しか、罪を軽くできない。
吐き気を我慢しながら、アランは教会ですべき懺悔を、そこでした。
「いいえ……俺は、知っていました」
ベルタとユゴの「え」という声が重なって聞こえた。
「エステラのことを言ったら悲しむと思って、エステラがいた旅芸団の名前も伏せました。……ごめんなさい」
アランは頭を下げた。切り揃えたばかりの髪が視界に映る。
その時、荷馬車が大きく軋む音と、団員たちの慌てた声が聞こえた。アランも頭を上げ、何が起きたかを見る。すると、目の前に女性の足がやって来た。どたばたと忙しない足音を響かせてアランとベルタの間に立ったのは、シェリンだった。
「ベルタさん、アタシなの!アタシが、コイツにエステラちゃんのことは言うなって言ったの!」
「シェリン……?」
「だって、エステラちゃんが死んだって聞いたら、ベルタさんっ……居なくなっちゃうって思ったからッ」
狼狽えるベルタに、シェリンが子どものように抱きついた。勢いで倒れそうになるベルタを、ユゴの手が支える。
「アタシが聞いた時、言ってたじゃない!エステラちゃんと会うために生きてるって!でも、でも、そのエステラちゃんが死んじゃってたら、ベルタさん……ベルタさんは……」
「……た、確かに私は、エステラと会うために生きてきたけれど……」
「死んじゃやだよぅ、ベルタさん!」
「し、死なないわよ……!?」
泣きながら訴えていたシェリンが、勢い良く顔を上げた。
「ほんと!?言ったわよね!?」
「え、ええ……」
ベルタが戸惑いながら頷いた次の瞬間、シェリンは表情を曇らせ、呟くように言う。
「……エステラちゃんのこと、黙ってたって知って、アタシのこと嫌いになった……?」
ベルタはゆっくりと首を横に振った。
「……私のこと、想ってくれたのでしょう?……それは悪いことじゃないわ。……嫌いになんて、ならないわよ」
シェリンは感激したように「ベルタさん!」と彼女を抱き締める力を強くした。傍から見て分かる馬鹿力だ。見兼ねたユゴが無理矢理二人を引き離すと、ちょうどジョージがやって来て、シェリンを荷馬車へと回収して行った。アランは口をぽかりと開けたまま、その様子を見ていた。懺悔までの苦しい気持ちに冷や水を掛けられたような気持ちだった。
「……シェリンったら、賑やかね」
ベルタはそう呟くと、改めてアランに向き直った。
「……アランくん。シェリンにも言ったけれど……あなたが黙っていたことを、私は悪いとは思わない。……シェリンの言葉を聞いてくれて、ありがとう」
そして彼女もしゃがみ、アランと可能な限り視線を合わせようとした。
「……あなたのことは……数日一緒に過ごして、とても良い子だと思ってる。……きっと、黙っていて苦しかったでしょう。でも……そのおかげで、私はエステラのことを想って、この数日、幸せな気持ちでいられたのよ。……エステラのお話、嬉しかったわ。あの子と仲良くしてくれて、ありがとう」
この人は、どうしてここまで優しくなれるのか。
アランの記憶の中にいるエステラの柔らかく笑う顔が、目の前の人と重なる。彼女と初めて会った時、アランは不安に怯え、誰かに守られたいのにそれを口に出せない子どもだった。
「……俺は、そんな風に、言ってもらえる資格なんてない……」
泣きたくないのに涙が滲む。
「良い子なんかじゃない。ありがとうなんて、言ってもらえる人間じゃない」
