19話 「これからもあなたを生かすために」
「リシャール、さすがにこれは無いだろ」
「空腹だったからね、仕方ないね」
「だからって……」
干し肉全部食うやつがいるか!!
アランの叫び声が、夕暮れの離宮に響き渡った。
時は遡ることほんの少し前。目覚めたアランは、近くにいたエリエントと一緒に、一階の厨房に入った。夕食を作るためだ。厨房には既にリシャールがいて、彼は馬車に乗せていたのか、大量の書類の決裁を行っていた。そばにはコーヒーが置いてあって、聞くと少しだけ貯蔵庫にコーヒー豆を保存させていたらしい。「書類仕事を厨房でやるなよ」と軽口を叩きながら、アランは貯蔵庫に入り、エリエントは暖炉に火をつけた。貯蔵庫の中は、明らかに様変わりしていた──干し肉が全て消えていたのだ。リシャールを問い詰めると、アランが眠ったあと、食べるものも無く干し肉を齧りながら書類仕事をしていたらしい。口寂しさを感じる度に食べていたら、ふと気づいた時には無くなっていて、挙句の果てには「空腹だったからね、仕方ないね」である。
アランは叫んで震えてしまった肺を落ち着かせ、椅子に座るリシャールを見た。彼らの背後では、エリエントが慎重に野菜を切っている。
「別にいいだろ。君、もうここに留まってくれそうにないし。無駄にするよりはいいよ」
「ならせめて夕食の分は残しとけよ!肉が無いだけでどれだけ味気なくなるか、お前知ってるだろ!」
「君の作る料理は最高だよ。肉なんて無くてもね。楽しみだなぁ」
「そうやって誤魔化すな……!!」
「誤魔化しとは酷いな。本心だよ。あ、ここに名前くれる?」
「ああ、うん──……」
つい王城に居た頃の癖で、差し出されたペンを握って、羊皮紙に名前を書きそうになり、はっと止まる。羊皮紙には細かい文字が長々と書かれている。
「これ……まさか、作ったばかりか」
「いちいち城に戻るのも面倒だろう?なら、ここで済ませてしまおうと思ってね」
その羊皮紙には、アランが王位を返却する旨が書かれてあった。ここにアランが名前を書けば、それだけで力を持つものだ。
「後の面倒は全て僕が引き受ける。そして国が落ち着いたら、実家に戻って、兄さんたちにこき使われでもするかな」
「……リシャール……お前……」
アランはペンを持ったままリシャールを見た。いつの間にか、野菜を切る音は止まっていた。
「そりゃあこれまでの責任は、正直なところ君にもあるから、本当に全ての面倒を僕が引き受けられるわけじゃない。でも、そもそも君を王にしたのは僕だ。君への評価を僕が被るだけじゃ、この十年分の責任は果たせない。そのためにはまずは君を、追放なんて無責任なものじゃなくて、ちゃんと玉座から下ろしたい」
リシャールの目はゆっくりと瞬き、ゆるりと細められた。一見笑っているように見えるその顔が、実は苦しみを抱いている時の顔なのだと、アランには分かっていた。
「君の十年を僕が縛った。ごめんね、アラン」
そんな顔で謝らないで欲しかった。この十年は、アランよりもリシャールの方が苦しかったはずなのだから。
アランは首を振ると、リシャールの目を見つめながら言った。
「俺も、ごめん。お前に全部押し付けた十年だった」
「君の書類仕事、僕が半分やったこともあったもんね」
「そういうのじゃなくて!いや、それもあるけど……」
声は尻すぼみになっていき、目も逸らされていく。アランは胸に垂らした横髪を両手の指先で弄った。
「別に縛られたなんて思ってなかったし……お前のおかげで俺があるというか……。これからだって、責任果たすために、俺がお前を縛ることになるだろうし……えっと……だから……」
アランは髪から手を離すと、咳払いをした。リシャールと改めて目を合わせる。いつもこの目に守られて、背中を押されてきたのだ。
「十年……ううん。出会ってから今まで、ありがとう。リシャール」
リシャールの息が詰まる。アランの微かな笑みから逃げるように、片手で顔の半分を覆った。
「はは……これから責任を果たす方法を考えるっていうのに、まるで今から別れるみたいだね。場合によっては、まだまだ一緒にいるかもしれないのに」
「別れるって何だよ。そんなつもりで言ったんじゃねぇんだけど」
「知ってる。知ってるよ。ただ……」──リシャールの声が掠れる。「なんでかなぁ……。君との別れをやり直している気分だよ」
