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フェリロジカ  作者: 小林月春
物語
17/24

17話 「私は全てを差し出せます」

 アランの涙が止まり、マルがアランの両親の仕事だった服を戻し終え、リュシアンがアランから濡れたハンカチを受け取った時、エリエントがようやく戻って来た。彼はまずアランの目が腫れていることに驚き、すぐに彼のそばに片膝を着いて、何があったかを尋ねた。彼はリュシアンがアランに何かをしたと考えたようで、涙の名残りで上手く発話できないアランを見ると、リュシアンを睨みつけていた。それにリュシアンは笑顔で返す。

「アラン様のご両親の話をしたんだ」

「そうなのですか、アラン様」

 アランは鼻を啜り、頷きを返した。

「両親の最後の仕事を見せてもらったんだ。……感謝しても、しきれないよ」

 震えが残る声で答えると、エリエントの顔からようやく厳しさが消え、アランの隣へと腰を下ろした。

「良かったですね」

「うん」

 アランは自分が生まれ変わったように感じていた。涙でこれまでの自分を流したような気持ちだった。心は暖かく、こんなにも穏やかになったのは、ミレーヌが生きていた時以来だ。

 自分は確かに愛されていた。愛してくれていた両親は、形を変えてここにいた。そしてそれは、容易く忘れ去られるものではなかった。顔も声も名前も忘れてしまったとしても、生きていた証は必ず残る。この目で見て、この手で感じて、アランはようやく理解した。アランもまた、彼らが生きていた証なのだ。彼らだけではない。エステラも、ミレーヌも、マチルドも、革命の中散って逝った人々も皆、アランの中にいて、アランが彼らの生きた証の一つである。アランと関わった人々も、アランの生きた証となるだろう。いつか忘れ去られることがあっても、アランの存在が無くなるわけではない。アランの存在は誰かの中に息づき、形を変えてこの世界に残り続けていく。

 だからもう、生きることは怖くなかった。自分が生き続けることは誰かの生の証を残し続け、自分の生の証を増やすことだと理解したから。

 今改めて思い返すと、生きていて欲しいと言い続けたエリエントに、心の底から申し訳なく思う。もう二度と死ぬなどと言わない。その言葉すら心に過ぎないと誓おう。

 アランは晴れ晴れとした笑顔をエリエントへと向けた。その笑顔に照らされて、エリエントは息を呑む。

「エリエント。荷物を置いたら、行きたいところがあるんだ」

「行きたいところ、ですか」

「うん!」

 エリエントはこれまでとは様子の違うアランに困惑していた。いつものエリエントであれば喜んで準備を整えそうなものではあるが、アランの様子から何をどう読み取ればいいのか考えているようだった。

 アランは残りの山羊乳を飲み始める。エリエントも思い出したように、自分の前に置かれた冷めてしまったコーヒーに口をつけた。アランは優しい香りと舌触りに、口を離してもなお口角を緩ませていた。

 その後、アランはエリエントとマルと共に執務室を後にした。リュシアンはディランの情報が上がり始めたらアランたちを呼ぶと約束した。三人はそのままエリエントを先頭に、迎賓館へと向かった。

 アンベール侯爵家の本邸と迎賓館は、特例貴族のそれとは違い繋がっていて、迎賓館の大きさも部屋が数室と娯楽室が一室ある程度の小さなものだ。アランに用意された部屋は迎賓館の最奥で、館内で最も広い部屋だった。

「俺がここ使うの?」

「はい」

「……一人にしては、広すぎない?」

 ここはアンベール侯爵家である。エリエントの自室もマルが休むための使用人専用の部屋もあり、迎賓館のこの一室はアランのみが使う。王城の王の部屋よりも狭いが、元平民の彼からすれば、家族四人は余裕で暮らせるほどの広さだった。

「アラン様にお使いいただくには、むしろ狭く、質素です」

「そうかな」

 おそらく侯爵より高位な貴族や王族のために用意されている部屋だろう。壁には壁紙が張られ、床には絨毯が敷かれ、壁際には豪奢な壺が置かれている。本邸に比べるとかなり華やかで落ち着かない。ブランシェ家の迎賓館といい勝負だ。