アレクシの目がアランをずっと見ていた。彼にとって、自分は良き息子ではなかった。国民にとって、自分は良き人間ではなかった。姉のミレーヌに胸を張れない王になってしまった。
「謝っても、誰にも許してもらえない」
リシャールは、アランを殺すだろう。それでもいいと思える時もあった。全てを諦め、流されるように逃げ出し、ついには自分の罪に耐え切れず、この人生から逃げ出したいと思っていた。けれど、やはり死ぬのは怖かった。エリエントに止められなくても、アランは剣を首に当てられなかっただろう。処刑台に引っ張られても、最後には泣きながら抵抗しただろう。アランはこの時になって、ようやっとそれに気づいた。
死んだところで、エステラのように、誰も悲しいんではくれない。どうせみんな、自分をすぐに忘れ、日常を生きていくのだ。
(俺が死んでも生き続けても、この国はもう何も変わらない、か)
いつか思った言葉が今更になって胸を刺す。
(前から分かっていたことじゃないか。……何を今更になって)
涙が一粒、地面の色を濃くした。
重く暗い空気を揺らしたのは、慈悲に満ちたベルタの声だった。
「……少なくとも、私はこの件に関しては、許すわ」
何かを察したのかそう言って、手袋に包まれた手をアランの頭に置いた。
「そしてソリエールも、慈悲の光であなたを許すでしょう。今日は満月だもの」
全てが許される夜よ。
月と星の光が、静かに地上を照らしている。アランは言われて初めて、今宵が満月だと気づいた。最もソリエールの慈悲が降り注ぎ、善悪の両者ともに平等になる夜である。
もしこの世に、本当にソリエールの慈悲があるとするならば。
アランは心の中で祈る。その祈りが、神まで届くかは分からない。これまでの祈りは全て届かなかった。
しかし、今回は確信があった。この祈りは、必ず届く。
(俺が死んでも、誰かが俺のことをずっと想ってくれますように)
それが分かれば、アランはどんな断罪を受け、死ぬことになっても、笑って逝けるだろう。
夜の光は応えるように、アランの幾数もの涙を照らしていた──。
昨夜の思い出から、今の時間へと意識を戻し、アランは再び欠伸を漏らす。やはり泣き疲れた身体のまま、朝まで起きているのは無理があった。
「……マル、そろそろ髪梳かしたらどうだ?」
目を擦りながらアランは言った。マルはアランの隣に来て座ると、「えー」と声を上げる。
「確かに凄くボサボサしてるのは分かってますけど」
「分かってるならやればいいのに」
「僕の髪を梳かす人は決まってますから」
口ぶりからして、エステラのことだとアランは思った。ボサボサの髪に隠れて、左耳で金色の耳飾りが揺れている。いつの間に穴を開けていたのだろう。
「僕、結構寝癖が酷いんですよ。でも直すのも面倒くさいんですよね」
「寝癖?そんなの手ぐしでやればすぐ戻るだろ」
「それ、他の人、特に女の人に言わない方が良いですからね」
マルに言われ、アランは既視感を覚えたが、すぐにその正体が分かった。
(ああ、姉ちゃんにも昔言われたんだった)
ミレーヌの髪はアランと違ってとても細く、一度寝癖がつくとなかなか取れなかった。眠る時にかなり気を使っているのか寝癖がつくということはあまり無かったが、一度寝坊をして酷い寝癖をつけていた時に同じことを言ったら腹を殴られたのだ。
(あれ、俺って昔から腹ばかり殴られてる……?)
