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フェリロジカ  作者: 小林月春
物語
3/24

3話 「あなたとともに」

 懐かしい夢を見た。

 アランが目を開けると、仄暗い闇の中で埃が舞っていた。じんわりと腹の痛みが襲ってきて、眉根を寄せる。ソリエールは信者の願いを聞き届けてくれなかったらしい。周囲からは寝息やイビキが聞こえていた。

 ベッドから出て身なりを整える。寝てる途中でマントを外していたらしい。髪を結び直し、マントを羽織る。良い布は総じて重い。このマントも例に漏れない。

(誰だっけ……嗚呼、そうだ、エリエントだ。もしもあいつに会うことがあったら、礼を言わないとな)

 うんと伸びをすると腹の痛みが襲ってきたが、治りかけなのかすぐに引いていった。欠伸をして、荷馬車の中を歩く。

 外に出ると、東の山々から太陽が昇ろうとしていた。手を組んで、その方向に祈りを捧げる。

(今日も光のもとで過ごせることを感謝感謝、っと)

 昨日の焚き火のところに行くと、そこには変わらずアレクシがいた。彼が動くたびに、赤い耳飾りが揺れてきらりと光る。彼は燃え残った木を踏み潰し、中で燻る火を消しているところだった。

「おはよう」

 アランが声をかけると、彼はちらりと見て「はよ」と返した。

「よく眠れたか?」

「おかげさまで。最高の目覚めだよ」

「そりゃ殴ったかいもあったな」

 睨んでもアレクシには効果が無い。アランは息を吐いた。

「朝って何すんの?ご飯の用意?」

「それならもう済んでる。ジョージってやつが朝飯の係なんだ」

 アレクシが顎で荷馬車の裏を示す。

「昨日の昼間、奇術を見せてたやつだよ」

 そう言われてアランはふと思い出す。

 昨日の昼前にこの旅芸団に入り、ベルタと夕食後の話を約束し、昼食を食べた後、アランは繕い物以外にも舞台の設営の手伝いをした。作り上げた舞台の上で奇術を披露したのが、ジョージという名前だったような気がする。

「朝飯も奇術で出来たりしないのかな」

「お前、昨日夢中になって見てたもんな」

「……しょうがないだろ。奇術なんて初めてみたんだから」

 エステラのいたリョウエン旅芸団にも奇術師はいなかった。そういうものがいるらしいと噂が流れていただけだった。

「でも本当に凄かったなぁ。あれはもう、魔法だろ」

「へえ、嬉しい評価だ」

 笑いながらアランが言うと、背後から声がした。

「おお、ジョージ。お前の奇術に夢中なやつがまたできたぜ」

「それがアレクシさんの息子さんってのは、なかなか嬉しいものだね」

 振り返ると、そこにはジョージが立っていた。手には木のトレーがあり、その上にはスープの入った器と黒い小さなパンが二つずつ乗っていた。

「これは、あなたたち二人の朝食だよ」

「持ってきてくれたのか。すまねぇな」

「ありがとう」

 スープとパンを受け取ると、何も無くなったトレーを脇に挟んで、ジョージはじっとアランを見た。アレクシはさっさと地面に座って食べ始めたが、アランは視線が気になってそれも出来ない。

「……えっと、なに?」

「んー、いや?」

 ジョージはにこりと笑みを向けたが、アランに警戒心が芽生えるだけだった。ジョージもそれを感じ取ったのか、片手をひらりと振って、「ごめんごめん」と軽く謝った。

「昨日、シェリンやベルタさんが君のことをかなり気にしているようだったからね。君に、新人で、アレクシさんの息子さんだっていう以外に、何か特別なものがあるのかと思ったんだけど……いやあ、分からないね。顔かと思ったけど、ベルタさんは手もと以外はほとんど見えないって前に言ってたし、シェリンは男の顔なんてどうでも良さそうだしさ」

「ああ、そいつ、顔だけは昔から良いからな」

 スープを飲み込んでアレクシが言った。

「顔だけはってなんだよ」

 他にもあるだろ──と続けようとしたが、アランは自分がそれ以外に何か優れているものがあっただろうかと思い、口を閉じた。そんなものがあったら、今ごろはきっと、こんなところにはいない。リシャールにだって見限られることは無かっただろう。

「あとは武術の才くらいか。極めてはいないし、正直俺よりも弱いが」──アランが肩を落としているのを見て、アレクシは若干早口になって続ける。「だいたいの武器をそこそこ以上の腕で使うことができるからな」

「それはかなり凄いことじゃないか」

「……ま、まあな」

 褒められて、アランの口がむずむずと動く。頬も赤くなった気がした。

 セネテーラ王国では昔から武が尊ばれていた。勿論それには理由がある。数百年前、隣国ウェントース皇国の王位継承争いに負けた第一王子が仲間たちとともに逃げ込んだ先で建国したのがこの国である。つまり皇国の皇帝の血がセネテーラの王家にも流れていることになる。ウェントース皇国にとっては何かでそれを持ち出され、争いになるのは避けたいだろう──実際、その血筋の最後の王であるセルジュ・アルノー四世はそれを持ち出し、ウェントース皇国との間で継承争いを生み出そうとしていた──そのため、軍を差し向けてくるかもしれない。軍の数に負けるセネテーラ王国側はその対策として、身分に関わらず国民全員が戦えるようになることを義務付けた。今は義務ではないが、その名残りは根強く残り、また、傭兵が一大産業だったことが、この国が武を尊ぶ理由である。特に貴族は顕著で、決まりとして男女とも成人するまでに剣を使えるようにならなければならない。だが剣だけを使えるのでは凡庸止まりだ。剣以外の武器も扱えてようやく認められる。異例の傭兵出身の王となったアランが、触れたことのある武器は基本全てが扱えるということで一目置かれていたことが何よりの証左である。

「一番得意なのは弓だけどな」

「でも持ってないね?アレクシさんのところを飛び出た後は、色んなところを旅してたって、アレクシさんから聞いていたんだけど」

 そういう話になっているらしい。アランの背中に一筋の汗が流れた。

「弓は弓矢をいちいち補充しなきゃいけないし、荷物が多いから」

 そうアランが返すと、ジョージは「そういうものか」と納得してくれた。

「でももう旅は止めたんだろう?アランくんは用心棒としても雇われてるんだし、やっぱり一番得意なものは持っていた方が良いんじゃないかな」

「やっぱりそうだよなぁ」

「次の町で買ったらどうかな?お金に余裕があればだけどね」

 あの馬車から逃亡してまだ三日目。弓など手に入れる機会が無かった。次の町に行けば、弓を手に入れられるかもしれない。

(弓は剣よりも長く触ってなかった。懐かしいな……)