「まあ、せっかく用意してくれたわけだし、使うけど。……多分これ、寂しくなる気がする」

 これまではエリエントとマルと一緒だった。王城でもリシャール以外に心許せる者は居らず、基本的に執務室かリシャールの部屋か自室に籠る日々で、この広い部屋に一人となると当時のことを思い出してしまう。だいたい、アランは生来の気質なのか、ミレーヌが甘やかしたからか、リリアンに言われるほど甘えたで弟気質なのだ。王城のことが無くとも寂しさを感じただろう。

「時間が空いた時でいいから、こっち来いよ」

「はい、アラン様!」

「分かりました〜」

 アランはエリエントとマルを見て言うと、二人は異口同音で返した。

 然程多くもない荷物を置いてさらに身軽になると、アランは改めて二人に言った。

「行きたいところがあるんだ」

「アラン様の行きたいところであれば、どこへでもお供します」

「僕もです〜。アランさん、途中で疲れて倒れてそうだし」

「執務室で十分に休んだから大丈夫だ!行きたいところっていうのはだな……」

 アランは少し照れくさそうに続けた。

「実家だった場所なんだ。仕立て屋ラポルト」

 ディランの情報が入るまで部屋でうじうじしているより、何かをしていた方が良い。それに、かつての実家を見ることで、さらに前へと進めそうな気がする。自分の責任を突きつけられても、全てを受け止められるはずだ。その責任もまた、自分が生きた証だ。どれだけ長い時間と苦労を強いられようとも、償い続けよう。

 マルはすぐに「承知です〜」と軽い声で返事をしたが、エリエントは意外そうに目を丸くし、彼より遅れての返事となった。

「分かりました。それでは馬車を手配しましょう」

「ううん。歩きたい。疲れたら休むよ」

 背負ってくれてもいいけど。

 アランが悪戯っ子のように笑う。エリエントは瞳を揺らして、最後にはアランからそっと目を逸らした。

「勿論、あなたが望むのならば背負います。……ただ、その……」

「ん?」

「アラン様……どう、されたのですか?様子が……その……明るくなられましたね。喜ばしいことなのですが……」

「あぁ。なんていうか……吹っ切れた、みたいな」

 アランは小首を傾げる。

「悪いことじゃないと思う。ほら、お前に弱音吐いただろ。あの辺りから自分でもかなり変わったなとは思ってたんだけど……今日、両親の最後の仕事だった、アンベール侯爵の幼い頃の服を見せてもらってさ。そこで吹っ切れたんだ」

「兄上の、ですか」

「うん。ありがとう、エリエント。アンベール侯爵領に行こうって言ってくれて。……いや、違うな」

 アランは改めてエリエントに向き直り、エリエントも彼から真剣さを感じ取って、目を正面にいる彼へと向けた。

「エリエント。あの時、馬車を止めてくれてありがとう」

 エリエントの目が見開かれた。

「俺が何度も死にたいって言っても、生きろって言ってくれて。ずっと俺が生きることを肯定してくれて。俺を助けてくれて。おかげで俺は、ようやくこの気持ちになれた。きっとお前がいなきゃ、こうなれなかった。ありがとう、エリエント」

 見開かれた緑の目に涙の膜が張る。その膜は大粒となり、エリエントの頬に川を作った。

「アラン様……アラン様!!」

「っうわ!?エリエント?」

 アランはエリエントに抱き締められた。その力は強く、抑えきれきれない想いで溢れていた。広い背中に手を回し、アランはあやす様に優しく叩く。

「ごめんな、色々迷惑かけただろ」

「そんなことありません……!わ、私はただ……アラン様に生きていてほしくて……!う、ううう」

 肩はびしょびしょに濡れたが、アランは笑みを浮かべるだけだった。自分の言葉に、何度彼は傷ついてきただろう。その涙に溺れたって文句は言えない。子どものような泣き声だって、全くうるさいとは思わなかった。

 エリエントの涙は、驚くほど枯れなかった。さすがに心配になって水を飲むか聞こうと思ったくらいだ。聞けなかったのは、その前に彼が涙を流しながらアランから身を離したからだ。