エリエントが料理を続ける音が戻ってきて、いつの間にかあった静けさが消える。
アランは何を言うのが正解なのか分からず、リシャールのつむじを見下ろした。それに既視感を覚えて、その正体を探ると、案外すぐに気がついた。
『もう僕の見る光は、君無しじゃダメなんだ……』
革命軍が王都に攻め入り、王城が陥落する前。リシャールはアランの手を握り、地面に崩れ落ちた。その後、アランはリシャールの言葉に答え、二人で王城に向かったはずだ。
あの時と状況は全く違うはずなのに、アランには重なって見えた。あの時の言葉と今の言葉は、もしかしたら本質が一緒なのかもしれない。
エリエントが鍋を火にかけた。火の音が少し大きくなったような気がする。そのうち良い匂いが漂い始めるだろう。彼はもう既に料理の手順を覚えていて、アランの助けは必要無さそうだった。
アランは渡されていた羊皮紙に名前を書いた。アラン・ペリエ。この二十一年間を共にしてきた大事な名前だ。この先の未来で、この名前がどれだけ悪く言われることになろうとも、アランは全てを受け入れる。それだけのことをしてしまったし、押し付けてきてしまった。
「リシャール」
リシャールに、ペンを添えて羊皮紙を差し出す。
「やり直しができるなら、何度だって色んなことをやり直そう。やり直しができないことの方が、ずっと多いんだから」
そう言ったのは、アランが自分に言い聞かせる意味もあった。アランの言葉を聞いたリシャールは、手を顔から外し、笑みを浮かべる。
「……君も、大人になったね」
アランから羊皮紙とペンを貰い、彼はアランの名前を何度も視線で追った。そして丁寧に折ると、懐へと仕舞う。ペンはインクを抜いて箱に仕舞い、ゆっくりと立ち上がる。
「別室に置いてくるよ。戻ってきたら……今日は難しい話は無しにしよう」
「うん。手伝う?」
「いや、大丈夫。それよりも、君の料理が久しぶりに食べたいな」
「エリエントが作ってるぞ?」
リシャールの片眉がぴくりと跳ねるが、すぐに穏やかな顔に戻る。
「あれ、スープだろう?スープ以外のもの作ってよ。僕、まだお腹空いてるんだよね」
(こいつ……)
アランはため息を吐いた。「しょうがない、作ってやるか」が存分に込められたため息だった。リシャールは満足そうに頷くと、足取り軽く、書類を移動しに行った。
「アラン様」
リシャールの姿が見えなくなると、エリエントが声をかける。
「無理に作らなくてもよろしいのではないですか。……食材も少なくなっておりますから」
彼なりの気遣いだろう。アランは肩を竦め、「ありがと。でも作るよ」と返した。
「今度は樽の野菜まで食べ切られたらたまったもんじゃない」
「確かに。あの方なら食べ切りそうですね」
大真面目に頷くので、アランは笑いが抑えきれなかった。
アランは適当な野菜を一口大に切ると、それらを炒め、硬く平らなパンの上に置いた。さらにその上に、貯蔵庫の奥から見つけてきたチーズを刻んでのせると、チーズは野菜の熱に溶かされた。
「適当にやったけど、なかなか美味そうなのできたな」
味見で一口齧る。美味しいといえば美味しいが、締まりが無い味だった。
(まあ適当だしこんなもんか)
「エリエント、口に合わなかったら無理して食べなくていいからな。どうせリシャールが全部食べるし」
「アラン様の料理で口に合わないなどありません」
「そう?」
鍋から良い匂いが漂ってくる。リシャールはまだ戻らなかった。──そして、マルも。
南の離宮に辿り着く前、彼は後方が騒がしいと言って二人から離れた。その時、確かに彼は「明日の午後までには戻る」と言った。そして、その「明日」が今日だ。今はもう日が暮れて、いつ戻って来てもおかしくないはずなのに。
「マル、大丈夫かな」
やはり一人で行かせるべきではなかったのではないか。それに、彼は本当に後方の音を聞いたのか?いくら身体能力が高いと言えど、アランには全く聞こえなかった。
「大丈夫です。信じて待ちましょう。マルのことですから、どこかに寄り道している可能性もあります。魚でも採っているのかもしれません」
「うん……」
アランが頷いた時、廊下の方からコツと足音が聞こえた。厨房にやって来たのはリシャールで、揺れる灯りの中、彼の目の周りは泣いたように少し腫れているように見えた。アランはそれに対して何も言わなかった。