 革命軍の軍主にさせられた時に、この革命が成功せずとも軍主とは英雄であり、英雄といえば剣なのだから全てが終わるまで剣を持てと説得された。その説得する人々の中にはリシャールもいて、彼が言うならとアランも弓を手放したのだ。

 もうアランは英雄ではない。いや、とうの昔、両親が殺される中、隠れて泣くことしかできなかった時点で、アランは英雄にはなれない運命だったのだ。たとえ人が英雄だと持ち上げようと──。

 そしてアランのことを、あの「解放の英雄」などと呼ばれた男だと知っているものはここにはアレクシしかいない。そのアレクシもアランのことをそう呼ぶことはないし、そもそも認めてもいないだろう。

 だからもう、アランは剣に拘らなくてもいいのだ。

「お金無いから、アレクシ、弓買って」

 アランが笑顔で言うと、朝食が終わったばかりのアレクシはこう返した。

「自分で買えよ、二十六歳」

 ジョージの驚く声で、他の団員たちは一斉に目を開け、やがて賑やかな朝食が始まった。

 朝食が終わると、また公演のため準備を行った。その日もそこそこの賑わいを見せ、また翌日も同じように終わり、翌々日は少し飽きられながらも終わった。ベルタに新しい服を繕ってもらったのは四日目で、掌の保護用に指先を抜いた手袋とブーツをアレクシから投げつけられたのは五日目だ。

 そしてアランが逃亡して六日目の朝。次の町への移動のため、団員たちは準備を始める。アランはすることがなく、何をしたら良いか聞くために団長であるユゴを探した。ユゴの方もアランを探していたようで、二人はすぐに出会った。

「どう?数日うちで過ごしてみて」

「みんな良い人で、楽しいですよ」

「それは良かった」

 ユゴは目尻の皺を深めた。

「ところで、さっきベルタから聞いたんだけどね」

 ──ベルタ。その名前を聞いて、彼女に真実を話せなかった罪悪感が胸を覆った。ユゴはそれに気づかず、にこにこと話し続ける。

「君、エステラに会ったことがあるって?長いことあの子を探してきたけど、知ってるどころか会ったことがある人は初めてだよ」

「そうなんですか?探すって、どれくらい……」

「僕が四十二だから、もう二十三年になるのかな。嗚呼、本当に良かった、あの子は生きていたんだ」

「団長はエステラを知っているんですか?」

「知っているも何も、あの子が赤ん坊の頃からベルタのところを離れるまでを見てきているよ」

 するとユゴは穏やかだった表情を変えた。その表情を、アランは城で何度も見た。自室の歪んだ鏡の中に、それはいつも浮かんでいた。

「僕が目を離さなければ、エステラが居なくなることはなかったんだ。僕がもっとアレクシのように強い人間だったなら、ベルタもあの火事から救えた」

「ユゴ団長──」

「って、こんなこと君にする話でもないよね」

 表情を戻し、ユゴは頭を搔く。

「申し訳ないね。エステラの名前を聞くと、どうもね。ああ、そうだ。移動だけど君は小さい荷馬車の方に乗ってね。あとはジョージに聞いてよ。それじゃあ」

 矢継ぎ早に言うと、ユゴはどこかへと行ってしまった。アランは彼の背中を見送ることしかできず、しばらくそこに立ったままだった。

 真実を話さないことは、ベルタだけではなく、ユゴにも影響してしまうのか。

 まだ冷たさの残る風が吹く。馬の鳴き声と他の団員たちが準備のため声をかけあっているのが聞こえてきて、アランは意識を現実へと戻す。

「あ、ジョージを探さないと」

 あえて声を出して、アランはジョージを探しに行った。


 大小の荷馬車は列を組んでゆっくりと進む。急ぐ旅程ではなかった。次に向かうのは、伯爵領にある宿場町フォンスだった。アランも名前だけは何度か聞いたことがある。宿場町なので、物流も他よりは盛んで、きっと良い弓が手に入るだろう。

 後方を走る小さい荷馬車の後ろのドアを開け、そこに腰を下ろして足をぷらぷらと揺らしながら、アランは景色を眺める。手にはいつでも使えるよう鞘に収まった剣を握っている。ジョージからは、後ろの見張りを頼まれていた。

 春なのに寂しい森と、人の足と車輪で作られた道が続く。空は青く澄み渡り、太陽の光は今日も人々に等しく降り注いでいた。

(弓の大きさはやっぱり小さいやつだよなぁ。持ち運びしやすいし、俺が最初に持ったのもそんなやつだったし。懐かしいー)

 ぼんやりと日を浴びていると、荷馬車の奥からぎしぎしと床が軋む音が近づいて来た。

「あー、いたいた」

 音の主はシェリンだった。今日は移動以外することがないので、髪も結んでおらず、朝から寝巻きのままだ。

「シェリン?何か用?」

「昨日のこと、一応お礼は言っておかないとってね。まだ言ってなかったでしょ?」

 シェリンはアランから少し離れて腰を下ろすと、「ありがと」と小さな声で言った。

「お礼を言われるようなことしたか?」

「したでしょ。ベルタさんのこと。あの人に、怖いこと言わないでくれてありがとってことよ」

 アランの方を見ず、流れる風景を見ながらシェリンは言う。

 ベルタは大きい荷馬車の方にいるため、この会話が彼女に聞かれることはまず無い。団員のほとんども大きい荷馬車の方にいる。小さい荷馬車にいるのは、アランとシェリン、食料や道具の数を調べているジョージ、そして御者をしている団員くらいだった。

「シェリンはベルタさんのことを凄く気にかけてるな」

「気にかける?アタシが?」

 シェリンが鼻で笑う。快活な印象を持っていたが、その仕草だけで彼女の性格が悪そうに見えて、アランは少し瞠目した。

「アタシがベルタさんを気にかけてたのなら、ちゃんと真実を話すように言ったわよ。アタシはベルタさんに、何も知らないまま、もう亡くなったはずの娘を一生探すことになる人生を押し付けたのよ。最低でしょ?」

「それを言ったら、俺だって本当のこと言わなかったし……」

「だから、そうさせたのはアタシでしょ。まあそうね、共犯者ってところ?その点でも、ありがとってことかしら」

 シェリンがようやくアランの方を向く。彼女の顔は自嘲に染まっていた。

「なんで本当のことを教えたくなかったんだ?」

「そんなの決まってる。本当のことを知ったら、ベルタさん、ふら〜って居なくなっちゃいそうだもの。アンタも見たでしょ、ベルタさんのあの取り乱しっぷり。エステラちゃんのことが大好きなのよ。生きてるなら、アタシは何としてでもエステラちゃんをここに入れたわ。でも、死んでるならそれも無理」