「も、申し訳ございません、アラン様。こ、こんな失態……!アラン様を抱き締めるなど……!しかも、服まで濡らしてしまい……!着替えを持って来させます……!」

「気にすんなって。こんなの、俺がお前にしてきたことに比べたらどうってことない。あ、喉渇かないか?お前泣きすぎだよ」

「だ、大丈夫です……。ただ涙は拭かせてください。そうしたら、すぐに仕立て屋ラポルトへ向かいましょう……!」

「お坊っちゃん、ハンカチです〜」

 エリエントはマルからハンカチを受け取ると涙を拭った。三人中二人の目が腫れぼったくて、アランはおかしく感じて小さく笑い声を漏らした。それからマルに向いて、アランは彼にも感謝の言葉を告げた。

「マル、お前もありがとうな。お前にも助けられてばかりだったよ」

「そんなことないですよ〜!と、言いたいところですが。感謝の言葉は素直に受け取っておきます〜!」

「でさ、その袖どうなってんの?」

「秘密です〜」

 ぱたぱた振られる袖を掴もうとすると、猫の子を相手にするようにひらりと躱される。完全に遊ばれていた。

 エリエントが濡れたハンカチをマルに返すでもなく自分の懐に仕舞うと、「行きましょう」とアランに言った。

「大丈夫?行ける?」

「はい。アラン様も、お身体の方は大丈夫ですか」

「大丈夫だって」

 アランは言いながら歩き始めた。扉を開け、二人を振り返る。

「玄関ってどっち?場所覚えてない」

「私が先導します」

 エリエントが駆けて来て先頭となり、アランの隣にマルが来る。そしてアランは明るい気持ちに身を委ね、懐かしき生家へと足を向けた。

 アンベール侯爵家の屋敷を出て、三人はしばらく歩いた。石畳の敷かれた道とはいえ、多少の凹凸さはあり、アランの体力が落ちていたこともあって、通常よりもかなりの時間を有したことは否めない。しかし、それでも三人は辿り着いた。幼い頃、アランが宵闇の中走った道を踏み締め、かつて血が香っていた店の前へと。

 仕立て屋ラポルトの入口の扉は開けられていた。中からはレースを織るため糸巻きを動かし続ける軽やかな音や、客と話をする声が微かに聞こえてくる。記憶の中に残り続けた景色と、何も変わらない。だが少しだけ緊張する。もう実家とは呼べない場所なのだから。

 アランは唾を飲み込むと、扉をくぐった。開かれた木窓から春の陽射しが差し込み、壁や棚には布や既製品の服が飾られ、髪紐やベルトなど細々したものも少量売られている。店の奥では店の人間が客に対し寸法を元に服の提案をし、そのさらに奥では、服を作り続ける針子たちが仕事をしていた。

「何かお求めですか」

 そして店主らしき茶髪の人間が、アランたちに声を掛けた。記憶のどこにも掠らない、全く知らない人間だったが、遠い親戚なのだと知ると親近感が湧いた。

「髪紐を見たい」

 アランがそう言えば、彼は髪紐の置かれた棚の前へとアランたちを案内した。値段を見ると一つ二千サラで、少々高めだったが、払えない額では無かった。

 逃亡の時から同じ髪紐を使い続けていた。王城でも使っていたものだ。今使っている物の方が高価なのだろうが、アランはそれを手放したかった。

「こちらはどうですか」

 店主ではなくエリエントが言った。彼が示したのは白い幅広の髪紐だ。アランはどの髪紐でも良かったが、彼が勧めるのならばそれで良いかと思い、値段を見てぴしりと固まった。

「黒髪に映えると思いますよ」

 そう言ったのは店主だった。迷っていると思ったのだろうが、違う。エリエントが示したその髪紐だけは他のものよりも高い五千サラで、アランでは買えない値段だっただけだ。

「お気に召しませんか?」

 エリエントが眉を下げて言う。

「そんなことはない」

「それは良かった。……ではこれを購入で」

「かしこまりました」

 アランが驚いてエリエントを見るが、彼はさっさと店主に金を払ってしまっていた。そして髪紐を受け取ると、「着けますか」と聞いてくる。アランは首を振るわけにもいかず、「うん」と頷いた。

「それでは」

「ん?……ん!?ちょ、エリエント!?」

 当然のようにアランの今の髪紐を外そうとしてくるエリエントから、アランは一歩逃げた。

「何!?」

「いえ、着けると頷かれましたので」

「自分でできるけど!?」

 その騒がしさに、針子の一人が顔を上げた。もう寿命も近そうな老女だ。彼女は目を限界まで開くと、布と針を作業台に放る。曲がった腰に鞭打ち、よろよろとアランたちの方にやって来た。

