リシャール
違う!彼じゃない!全て僕がやったことだ!
「リシャール様はなんと慈悲深い」
彼はそんなこと言っていなかった!
「リシャール様は未だあの者を庇っておられる」
あれはお前たちがやったことだろう!
「リシャール様、嗚呼、おいたわしや……」
止めてくれ、彼に、アランに何もしないでくれ。
「リシャール様、もうお休みください」
──僕の言葉は全て届かなかった。休養という名の軟禁は、彼の存在が消えるまで続いた。いつでも抜け出せたそれから無理矢理にでも抜け出さなかったのは、僕が情けなかったからだ。
ペンを握り、線を引く。何度引いても思い通りの形にはならない。それでも描き続けなければならなかった。あの柔らかく細い線を、記憶の中で擦り切れそうになる線に上書きするように、何度も違う羊皮紙や帆布に描く。
顔料を混ぜるのももう慣れたものだ。けれども納得のいく色にはいつもならなかった。こんな単純な黒じゃない。こんな平坦な青じゃない。光を全て引き受けたような黒と、揺らぎ続ける水面のような青は、こんなものじゃない。
僕はあの日、あの広場に行けなかった。君の最期を見ることが出来なかった。歓声が上がるのを聞きたくなくて、耳を塞ぎ、王城の一室で震えることしか出来なかった。
見なければ、どこかで君が生きているという希望を抱けると思っていた。しかし、現実にはそんなことありはしなかった。君が死んだと記録が残り、君の流した血は今も広場に色を残しているという。君が生きているという希望は、周りが打ち砕いた。
宰相から王へ。アルノー朝の復活を。そんな声が、君を追い詰めた貴族たちから上がっていた。あの失策は全て自分のものだと、彼らも推進したのだという僕の声は全て潰された。僕の声は全て、彼らに都合の良いように書き換えられた。君を救うための言葉も全て。全て、全て、全て。だから僕は全てを投げ出して、実家へと戻った。
僕は間違えた。君を逃がすために全てを用意したのに、その隙を突かれて、君は消え去ってしまった。君を王にすることが最大の過ちだと思っていたが、最悪の形でそれは間違いだったと知らされた。君を逃がすなんて考えなければ、君は今も苦しみながらも生きていたはずなのに。
金が掛かるからと君の肖像画も、君の顔が彫られた記念硬貨も作らなかった。それを酷く後悔している。この世界のどこにも、君の姿は残っていない。君が生きた証が、醜い奴らの好きなように改竄されていく。君は暴君ではなかった。化け物のような顔などしていなかった。君は優しい顔で、いつも困ったように笑っていた。それもだんだんと無くなって、笑うよりも目を伏せることの方が多くなっていたけれど。眠いと瞬きが遅くなって、目を擦って耐えていた。それもだんだんと無くなって、いつも虚ろな目で佇むようになっていたけれど。
夜になるといつも空を見上げていたことを覚えている。その横顔が何よりも綺麗だったことを、僕以外の誰も知らない。
君と初めて会話した時も、君は夜空を見上げていた。僕はあの日から、君を窓辺に立たせたままだった。暖かい陽の光の下に手を引いて立たせたつもりだったのに。
君の姿を何度も描く。この手が皺だらけになろうとも、描き続ける。その出来に納得できなくても、描き続ける以外の選択肢が無い。
君は確かにここにいた。君は確かに生きていた。君は確かに僕の隣にいた。その隣から最初に追いやったのは僕の方だった。そして君は、永遠に僕の隣に戻ってきてはくれなくなった。
処刑に立ち会わなかった僕を、君は親友だと思ってくれるだろうか。僕は君を親友だと思ってもいいのだろうか。こんな僕が。何も守れなかった僕が。
描きながら、今はもういない君に問いかける。
最期は寒くなかったかい。食事は喉を通ったかい。魘されなかったかい。
線が震える。線から色が飛び出る。それでも止めないのは、もう描き続けることでしか君を思い出せないからだ。今描いているこれは、本当に君だろうか。君はもっと幼い顔をしていた気がする。肩は薄くて、手首なんて何も食べていないように細くて。いや、もっと健康的だった?頬は丸かった気がする。違う、君は不健康だった。足なんて少し蹴れば折れてしまいそうに頼りなかった。でも、そんな壊れそうな君の姿に、皆が様々な形で縋っていた。我の弱い君に、都合の良い光を見ていた。そんな奴らとは違って、僕だけは君とよく似た光を見たと思っていた。でももしかしたら、僕も君に光を見ていたのかもしれない。
線が歪む。もうペンを握れない。それでも描かなければならない。もう霞んで見えなくとも、この手は君の形をなぞらなければならない。君がいなくなって、どれ程の時が経とうとも、僕の中の時間はあの頃から進まない。
もしも生まれ変わっているのなら、君の魂がこれを見て、下手だと笑ってくれることを願う。
君を玉座に縛り付けた男の情けない勝手な贖罪を、何も覚えていない君の魂が笑って、踏み潰して、その後はこんな絵など忘れて生きて欲しい。
もう息も苦しい。何も見えない。手の感覚なんてとうに無い。それでも僕は皺とシミだらけの手を伸ばし続けた。ようやく寿命が来た。ソリエールの光が、ついに僕を導くのだ。その光の導く先に、君の魂が無いのなら、僕の魂など消えてしまえばいい。けれど、もしその先に君の魂があるのなら。人でなくてもいい。山羊でも猫でも虫でも、花だっていい。君の隣にいられるのなら、もう何だって。
最期の瞬間、知らない女の声がした。
「ごめんなさいね。顧客が、アナタではダメなのですって」