 荷馬車が石を踏んで大きく揺れる。彼女は膝を抱えて、遠くを見る。

「結局、ベルタさんを不幸して、アタシだけが得する結果にしたってわけ」

「どうしてそこまで、ベルタさんのことを?」

 シェリンのベルタへの執着がアランは不思議でならなかった。シェリンの語りは彼女の主観でしかないから自嘲気味になるのは仕方がないとはいえ、それを差し引いても、「大事な誰かを不幸にしてまでそばにいたい」ということが理解できなかった。

「アンタ、見かけ通り人生経験乏しそうだもんね、察せないか」

「見かけ通り!?経験乏しい!?」

 アランはこれでも普通の人ではまず経験しないようなことばかり経験している。しかし、それは逆に普通の人が経験するようなことを経験していないということになるのではないか。

 シェリンは膝を抱えて半笑いを浮かべ、「自覚無しなわけ?」と呟いた。

「ま、アレクシさんのとこから飛び出したってのは評価してあげるわ」

「そ、そこだけ……」

「二十六歳だっていうけど、嘘でしょ。その外見でそうは見えないって。アタシより年下なのは間違いない!」

「本当に二十六歳なんだけど!今年で二十七だ!外見はしょうがないだろ!」

「はいはい、二十六歳ね」

 信じてくれていないことは伝わった。

「で、答えになってねぇんだけど?」

 なぜベルタに執着するのか、まだ答えは無かった。シェリンは膝に片頬をくっつけ、アランにニコリと笑顔を向けた。

「答えるつもりないもの」

「はー!?性格悪いぞ!」

「あら、気づかなかったの?アタシ、昔いた旅芸団から性格悪すぎて追い出されたのよ?」

 立てていた膝を戻し、シェリンは足をパタパタさせながら笑った。

「知らない土地で下ろされて、あーご飯どうしよっかなーって歩いてるところをユゴ団長に拾われて、そしてベルタさんに出会って……そこからアタシの人生丸変わり!何なら少し性格も改善されたってなわけ。案外隠せるものね?」

「誇ることかよ」

「誇れるものはどんな些細なことでも誇るわよ。じゃなきゃ、些細なことでクヨクヨしてる弱々人間になっちゃうじゃないの」

 そんなの気持ち悪過ぎて、目の前にいたら唾吐きかけたいくらいだわ──シェリンは笑いを滲ませながら言った。

「まあ、そういうことだから。また何かあったら協力よろしくね。そうそう、髪、適当に切ったでしょ?ちゃん整えた方がいいわよ。じゃあねー」

 勢いをつけて立ち上がると、シェリンはアランに手を振って、「ジョージー!あと何を数えてないのー?」と言いながら荷馬車の奥に戻って行った。「何だったんだ」と思いつつも、アランは視線を流れる景色に戻した。森を抜け、なだらかな坂を下り始めていた。

 シェリンの気持ちを、アランは知りようが無い。説明されても理解はできないだろう。ただ、やはりあの時真実を話さなかったのは、ベルタを不幸にするだけだったというのは理解できた。

『お願いします、あの子は……ッ!』

 あの日の掠れた叫びが、縋る手の強さが忘れられない。だが、本当のことはもう、彼女にも、ユゴにも話せないだろう。

 エステラの話を聞いて喜んでいた彼女とユゴから、喜びを奪うことが大罪のように感じた。罪に罪を重ねて、息苦しいったらない。

 もし真実を話したら、責められるのだろうか?数日居ただけで分かるほど、あの二人は優しいお人好しだ。責めはしないだろうが、その周りはどうだろう。特にシェリンは何をするか分かったものではない。アレクシはどうだろう。彼はリョウエンのことは知っていても、エステラのことまでは知らない。今度こそ見限られるだろうか。

 逃げたい。あの馬車から逃げたように──アランの目はどこも見ていなかった。

(でも逃げたら、独りになる……)

 逃げれば、優しい団員たちも、やっと再会できたアレクシも誰もそばにはいない。仲間もいない。親友もいない。家族もいない。

 アランは剣を抱きしめた。幼い頃、そうやって寂しさを紛らわせていたように。ミレーヌが姉になって、アレクシと夜に話をしてから、したことなど無かったのに。

 一人の少女の死が、ただひたすらに重かった。


 日は傾き、西の空には赤色が見え始めていた。フォンスを囲む低い城壁が地の向こうから姿を表す。荷馬車の奥には御者席と繋がる木窓があって、シェリンはそこから外の風景を見ていた。彼女は「あら?」と首を傾げると、すぐそばでカブの袋を数えているジョージに声をかけた。

「ジョージ。フォンスって町、ちょっと大変かもよ」

「数え間違えさせないでくれ。ええと、三袋、これで四袋……ん?四袋目だけ数が……!」

「聞いちゃないわね」

 シェリンは舌打ちをし、肩を竦めた。

「アランがセネテーラの人間なんだろ?何か知ってんじゃないか?」

 馬の手綱を操りながら団員が言う。

「確かに。ちょっと聞いてくるわ。アランー!!」

 それからドタバタと走り、シェリンは荷馬車の後ろに変わらず座り続けるアランのところへ向かった。騒がしい音で自身の声を掻き消され、ジョージは「あれ、今の何個目だった?」と首を傾げ、御者は息を吐き出した。

 アランは昼前と変わらずボーッとしていた。名前を呼ばれて、反射的に振り返る。走って来たシェリンがアランの後ろ襟を引っ張るのに合わけて立ち上がった。

「今度は何だよ」

「アンタ、この国出身でしょ。ほら、こっちこっち」

「ええ?」

 とりあえず後ろ襟を放してもらい、アランはシェリンに続いて荷馬車の奥へと向かった。

 木窓から並んで顔を出し、シェリンが指さす方向を見る。フォンスの城壁と、その中へと繋がる城門があった。宿場町であるから、フォンスの城門は開いているはずだ。だが、今のフォンスの城門はネズミ一匹も通さないほどぴったりと閉じられていて、町民らしき男が二人、門番のように立っていた。

「アタシたち、まだこの国は小さな村しか周ってないから分からないんだけど、この国ではそこそこ大きなところは門を閉じてるわけ?」

「そんなわけないだろ。普通、昼間は開いてる。何かあったのかな……」

「稼ぎ場所に入れないんじゃ意味無いわ。アンタ、顔効かないの?」

「効くわけないだろ」

 アランは伯爵領にあまり縁が無かったし、そもそもこの顔が効くことは彼が何者であるか知られていることになる。そうなれば、町に入るどころではない。

(……その場で処刑とかあるかも)

 想像の中のアランは、抵抗も無く大人しく連行されている。アレクシは何か言うかもしれないが、その方が誰にとっても良い結果になるような気がした。

(死ぬのも、逃げに入るのかな)