「あ、あなた……!」

 アランも彼女の存在に気づく。枯れ枝のような指がアランを指さしていた。

「坊ちゃん……アラン坊ちゃんでしょう……!?」

 店主は倒れそうになる彼女を支えながら、アランの顔を改めて見た。

「アランって……もしかして……」

「私が見間違えるはずがないわ……嗚呼、こんなにも大きくなって……!」

 感動に咽び泣く老女にアランは呆気に取られていたが、その顔にはどこか見覚えがあった。そして店の人々が彼女を呼ぶ名前を聞き、ようやく思い出した。彼女はアランが幼い頃、よく可愛がってくれた針子だ。

「覚えていて、くれたの……?」

 幼い口調になって、アランは老女の元へと歩み寄った。細い手がアランの手首を掴み、肺の底から息を吐き出して震える。

「忘れるものですか……!ずっとあなたの無事を祈り続けてきたんですよ。アラン坊ちゃん、よくぞお戻りに……!」

 アランは崩れ落ちそうになる彼女を店主と支えつつ、「ごめん」と首を横に振った。

「俺は戻ってきたわけじゃない。近くに寄ったから見に来ただけなんだ」

「しかし、ここはあなたの家……!何も店主になる必要は無いのです。ここで仕立て屋として暮らせばよろしいでしょう。ここはあなたの生まれた家なのですから」

 ここの匂いも、穏やかだったあの頃のままだ。覚えていてくれた人もいる。アランにはもうそれだけで十分で、何よりの幸福だった。

「ううん。俺の家はもう別にあるんだ。あの時俺を連れて行ってくれた人のところだよ。ただ、ここは特別な場所だって改めて知ることができた。ありがとう」

「そうですか……あの人はあなたを大切に育ててくれたのですね……」

 老女は店主の手を借りて立ち上がると、アランへと頭を下げた。

「あの時のお導きに今こそソリエールに感謝を。あの時、あなたに酷いことを、私たち大人はしてしまった」

「……いいよ。しょうがなかった。今日まで覚えていてくれただけで、俺は嬉しいよ」

「優しい子に育って……!」

 老女がまたおいおい泣き始める。店主は他の者に彼女を任せ、アランへと向き直った。

「先代のご子息だったんですね」

「うん。見た目はこんなだけど」

「この家系は若作りだのよく言われていましたから、気にする必要はありませんよ。確か……ええと……二十二でしたっけ?お若く見えますね」

「うん、その辺」

 本当は二十六だが、訂正するのも面倒で、アランは適当に頷いた。

「先代は……その……不幸なことでした」

「まあな。でも、あなたがここを継いでくれて良かった。両親が守ってきた店が、あそこで終わるのは悲しかったから」

「……本当に戻らないのですか?私は持てる全てをあなたに授けられますし、将来的にこの店をあなたに返すこともできます」

「さっきも言ったけど、俺にはもう別の家があるんだ。しなきゃならないことだらけだし、こっちまで手が回らない。だから、あなたに頼みたい。このラポルトはもう、あなたのものだ」

 店主はアランを見て、眩しいものを見るように目を細める。そのまま大きく頷き、口を開く。

「ラポルトの名を後世まで語り継がせます。どうか、お元気で。いつでも遊びに来てくださいね」

「うん。ありがとう」

 アランは笑顔を浮かべ、仕立て屋ラポルトに手を振る。

「騒がせたな。じゃあ!」

 彼は振り返ることはなく、エリエントとマルを連れ、軽やかな足取りで店を出た。

 店が見えなくなった辺りで足を止め、潤んだ目を瞬きで誤魔化す。一度壊れた涙腺は、なかなか締まらないらしい。

「アランさん〜、大丈夫ですか?」

「ん、大丈夫。ただちょっと嬉し過ぎただけだ」

「ちょっととは」

「うっさい」

 アランがマルと話していると、ふわりと髪が下ろされた。それをしたのはエリエント以外にいない。彼は宝石を扱うように丁寧にアランの髪を纏めると、買ったばかりの白い髪紐でアランの髪を一本に結った。

