16話 「あなたのためならば」
アンベール侯爵領は、ベルトラン領には隣接していないものの、それほど遠くないところにある。王都から見て南の地域だ。ここの領都はエリエントの故郷であり、アランの生まれた地であり、同領地のアプリクスに引っ越すまで幼少期を過ごした地だった。
「アラン様、アンベール領都は久しぶりですか」
窓から外を眺めるアランに、エリエントが尋ねる。アランは懐かしい街並みから目を逸らさずに口を開いた。
「うん。二十一年ぶり」
五歳の頃にアレクシと共に馬車で出たその地に、アランはエリエントとマルと共に馬車にて足を踏み入れた。
領都の石畳を馬車が歩く。街行く人の顔は明るく、アンベール侯爵リュシアンの善政が表れていた。先代アンベール侯爵リュドヴィックも善政を敷き、平民にとっても善き貴族であると知られていたが、その娘リリアンの話では酷い浮気性だったという。そのため夫人のジョルジェットは、彼の連れ込んだ女性をその手に掛け、遺体をマルに処理させていた。彼に任せていたのは、あの「赤い目」を忌避していたからだと、これもリリアンが言っていた。
アランは、暖かい思い出が詰まったこの地に、血に塗れた時間があったことが悲しかった。
「二十一年、ですか。長かったですね」
「そうかな。一瞬だった気がする」
懐かしい路地の前を通る。あの路地を行けば、母に連れられて行ったお菓子の店があった。その向こうには空き地があって、友達とかけっこをして遊んだ。今もまだ残っているのだろうか。
「この後、アンベール侯爵家の屋敷に行くんだよな」
「はい」
ディランの行方を探るため、リュシアンにアンベール侯爵家の私兵を借りに行く──そのために、アランたちはここまで来た。ディランを野放しにしていれば、必ずリシャールに危害が行く。何としてでもディランの動きを封じる必要があった。
(だから、俺は……。でも……)
一度だけでいい。ちらりと見るだけでいい。かつて自分が住んでいた家を、両親が大切にしていた仕立て屋を見たかった。
「アラン様、久しぶりの領都です。私兵も借りるのですから、少しくらい羽を伸ばしても問題無いと思いますよ」
「……ダメだよ。リシャールが危ないんだから」
アランは窓から目を離し、向かいに座るエリエントの方を向いた。
「あと一歩早ければ助かったかもしれない、なんてことになったら、嫌なんだ」
それ聞いたエリエントは、雷に打たれたように動きを止めてしまった。彼の目はどこか遠くを見ているように虚ろであるのに、焦点はアランに合っているという不可思議さがある。心配になって、アランは身を乗り出してエリエントの目の前で手を振った。
「エリエント、大丈夫か?なあ」
「──は、はい。大丈夫です」
アランは座り直し、エリエントの様子を見た。先ほどまで疲れているようには見えなかったのに、今では死に直面した老人のように顔を白くしている。ブランシェ家の馬車の中で初めて兄姉の話をした時以上だ。大丈夫などとは冗談でも言えない様子だった。
「酔った、とかじゃないよな。……俺、何か嫌なこと言った?」
自分の言葉が彼の心に悪く作用したのかもしれない。アランは肩を落とし、泣きそうになりながら彼に尋ねた。エリエントは「いえ」と小さく返した後、少し間を置いて、再び口を開いた。
「アラン様は何も悪くありません」
「でも──」
「世界が悪いのです」
「えー、っと……それはかなり、壮大なことになったな……?」
エリエントは「そうですね」と頷き、アランに言葉を挟ませる隙も作らず、話を切り替えた。
「アラン様が急ぎたいという気持ちはよく分かります。ですが、久しぶりに領都に戻ってきたのです。何か気になる場所などはありませんか?」
アランは、エリエントを問い詰めようとしても、彼は頑なに核心を避け続けるだろうと察した。そのため話題に乗りたかったが、先ほどもエリエントに言った通り、アランは急ぎたいのである。
「だから、そんなところあっても時間が──」