「……アランくん、マルくん、おはよう」
荷馬車からベルタが出てきた。布は完全に視界を防がないほどに薄く、朝は日差しもあって、誰がいるのかは判別できるのだ。
「おはようございます〜」
「おはようございます」
昨日の今日で彼女に会うのは恥ずかしい気がしたが、マルが変わらない態度だったので、アランもそれな倣うことにした。
「……アランくんが見張り番だったわね」
「それと、俺じゃ頼りないからってアレクシも。マルは今さっき起きてきたんです」
「僕、早起き得意なんです〜」
「……ふふ。それは良いことね」
ベルタがマルを褒めると、マルは思いの外喜ぶ様子を見せた。
「……少し待っててね」
マルを見ていたベルタが、ふと荷馬車に戻って行く。どうしたんだろうと二人で荷馬車を見ていると、彼女は櫛を手にして戻って来た。
「……寝癖が酷いわ。髪はしっかり梳かさないと」
そう言って、マルの後ろに座り、彼の返事も聞かずに髪を梳かし始めた。長い間梳かさなかった彼の髪は、櫛の通りも悪い。それをベルタはゆっくりと解し、梳かしていった。
マルはただ身を任せていた。何も言わず、目を瞑り、その口もとを綻ばせていた。そうしていると、背格好通りの小さな子どものようだった。
「何やってんだ?」
大量の薪を持ってアレクシが戻って来た。薪を地面に下ろすと、マルとは逆のアランの隣にどかりと座る。
「ベルタさんによるマルの寝癖直し」
「寝癖ェ?昨日からあんな感じだっただろ」
親子の横で、マルとベルタは和やかな空気を醸し出している。何かを喋るのも野暮に思え、親子は黙ってその様子を眺めた。
時間をかけると、マルの髪はところどころ小さく跳ねているものの、随分と見違えるものになった。整えたばかりの彼の頭を軽く撫で、ベルタは満足そうに息を吐いた。
「……これで良し。髪の美しさに、男女は関係無いんだから」
そう言うと、「……櫛を戻してくるわね」と彼女はまた荷馬車に戻って行った。マルは袖の中から銅鏡を取り出して、整えてもらった髪を見る。
「どうだよ、久しぶりの綺麗な髪は」
眠い目を無意識に擦ってアランが尋ねるが、マルは銅鏡の中を眺めたまま何も言わなかった。そういうこともあるだろうと、アランは立ち上がって、地面に置かれた薪をいくつか拾った。
「アレクシ、今日の朝飯当番って誰だっけ」
それには答えず、立ち上がったアレクシはアランから薪を取ると、しっしっと犬にするように手を動かした。
「アラン、お前は寝床行っとけ」
「まだ起きてられるけど」
「気づいてないのか?瞬きの時間、長くなってんぞ」
「……それは……」──アランは大きな欠伸を漏らした。「そうだけど……」
アレクシは苦笑した。
「朝飯も大事だが、今のお前には睡眠のが大事だろ。仕事のためにも寝ろ」
実際眠気は強く、言い返すのも億劫なほどだ。一度マルを見下ろしてから、アランは「分かった」と返した。足を動かし、よたよたと荷馬車に向かう。
「しっかり寝とけー」
「んー」
振り返らずに手を振る。途中ですれ違ったベルタや団員に声を掛けられ、アランはむにゃむにゃと返し、半分目を瞑りながら寝床へと辿り着いた。こういう時、三段ベッドの一番下で良かったと心から思う。マントと腰の剣を外し、最後に髪紐を解く。ずっと包まっていたブランケットの上に、ベッドに置いたままにしていたブランケットも重ね、アランは眠りの中へと沈んでいった。
夢の内容は覚えていない。ただ、遠くから何か声のようなものが聞こえてきて、アランの意識は眠りから浮上した。
(なんだ……?誰かいる?)
傍らに置いていた剣を掴み、アランは起き上がった。二段目のベッドの位置が低く、背を丸める体勢となる。いつでも飛び出せるようにして、気配を探った。出入口となる荷馬車の後ろの方に、人のそれを感じた。話し声は二つで、何を話しているかまでは分からない。ぎしり、と荷馬車の床が軋む音がした。話し声は近づいて来ている。眠気は消え、いつでも飛び出せるように息を整える。
「でも、起きているか分からないですよ〜」