 彼がそんなことを考えるとはシェリンは知らず、外を見ながら「そりゃそうよね」と返事をした。城門はすぐそこまで迫っていた。門番のように立っていた男たちが、何か叫んでいるようだが、距離のせいでアランの耳には届いていなかった。

 前を走っている大きい荷馬車の後ろの扉が開く。そこから別の団員が顔を出し、御者に大きく手を振った。

「おっと、止まるみたいだ」

 団員が言うや否や、前の荷馬車がゆっくりと止まる。団員も馬を止まらせた。振動が無くなり、馬が小さく嘶く音とジョージの数える声があるだけで、あとはとても静かだった。

 男のうち一人が、前の荷馬車の方へ向かってくる。前の荷馬車の木窓からユゴが顔を出し、会話を始めた。やはりこれも聞き取れなかったが、団員が「キナ臭ぇな」と呟くのは聞こえた。

「キナ臭いって?」

「俺も全部が聞き取れたわけじゃないが、人探しっぽいな」

 アランが尋ねると、団員はそう答えてくれた。

 人探し──アランは唾を飲み込んだ。

「人探しね。それにしては仰々しい。貴族関係かな」

「ジョージ、アンタ数え終わったの?」

 シェリン、アランと並んでいる横にジョージも来て、外の様子を窺う。木窓も大きいわけではないので、三人は肩を寄せ合うことになる。狭さに耐えかねたアランが後ろに退いたが、二人は特に気にしていない様子で会話を続けた。

「ようやくね。言っておくけど、これ、シェリンの仕事も含まれていたからね」

「アタシは数えたわよ?人参の袋」

「それだけじゃないか!」

 アランは一、二歩と離れて床に座った。壁際に置かれた野菜の袋たちに背中を預ける。野菜の香りがアランを包む。セネテーラ王国に来る前に買ったものだろう。アランは目を瞑り、暗闇を眺める。

(人探しが俺のことな気がしてならない……もしそうなら、最後の自由な時間が今か?で、その自由な時間にしてるのが、野菜の匂い嗅ぎ?)

 それはそれでどうなんだろう──と思っていると、シェリンが「なぁに、あの子?」と驚く声を上げた。

「あんな子どもが何?」

「さあ?あ、動いた」

 アランは目を開けた。荷馬車が動き出し、再び振動が身体を襲う。

「何かあったのか?」

 アランが座ったまま聞く。

「子どもが町から来て、町の人に何か話をしたみたいだ」

 ジョージが外を見ながら答える。荷馬車は城門を潜り、フォンスの中へと入った。件の子どもがいなければ、こんな早くには入れなかっただろう。

 フォンスは、元は泉があった窪みに石を敷き詰めて作られた町だ。平坦な道が続くため、とても窪みがあったとは思えない。

 荷馬車が二台入ると、城門は再び閉じられた。荷馬車は教会の敷地内に入り、並んで停まる。教会から人が出てきて、ユゴと話す。旅芸団の話自体は前から通していたようで、すぐに話は終わった。

 アランたちが荷馬車を出ると、ユゴが団員たちを集めて、今後の説明を始めた。

「教会前の広場で明日の昼から始めるからね。今日は夕方にシェリンと音楽隊で宣伝も兼ねて少しの間披露してね。他の子たちは足りないものの補給と明日の準備。何が足りてないかはジョージに聞くこと。以上!よろしく頼むよ!」

 ざわざわと賑やかに団員たちが散る。ベルタや何人かは荷馬車に戻り、シェリンは打楽器や笛を持った団員たちと広場の方へ向かい、ジョージは自分のもとにやって来た数人に足りない物を伝えている。

 アランはまたしても何をしたら良いか分からなかった。おそらく、他の団員たちは別の場所に向かうたびに同じことをしているため、滞りなくすべきことをできているのだろう。

 またユゴに聞きに行くか。人の散った敷地内を見回して、アランはユゴのもとへ歩き出そうとした。

「そこのお兄さ〜ん」

 くいっと上着の裾が引っ張られた。声は少し高いが、十分に大人の声だ。裾を引っ張る手は小さく、それを辿ると、アランより頭一つ分小さい少年が立っていた。

 しかし、本当に少年だろうか。アランは眉根を寄せて彼を見た。丸い頭に沿った髪のせいで顔全体が丸く見えるが、よく見ると頬は痩けるほどではいないがほっそりとしており、大人びて見える。顔立ちはこの辺では見ない、独特の雰囲気を持っており、それで余計に年齢が推測できなかった。前髪は眉を隠すように切り揃えられて感情が掴みにくい上、何が面白いのか、ずっと目を細めた笑顔を浮かべている。そのせいで目の色も視線の先が窺えない。しかし、アランが特に気になっているのは、別のところだった。

(すげぇ髪ボサボサ。戦場帰りの傭兵でも、もう少し整ってんじゃねぇか?)

 少年の黒髪は一度も手櫛をしたことがないと言われても納得するほど乱れていた。ジョージをはじめ、髪が跳ねているものは旅芸団にも過去の知り合いにもいるが、それは生まれ持った髪の性質によるものだ。

 少年は裾から手を離し、手を下ろした。長い袖が彼の手を隠す。服は刺繍も入った綺麗なものだが全体的に大きく、成長途中の子どもによく見られる姿だった。だが聞いた声は明らかに声変わりをしたもので、子どもの姿にはそぐわない。ちぐはぐな存在に、不気味さを感じる。

「物乞いなら、言っとくけど、俺何も持ってないからな」

「僕が物乞いですか?酷い冗談ですねぇ」

 少年は口もとを隠す袖の影から、クスクスと笑い声を零した。「なんだこいつ……」と見ていると、笑い声がぴたりと止まった。広場の方から聞こえる音楽が、この場の静けさを際立たせた。

「──それで、お聞きしたいんですけど、あなたがアランさんですよね?」

 笑みのまま少年が尋ねる。少年の口調は確信めいたものだった。アランは瞬時に右手を腰の剣に添え、一歩下がる。アランは内心で自嘲した。

(死ぬのも生きるのもどうでも良かったのに、立派に警戒するなんてな)

 自分は、本当は生きたいのだろうか。

 だが、そんなことに意識を向けている場合ではないと、アランは剣の柄を握る力を強くした。

「警戒されるのは悲しいですよ〜。僕のどこが警戒に足ると?」

「よくそんな言葉が出せるな?わざとらしい」

「嗚呼、悲しいなぁ」

 少年は口もとを隠し、表情を変えぬまま、肩だけを落とす。

「こんな状態だと、何を言っても信じてくれ無さそうだ。悲しいですよ。とっても、凄くね」

「……何か俺に言うことがあるって?」

「はい」

 頷くと、少年は手を後ろで組んだ。弓なりに細めた目は、アランから決して逸らされなかった。

「マル、という名に覚えは?」

 アランの脳裏で思い出が過ぎる。幼き日の少女の、弾んだ声が聞こえた気がした。

「エステラの、弟の名前……」

 少年は静かにそれを聞いていた。アランは改めて少年の顔をまじまじと見て、はっと息を飲む。

 エステラのいたリョウエン旅芸団の団長夫妻が、まさにこのような独特な雰囲気を持つ顔立ちをしていた。そして細められ、まつ毛の向こう側に隠れているのは、幼き頃に理由も分からず恐怖した赤色の目だ。