「エリエント、せめて何か言えよ。驚いただろ」

「申し訳ございません。我慢できず」

「犬か」

「お褒めの言葉ですか?」

「……それでいいよ」

 アランは肩を竦めた。その目の前に、マルが銅鏡を掲げる。映った自分の姿をアランは見つめる。

「見立てが良かったみたいだな。エリエント、選んでくれて……あと、金も払ってくれてありがとう。絶対返すから、もう少しだけ待っててくれ」

「いいえ。私があなたに贈りたかっただけですから、お気になさらず」

「お坊っちゃんもこう言ってますし、お金なんて気にせず貰っちゃいましょうよ〜!」

 マルは袖の中に銅鏡を仕舞う。アランは「うーん」と考えてから、すぐに「分かった」と受け入れた。

「でもどこかで礼はしたいなぁ」

「あなたが生き続けてくれるだけで十分です」

 これまでアランの生を第一にしていた彼が言うと重い。アランは無言で了承を示すしかなかった。

 そのまま三人はアンベール侯爵家の屋敷に戻る道すがら、街の風景を楽しんだ。実際に歩くと、アランの中には幼い頃の記憶が蘇った。迷子になって泣いた路地、転んで怪我をした段差、猫を見つけた塀、話に夢中になった木窓。春の陽射しに包まれて、どれも輝いて見えた。

(ここは確かに俺が生きていた場所だ)

 アランの緩やかな笑みを、エリエントも笑みを浮かべて見ていた。アランの生存の可能性は高まった。あとはそれを確固たるものにすべく、全てを終わらせるだけだ。エリエントは鳥の声すらも、それを後押ししているように感じていた。

 そしてアンベール侯爵家の屋敷に戻り、さすがに疲れたアランは部屋に戻り、髪紐を解き、マントを脱ぎ、靴を脱ぐなどの最低限のことをしてからベッドに沈み込んだ。そのまま夜になるまで、彼は眠り続けた。それはとても穏やかな眠りで、決して魘されることのないものだった。

 エリエントは彼の寝息を確認すると、彼のために菓子を用意しに行った。起きたらきっと、笑顔を見せてくれるだろう。




 ディランの情報が上がったのは、アランたちがアンベール侯爵家の屋敷に着いた二日後だった。アランたちはリュシアンの執務室へと向かった。二日前と同じ位置に座り、アランはリュシアンから話を聞く。

「ディラン殿は、南の離宮に向かっているようです」

「南の離宮……!?俺が行く予定だったところだ……!」

 そこはアランの幽閉先だと言われていた場所だ。アランは思わず浮き上がっていた腰を下ろす。

「何でそんなところに」

「どうやら、宰相閣下がそちらに向かわれるとの情報があるようですね。ディラン殿はフォンスの町に潜伏していましたが、情報を掴むと出立したと」

「リシャールが……。まさか、俺に関係して……?」

 わざわざお化け屋敷と名高いあの場所に行く必要は無い。だがアランが幽閉されているとなれば──やはり、処刑の話に彼は関係が無いのだろうか。アランの様子を見に向かったのかもしれない。そうなれば、彼はアランの逃亡を知らなかったことになる。

(でも、エリエントはあの時護送してくれてた奴らが殺されて上が騒いでたって言ってた。偶然が重なってアンベール侯爵が知り得なかったとしても、さすがに宰相のリシャールが知らないわけがない。だって、護送の兵士はリシャールが用意したことになってた)

 アランはそっとエリエントを見た。彼は真剣な顔でリュシアンの方を向き、話を聞いている。

「そこまでは掴めなかったようですが、大いに関係があるでしょう。ディラン殿は反乱軍の装備をかなり整えたようです。ベルトラン家の迎賓館にいた暴徒とは違って、ちゃんとした反乱軍の兵士たちです」

「数はどれくらいですか、兄上」

「千といったところらしい。ただ、あの時のようにディラン殿が人々を煽って暴徒化させる可能性はある」

 思っていたよりは少ないが、今のアランに自由に動かせる兵はいない。それに南の離宮へは必ず森を通る。アンベール侯爵家の私兵が動くにしても、混戦は避けられない。

「アラン様。此度のことはアラン様のお立場に深く関わること。無闇矢鱈に話せることではなく、協力を仰ぐことは叶いませんでした。よって、救援は望めません。我が私兵も動かすつもりですが、この領を手薄にするわけもいかず、動かせるのは多くても千といったところです」