アランはふっと息を吐いた。片方の声の主はマルだ。声の調子も軽いし、警戒はしなくて良いだろう。もう片方は団員の誰かか──とアランは考えたが、予想は外れた。
「アラン様をこんなところで眠らせるなんて、マル、お前の任務を忘れたのか」
(……あ。あいつのこと忘れてた)
もう片方はエリエントだった。アランは昨夜のこともあって、すっかり彼のことを忘れていた。確か反乱軍の本拠地に話を通しに行っていたのだったか。アランは剣から手を離した。
「僕の任務はアランさんの安全を守ることでしたよね?別に忘れてないですよ〜。心外だなぁ。そもそもですね、旅芸団の荷馬車でちゃんとベッドがある時点でかなり待遇は良いですからね。旅芸団を豪華馬車団だと思ってるんですか。叩きますよ」
「誰がお前を雇っていると思っているんだ」
「ハッハハ〜。やだなぁ。お金をチラつかせるなんて下品ですね。報告しますよ」
エリエントは鼻を鳴らすと、足早にこちらにやって来た。薄暗い中、上半身を起こしている人物がアランであるとエリエントはすぐに気づいた。視界に入れた瞬間、迷う間も無く、その目を輝かせた。
「アラン様!起きていらしたのですね」
「アランさん、お昼前ですよ〜」
アランがベッドから出ると、エリエントはベッドの上に放られているマントをアランに着せた。
「ああ、ありがとう。このマントも、あの時は言えなかったけど、助かったよ」
顔を隠すまでもなく、フードもずっと被っていなかったのだが、防寒着としてとても役に立った。アランが礼を言うと、エリエントは感極まったようで、「……いえ」と上擦った声で返した。
「で、教会の地下に行けばいいのか?」
ベッドから髪紐を見つけ、アランは適当に髪を後ろで縛った。
「はい。私が案内します」
エリエントが頷いた斜め後ろで、マルが手を挙げる。
「旅芸団の方たちには僕から話を通しておきました〜」
「何て?」
「アランさんの昔の知り合いが教会にいるみたいだから会って来るって!アレクシさんも何も言いませんでしたよ〜」
「私はその知り合いの遣いだと話してあります」
二人はにこにこと笑顔で言った。
「……俺、何の仕事も無かったわけ?」
「その分は、僕がやっておきましたからね。ちなみに舞台設置と繕い物です。僕、器用なんですよ〜」
自分の仕事は誰かに簡単に任せられるほどだったのか。しかもマルはすぐに終わらせたのか。
アランは何とも言えない気持ちになって、それを誤魔化すように肩を竦め、「そうか」と返した。
「まあいいか。リシャールのためだし」
「じゃあ、早速行っちゃいましょう!」
マルが袖を揺らして踵を返す。アランは彼に続き、遅れてエリエントも続いた。
荷馬車を出ると、団員たちのほとんどは公演に向かっていて、見張りのアレクシが外にいるだけだった。広場の方からは、賑やかな声と音が響いている。
「よォアラン。起きたのか。教会の知り合いに会って来るって?」
「うん」
「王国軍人を遣いに出すなんて、よっぽどの御人なんだな」
アレクシの目がちらりとエリエントに向いた。エリエントは表情一つ変えずにいる。
「ああ、まあ……」
アランの表情に何を感じ取ったのか、アレクシは髭の生えた顎を擦ると、「俺もついて行った方がいいか?」とわざと巫山戯た調子で言った。
「アレクシさんは見張り番じゃないですか〜」
「まあ、そうなんだがな。……ま、アランなら大丈夫だろ。教会だってすぐそこだ」
アレクシは剣の位置を直す仕草をして、アランに言う。
「今夜は久しぶりに肉だってよ。それまでにちゃんと戻って来いよ。じゃなきゃ、お前の肉は俺のもんだ」
「誰がやるか!」
アランが「べっ」と舌を出すと、アレクシは「ふっ」と鼻で笑った。
「へぇへぇ、気をつけて行けよ」
アランはマルに代わって先導するエリエントについて行きながら、「おう」と手を挙げた。