「食べる?スープはまだだけど」
そう言って、作ったばかりの野菜とチーズが乗ったパンを差し出しただけだった。
「食べるに決まっているだろう」
リシャールの声は少しだけ震えていた。
それから食事が終わり、アランは再びベッドの上にいた。無理して食べ過ぎてしまい、気持ちが悪い。両腕で腹を抱えて丸まった。
食べ過ぎてしまった原因は主に二つだ。一つは、リシャールに食が細くなったのを見せたくなかったから。そしてもう一つは、リシャールとエリエントの放つ空気に耐えきれず、気まずい気分を誤魔化したかったからだ。
(あいつら絶対相性悪い……)
アランは目を瞑った。星も月もない暗闇が広がる。このまま目を瞑り続けていれば、いつかは眠れるはず。そうしたら、この気持ち悪さともおさらばだ。
どれくらいそうしていたのか。ようやく夢と現の境目が綻んできた。身体から力が抜け、あとはそのまま流れに身を任せるだけだ──だけだったが、アランは目を開けた。
「リシャール……?」
ベッドのそばにリシャールが立っていた。彼はアランの横髪を手で掬い上げて、アランを見下ろしていた。
「……なに?」
「君がいなくなっていたかもしれない」
リシャールはそのまま膝をつき、寝転がるアランに近づいた。
「そう思ったら怖くなって、眠れなかった」
「俺はここにいるよ」
アランはリシャールの手から自分の髪を払い、代わりに自分の手を置いて、そっと握った。
「生きてるよ、俺」
「……うん」
「今日のお前、感傷的過ぎる」
「君に会わない時間が長すぎたからだよ」
「一ヶ月も経ってなかったのに?」
「長いよ。この十年、ずっと一緒だったんだから」
痛いほど手が握り込まれる。
「痛い。離せ。そんなに怖いんなら、一緒に寝てやるから」
「子ども扱い?アランが、僕を?」
「こんなんでもお前より二ヶ月年上だからな」
リシャールの手を引くと、彼は靴を脱ぎ捨て、流れるようにベッドの上に乗り上げ、アランの横に寝転がった。
「アラン」
「なに?寝たいんだけど」
言葉だけ聞けばぶっきらぼうだが、アランのその声は優しいものだった。
「……責任を取るって言ったけど、そこに、彼はいるのかい?」
「彼?」
「あの軍人だよ」
アランの脳裏にエリエントの顔が浮かぶ。
「あいつは関係無いだろ。どんな場所に責任を取りに行くことになっても、連れて行かないよ。今だって、ディランのことを追うために一人じゃ危険だからってついてきてくれてるんだ」
でも何故かどこまでもついて来ようとする姿が思い浮かぶ。主人に忠実な犬のように。もし彼が本当について来たなら、アランはしょうがないからと許すかもしれない。でもできるなら、ついて来ないでほしかった。彼には本当に関係の無いことなのだから。思わずアランの声に苦笑が滲む。
「あいつに手紙くらいは書くかもしれないけど」
「そう」
リシャールの頷きのあと、しばしの沈黙が落ちた。その沈黙をそっと揺らしたのは、くぐもったリシャールの声だった。
「ごめんね、アラン」
「うるさい。寝ろ」
アランはリシャールの顔を見なかった。目を瞑り、睡魔を探す。リシャールの視線は感じていたが、やがて彼も目を瞑ったのか、それも消えた。
リシャールはなんだかんだ末っ子気質だ。手はずっと握られたままだった。
その一方。エリエントは未だ燃える厨房の暖炉の前で、椅子に腰掛けていた。
明日だ。明日に全てを終わらせる。暖かな時間を過ごせた。それだけで十分だ。アラン様とリシャールの間にあった蟠りも消えた。それはアラン様の心の安定のために必要なことだった。だからここで耐えた。大丈夫。もう大丈夫だ。
──本当に大丈夫だろうか。
全てエリエントが書いた通りのはずだった。だが、少しずつ、まるで霧が晴れるように、「ここの自分」が本物の自分になっていった。気がつけば、制約付きながらも、中身は完全に自分になっていた。それと同時に、大きな流れは覚えているのに細部は忘れてしまっていた。
明日、全てを終わらせる。だがその時に何が起こるのだったか。アラン様のあそこまでの不調だって、マルのあの行動だって、本来あっただろうか。無かった気がする。
──「これ」が、認められた?