「マル……もしかして、お前はマルなのか?リョウエンの!」

 少年──マルは頷いた。

「覚えていてくれたんですね」

「でもリョウエンは全滅したって!」──アランは早る鼓動を自覚しながら、大きな声を出したくなるのを耐えて尋ねた。「……まさか、エステラも生きてるのか!?」

 マルは表情を変えず、ぱかりと口を開いて声を発する。

「いいえ」

 アランの表情が固まる。掠れた息が零れ落ちた。

「姉さんも、他の家族も、もう居ません」

 声は震えることなく淡々と、ただ事実のみをアランに伝えた。

「みんな死にました」

 アランの顔から喜色は消え、「……そんな」と小さな声が落ちた。エステラの死を聞くのは二度目だからか、胸の痛みはもうほとんどなかった。ただ、脳裏にベルタとユゴの顔が浮かび、彼らに対する罪悪感は強くなった。

「エステラ姉さんに庇われて、僕だけが生き残ったんです」

「……崖から落ちたってのは」

「本当のことです。両親もあそこで死にました。今年であれから十三年になりますかね」

 アランがエステラと初めて会ったのは五歳の時で、彼女はマルを「一歳の弟」と紹介してくれた。つまり、今のマルは二十二歳のはずだ。彼はこの十三年、どうしていたのだろうか。

「この十三年、どこにいたんだ?その……リョウエンの人達の葬式は、ちゃんとできたのか?」

「葬式は、セネテーラ風にはなりましたが、ちゃんとできましたよ。そして僕はこの十三年、崖下にいるのを見つけてくれた方の家にお仕えしていました」

 浮浪児にはなっていないようで、アランは少しだけホッとした。マルを可愛がっていたエステラも、少しは浮かばれるだろう。

「そのお仕えしてる家のお坊っちゃんがですね、あなたを探しているんですよね。着いて来てくれますよね」

「え?」

 瞬きする間も無く、マルはアランの手首を握った。しかも利き手である右手だ。振りほどくことはできたが、アランはしなかった。マルに引かれるまま、教会の敷地内を裏から抜け、裏路地へと入り込む。

(……ここまでってことか)

 マルが仕えているという家がどんなものかは分からない。だがアランを探すのは、当然アランがいったい何者なのかを知っているからである。リシャールの手のものか。はたまたどこかの貴族の手のものか。どちらにせよ、アランに命は無さそうだ。

 両親は死んだ。義姉は死んだ。エステラは死んだ。無闇に血を流させた。かつての仲間と親友に見限られた。運命から逃げて、この国に報いなかった。ベルタとユゴに真実を話さなかった。

 だから、生きていたってしょうがない。

『解放の英雄が、そのような死を迎えていいはずがありません!』

 エリエントの声が蘇り、アランは心の中でこう返す。

(解放の英雄なんていなかった。俺は英雄なんかじゃない。逃がしてくれたのに、ごめん)

 王冠も外し、髪も切って頭は軽いのに、肩はずっと重かった。

 アランの視線の先で、マルの乱れた髪が揺れる。エステラが見たら嘆くだろうと思った。せめてエステラが生きていたら、アランの肩ももう少し軽かったかもしれない。

「あ」

 マルが何かに気づいて足を止める。それに合わせてアランも足を止め、マルの視線の先を見る。

 路地の向こうから、誰かがやって来る。背丈はアランより高い。風に翻るのは、白いマントと長い金髪だ。その姿を、アランはつい最近も見た。その男も、こちらに気づいたようだった。

「小屋で待っているという話では〜?」

 マルの言葉に反応も見せず、男は一目散に駆けて来た。マルがアランから手を離して横に退くと、男はそのままアランの目の前へとやって来て、長い睫毛を震わせた。

「アラン様、ご無事で!その髪はどうしたのですか?まさか何者かに無理矢理?」

「あー、えーと、エリエント?」

「はい、エリエントにございます」

 エリエントは六日前にアランを逃がしてくれた時と同じ格好でそこにいた。ただ表情だけは全く違い、六日前はアランを逃がそうと必死なものだったが、今は喜色満面だ。髪に関してはそうではなさそうだが。彼に犬の尻尾があったなら、今頃はち切れんばかりに振られていただろう。

 先ほどまでのアランの暗い気持ちが一度霧散する。アランに生きることを望んだ彼が、こんなにも嬉しそうにアランの存在を喜ぶからだ。同時に、アランは自分のどうしようもなく流されやすいところに呆れ果てた。

 自分自身にか、エリエントの興奮ぶりにか、アランはため息を吐いた。

「髪は自分で剣で斬っただけだから気にすんな」

「そんな危険なことを?」

「別に危険じゃ──」

「髪を整えなくては。今すぐ、私が用意した場所に行きましょう」

 エリエントがアランの手を取る。彼は驚いた顔をしてアランの手と顔を見比べたが、すぐに駆け出した。

(何がどうなってるんだ?)

 エリエントが何を考えているのか知りたくて、彼の顔を見る。斜め後ろから見たエリエントの横顔は真顔で、かと思うと唇を噛んだり、眉根を寄せたりして、苦しそうにも見える。何を考えているかはさっぱりだった。

 太陽の角度のおかげで、今の時間は裏路地も明るい。だが辿り着いた古い小屋は、城壁のすぐそばにあって、影がかかっていた。周りは商店の倉庫や、城壁用のレンガが積まれているだけで、人の気配は無い。小屋の中は物置になっており、木窓は開けられているが埃がそこら中に積もっていた。咳き込むと、エリエントに「アラン様に相応しくない場所で申し訳ない」と謝られた。

 アランは古い椅子に有無を言わず座らされ、前にエリエントが立つ。彼の斜め後ろにはマルが立ち、マルの向こうに出入口のドアがあった。エリエントがマントを取り、それをアランの体に掛ける。

「マル、ハサミ」

「はいお坊っちゃん」

 マルがどこからか取り出したハサミを受け取り、エリエントはアランに言った。

「申し訳ございません、アラン様。髪に触れても?」

「別にいいけど、なあ、ハサミなんてどこから?」

「僕、刃物いっぱい隠し持ってるんですよ」

 あの笑顔のまま、マルはヒラヒラと袖を振った。エステラの弟だからと警戒心を解いていたが、それは少し間違いかもしれない。

 エリエントがアランの前髪に触れる。その手は震えていたが、ハサミを持つ手は器用にも震えておらず、さくりと音を立てて髪を切り始めた。目に髪が入るのを防ぐため、瞼を閉じる。そうしていると、懐かしい記憶が蘇った。