そして三人は、教会の正面へと周った。フォンスで一、二を争う大きさだ。扉は常に信徒たちのために開けられ、中に入るとすぐに礼拝堂があった。入って正面に見える壁には、天井近くに大きなガラス窓があり、そこから眩い光が降り注いでいる。窓の下、床から一段上がったところには祭壇があり、入口から祭壇までの場所に二列に組まれた会衆席があった。しかし会衆席には誰も居ない。これほどの町ならば、閑散としていても一人か二人は会衆席に座って、祈りを捧げているものだ。二列の会衆席の広い間を通って、奥へと進む。祭壇には大きな蝋燭台があり、火が灯っている。若い助祭が火の管理をしながら、やって来たアランたちを見守っていた。
「礼拝準備室ですね?どうぞ」
彼が指し示したのは、祭壇と会衆席の間にある横の壁に取り付けられた小さな扉だった。アランはきょろきょろと周りを見渡しながら、礼拝準備室に入った。
礼拝準備室は狭いわけではないが、祭具や教会の書類らしきものが所狭しと置かれ、身動きのしづらい場所だった。
「反乱軍の本拠地に行くんだよな?地下にあるって聞いてたけど」
「少し待ってくださいね〜」
マルが奥に置かれた暖炉を横から押す。そんな大きな暖炉をマルの細腕が動かせるのかと疑ったが、思ったよりマルに力があったのか、暖炉は重い音を立てて動いた。
「マル、お前凄いな」
「へへん」
「アラン様。こちら階段が急ですので、お気をつけください」
エリエントに言われ、アランは元々暖炉があったところを見た。そこには人ひとりがかろうじて通れるくらいの狭い下り階段が伸びていた。彼の言う通り急な造りで、手すりも無い。降りた先が明るいのか、真っ暗というわけではなかった。
「本当に教会に地下があるなんて……」
「この町は元々窪地に出来た場所ですから、教会にも珍しく地下が存在します」
光の神ソリエールを崇めるソリエール教の教会は、光の届かない地下を持たないことが普通だ。冷たい風が地下から吹き、背中がぞくりとした。
「マル、先に行け」
「は〜い」
マルが階段を下り始める。
「アラン様、私が殿を務めます」
「そんな大層なものにしなくても」
エリエントが手のひらで先を示す。断る理由も無く、アランも階段を下り始めた。前と後ろから、コツコツと足音が聞こえる。誰かがそばにいるのは、嫌いじゃない。むしろ安心した。
階段を下り終えると、礼拝堂よりも広い空間に出た。地下室どころか、屋敷そのものだ。太い柱がそこかしこに伸び、幾数もの部屋があった。広い廊下のところどころにはテーブルが置かれて、数人がそこに集まって何やら議論を交わしていたり、別のテーブルでは麦酒を飲んでいた。男が多いが、そのわりに騒がしくは無かった。地下のため、声を抑えているのだろう。
勝手に地下牢みたいな場所を想像していたアランは、予想だにしなかった光景に口を開けていた。これが現在の反乱軍の本拠地で、教会も協力しているのなら、前の革命の時と同じ争いを起こすことができる。
(革命を起こすわけじゃないにしても、反乱軍なんて呼び名は不相応だろ……)
この集団は、そんな名前では収まらない。
「こちらです」
エリエントがアランを人々から遠ざけるように、ある一室へと導く。それは地下の中でも奥の方にあって、周りに人影は無かった。
「……ここは」
「この中に、この反乱軍を作った方がいます」
「軍主が?」
「いえ、軍主はまた別に。彼女はあくまでそういう呼びかけを行っただけですので」
革命軍の時にも幹部に女性がいた。セネテーラ王国の女性は戦えることから基本的に気が強く、王国軍にも女性が多く在籍していたと記憶している。反乱軍を作った女性──果たして、どこまでの気の強い人なのか。
マルが扉を叩き、中からの返事を聞いて、開く。まず目に入ったのは、壁にかけられた王国内の地図と、中央に置かれたテーブルに散乱する羊皮紙、そしてテーブルを囲む椅子の上に置かれたメイスだった。部屋の隅で、ランプに火を灯している女性がいる。黒の司祭服を見に纏い、黒い帽子とその後ろから腰へと流れる長く黒いベールで、髪の色は見えなかった。
「少し待ってください。火がなかなか点かなくて」
声から推測するに、アランより少し年上くらいだろうか。壁につけられた蝋燭には火が灯り、あとは彼女の手もとにあるランプだけなのだろう。
「なかなか点かないだなんて、何か不吉な予感がしま、す──……」