「私はこの領都に長く住んでいます。あなたが直接訪れなくても、私があなたの気になる場所の今の姿を教えられるかもしれません」
エリエントがアランの言葉に被せて言った。
「今の姿……」
「勿論、知らない場所もあるかもしれませんが」
「……じゃ、じゃあ」
アランは膝の上で両手の指を遊ばせた。
「仕立て屋ラポルトって知ってるか?」
それはアランの生家であり、先祖代々営み、両親へと受け継がれた店だった。街一番の仕立て屋で、貴族相手の仕事も多かった。両親はいないが、雇っていた針子の誰かが後を継いでいるかもしれない。全く別の誰かが継いでいる可能性もある。
エリエントは優しい目をして、アランに答えた。
「仕立て屋ラポルトのことはよく知っています。あそこは店主夫婦が亡くなられた後、遠い親戚の方が招かれて、後を継いだと聞いていますよ」
「ほ、本当か!」
アランの目が輝く。両親が死んだ当時、近くに住んでいた親戚は皆死んでいて、アレクシがいなければ教会に引き取られるか浮浪孤児になったかもしれなかった。もう血の繋がりのある人間はいないとばかり思っていたのに。
(そうか。俺にはまだ、遠くても親戚がいたのか)
「じゃあ、あの、菓子屋は?大通りから一本ズレたところにある、花壇がいっぱいの花屋みたいな見た目の!」
「菓子屋ブスケですね?あそこは今も続いていますよ。菓子ではなくパンを売ることが多くなりましたが」
「え、じゃあケーキは?」
「おそらくパンに変わってますね」
「えぇ、そんなぁ……」
「買って行きますか?」
「……いや、いい……」
見るからにしょんぼりしてしまったアランに、エリエントは慌てる。
「アンベールの屋敷に行けば、何か甘いものがあるかもしれません!いえ、用意させます。何か希望はありませんか」
「俺、別にそこまで甘いもの好きってわけじゃないからいいよ」
嘘だ。アランは甘いものが昔から好きだ。彼は明らかに拗ねていた。
今でも覚えている。五歳の誕生日に食べるはずだったケーキは、菓子屋ブスケのものだ。当時はまだ嗜好品が今よりも比較的安く──そこまで思い出して、アランは「あれ?」と心の中で呟いた。
(嗜好品が高くなったのって……この辺じゃウェントース皇国が独占してて……俺がウェントース皇国に侵攻したから関係がダメになっ──)
「アラン様!」
エリエントが大きな声でアランを呼ぶ。びくりと肩を揺らしエリエントを見れば、彼はいつの間にかアランの足もとに跪いていた。瞬きをして、目のふちに冷たい何かがあることを知る。アランは泣いていたらしかった。
「ど、うしよう、エリエント。俺がケーキを食べられなくしたんだ。俺が、考え無しだったから……」
「武力侵攻はアラン様だけの責任ではありません。あなた一人だけが背負う問題ではない。貴族だけじゃなく、多くの民が賛同していた」
「俺の責任だ。俺が頷かなければ可決されなかったんだから」
そしてその悪評をリシャールが被っている。アランの涙は止まらなかった。
エリエントはアランを自責から救いたかったが、どう言葉を紡げば良いか分からなかった。確かに、アランさえ頷かなければ、いくら多くの貴族が侵攻に賛成していようと否決されていた。アランは流されてしまったのだ。流されやすいアランは、決して王には向いていなかったのだと、エリエントは今ならば受け入れられる。だが、アランだって自国の食料自給率や土地の問題をどうにかしようと必死に考えていたとも、エリエントは知っていた。
「あなたは国のためを思っていた。他の誰が知らぬとも、このエリエントは知っています」
アランの周りの貴族は違っただろう。貴族たちは自分たちの優劣感のために平民に嗜好品が出回ることを嫌っていた。
「その時お前居なかったじゃん。なんでそんなこと言えるんだよ」
「それは……。しかし、アラン様。たとえ王の承認が無かったとしても、貴族らは嗜好品独占のために別の手段を選んでいたに違いありません。その時は、かつてはウェントース皇国のものだったあの土地も、セネテーラ王国は手に入れることができなかったでしょう」