それなら納得がいく。だからこんなことになっている。最後にアランが幸せな結末になるのは覚えている。そうでなければ、自分はペンを置かなかった。
それなら、やっぱり大丈夫だ。
自分はそのためにここまでやってきたのだから。
エリエントは火を消した。真っ暗な中、彼のこれまでを思わせるような長いため息を吐く。何回。何千回。何億回、これをしてきたことか。
──大丈夫。最後には、アラン様は笑顔を向けてくれる。
エリエントは唾を飲み込んだ。喉は酷く乾いていたが、彼がその場から動くことは無かった。
「アラン。考えたんだけれど」
朝食の席でリシャールは言った。円卓のある部屋でのことだった。木窓は開けられ、涼しく清らかな風が吹き込んでいる。
「責任を取るために、国を旅して周るのはどうかな」
「あ、それ俺も考えてた」
アランはパンを飲み込んでそう返した。
「無償で色んな人達を助けられたらなって」
身体が追いつかなくなっても、馬や馬車を使えばいい。それさえも無理になったら、教会に入り、奉仕と祈りを続けたい。何をしたって責任を取り切れることはないだろうが、生き続ける限り、できることをしたかった。
アランの身体のことを知っているエリエントは何も言わなかったが、その眉を顰めていた。リシャールが居なければ、「別の方法を考えてみては」と言っていただろうし、また「あなたは既に責任を取っています」と言っていたかもしれない。だが、アランの意思は変わらなかった。
「もちろん僕も手助けするよ。君が長く周れるように、馬車一つ買い取ることだってする」
「いいの?」
「ただし、報告書を必ず僕直通で送ること。伝書鳩でね」
「いいよ」
アランは残りのパンを食べる。それで朝食は完食だ。リシャールとエリエントは既に食べ終えていた。立ち上がって、皿を全て回収する。
「アラン様、私がします」
「いいよ。今日の朝食だってエリエントが作ってくれたんだから。リシャールに皿なんか触らさせたら、どれだけ粉々になるか分かったもんでもないし」
「君ね、僕のことなんだと思ってるの?」
「厨房の破壊者」
「もしかして革命軍時代の話をしてる?あれは本拠地の皿が古すぎて──」
アランは最後まで聞かず厨房に向かった。扉の向こうに消えてしまった細い背中から、リシャールの目がエリエントへと移る。アランを前にしていた時とは全く違う、冷えきった目だ。
「確認したいことがある」
エリエントは目を合わせることで、彼に先を促した。
「君は今後、王国軍に戻るのかい?」
答えはすぐには返らなかった。エリエントは探るようにリシャールを見たが、彼から真意は読み取れない。ただ少しでも間違えれば取り返しのつかないことになるとは理解していた。曲がりなりにも彼はこの国の宰相なのだから。
「……何故、そのような質問を?」
「君、アランについて行きそうだなって思って」
「アラン様にお許しいただけるのであれば」
「アランは許さないよ。もちろん僕もね」
それはあまりに断定的だった。
「アラン様の何を知っていると?」
「少なくとも君よりはよく知っているよ。特にこの十年はずっと一緒にいたわけだから」
十年!──エリエントは鼻で笑いたくなった。確かにエリエントはアランのそばにはいなかったかもしれない。だが、エリエントはそれ以上の歳月をかけてアランを見てきた。人生のほぼ全てをアランに捧げてきたのだ。
「アランの責任に君は関係が無い。君がついて行くことを拒否するよ」
「何故ですか。それに私は兄上に……アンベール侯爵に、アラン様のそばにいることを命じられました。アラン様もそれを受け入れてくださいました」
「ディランの件のためだろう?」
膝の上に置かれたエリエントの手が拳を作る。返事が無いことに、リシャールは微かに口角を上げた。
「何故知っているのか、不思議だろうね。アランに聞いたんだよ」
エリエントの目が見開かれた。
「アランは、責任を取るためにどこに行くことになったとしても、君を連れて行かないと言った。君は関係無いからだ」
見開かれた目が揺れる。音は出なかったが、エリエントの口は「何故」と動いた。
何故だ。何故こうなった。関係無い?関係しか無いのに!