ようやく火を点けられて、彼女が振り向いた。真っ直ぐに切り揃えられた金の前髪のすぐ下には、三白眼がある。胸もとまで伸びた髪は、彼女に会った最後の日から流れた年月を思い出させた。
「──アラン、様?」
すぐには分からなかった。だが面影の残る彼女の顔と声で、記憶がぶわりと蘇り、アランは思わず声を上げた。
「イネス?イネスが何でここに!?」
「それはこちらの言葉です!何故アラン様がここに?エリエントからは、城の者が来ると……。エリエント!」
イネスがエリエントに問いただす。エリエントは悪びれも無く、「仕方がないでしょう」と返した。
「本当のことを言って周りにバレでもしたら、アラン様に危険が及びます」
「私には言っておくべきでしょう!」
「昨日は周りに人がいる中での話でしたので」
「……それはそうですね」
イネスは悔しそうに返した。
「ま、待てよ。イネスがこの反乱軍を作った……ってことだよな」
アランはエリエントを見上げた。エリエントは首肯する。次にイネスを見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。
「ええ、そうです。私が反乱軍を作りました」──イネスは目を伏せた。「あなたを危険から助けたくて」
「イネス……」
彼女は、革命軍時代にアランが仲間に引き入れた人物だった。彼女ともう一人、老年の司教は、王国と革命軍の間で中立の立場を表明しながらも明らかに王国側に肩入れをしていた教会に疑念を抱いていた。革命の正当性を示すために教会の協力を得たかった革命軍と彼女らは、そうして手を組んだ。しかし他の者たちもそうだったように、革命後、彼女らはアランを見限って教会に戻ってすぐに行方を晦ました。中立であるべき教会の人間が真っ向から革命軍に加担したのだ。王の後ろ盾も無い彼女らには、教会に居場所は無かった。
「まさか、あれからずっと反乱軍を……?」
「ええ」
イネスは腹の前で手を組む。
「アラン様。失礼を承知で申し上げます」
エリエントの眉尻がぴくりと上がった。
「あなたは王の器ではなく、あのように奉り上げられるべき人間ではなかった」
「ああ。分かってる。自覚済みだよ」
「……あの時のあなたがそうであれば、また違ったかもしれませんね」
新たな王朝を打ち立てた時、アランは静かに狂っていた。自分がこの国をより良い国にするのだと、その器があると信じていた。だから彼女らはもう言葉も届かないと見切りをつけた。
「でも、それなら何で反乱軍なんて作ったんだ。俺の危険なんて、どうでもいいだろ」
「王の器では無かったとしても、あなたは確かに、この国の英雄でした」
まただ──アランは目眩を感じた。エリエントも彼女も、アランを英雄と呼ぶ。
「皆が、あなたに光を見たのです。あの時の光を忘れることなど、私には……そして私の声に応えてくれた者たちには、できなかったのです」
「それでリシャールに害をなそうって?」
自分で思うよりも低い声が出た。イネスは予想の範囲内だとでも言うのか、一切動じずに口を開く。
「あなたを玉座などという不釣り合いな場所に縛り付けたのは、彼です。最初はただあなたを玉座から解放できれば良かった。しかし、彼には不安要素が多すぎた」
「イネス、お前も知ってるだろう。あいつはアルノー朝の血は引いていても、それはかなり遠いし、何よりあいつは末っ子だ」
「……やはり、あなたは今でも彼を信じているのですね」
こうして城から追い出されても、なお。
イネスの目が、アランの胸を射抜く。
「噂、聞いたのか」
「ええ。あなたにこうしてお会いして、噂は真実だと確信しました」
彼女の頷きを見て、アランは重い口を開く。
「……そうだ。俺は城から追い出された」
ただ自分から見た事実を淡々と伝えることに意識を向けた。
「リシャールに厄介払いされたんだよ」
「ですから、なぜ──」
「だからもう、それで良いじゃないか」
イネスだけではなく、エリエントの息を飲む音も聞こえた。しんと静まり返った部屋に、アランの声だけが響く。