「たらればの話だよ。現実ではこうだったんだから」
エリエントは胸の奥が痛くて堪らなかった。そうだ、“これ”はたらればの話だ。
「税を軽くしたら、国庫が枯渇したからまともな政策も出来ないって言われて……。ウェントース皇国との関係が悪化したから陸路も使えなくて物価は上がって……。リシャールは全部止めてくれていたのに……」
溢れる涙をエリエントの指が優しく拭う。
「しかし……アラン様も最初は反対していたのではないですか?」
「なんで知ってるの」
驚きのあまり、アランは思いの外幼い口調になっていた。
「当時は父がアンベール侯爵として、議会におりましたから。その後は兄が」
「……ああ、そっか。アンベール侯爵も反対してたっけ……」
どんな顔だったか思い出そうとすると、目の前のエリエントに重なる。それを言えばエリエントが悲しむだろうから、アランは言わなかった。
「どっちにしろ流されて承認したんだから、俺のせいだよ。偉い人は責任を取るためにいるんだ」
(そうだ。責任を取って死ぬべきなんだ)
それは非常に恐ろしいことだったが、アランはそれが正解だと思った。処刑台に乗せられて首を切り落とされるのが、自分が辿るべき道筋な気がする。城から追放されたあの馬車に乗り続けるべきだったのではないか。きっとその先には──。
アランはぶるりと震えた。
確かに死ぬのが正解だ。処刑されるのは間違いではない。だが死ぬのも、責任を取らずに生き続ける今も、恐怖でしかなかった。
アランの言葉を受けて、エリエントは逡巡していた。何を言えば彼の心が軽くなるのか。長い思考の後、エリエントは口を開いた。
「それならば、あなたは既に責任を取っています」
「え……?」
エリエントの言っている意味が分からず、アランは首を傾げた。
「玉座を追われ、城を追放された。追放先に着く前に逃げ、もうあなたに王という身分も平民という身分も無い。あなたという個人の存在は、国にはもう無いのです」
「でもそんなんじゃ──」
「そして今、あなたはリシャール様のために危険を顧みず行動している。あなたのことがバレれば、中央であなたの周りにいた貴族がどうするか分からないのに。あなたは国のためにはリシャール様が必要だと言っていましたね。しかもリシャール様はアラン様の……罪、を被っている状況です。つまりあなたは贖罪もしようとしている。これはとても十分なことだと、私は思いますよ」
ですから、どうか。
エリエントがアランを見つめて言う。
「どうか、ご自身を責めないでください。私がこう言ってもなお責めることを止められないと言うのならば、私にもその責を負わせてください」
「は!?なんで俺の責任をお前も持とうとすんの!?」
エリエントの言っている意味が分からなかった。だが、エリエントはとても真面目な顔つきで続ける。
「アラン様に関わる全てに私が関わっているのは、おかしなことでしょうか」
「おかしいからな!?」
驚き過ぎて、アランの暗い思考は吹っ飛んでいったようだ。エリエントは微笑んで、「おかしくないですよ」と言った。アランからは「おかしいから」と泣き声混じりに返ってきた。
彼一人にだけ責を負わせる世界が憎い。彼をその地へと座らせた奴が憎い。全てを受け入れてしまう彼が──。
いや……本来なら、彼はその責を負うことはなかった。その発端を、途中までの道を作り上げたのは──。
馬車はアンベール侯爵家の屋敷へと辿り着いた。三人が馬車を降りると、馬車は使用人により敷地内の奥へと動かされる。三人はエリエントを先頭にして屋敷の中へと入った。向かうはリュシアンの執務室である。
アンベール侯爵家の屋敷は二階建てで、特例貴族の迎賓館よりも圧倒的に広いが、石壁が続き無骨さを感じる造りだった。飾りも必要最低限で、エリエントが育ったというよりも、リュシアンという剣聖が育ったことに納得できるような雰囲気だ。アランの脳裏に、朧気な記憶が過ぎる。両親の仕事でここに来て、確かにこの壁を触りながら歩いた。でこぼこした感触が面白いと思ったのだったか。試しに触ってみると、思っていたよりも冷たくてすぐに手を引っこめた。