「五分五分か……。練度でいったら、やっぱりアンベール侯爵家の私兵の方が高いか?」

「そう思ってはおりますが、ディラン殿はかつて革命軍の軍師でもあった方。どんな策を弄してくるか」

「俺も反乱軍や革命軍だった時は、そういった軍略に関わって来なかったからな……。ディランか……」

 彼はどんな策を使っていただろうかと考え、あの目を思い出し背筋が震える。彼はどんな手を使ってでも目的を達成するだろう。

「……そういえば、どうやってディランはリシャールが南の離宮に行くことを知ったんだ?一応あそこに密偵という形でいたのは、エリエントだろ?」

 アランは震えを誤魔化すように、少しの早口でそう言った。エリエントは考えた様子を見せると「あくまで推測ですが」と口を開いた。

「イネス様の可能性があります。彼女は王城からも教会からも去った立場ではありますが、まだ繋がりは残っており、それを使って人々を集めていましたから」

「なら、油は使って来るかもな」

「有り得ます。ですので、奴らが森に辿り着く前に布陣を敷くべきでしょう。兄上、できますか」

「ここから南の離宮までは、フォンスの町より随分近い。必ずできる。アラン様、それでよろしいでしょうか」

 アランは「そうしてくれ」と返す。

「俺はそういうのは全く出来ないからな。指揮は私兵の誰かが?」

「いえ。私が指揮を執ろうかと思っています」

 一瞬、アランはそれが誰が言ったか認識できなかった。にこにこと笑うリュシアンを数秒見た後、「は!?」と声を上げた。

「侯爵自身が指揮を執るなんて、危険過ぎる!」

「後方にいますから、それほど危険はありませんよ」

「でも……。エリエント!」

 お前も何か言えという意味も込めエリエントを呼ぶが、彼は兄の決断に賛同しただけだった。

「兄上が指揮を執るとは、有難いことです」

「た、確かに剣聖だけど、だからって……」

 リュシアンが笑みを浮かべたままアランに言う。

「それを言うなら、アラン様が戦地へ赴くのも、私は止めさせていただきますよ」

「う……」

「それに一度、ちゃんとした戦いの指揮をしてみたかったんです。どうか私にお任せを」

 アランの視線が左に右に行ったり来たりする。意を決めて、アランは口を開いた。

「分かった。任せても良いか」

「はい」

 リュシアンは強く頷いた。

 それからすぐにリュシアンの指示により、軍が整えられた。彼らはすぐさま各隊の隊長たちにより選抜され、およそ千の私兵たちが、各々が配置されていた領内から南の離宮のある地へと向かい、陣を敷いた。報告が上がって僅か二日だ。訓練されたにしても乱れのない動きが成せる技に、アランは舌を巻いた。

 そしてアランたちはアンベール侯爵領都から一日もかけずに、南の離宮近くにいた。アラン、エリエント、マルの三人はリュシアンと共に後方だ。リュシアンは鎧も着けず普段着でそこに立ち、剣は差しているものの、観戦しに来た貴族にしか見えなかった。

「フォンスは王都からも遠い。反乱軍の存在を隠すためにあの場所を選んだことが、彼らに災いしましたね」

 リュシアンがにこやかに言った。

「まあ、そうだな。ところで、リシャールはいつ南の離宮に?」

「明日には森を通るはずです。反乱軍はそれを狙って動いていますから」

「なるほどな」

 ここから南の離宮と周りに広がる森は見えないが、フォンスから南の離宮へ向かうには必ず通る地に布陣を敷いている。少し走ったところには崖もあった。

「弓があれば、俺も戦えたんだけど」

「ディラン殿はアラン様の弓の腕を知るお方ですから、あなたを弓兵として出せません」

「どっちにしろダメかぁ」

 アランは肩を落として見せたが、心では助かっていた。正直、もう戦に関わることは避けたかった。もう誰の命も奪いたくはない。革命軍の後方にいた時でさえ了承一つで命を奪ったのだから。