「国が回るならそれで良い。国民が苦しまないなら、それで良いだろ。上がマシな奴なら、国民はそれだけで良いはずだ。少なくとも、傭兵たちの仕事を無くした王でなければ。あれで益々みんなが俺を見限った。イネス、お前たちはそのとっくの前には、俺を見限って去ったじゃないか」
そこで一度間を置き、息を吸う。地下の空気は地上よりも冷たい。
「俺は王の器じゃない。分かってる。英雄でもなかった。あんなの、周りが上手くそう見せてただけの張りぼてだ。だからもう、全て放っておいてくれ」
ぼとりと、壁の蝋燭台から、溶けた蝋が床に垂れた。明かりはアランを様々な角度から照らしたが、その分だけ、彼の足下にいくつもの影を作っていた。
「……わ、私は、それでも……それでも……」
イネスが震えた声を絞り出す。
「影からでもいいから、ただ、あなたを──」
「アラン様」
彼女の言葉をエリエントが遮った。彼を見ると、真剣な目でアランを見ていた。
「たとえアラン様がそう仰っても、動き出したものは止められません」
「どういうことだ」
アランは身体ごと彼に向き直った。
「軍主は別にいるとお話しましたね。軍主は止めるつもりはありません。必ず、リシャール様の首を狙うでしょう」
「じゃあその軍主はどこにいる。ここにはいないのか」
「イネス様」
リシャールがイネスに目を向けた。連られてアランも彼女を見る。元々の白い肌をさらに白くして、彼女は立ち尽くしていた。
「軍主殿は、今どちらに」
「……私にも分かりません。ただ貴族たちに話をつけてくると言ったきりで……」
「なあ、その軍主は誰なんだ」
アランが尋ねた。
「俺の知ってるやつか?ナタンの姿が見えないし、もしかして彼か?」
ナタンは、イネスと共に革命軍に引き入れた老年の司教の名前だ。平民出身ながら着実に教会内の地位を上げており、人徳の高い人だった。彼が軍主ならば人も集まるのも納得だ。しかし、イネスの答えはそれを覆すものだった。
「ナタンは既に転生しています」
「……ナタンが?」
周りからの人徳が高いのに、いつもアランにだけは毒を吐いてくる彼を、決して好きだったとは言えない。だが嫌いでもなく、尊敬もしていた。歳を考えれば当然のこととはいえ、アランは衝撃を受けた。
「ええ。四年程前に。医者が言うには、寿命だったと。このベールも、彼から譲り受けたものです」
「……そ、うか。……そうなんだ。ナタンが……」
彼がアランに敬虔な信者のあり方を叩き込んだのだ。彼の教えを通して、敬虔な信者だった両親を見ていたこともある。
(せめて最後に会いたかった。祈ることを、ナタンは許してくれるかな)
彼ならば笑いながら「あなたごときの祈りは必要ありませんよ」と言いそうだ。想像して、余計に悲しくなる。
「それで、軍主の行き先は本当に知らないのですか?」
エリエントがイネスに尋ねる。イネスは「申し訳ありませんが」と首を横に振った。
「ただ、私の推測にはなってしまいますが」
イネスはアランたちの反応を窺いながら言った。アランは小さく先を促す。ナタンのことに捕らわれてばかりでは、親友を救えない。イネスはほっと息を吐くと、自分の考えを整理するように続けた。
「軍主は既に伯爵には話をつけておりますし、伯爵と親交の深い者たちも同様でしょう。今の城側の貴族たちは、アルノー朝時代に幅を利かせていた者たちばかりのはず。それの対抗馬となるのは、やはり城には絶対に属さない貴族……」
まさか、とアランは思った。思い当たる貴族がいる。それも二つの家だ。
「特例貴族のベルトラン家とブランシェ家でしょう」
やはりそうだ。アランはその両家をよく知っていた。初めはミレーヌに教わった。そして次は、自ら関わりに行った。
「革命の時には、我々に力を貸してくださった両家です。今回もと考えるのは、おかしなことではないはずです」
「有り得ない話ではないですね。アラン様はどうですか?」
エリエントに聞かれ、アランも頷く。
「説得力のある話だと思う。この辺からだと……ブランシェ家が近いか。特にあそこには、革命の時にお世話になったからな」
「ええ。そうですね。何せ副軍主が、ブランシェ家の方でしたから」