「本当にアラン様が、仰ったのですか」
「そうだよ」
「あなたの嘘ではなく」
「どうして僕が嘘を?」
リシャールは立ち上がった。
「じゃあ、そういうことだから」
「どこに行くつもりですか」
「君の剣が届かないところ?」
そう言われ、エリエントは無意識のうちに掴んでいた剣の柄から手を離した。
まだだ。まだこいつを消す段階ではない。……本当に?今なのではないか。ここでこいつを消して、アラン様の手を取り、ここを出るべきではないのか。
「……アランのことに関して、君には本当に感謝しているんだよ」
リシャールの声が遠い。
「褒美は取らせる。だからもう……アランへの執着は止めてくれ」
エリエントはふらりと立ち上がった。今度は無意識ではなかった。手が硬い剣の柄を握る。リシャールも腰に下げていた護身用の剣に手を伸ばし、彼が鞘から抜き取った次の瞬間には、二本の剣がぶつかり合っていた。
「君、短気だってよく言われない?」
「短気とも気長とも評価される立場にいなかったもので」
こいつはもう要らない。アラン様とこいつとの蟠りが無くなって、アラン様の心は安定した。だからもう要らない。すぐに殺せばアラン様は悲しみに暮れるだけ。あとは私がいる。
「さすが剣聖の弟、強いね」
「いえ。出来損ないです」
淡々と返しながら、言葉よりも早くエリエントはリシャールに剣を繰り出す。リシャールの顔に焦りが浮かぶ。エリエントの顔は恐ろしいほど無表情だった。
リシャールを刺し殺すなり斬り殺すなりすれば、あとは好きに話を捏造できる。死人に口は無い。あの時殺した護送兵たちと同じだ。
「クソッ!!」
リシャールが汚い言葉を吐き出した。エリエントは勝ちを確信する。リシャールの剣を弾き飛ばそうとし──背後で扉が開かれた。
「何やってんだよ!!」
エリエントは急いで動きを変え、リシャールの剣ではなく首を狙った。だがそれにより隙が生まれ、リシャールにより剣が受け止められてしまった。
アランは鞘ごと剣を取り、エリエントを狙う。エリエントは剣を片手に持ち替え、もう片手でアランの鞘付きの剣を掴んで止めた。
「エリエント、なんで……ッ!!」
「アラン様」
エリエントの静かな声がアランに向けられる。
「私のことを、連れて行ってくださらないのですか?」
アランが息を飲む。
「な……リシャール、お前、言ったのかよ!?」
「やっちゃったみたいだ」
軽い調子で返したが、彼の額には冷や汗が流れている。
エリエントはアランの様子を見ると、「……ああ」と小さく声を漏らした。
「彼の言うように、私は、関係無いと?」
アランの睫毛が揺れる。少しの間があった。
「……実際、俺の責任には関係無いだろ」
「あります」
エリエントの即答に、アランは「無い」と返した。それでもエリエントは言う。「あります」と。何度それを繰り返したか分からない。
「無いってば!」
アランが叫ぶように言うと、それよりも必死な声色でエリエントが返した。
「有ります!何故分かってくださらないのですか!あなたはただ、頷けばいいッ!あなたの今までの道は全て私が──!!」
言ってから、エリエントは後悔した。表情を無くしたアランの手から、エリエントは鞘ごと剣を奪い取るように、部屋の隅へと投げた。その時にアランの身体も引っ張られて、部屋の入り口から動いた。エリエントは何を言うかも決めていないのに口を開く。
「アラン様──」
そこを容赦なくリシャールが狙い、エリエントは両手で剣を握ると、それを受け止めた。リシャールにより、廊下にまで出される。
まだやり直せる。上手い言葉を捻り出せばいい。どんな言葉を出せばいいかは、こいつを消してから考えればいい。大丈夫。こんな狭いところではなく、広いところに出ればもっと戦いやすい。
エリエントは考えながら、玄関の方へ背中を向け、リシャールに押されているように見せながら、じわじわと玄関へ後退し始めた。リシャールの後ろから、アランがやって来る。
「待て、リシャール!頼む、そいつと少し話をさせて!」
ガキン!と音が鳴って、リシャールとエリエントの剣が合わさって止まった。
「何を言っているんだ、アラン!こいつは──」
「リシャール、お願いだから!」
エリエントはリシャールの剣を弾くと、数歩下がり、剣を下ろした。リシャールはエリエントを長く睨み、彼が何もしないことを確認すると、アランの言葉に頷いた。
「分かった、いいよ。でも僕の後ろから出ないで」
「……ありがとう」
アランはリシャールのそばへ進み、彼の斜め後ろから、エリエントを見た。彼の後ろには長い廊下とその突き当たりが見える。あの突き当たりを左に曲がれば、玄関だ。突き当たりの壁は窓ガラスで、白い光が眩しいほど射し込んでいた。
「エリエント」
「はい」
「さっきの、どういう意味なんだ?俺の道って?お前がそれにどう関わりがあるんだ」
その問いに、エリエントは答えるべきかを悩んだ。アランの頼みならば全て答えたい。だが、こればかりは悩ましい。ここで話すべきなのか。
裏方は裏方であるべきだ。英雄譚に、裏方は語られないのだから。