廊下をすれ違う使用人は少ないが、皆エリエントを見て、通りすがりに頭を下げる。殿を歩くマルは元々ここに仕えているのだから反応が無くても当然だが、二人の間を歩くアランを見ても特に反応は無かった。エリエントやリュシアン経由で何か知られているかと思ったが、どうやらそうではないらしい。客人だと思われているのだろう。
(にしても、主人の実弟が帰ってきたっていうのに立ち止まりもしないなんて……)
迎賓館にいる時にエリエントから過去の話を聞いたが、直接的には言わなかったものの使用人に良い扱いをされていなかったことは窺えた。先代アンベール侯爵の人柄を詳しく知っているわけではないが、あのリュシアンが君臨するこの屋敷でこんなことがあっても良いことなのだろうか。アランでさえ、王の時は使用人や兵士、貴族にまで、立ち止まって頭を下げられたというのに。
長い廊下を渡り、二階へと続く階段を上がる。壁に手をやるとやはり冷たかったが、そうすると少し楽だった。ちょうど階段の半分である踊り場のところで、アランは自分の息が上がっていることにようやく気がついた。
(さすがに食べ無さ過ぎたか……)
馬車移動も多く、ベルトラン家の迎賓館ではだらけ過ぎた。その上食事量も減っている。もっと遡れば、王になってからというものの歩くことはほぼ無く、椅子に座らされ続けてきた。体力が落ちたのは当然のことだとアランは思った。
アランの足音に遅れが出てきた。エリエントは敢えて遅く進んでいたが限界だと感じ、踊り場で足を止めた。振り返ると、壁に手を置いたアランがちょうど足を止めたところだった。アランは壁から手を離し平然を装ったが、エリエント相手にそれが効くわけもない。アランは途端に気まずくなり、壁に置いていた方の手を後ろに隠した。
「アラン様、無理はなさらないでください」
「してねーよ。そう見えるってなら、移動の疲れが出てたんだろ」
「背負いますか?」
「な、ん、で、そ、う、な、るっ!」
アランが一歩退くと、マルとぶつかった。
「ご、ごめん、マル」
「いいですよ〜」
アランの後ろからひょこりと顔を出し、マルは袖を振った。
「でもアランさん、後ろから見ててもかなり無理してるようでしたよ〜?支えながら歩いた方がいいかなって思ってました〜」
「お前まで……」
「この階段を登り、また少し歩かなければ兄上のところには着きません」
リュシアンのところに手紙を飛ばしたのはベルトラン家の迎賓館を出る朝であり、当然返事はもらっていない。多忙な兄のことを考え、手紙には執務室に直接向かうと書いた。先程からの使用人の様子を見る限り、エリエントが到着したことは兄に伝わっていないだろう。つまり、三人が出向くしかない。
「申し訳ございません、アラン様。せめて使用人を上手く使えたなら違ったのでしょうが……」
「いや、どういうことだよ」
「御輿を用意させるとか、玄関近くの部屋を用意させるとかですかね」
「前者がおかしすぎる」
エリエントが不思議そうに首を傾げたのを見て、アランはマルを見た。マルは袖を振る。エリエントの言動に関しては、マルもお手上げ状態らしい。思わずため息が出てしまう。
「お前の通常運転がどんどん酷くなってるな」
「お褒めの言葉……でしょうか?」
「うん、それでいいよ」
「ありがとうございます」
嬉しそうな顔を見て、複雑な気持ちになった。
それから壁伝いに歩くアランの歩調に合わせて進んだ。最初アランは恥ずかしいと嫌がったが、それを受け入れないとエリエントが本気で背負いそうな顔をしていたため、受け入れざるを得なかった。
階段を登りきるといくらかマシになる。廊下を歩き、ようやくリュシアンの執務室へと辿り着いた。エリエントが扉を叩く。中から声があって、エリエントが扉を開いた。
「お久しぶりです、兄上。アラン様と共に来ました」
「うん。手紙は読んでいるよ。入りなさい」
エリエントがアランを中へと促す。アランが入るとエリエントが入り、最後にマルが入って彼が扉を閉め、扉を守るように立ち止まった。