イネスが懐かしむように言った。
『その犠牲に、あなたはなれますか』
アランの脳裏に、年老いた女性の声が響く。あの言葉を言ったのは、まさにイネスの言ったその人だった。
「どうしますか〜?ブランシェ家、行っちゃいます〜?」
場に似合わない調子でマルが言う。アランの中で、天秤が揺れる。それはすぐに結果が出た。
「軍主がいる可能性があるなら、俺は行く」
親友の命が掛かっているのだから。
イネスは黙ってアランを見ていたが、彼の決意が変わらないと見ると、ただ彼の選択を受け入れた。
「……私は、軍主が反乱を止めると言うのなら、受け入れましょう。ただ言うまでは、私は──……」
イネスはそこで口を閉じた。もう開く気は無さそうだった。アランたちに、視線で先へ行くよう促す。マルが扉を開け、エリエントが扉の外に出た。振り返って、中にいるアランへと声をかける。
「アラン様、時間はあまり無いかと思われます。急ぎましょう」
「分かった」
アランが返事をして、イネスへと向き直る。
「イネス。久しぶりに会えて良かった」
「…………」
イネスからは無言が返ってきた。
「……ありがとう。そして、ごめん」
それだけを言って、アランはエリエントたちの方へと向かい、部屋を出た。一度振り返った時、イネスは祈りの手を組みながら、アランをじっと見つめていた。その姿はマルが閉める扉の向こうへと隠された。
「行きましょう」
エリエントに促され、アランは歩き出した。あの階段を上り、地上へと戻る。暖炉で階段を隠し、礼拝堂へと足を踏み入れる。先へ急ごうとするエリエントとマルを止め、アランは会衆席へと座った。
「すぐ終わるから、祈らせてくれ」
「仰せのままに」
アランのすぐそばに立って、エリエントは胸に手を当て軽く頭を下げた。マルは少し立ち止まった後、風のように教会を出て行った。アランはそれを横目に祈りの手を組み、目を瞑る。
ナタンの転生が上手くいき、幸せが訪れるように。もう動乱に巻き込まれるのはこれが最後であるように。そして、もう戻るかは分からないあの旅芸団で、団員たちが、アレクシが、幸せであるように。
(飯の約束って、いつも守れない気がする)
祈りが終わる間際、アランはそんなことを思った。夕食の後のケーキも、今夜の夕食の肉も、アランは食べられない。
(そういえば、旅芸団の中では、俺は十年前にアレクシのところから飛び出した馬鹿息子ってことになっていたんだっけ。……まさか、本当にそうなるなんて)
次にアレクシに会った時には、腹を殴られるだけではすまないかもしれない。
目を開け、祈りの手を外す。礼拝堂の中に満ちた光が、やけに眩しかった。
「じゃあ、行こう」
アランは立ち上がり、エリエントへと顔を向ける。エリエントは「はい」と喜びを隠しきれない様子で返事をした。
マルのことだ、今頃は旅芸団に話をつけ終わっているだろう。教会を出たら、すぐに合流できるに違いない。
(きっとアレクシなら、俺のことを早くには忘れない。それでいいや、もう)
二人揃って教会を出ると、やはりそこにはマルがいた。
「早く早く!話はつけました。グズグズしてるとこわーい人が剣を持って追って来ます〜!」
「お前、仕事早いな」
「器用なので〜!」
マルが袖をぶらぶらと揺らして答えた。
「裏路地を使って行きましょう。私がいますから、アラン様に危険は及びません」
「旅の必需品はどうする?」
「僕の袖の中にあります〜」
マルが当然のように言ってのけた。
「さすがだな。本当は弓を買いたかったんだけど……」
「旅には剣です、アラン様」
「……だな」
アランは教会の裏手に続く道を見る。それからすぐに前へと向き直った。
日は高い。春の陽気が足を軽くさせた。風が背中を押し、先へと急がせている。
エリエントを先頭に、三人はフォンスを出る道を辿る。障害も無く、城門へと辿り着く。人が通れる分だけ開かれた門を潜れば、もう旅が始まる。アランの親友を救うための、新たな旅が。
生かし続けるためには、あなたに何をすべきかを伝える必要がありました。絶対にあなたを死なせはしない。