だが、ついて行くことに対して頷かせるためには、話すしかないとは理解していた。そうしなければ、アランの責任に自分は無関係だからと押し切られてしまう。関係あると分かれば、アランも自分を連れて行き、リシャールも認め、無駄な殺生をしなくても良いかもしれない。その方がアランも自分への感情も大きく変わらないはずだ。何より、リシャールが死なないのなら彼は大きく悲しまなくて済む。
そうだ。思い出せ、エリエント・アンベール。全てはアラン様の幸福のためなのだ。
エリエントは口を開いた。その顔は、無意識に、親に褒めてもらうことを期待する子どものようになっていた。
「あなたが英雄と呼ばれるに至った道は全て、私が用意したのです」
アランは「……え?」と一音だけを漏らした。口の中が乾いて、脳が動くことを拒んでいる。
「あなたは英雄譚がお好きでしょう。特に英雄フェリックス!両親を亡くし、戦いが終わり、平和になった頃に生き別れの兄が帰って来る、王道の中の王道。ですのでそれを再現したんです。分かっています。あれは罪です。ですがあなたのためなら、私は罪を犯すことができました」
「な、なに……」
「領都の傭兵団に頼みました。まずはラポルト夫妻の殺害を。ただあの後あなたがどこに行ってしまったが分からず、次の段階には時間がかかってしまいました。次にあなたを見つけた時、素晴らしいことにあなたには義姉がおりました。英雄フェリックスの兄は、もともと乱戦の中死んだと思われていましたが、実際は生き延びていた。ですので、あなたから義姉を奪いました。英雄フェリックスは川に逃げて生き延びたことから着想を得て、あなたを川に。しかし、あなたが助かるように船を用意させましたが……あの川は岩が多かったのですね。あなたが死にかけたと聞いて、私は後悔しました。もっと調べていればと。……あなたが死んだ未来など耐えられません」
「なに……なに……!?」
アランは耳を塞いでも指の隙間から鼓膜へと伝わる言葉を、理解したくなかった。リシャールは呆然としながらも、剣を構えたままエリエントを見据えているようだ。そして、エリエントは目を伏せて記憶を遡り、恍惚とした顔をしていて、恐ろしい以外の何ものでもない。未知の生物にしか見えなかった。
「その後、あなたは反乱軍に入りましたね。あなたの義姉への反乱軍への誘いは、私が行いました。そこからあなたに繋がることを考えて。そして無事に繋がって、私は安心しました。ですが、英雄の道のためにシリルは邪魔でしたので、軍師ディランには手紙で少々入れ知恵をさせていただきました。シリルは前線に立ち、予想通りの結末になりましたが、あなたが崖から転落するとは……あの時、私は再び後悔しました。あなたの立ち位置に関してももっと入れ知恵していれば、と。あなたが死んだなんて有り得ない。信じたくなかった。ですが、あなたは崖から落ちても助かった!戻ってきたと聞きました!やはりあなたは英雄になるべき人なのだと確信しました。私は後悔をするほどの失敗を二回しましたが、英雄フェリックスの言葉通りでした──失敗の無い成功は、失敗に劣る。その後あなたは革命軍の軍主となり、危険のない後方に置かれ、無事英雄となった……。解放の英雄。まさにあなたに相応しい!」
アランの耳を塞ぐ手は、そのまま頭を抱える形になって、髪が乱れるのも気にせず、そのままアランは頭をふるふると振った。
「なに……なに……なに、なに、なに!?」
呼吸が浅くなる。自分が今、真っ直ぐに立てているかも分からない。
エリエントは目を上げ、そんな様子のアランに気がつくと、途端に血相を変えた。
「アラン様!大丈夫ですか。呼吸が浅くなっています」
「ひっ……」
エリエントがアランに近づこうとする。リシャールがすぐさまアランの目の前に立ち、エリエントからアランを隠す。
「君……今の話は真実か」
リシャールが怒りに震える声で尋ねた。
「真実です。……分かっています。罪を犯したことも、アラン様に嫌われるだろうことも」
「それなら彼に近づくな!分かっていて君は……君は……!!」
エリエントはきょとんとして、首を傾げた。
「それでも、これで分かったはずです。アラン様が責任を感じている事柄に関して、私は決して無関係ではありません」
「は……!?」──リシャールが口を開けた。「君は何を言っているんだ!?」
だがエリエントは彼ではなく、アランに声を掛けた。
「アラン様、私は無関係ではないとご理解いただけましたか?」
「うぇ……っ」
アランは口を手で覆う。胃液が口の中に広がって、身体中が不快でいっぱいだった。
「アラン様、大丈夫で──」
「近づくなと言っている!」
リシャールの剣がエリエントへと振り落とされる。それを軽く受け止め、エリエントは唇を噛む。まるで自分が悪いと分かっていないように。
アランは肩で息をし、定まらない視線を動かし、どうにかエリエントを視界に入れようとする。
彼を信頼していた。疑った時もあった。だがあの信頼は消えなかった。彼には弱い姿も逸らした。なのに、何が起こっている?