執務室は左右の壁一面が本棚になっており、数々の書類が詰め込まれていた。扉側の壁には引き出しの多い低い棚があって、その上の壁には剣や斧が飾られている。扉の正面から見て横向きに低い机と、それを挟むようにしてソファーが二つ置かれ、それらの向こうに執務机と椅子があった。執務机の後ろには硝子窓があり、今も陽光を差し込ませていた。
「どうぞ、そこのソファーに」
リュシアンは扉が開かれた時から椅子から立ち上がっており、アランたちにソファーを勧めた。アランが素直に座ると、エリエントはその向かいではなく隣に座る。もはや誰も指摘しなかった。
「ベルトラン家の迎賓館でも言ったように、あまり畏まらないでくれ」
「はい。では私は、こちらから失礼致します」
リュシアンは椅子に腰を下ろすと、まずはエリエントを見た。
「エリエント。応接室くらい用意するのに。使用人に何故言わない」
「兄上が多忙だと思いましたから。しかし、無理をしてでも応接室を用意すべきだったと後悔しております」
「私のことを思っての判断だったのは感謝するよ。ただ……」──リュシアンの顔がアランの方を向く。「申し訳ございません、アラン様。玄関からここまでは長かったでしょう。飲み物を用意させます」
こういう場で用意されるのは決まって麦水かコーヒーだ。アランは「気にしないでくれ」と言って断った。好き好んで苦いものを飲みたいわけでもないし、飲んでいる時間も勿体ない。
「事は急を要すため本題に入らせてもらう。エリエントの手紙にも書いてあったとは思うが、私兵たちをディラン捜索に向かわせて欲しい」
リュシアンとエリエントが同時に息を飲んだ。エリエントに至っては喉が引き攣ったような微かな悲鳴まで上げた。アランが立ち上がり、リュシアンに頭を下げたからだ。追放されたとはいえ、王がするようなことではない。貴族の二人にとっては大きな衝撃だっただろう。
「アラン様、お止めください!あなたが頭を下げる必要はありません。どうぞお座りください」
リュシアンも慌てて立ち上がった。アランは頭こそ上げたが、立ったままだった。
「人の部下を利用させろなんて頼み事をするんだ。これくらいは当然だろう」
「今のあなたがどのようなお立場であれ、公的にはあなたは王のままです。王の臣下である私の私兵は、あなたの私兵も同じ。頭を下げる必要はどこにも無い」
「公的に俺はここにはいないことになっているけどな。……屁理屈なのは分かってる。ただ、俺は答えを聞くまでは座らないからな」
「それを聞く前から、私の答えは決まっています。我がアンベール侯爵家の私兵をディラン捜索に向かわせます」
ですからどうぞお座りください。
リュシアンの言葉にアランは従った。ソファーの上で腰を浮かせていたエリエントも座り直し、リュシアンも座った。
「弟からの手紙が届いてから、ディランに関する情報は探らせています。まだ報告は上がっていませんが、上がりましたらすぐに知らせましょう」
「それは助かる。ありがとう」
「当然のことですから。おそらく報告は明日か明後日頃に上がり始めると思います。それまで我が屋敷にて身体をお休めください。情報が無いまま動くことは推奨できません」
リュシアンがマルに視線を向けると、マルは心得たように扉に鍵を掛けた。
「え……」
「失礼を承知で申し上げると、アラン様は自分の身体を削ってまで事を成そうとしていますね。ですから、快い返事を聞けるまで、あそこは彼の手で封鎖したままです」
アランが先程使った手はいかにも駄々を捏ねる子どものようだったが、リュシアンのそれは確実に大人らしい手だった。
「報告が上がるまでこの屋敷の迎賓館に滞在し、身体を休ませること。そして……そうですね、ここで少し私とお話ししませんか?飲み物は何を頼まれても我が屋敷には用意があります。あなたのためなら茶も用意します」
「え……あ、いや……」
リシャールのことを思うと休んでなどいられなかったが、リュシアンの言うことも最もだ。アランは観念して、答えを口にした。