 そしてそれを知ってか知らずか、エリエントが言う。

「アラン様。実は既に兄上には話したのですが……」

「ん?」

「アラン様はこのまま南の離宮に向かいましょう」

 アランはたっぷり固まると、リュシアンが指揮を執ると言った時以上の声を出した。

「何で!?」

「私もそれに賛成しています。アラン様、エリエントたちと共に向かってください」

「え、何でだよ!?だって今行ったってリシャールは……」──アランははたと気づいた。「リシャールを待ち伏せするってことか?」

「はい。そのまま説得して王城に戻っていただきましょう」

「ディランは……」

「兄上が必ず討ち取ります」

 エリエントはアランを見つめた。

「ディランはあなたを一目見れば、すぐに理性を失うかもしれません。あなたが危険です」

 彼の嘆きのような笑い声と、「あなたのことはッ!私が最初に導いたというのにッ!」という叫びが脳裏に蘇る。確かに、エリエントの言っていることも分かった。むしろアランがいることで、他の者も危険に晒すかもしれない。それよりも早くリシャールを止め、王城に返す方が良い。

「……分かった。そうしよう」

 アランはエリエントにそう答えると、リュシアンの方を向いた。

「すまない。全て任せる形となる」

「我が侯爵家は王に仕え、国のために動く者。反乱軍の鎮圧はまさに両方のためです。我らに任せることが正しいのです」

 リュシアンは微笑んだ。

「エリエント、アラン様を頼んだ。お前なら守りきれるね」

「勿論です」

 ただでさえ五分五分の戦力で、相手は暴徒も動かすかもしれない。アランたちに護衛をつけるのも難しかった。

「兄上も、ご武運を」

「ソリエールは必ず光へと導き、我らはその導きを受け入れる」

 さあ、行っておいで。

 リュシアンのその言葉に軽く頭を下げて、エリエントはアランに先へと促す。アランはリュシアンを振り返ったが、彼は悠然としてそこに立ち、三人を見送っていた。アランは前へと向き直り、エリエントとマルに挟まれる形で、南の離宮へと向かった。もうすぐ全てが終わると、親友を救えると信じながら。

 森へはすぐに辿り着いた。ただアランの足は震えていて、休憩を余儀なくされた。アランは己の身体を嘆きながら、地面に仰向けになった。暖かい風が心地良い。ただ胸は息苦しく、喉は熱した鉄を飲み込んだように痛かった。

(さすがにおかしい……。こんなに弱っているなんて……)

 体力が無いなどという次元の話ではない。何らかの病気なのではないか。それとも、もう魂が限界なのか。

 古くから伝えられている話がある。魂は衝撃に弱く、一度衝撃を受けると治らない傷が作られ、魂が弱まる。そして弱まった魂はいつかソリエールの光の元に還る──つまりは消えてしまう。転生などそこには無い。

(あんな迷信、信じてもいなかったけど……)

 アランの身体がだんだん落ち着いてくると、エリエントがアランの上半身を起こし、麦水の入った水筒を渡した。

「アラン様、どうぞ」

「ありがとう」

 背中を摩られながら飲む。アンベール侯爵家にいた二日間は山羊乳ばかり飲んでいたから、久しぶりの苦味に眉を顰めてしまった。

「森に入ったら、すぐに南の離宮に続く道が見えるはずです。そこまで行けば、あとはすぐです」

「うん……」

「アランさん〜、無理しないでくださいね〜」

 マルが心配そうに言った。

「無理しないよ、大丈夫」

 アランは微かな笑みを浮かべて答えた。額に滲む汗を袖で拭き、息を吐く。

(大丈夫。まだ歩ける。絶対に南の離宮に辿り着く)

 自分の悪評を被ってきた親友を救うのだ。そして二度と国に関わらないことを伝え、責任のために生き続けることを誓う。何を言われてもいい。アランの中では覚悟が出来ていた。

 アランは呼吸を意識して整え、勢いよく立ち上がった。

「こんなとこより、お化け屋敷で休んでた方がマシだ。行こう」

 南の離宮まではあと少しだ。アランの急ぐ足に応え、エリエントとマルも足を進めた。

 アランの身体は限界に近い。早く終わらせなければならない。エリエントは彼の歩みに合わせながら思った。

 森に入り、整備されずに長い時が経った道を見つける。あの道を行けば南の離宮だ。アランが幽閉先へと向かうため、馬車に乗って進んだ道だ。それをエリエントが止めさせ、アランを逃がした。ただ彼を生かすために。それ以外の理由は無かった。