どこかで開いている窓から風が入り込んで、アランの背筋を撫でた。
「エリ、エント……」
アランに名前を呼ばれ、エリエントの目が輝く。リシャールはエリエントを睨んだまま、「アラン!」と名を呼び止めようとするが、アランはそれを無視した。
「今の話は、本当……なのか?」
「はい」
リシャールの肩越しに見たエリエントは誇らしげに微笑んでいた。
彼への信頼が、アランの中でがらがらと崩れていく。自分の人生を狂わせた存在を信頼していたなんて!
「……な、なんで……なんで……なんで俺だった……?」
せめて復讐であればいい。知らずのうちにアランは彼を傷つけていて、その復讐でこんなことをしたのであれば、アランの心はまだ救われる。まだエリエントの心を理解できた。
「アラン様が私の光だからです」
アランの喉から「ひゅっ」と音が鳴った。
「あなたは私を救ってくださいました。誰にも救われなかった私を。そしてその時、あなたは英雄フェリックスが好きで、憧れなのだと仰っていました」
エリエントは思い出が宿る胸に手を置き、懐かしむように笑みを深めた。
「全て失敗ばかりの私を親戚の子どもがいじめていた時、あなたがやって来て、失敗無き成功は、失敗にも劣るだと仰って、あの子どもたちを追い払ってくださいましたよね。それからお互いのことを話して、友達になりましたよね。友達の夢は、私の光の夢は、私が叶えなくてはならないと思ったのです」
一瞬、アランの中から一切の音が消えた。それからぐるぐると脳が回りだし、ありとあらゆる記憶が目の前に広がった。それは瞬きの間だったのかもしれないし、長い時間だったのかもしれない。アランは震える唇を開き、ボヤける視界の向こうにいるエリエントに言った。
「知らない……」
掠れている声だった。
「え?」
エリエントが笑顔のままそう言った。
「……え?」
そしてまた同じ一音に、違う色を混ぜて言う。アランはふるりと首を横に振った。
「知らない。そんなの知らない。……覚えてない」
長い沈黙がその場を包んだ。エリエントは笑顔だったが、それは凍りつき、だんだんと形相を変えていく。口角は震えて下がり、弓なりだった目は血走るほど開かれ、喉がこくりと動いた瞬間、彼の剣がアランへと迫っていた。ギィンッ!と音がして、リシャールの剣が彼の剣を受け止めたが、剣はカタカタと震え、あまりの力と圧に、リシャールの背が仰け反った。
「知らない?知らないィッ!?覚えていないィッ!?」
リシャールの剣を打ち砕かんばかりに、彼は何度も剣を振り落とした。
「何故ッ!?アラン様!!私はあなたのために!!ここまで!!ああ!!何のために!?」
正にディランだった。ディランがそこにいた。アランは自分が泣いているのか、謝っているのか、何も喋っていないのか、それすらも分からなかった。ただエリエントの絶叫にばかり意識が取られていた。
「私はあなたのために人を殺させた!!人を!!二人!!遺体も一つ破壊したのにッ!!」
「ふざけるなッ!!」
リシャールが叫ぶ。
「君の罪をアランに被せるなッ!!」
「あああ!!あああ!!あなたでしょうッ!!あなたはいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも持っていく!!アラン様の親友ゥッ!?お前がァッ!?」
「この……ッ!!」
「アラン様ッ!!あなたが仰ったんですよ!!友達だってッ!!友達だってェッ!!」
ガキンッ!と音がした。リシャールの剣が折れる。折れた先が床を滑り遠くへ消える。残った剣ではエリエントの動きは止められない。リシャールは迷わずエリエントに背を向け、アランを庇うように抱きしめた。その背にエリエントの剣が迫る──その時だった。
ヒュンッと音がして、エリエントの動きが止まった。また音が鳴って、エリエントは剣を振りかぶった体勢のまま、後ろを振り返った。リシャールとアランは何が起こったか分からなかった。リシャールがアランから身を離し、アランは彼の肩越しに、エリエントの後方に伸びる廊下を見た。
エリエントからかなり離れた真後ろに。白い光を背負って立っている女性がいた。彼女は弓を構えている。次の瞬間には、エリエントは前のめりになって、床に倒された。彼の手から剣は落ち、それは蹴り飛ばされ、蹴り飛ばした者によって、腕は弓矢が刺さっている背中で拘束された。拘束される直前、その腕は、手は、アランに向かって伸ばされていた。
女性の顔を見て、アランは自分の目を疑った。女性はエリエントが倒れたのを見ると、床に穴を開けても不思議ではないくらいの力強さで廊下を走り抜けて来た。