「……山羊乳でいい」
「承知しました」
リュシアンはにこりと笑みを浮かべた。マルが扉の鍵を開け、スタスタと執務室を出て行く。飲み物を取りに行くのだろう。
「エリエント、君は迎賓館の準備を」
「アラン様をお一人にするわけには」
「私がいるだろう?」
真剣な声色の弟に、リュシアンは苦笑する。エリエントが「しかし……」と躊躇っていると、アランが彼の袖をそっと引いた。
「アンベール侯爵がいるから大丈夫だよ」
「ほら、アラン様もそう仰っているよ」
エリエントの袖からアランの手が離れた。それがきっかけだったのか、彼はようやく頷き、執務室を出て行った。扉が完全に閉じるのを見て、リュシアンが改めて口を開く。
「さて、それでは私とお話ししましょうか、アラン様」
緊張で喉が震えそうだった。わざわざ一対一の状況を作り出してまで話したいこととは何なのだろうか。政治のことか。糾弾されるのか。それともまた別に何か──。
「エリエントのことをどう思いますか?」
「へ?」
あまりに予想外過ぎて、アランの口からは間抜けな一音が飛び出た。
二人が話を始めた一方その頃。エリエントは本邸の一階で、使用人を一人呼び止めた。
迎賓館の準備は簡単だ。使用人に一言命令すればいい。エリエントに対して不遜な態度が垣間見える彼らではあるが、命令には必ず従った。
この国は武を尊ぶため、実力主義の面が他国よりも強い。とはいえ、階級制度はあるのだから、使用人が仕える家の者に不遜な態度を取ることは許されるものではない。だがアンベール侯爵家では、先代の夫人ジョルジェットがまさに実力主義の塊で、エリエントに対しての態度も酷かったので、使用人たちの態度はあのようなものになっている。
命令を受けた使用人が下がると、エリエントはある部屋に向かった。本邸から迎賓館へと続く渡り廊下、その手前。鍵のかかった扉を開くと、また廊下が続いている。使用人のほとんどが行き交う使用人専用の廊下とはまた別の、隔離された廊下だ。国政を追われた身内や友人を匿うために作られたと言われている。この廊下の向こうには、片手程度の部屋数があり、今はその一室だけが使われている。
この隠された場所を知るものは、ほんの僅かな使用人と両親、エリエントたち三兄弟、そしてマルだけだった。
エリエントがマルを初めて認識したのもここだ。母から下される命令で、父の手がついた女性たちをバラした褒美に連れて来られると、固く閉じられた扉の向こうに、笑いながら話しかけていた。だが、彼はもうここへは立ち寄らない。その目的が無いのだから。
今、閉められたままの扉の下には食器が置かれている。扉には外側から鍵が掛かっているが、下には食器を出し入れするための隙間があるのだ。今日も残されてはおらず、エリエントはホッとした。目的のために生きていてもらわなければならない。アランが自身の本当の姿を話したあの夜から、もういいのではないかと思いはしたが、今さらが過ぎる。どうあがいたって、この扉の向こうにいる人物によって自分は糾弾され、アランはせっかく向けてくれていた信頼を砕き、想像するだけで涙が出るような目で見るだろう。
全て彼のためだった。彼のために犯した三つ目の罪。英雄は報われるべきだ。大好きな英雄譚の大好きな話のように。扉の向こうにいる人物には何度も話した。こうしなければあなたは死んでいたのだと。納得してくれると思っていた。そして最後にはアランは報われ、自分に笑顔を向けてくれるのだ。なのに今日まで、扉の向こうの人物は納得してくれないらしい。やはり自分は出来損ないだ。ひと一人説得できない。計画が甘かった。そのせいでアランは苦しい思いをしてしまった。彼を苦しませたこの世界をどうにかできないものか。やはり自分にはこの世界を変えるなど──。
そうだ。計画を大きく変更しよう。
この世界を、この国を変えることはできない。それならば。