 ミレーヌがいた頃は、よくこうして髪を切ってもらっていた。両親がいた頃は、母に切ってもらっていた。母の方が器用で、横髪の半分を頬辺りで真っ直ぐに切り揃えた髪型だった。そういえば、エリエントの横髪も幼い頃のアランと同じ形だ。

 ハサミが前髪から横髪へと移動した。エリエントの手が頬に当たり緊張する。その気になれば、彼の持つハサミでアランは簡単に殺せる。だがあの飼い主を見つけた犬のようなエリエントを見た後では、彼はそんなことはしないという確信を持てた。

(マルが仕えているのはエリエントの家ってことになるのか。貴族のようだけど、エリエントの家名は知らないな)

 アランも貴族全員の名前を覚えているわけではない。家名は頑張って七割といったところか。エリエントがフォンスにいるということは、伯爵家の者だろうか。

(伯爵……って言っても、ここの伯爵って家名何だっけな。無駄に長かった気がする。アンベールくらい短ければなぁ)

 そんなことを考えていると、ハサミの音が途絶えた。次に息を吸い込む音がして、震える手が顔に付いた髪を払った。

「終わりました」

 エリエントの声で目を開ける。マントが取られ、そこに乗っていた髪が床に落ちた。

「鏡見ます〜?」

 マルがよく磨かれた銅鏡をアランに手渡した。覗くと、滑らかな表面にはアランの顔が映り込む。前髪も多少短くなり、横髪は、幼い時と同じものになっている。

「へえ、器用なもんだな。この髪も懐かしいよ。昔はこうだったから」

 エリエントを見上げてアランは言う。

「ありがとう」──戯けた声色で続ける。「そんなに酷い髪だったか?」

 エリエントは間を置いて「いえ」と返した。

「ただ、アラン様には、こちらの方がよくお似合いですから」

「ふぅん。まあいいや。マル、これ返すよ」

「は〜い」

 銅鏡を返されると、マルは袖の中に仕舞い──あの袖はいったいどうなっているのだろう──元の位置に戻った。アランは足を組み、胸もとまで伸びる横髪の半分を整え、改めてエリエントを見上げた。

「そんで、俺を探してたって?何で?」

「国民の間で、アラン様が玉座から追放されたという噂が急速に広がっています。アラン様の身に何が起こるか分からず、お守りせねばならぬと探していたのです」

「俺のいた馬車を護衛してた、あの兵士たちが流したんじゃないか?リシャールが選んだ奴らとはいえ、若い新兵のようだったし、口はそこまで重くないだろう」

「彼らは殺されました」

 アランの動きが止まる。

「あの後、私は仕事で城に戻りましたが、何やら上が騒がしく。調べてみたら、あの森で彼らが殺されていたと」

「……何故、殺された?犯人は」

 口が重く、上手く動いてくれない。頭の前あたりが、なんだか痛かった。

 アランの言葉に、エリエントが答える。

「不明です」

 アランの目が、自分の剣に向く。あの日、兵士の一人から奪った剣だ。目を離せず、柄を握る。か細いまま呼吸が荒くなる。カタリと音を立てて、鞘から剣身が覗いた。

「アラン様!!」

 エリエントがアランの腕を掴む。その力は強く、容易には振り解けなかった。

「何をなさるのですか!」

「何で止める!俺の勝手だろ!?」

「ならば止めるのも私の勝手です!」

「生きろって言うのも!?」

 エリエントがひゅっと息を飲み込んだ。

「俺が生きてても死んでても、もうどうしようもないんだ!何も変わらない!そう思ってたのに、俺が生きて逃げたら、あの兵士たちは死んだ!俺にあの兵士たちの命まで背負えって!?」

「あなた様のせいでは──」

「そうに決まってる!!そうじゃなきゃ殺されるわけがない!!俺は一人から剣を盗んだんだぞ!?」

 アランの目は剣から逸らされない。鈍く光る剣身を、早く鞘から出したかった。この剣の主を、アランは殺したのだ。

「アラン様、申し訳ございません!」

 エリエントは早口で謝ると、アランの腹を殴った。アレクシほどではないが重い一発で、アランの手が剣から離れる。その隙に鞘から剣を抜き、それをエリエントはマルへと渡した。

 アランは腹を押さえ、前屈みになっていた。前髪の隙間からエリエントを睨みつける。だがエリエントの表情は予想だにしなかったもので、アランはそれを見るのが耐えきれず目を瞑った。

(殴ったやつが、何をそんな悲しそうに……)

 腹の痛みはアランの頭から暗い興奮を奪い、次第に冷静さを取り戻させた。腹の痛みがほとんど引いた頃、アランはようやく気づく。

(俺は、俺に生きていてほしいって言ったやつの前で、死のうとしたのか)

 だが、あの時はそれが最善としか思えなかったし、それ以外考えられなかった。今も死んだ方が良いと思っているが、あの時ほど衝動的にはなれない。本当は死ぬのが怖いのかもしれなかった。

「アラン様。私はアラン様に生きていてほしいのです」

 エリエントが口を開く。

「あなたは英雄です。あなたがどれだけそれを否定しても。あなたに救われた人がいるのですから」

 確かに先代王の政治に苦しんだ人々を救ったかもしれない。だがそれは一時的なもので、アランが王になってからも苦しんだ人は、傭兵たちをはじめ大勢いるのだ。だからアランは、エリエントの言葉を受け取れなかった。

 アランは「あぁ、そう」と低い声で返した。

「言葉だけはありがたく受け取っておく。話したいのはそれだけか?」

「……アラン様」

「俺は英雄なんかじゃない。今じゃ旅芸団の新人で、仕事をしなきゃならないんだ。もう終わりだよな?俺は戻るから」

 目を開け、椅子の背もたれに手を掛け立ち上がる。エリエントはまだ悲しい顔をしていた。

「話はまだ終わっていません」

「これ以上何を話すって?聞きたくない」

「……リシャール様に関係する話だとしてもですか」

 アランは口を閉じた。見限られていても、アランにとって彼は未だ親友なのだ。あの苦しい時間の中で、彼の存在がアランを人間たらしめた。

「どうか今一度、椅子に座ってお聞きください」

 エリエントと目が合う。アランはすぐに目を逸らした。そして長い沈黙の末、どかりと椅子に座った。了承と受け取り、エリエントは再び話を始めた。

「元々、国民はリシャール様に対し懐疑的でした。あの方がアルノー家の血筋であると、革命軍時代からまことしやかに囁かれていたことが理由です」

 確かにリシャールは前王朝のアルノー家の血筋だ。しかし血は薄く、五人兄弟の末っ子という立ち位置にあった。それを隠してはいなかったが、広めてもいなかった。そのため、国民のほとんどはそのことを知らないだろう。