「私の弟に何してんのよ、このクソ野郎ッ!!」
弓の先で彼女はエリエントの頭を殴る。そしてもう一度殴ろうとしたが、アランの声で止まった。
「ね、え、ちゃん……?」
リシャールに支えられるように立ちながら、アランは彼女を見ていた。柔らかな白い髪は肩口でざっくりと切られ、黄色の目は鋭さを増しているが、アランは見間違えなかった。
路地裏で亡くなったはずの義姉ミレーヌだ。
「姉ちゃん!!」
アランは彼女の胸に飛び込んだ。温かい。心臓の音がする。──生きている。
「姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん!あ、あぁぁ……っ!!」
ミレーヌの胸もとが涙で濡れる。それにミレーヌは泣きそうなほど優しい笑顔を浮かべ、強く抱き締め返した。
「アラン!私の可愛い弟!!もう、こんなに痩せて!!」
「なんで?姉ちゃん、だって、死ん、死んだはずで……!!」
「死んでないわ!私は生きてる。死んだなんて思われたのは、こいつのせいよ」
ミレーヌはアランを抱きしめたまま、床を見下ろした。アランも連られて目を向けると、そこにはエリエントがいた。彼を拘束しているのはマルだ。
「マルっ!?」
「はいどうも〜、アランさん。僕です。説明は後で。とりあえず死なないように処置して、裁判所送りですね」
「そうして。あと、私、そいつの顔見たくないから、別のところ行っていい?」
「どうぞ〜。あ、リシャールさん、この人のことちょっと押さえててください。矢を抜きます。包帯もやらなきゃですね。あ〜忙しい」
マルは変わらず軽い調子だったが、黒髪から覗くその目は限界まで開かれ、エリエントを暗い目で見ていた。
「マル……お前……ッ!!」
エリエントの低い声に、マルは軽く返す。
「あれ?僕言いませんでした?演技は得意なんですよ〜。騙されましたよね?」
リシャールがエリエントの背に乗り上げ、拘束担当だったマルと変わる。マルは袖から包帯を取り出すと、憎々しげに舌打ちをした。
「……姉さんと僕への仕打ち、忘れたとは言わせませんよ」
その声を聞いたことがある。アランがまだユゴが団長をしていた旅芸団にいた時に、マルはベルタに自分がエステラを奪ったのだと言い、エステラの形見である耳飾りを渡そうとした。断られたのに尚も「僕が持っていて良いものじゃない」と続けようとしたマルに、アレクシは「お前のせいでエステラは死んだのか」と尋ねた。それに対し、マルは言ったのだ。
『僕じゃない』
地の底を這うような恨みが籠ったあの声。それと全く同じ声だった。
「よく考えましたよねぇ。ミレーヌさんの首を狙うガルニエ公爵に、僕の姉さんの首を渡して、ミレーヌさんは生かすなんて。……僕ですら、姉さんの顔を判別できなかった。褒美のために、僕が首を切ったのに。姉さんにもう一度会うためにやったのに……!!」
アランは瞬きもせず、エリエントを見ていた。今のマルの言葉はいったい何を──。
「アラン。あんたはこっち」
ミレーヌがアランを近くの部屋へと誘導する。アランは「でも」と言ったが、ミレーヌの強い力に肩を押され、エリエントに背を向けることしか出来なかった。
エリエントは霞む視界の中、ずっとアランを見ていた。窓から射し込む光が、アランを照らしている。彼にはやはり白い光が似合う。手を伸ばしたくても、もう伸ばせなかった。拘束されている。
振り返るな。そう思う。
振り返ってほしい。強くそう思う。
ああ、そうだ。こうなるように描いた。自分が全ての元凶だったと受け入れて、それで、自分を罰する意味も込めてこれを書いた。なのに忘れていたなんて。
光が眩しい。もう終わる。全部終わる。アランが離れていく。私の生きる意味が消えていく。違う、私が消えるのだ。ここでは私が消える。英雄譚でも御伽噺でもよくある話だ。悪は消え、正義が笑い、幸福な結末で終わる。だから振り返らないでほしい。振り返らず、今度こそ自分の存在を覚えていて欲しい。
違う。ずっと覚えていてほしい。忘れたのなら思い出してほしい。違う違う違う。振り返ってほしい。今思い出してほしい。謝罪なんていらないから、ただ、笑って、違う、生きて、違う、死なないで、違う違う違う!!
多分、私は何かを言った。だが誰にも届かなかった。それが「正解」なのだろう。
白い光が全てを包む。もう何も見えない。
この先を書いていないのだから当然だ。
いや。一行だけ書いていた。どの話の最後にも必ず書かれる言葉。これを、最期にあなたに贈る。
めでたし、めでたし。
これにてあなたを生かすための思考実験は終わりです。どうか物語の中だけでも、あなたが生き続けますように。