アラン様は私に信頼を寄せてくださった。弱々しい姿を晒してくださった。全てを終わらせて、二人で他国に行く。ウェントース皇国は無理だ。海を渡ろう。アラン様のためにならなかったものは全て投げ捨てて、アラン様のこれからの幸福のために私がついて行って、そして穏やかに暮らそう。南のアウラルス帝国は温暖で、交易の地だから他国民も多い。誰にも行き先を告げずに海辺の街でひっそり穏やかに暮らす──英雄の隠居のようで素晴らしいではないか。そのためには、やはりディランとリシャールをどうにかしないといけない。そうでなければアラン様はこの国から動かない。必要ならばマルも連れて行こう。アラン様はマルにも信頼を向けているようだから。
そうと決まれば早くディランの情報を集めなければ。この街の傭兵団に依頼を出すか。あそこにはこれまでに二回、大きな仕事を任せた。二回目の仕事の最後は剣で切り刻んでも足りないくらいの出来だったが、一回目と二回目の前半は上手くやってくれた。三回目こそ上手くやってくれるだろう。傭兵に大きな仕事を任せる時に必要なのは大金だ。懐にはそれがある。アラン様のためにも、早く依頼し、早く戻って来よう。
そして、場面は執務室へと戻る。
「エリエントは、良い奴だと思ってる」
アランはリュシアンの表情を窺いながら答えた。
「一緒に行動してまだひと月に満たない間だけど、俺が情けない姿を見せても着いて来てくれた。幻滅した様子も見せず、俺に歩み寄ろうとすらしてくれて……」
彼からの英雄視が無くなったことは、アランの心を軽くした。彼は良き友で、もしかしたら、リシャールに向けている信頼とほぼ同じようなものを彼にも向けているのかもしれない。弱音を吐ける相手がいるのは、ありがたかった。
「兄として、それは聞いていて嬉しいな。弟もそれを聞けば喜ぶでしょう」
「あいつは俺からの言葉ならだいたい何でも喜ぶよ」
彼はアランが自分を卑下するようなことさえ言わなければ、尻尾を振って喜ぶのだ。先程の言葉も、聞けば涙を流して歓喜していただろう。リュシアンとアランは揃って苦笑した。
アランは口角を戻すと、躊躇いがちに言う。
「……でも、たまに怖い。どうして俺にあそこまで尽くせるのか……」
危険を顧みず、彼はアランを追放の馬車から逃がした。これまでの話からして、あの時には既に彼は二重密偵で、反乱軍に潜入して時間が経っていた。解放の英雄という幻があったとはいえ、一度も会ったことがないはずなのに、なぜアランに尽くせるのか。
リュシアンはアランの言葉を聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。
「アラン様は、エリエントに光だと言われたことはありますか?」
アランの肩が跳ねる。
「やはりあるのですね」
「でも……俺がそれを否定してばかりいたら、エリエントが泣いてしまって……俺は自身の光を否定しないって約束したんだ。……実は、未だに自分を光だと思えていないけど」
エリエントはアランの優しさが光だと言ったが、アランの優しさは普通のことであり、誰もが持ち得るものだ。そしてこの優しさが特別だと言うのなら、今は亡き両親とミレーヌ、そしてアレクシ、リシャール、かつての仲間たちがアランにくれたものを形を変えて渡しているだけに過ぎなかった。
「弟は盲目的なところはありますが、無から有を見たりはしない。弱々しい光だったとしても、間違いなく彼は見たのでしょう。……だからこそ、兄としては危険だと思いますがね」
リュシアンの声は少し低くなった。
「あれは一日以上一人にしておくとあなたのためにと暴走しかねません。あなたにつかせたのも、そうすることで暴走しないようにするためです」
「暴走って、そんな」
「断言します。弟はあなたのために暴走しますよ。私たち兄弟は確かに普通の兄弟らしい関係は築けませんでしたが、同じ屋敷で過ごしてきたのです。これくらいは分かります」
そこでリュシアンは言葉を区切り、眉尻を下げた。
「あなたには申し訳ないことをしています。弟に代わり、謝罪を」
「い、いいって!そんなの要らない」