「なるほど、俺でも推測できる。俺を追い出して、リシャールが王になろうとしてるって噂でも出てるのか?」

「さすがでございます、アラン様」

 エリエントは胸に手を当て頭を下げた。アランは口角を下げてそれを見ていた。

「解放の英雄を王に仕立て上げ、自分はその影で好きにやっていると。そしてついに秘密裏に城を追い出したという話になっております。解放の英雄を解放するためと、数年前から新たな反乱軍が作られ、その本拠地がここフォンスにあります」

「は?なんだって!?」

 どうしてそうなる!──アランは大きな声を出した。彼らの誤解は凄まじいものがある。もはや妄想でしかない。リシャールをはじめとした城の人間は完全にその被害者だ。

「というか、なんでそれを王国軍人のお前が知ってんだよ!」

「密偵ですので」

 エリエントは淀みなく答えた。

「反乱軍には、王国軍人の身でありながら反乱軍に情報を流す密偵のふりをし、実際はその反乱軍の情報を城の上層部に報告しておりました」

「そのお手伝いを僕がしてました〜」

 ずっと黙っていたマルが、手を挙げて言った。

「アランさんが追放されたという噂を掴んだのも僕です」

「アラン様、だろう?マル」

「あー、そうでしたそうでした。すみませんお坊っちゃん、アラン様」

 エリエントに鋭い目を向けられても、マルは全く意にも介さなかった。主従らしくない主従だ。

「俺は別にどんな呼ばれ方でもいいんだけど……」

 マルが胸を反らしてエリエントを見た。エリエントは彼を見ず、アランの声に集中していた。

「それよりも、反乱軍の本拠地がここにあるって?」

 マルが袖の中から一枚の折られた羊皮紙を取り出した。受け取ったアランは羊皮紙を開く。中には街の地図が描かれていた。大きな広場のすぐそばにある教会。そこに丸がつけられている。エリエントがそれを指さして言った。

「教会の地下。そこが反乱軍の本拠地です」

「ってことは、教会も反乱軍に協力してるわけだな」

「はい」

 前の時と同じだ。アランが革命軍にいた時も、教会は協力してくれた。

(まあその教会の奴らも、俺を見限ったわけだけど)

「反乱軍はこの町を掌握しています。城門を閉じたのも、反乱軍の指示と聞いています」

「そこまで俺に話していいのか?俺は話を聞き終わったら、旅芸団に戻るんだぞ。その辺に吹聴して周るかもしれない」

「あなたはそんなことしないでしょう」

 間を置かずに言われ、アランはエリエントからの信頼に息が詰まった。何が彼をそうさせるのか、アランには全く想像できなかった。

「反乱軍の規模は、かつての革命時に比べればまだ小さいものですが、着実に人を増やしています。王国軍も一枚岩ではありませんから、制圧も難しい。このままでは、リシャール様の命も危ういでしょう。国民は、一度革命に成功しているため、士気が非常に高いのです」

「……俺に何をさせたいんだ」

 聞かずともだいたい分かっていた。自分がエリエントの言葉に頷くだろうとも。

「反乱軍に入り込み、リシャール様を救いましょう」

 もう動乱などごめんだった。その中心に行くのも避けたかった。だが、親友の命がかかっていた。

 アランは重い沈黙の中、ゆっくりと頷いた。




 日は沈もうとしていた。赤い光を城門が防ぎ、町の中に影が落ちている。家々に明かりが灯り、木窓の隙間からは、楽しげな子どもの声が漏れていた。

 アランは教会の敷地内に戻っていた。エリエントは反乱軍の中に話を通しておきたい人物がいるとして、敷地内に入ってすぐに別れた。そしてマルはというと、アランの横で、にこにこと歩いていた。

「旅芸団!いいですね〜」

「お前も来るのかよ……」

「アラン様をお守りするようにって、お坊っちゃんに言われたもので」

 マルは袖の中に隠れた手を、胸にぽんと置いた。

 教会の周りは基本的に石畳が引かれているが、その敷地内の奥は、均されただけの地面だ。そこに旅芸団の荷馬車がある。地面の上には焚き火が行われており、その上には鍋が置かれ、白い湯気を黒が滲む空に送り出していた。焚き火を座って囲んでいるのは、アレクシ、ベルタ、ユゴの三人だった。ベルタとユゴはいつも最後に食事を摂るので、鍋の中はもうほとんど空に違いない。

 マルの足が止まり、それに気づいたアランも足を止める。

「賑やかでいいですね」

「……そうか?」

 アレクシとユゴが会話しているのを、ベルタが静かに聴いているだけだ。どうしたら賑やかに見えるのかアランには分からず、マルの顔を見る。思わず肩が震えた。アランが何故か怖がるあの赤い目が、しっかりと見えていたからだ。マルは大きな目を開き、焚き火を──その向こう側を眺めている。

「いいなぁ」

 声に滲む感情は、明らかに今までと違う。何がマルを羨ましがらせるのか。改めてアランは焚き火の方を見て、思い至った。

 マルの家は旅芸団だった。彼の幼い記憶の中に、きっと今のような光景が残っているのかもしれない。その光景の中には、両親や姉のエステラもいるのだろう──そうだ、エステラだ。アランはハッとして、ベルタを見た。男二人の会話を聞いて、ベルタの顔の布が揺れている。

 ベルタの娘はエステラで、エステラはずっと行方不明だった。そしてマルは、リョウエン旅芸団に拾われたエステラの、血の繋がらない弟だ。

(言うべきか……でもそしたら……)

 エステラの死は、ベルタの知るところになる。アランの心がぐらつく。「ベルタが知ってしまったら」のもしもをいくつも考え、視界がぐにゃりと歪んでいく。

「アラン?ようやく帰って来たのか」

 ふいに振り返ったアレクシが、アランたちの存在に気づいた。彼に名前を呼ばれ、アランは無意識のうちに止めていた息を吐き出した。

「アレクシ……」

「お前今までどこにいたんだ。んで、そいつ誰だ?」

 アレクシに何と言おうか悩むアランの視界に、ベルタとユゴが映る。ベルタはユゴの方を見て首を傾げていた。ここからでは聞こえないが、何があったか尋ねているのだろう。「あ」と思った時には、もう全てが遅かった。