 アランは正しく英雄だったと、エリエントはあの夜のことがあった今でも思っている。彼は自分を照らした光で、救いで、そして導きだった。彼のためならば何でもした。それこそが自分の存在意義で、導きに従う結果なのだと、救ってくれた彼への恩返しだと信じてきた。

 でも、知ってしまった。彼は英雄になどなりたくなかったのだ。両親の死を悔やみ、悲しみ、自分は無力で英雄にはなれないと強く思っていた。その後暖かな家を手に入れるも、それも消えた。彼は自分の意思ではなく、義姉の願いをなぞるように生き、周りに促されるがまま道を歩んでいった。

 全て私が用意した道だった。彼が知れば幻滅するだろうと思いながらも、彼が語った夢のために全てやった。それこそが彼の幸福だと信じて疑わなかった。彼のその幸福こそが、自分の幸福でもあると思っていた。何も考えなかった。それにより彼がどうなるかなど。そして彼は「英雄」となり、王となり、貴族たちに利用され続け、最後には追放された先で貴族に捕まり、リシャールが被り続けた悪評をその身に浴びせられ、貴族たちの悪事もすべてその身のものとされ、最後にはその首を断罪という名目で落とされた。群衆を掻き分け、自分でも何を叫んでいるのか分からない中、ようやく辿り着いた広場の処刑台。あと一歩だった。あと一歩だったのに、兄に止められた。剣で敵わなかった。あと一歩であの細い手を掴み、あの場から引き摺り下ろし、どこまでも抱えて逃げられたのに。

 何故あの時の彼は逃げるでもなく、喚く自分に疲れた顔で笑って見せたのか、今でも分からない。もしかしたらこれまでのどこかに答えがあったかもしれないが、ペンを持つ手は震え、紙を押さえる手は悴んだように感覚が無かった。

 まさかこんなことが起こるなんて思わなかった。こんな形で彼の望みを知ることになるとは思わなかった。

 彼の気持ちを知ることになるとは。

 もう分かった。ここまで長かった。何千回繰り返しただろう。いつまでも辿り着けなかった思考実験の先に、ようやく行ける。

 一緒に逃げたかったな。でも分かってる。今の彼はそんなことをしても笑顔を向けてはくれない。

 だから、あとはもう、出来損ないで身の程知らずの自分が文を書き切り、句点を書くだけだ。


「あ」

 その時、突然マルが立ち止まって振り返った。エリエントとアランも足を止める。マルは後方をじっと見て、それから二人の方を見ずに言った。

「先に行ってください。後方が騒がしいです」

 だが、アランやエリエントの耳に騒ぎなど聞こえなかった。

「静かだろ。何言ってるんだよ」

「……すみません。僕、行きますね」

 マルが袖から短剣をいくつも取り出し両手に持つ。その顔に笑みは無く、後方を睨み続けている。

「……アラン様。マルは身体能力が高い。私たちには聞こえない音を聞いている可能性があります」

「でも、一人でなんて──」

「大丈夫ですよ〜、僕一人なら軽々と逃げられます!」

 マルの声はいつもの調子だったが、様子は全く違う。ある種の気迫があった。別行動しなければならないと、彼は背中で語っていた。

「本当に大丈夫ですよ。明日の午後にはまた戻って来ますから」

 それだけを言うと、マルは風のように去ってしまった。止めるために伸ばした腕は空を切る。アランは青い顔でエリエントを見上げた。

「いいのか、マルを一人で行かせるなんて!」

「……仕方ありません」

 エリエントも予想外だった。まさか彼が別行動をするとは。しかし彼は実際身体能力も高く、耳も良い。彼の行動がアランの生存を助けるならば、止める理由も無かった。

「行きましょう、アラン様。マルなら大丈夫です。ここで止まることは、マルも望まないのでは」

「それもそうだけど……」

 アランは逡巡し、最後には南の離宮に向かって歩き出した。その胸に痛みを抱いていることは傍目から見ても分かった。マルが戻って来たら相応の罰は下すべきだろう──エリエントはそう思いながら、アランが倒れないよう気を使って歩き続けた。



 もう分かりました。あなたの幸せに「私」は必要ありません。むしろ「私」のせいであなたは幸せになれません。あなたの不幸は全て「私」のせいでした。「私」の幸せはあなたの幸せにはなれなかったのです。

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