「ベルタ、アランくんが誰かと帰って来たみたいだ」

「──ベルタ?」

 マルの口から、彼女の名前が溢れた。

「ベルタさん、あなたが」

 火が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。風が吹いたと思ったら、いつの間にか横にマルは居らず、小さな背中はベルタの前にあった。アレクシの手には既に剣が握られており、ユゴは険しい顔でマルを見ていた。アランも慌てて近づき、自身の剣の柄を握った。

 立ち上がったベルタは不安そうに胸の前で手を握り、掠れた声でマルに問いかける。

「……わ、私に……何か?」

 マルは食い入るようにベルタを見ていた。彼は女性のベルタと並んでも身長が低く、下から覗く彼には、布で隠れた顔の一部が見えているだろう。酷い火傷を負ったと言っていた顔が。そしてマルはエステラから聞いているはずだ。自分がどうしてリョウエンに来ることになったのかを。

 マルは長い袖の中から、割れ物を取り出すように慎重に、小さな巾着袋を取り出した。襤褸になっているが、アランはそれを見たことがあった。

「あなたにこれを。これはあなたが持つべきだから」

 ベルタは巾着袋を受け取った。首を傾げ、マルを見下ろす。マルは何も言わず、ベルタから離れた。アレクシはマルの動きを注意深く見張っていた。代わりにユゴがベルタに近づく。彼女の隣に立ち、片手のひらに収まる巾着袋を見る。

「中身は……」

「……とても、軽いわ……何かしら……」

 ベルタのもう片手が、巾着袋の上を彷徨う。少しした後、ベルタは巾着袋を開け、中身を手の上に出した。

 ちゃり……と軽い音が鳴った。それは焚き火の明かりを受けて、金色に反射する。ユゴが息を飲んだ音が聞こえたのを合図に、ベルタの身体がカタカタと震え出した。

「こ、これ、これッ……これ、ど、どこでッ……これをどこでぇッ……!!」

 ベルタはそれを握り締めて、マルに掴みかかった。彼の華奢な肩を揺さぶり、耐えきれず地面に膝をつく。手は肩から離れ、長い袖の裾へと下りた。袖には皺が寄り集まり、ぶるぶると震えていた。

「何が起こってるんだ……」

 アレクシが呆然と呟く。彼のすぐ近くで、アランは口を手で押えていた。そうしなければ、自分が何を言い出すか分からなかったからだ。

 巾着袋の中にあったもの。それはエステラがつけていた金色の耳飾りだった。そしてそれは、エステラが彼女の母に貰ったものだ。

 ベルタはもう薄々気づいているだろう。ただ理解したくないだけだ。

 アランには何も出来なかった。この場をどうすることも出来なかった。ベルタをどうすることも出来なかった。彼は自分の抱えた罪悪感に潰され、胃液を飲み下すことしか出来なかった。

「どうして……どうしてあなたが、もっ、持って……ッ!!」

 マルはベルタを見下ろす。下りた髪で、その表情は見ることができなかった。ベルタの震えに合わせて、彼の体も震えていた。

「僕が託されました。これを持っていれば、必ずまた見つけ出せるからと。でももう、僕は見つけてもらえない。だから、元の持ち主のあなたに」

「見つけ出す……!?あなたは、あなたは誰なの……!?」

 ユゴがベルタの横に片膝を付き、その肩に手を置いた。「落ち着くんだ、ベルタ!」という彼の必死の声は、ベルタには聞こえていない。

「僕は血の繋がらない弟でした。──エステラ姉さんの」

 ベルタは嫌でも全てを理解して、彼女の弱い喉を潰さんばかりの掠れきった悲鳴を上げた。それは闇を劈くものではないが、確かに聞く人の心を切り裂き、傷を残すほど、悲痛なものだった。ベルタの手が土を掴む。顔を伏して、悲鳴を上げ続ける。

「ベルタッ!」

 ユゴがベルタを無理矢理抱き起こした。ベルタはユゴの手を叩いて、両手で布ごと顔を覆い、頭を振る。

「エステラ……私の……エス……エスが……嗚呼!嗚呼ッ!!」

 ユゴは叩かれても、ベルタの震える身体を抱きしめて抑えた。ユゴの表情も、とても見ていられるほどではない。アランはついにその場に崩れ落ちた。アレクシの心配する声が遠く、何も聞こえない。

(俺がもっと早く言っていれば……?マルを近づけなければ……?ああ……エステラのことを言っても言わなくても、ベルタさんは不幸じゃないか!)

 口の中で苦味と酸味がぐちゃぐちゃに混ざり合う。

(あの時エステラに会いに行ってれば、何か変わった?エステラは……生きてた!?)

 喉を痛めたベルタが咳をして、悲鳴が止んだ。咳の合間に酷い呼吸音がした。アランの耳にそれらは届かなかった。

「姉さんは」

 ただ、エステラとの繋がりであるマルの声だけが、アランとベルタの耳に届いた。

「姉さんは、リョウエンという旅芸団にいました。僕のことを、可愛がってくれました。いつも僕の髪を梳いてくれました。僕のことを大事にしてくれました、僕のことを最期まで守ってくれました、僕がいなければ姉さんは生きていました」

 マルの声は震えて、次第に感情のままに早口になっていき、聞くのもやっとだった。

「ごめんなさい。僕があなたのエステラを奪いました」

 アランは顔を上げた。いつの間にか、肩をアレクシの大きな手が支えてくれていた。

 エステラの最期、マルとどんな会話があったかは知らない。崖から落ちて、死に至るまで、何があったかは知らない。だが、マルが謝るのはきっと違うとアランは思った。エステラは母から貰った耳飾りを大事にしていた。マルのせいだと言うならば、優しいと言えどもエステラは絶対に耳飾りを渡さないだろう。

 世界に音が戻って来る。火は爆ぜ、細い風が吹き、遠くで子どもを寝かせる子守唄が聞こえ、荷馬車の中からは団員たちが息を詰めて見守り、顔面蒼白のシェリンを、ジョージが倒れないように支えていた。

「……私、は」

 咳で顔の布を揺らし、ベルタは言う。

「……あなたの謝罪は、受け取らない……あの子の最期と、あなたのことを、何も知らないもの……」

 耳飾りを胸に抱く。

「でも……あの子のこと、そんな風に思い詰めるまで、たくさん想ってくれたのね……。ありがとう」

 マルが首を振る。何かを言おうとしているが、流す涙と漏れる嗚咽で、言葉になっていなかった。その彼の小さな身体を抱きしめる腕があった。立ち上がったベルタだった。

「あの子の転生を……ようやく、祈れるわ……ありがとう。……ありがとう」

 ベルタの静かな啜り泣きと、マルの子どものような泣き声が夜の空気を震わせた。二人の頭上では、ただ静かに星が輝くばかりだった。




 あなたを生かし続けるためには、そばにいる必要がありました。何があってもこの手で守れるから。

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