立ち上がろうとする彼を止める。謝罪される意味も分からなかった。
「エリエントは、危険に見えるのか」
「あなたが怖いと感じるのと同じくらいには」
「そっか……」
一度会話が途切れる。アランは喉が乾き、唾を飲み込んだ。
「……あの」
「はい」
「……中央は、城は、今どんな状況なんだ。新年になった時に俺が追放されて、それからどうなってる」
リュシアンは間を置いてからそれに答えた。
「新年になってから私はまだ一度しか登城していませんが、何も変わっていないように見えましたよ」
それを聞き、アランは胸を撫で下ろした。
(良かった……やっぱりそうだ。俺がいなくても何も変わらない。むしろこれからどんどん良くなっていくはずだ)
「そっか。教えてくれてありがとう」
「ただ」
彼はエリエントと同じ緑の目で、アランをひたと見据えた。
「宰相閣下は憔悴しているように見えました」
「リシャールが……!?」
その時、扉が叩かれる。リュシアンが返事をすると、「お飲み物です」とマルの声がした。リュシアンが許可を出すと、片手にトレーを持ったマルが入って来た。山羊乳がアランの前に置かれ、コーヒーがリュシアンの前に置かれる。残る一杯のコーヒーは、今は席を外しているエリエントのところに置かれた。マルは再び執務室を出て行った。
山羊乳の優しい香りはコーヒーの強い香りに消され、苦い香りがアランの鼻から入り、胸を撫でた。アランは山羊乳を一口飲み、一度自分を落ち着かせる。リュシアンに向き、先程の詳細を聞く。
「リシャールが憔悴してるってどういうことだ?俺がいなくなって、むしろ清々しているはずだ」
「何故そのようなお考えを?」
「あいつは俺の失策を全て自分のものとして、悪評を被り続けてきた。そして今回、ついに追放した。悪評を被った理由は分からないけど、悪評の根源が居なくなったら、普通は清々するだろ」
「……その悪評に関しては、この間、帰りにリリアンから聞きました」
「なら──」
「そして宰相閣下の印象も」
リュシアンはコーヒーを一口飲んだ。
「妹は気難しい母のもとで育ちましたから、人の本質を見るのが上手い。私は彼女の人を見る目に一目置いています。仕事で関わらなければならない人について、手紙で尋ねるくらいに。その妹が言うには、宰相閣下は革命軍時代からあなたを大切にしていた。それが彼自身の目的のためだったとしても、それだけとは言いきれないほどになっている様子で、十年も経てば目的など無くとも大切にするはずだ、と」
ベルトラン家の迎賓館で、リリアンが言っていたことを思い出す。
『……正直、城からの追放は、リシャールくんが君を想ってやったことだと思ってた』
その後にこうも言っていた。
『リシャールくんはアランくんをとても大事にしていたからね。あの時のあたしの忠告も効いて、アランくんを玉座なんていう狭いところから逃がしたのかなって思ってたんだよ。……だから、実は処刑でした、なんて信じられない』
アランは強い違和感を覚えた。
自惚れではないのだとしたら、リリアンやリュシアンが言うように、リシャールはアランのことを大事に思い、追放した今は憔悴しきっているほどだ。何故彼が処刑をしようと?そんなことをすれば、わざわざ隠すように追放した意味も無い。
リシャールはアランを処刑するとは考えていなかったのではないか。
そもそもその処刑について誰に聞いて、今まで誰が処刑について話していた?
(……処刑に触れているのは、いつもエリエントだけじゃなかったか……?)
マルはアランが追放されたという情報は掴んだと話していた。処刑の話は口にしなかった。偶然かもしれない。だが十数日以上ともにいて、処刑の話をしていたのがエリエントだけというのもおかしな話だ。
そういえば、ベルトラン家の迎賓館で、エリエントはこう言っていなかったか──『アラン様、あなたは追放された時、周りに兵士たちがいましたね』
その後、彼らは見ない顔だったかと確信めいた問いをし、アランはそれに頷いた。そして彼はこう言った。
『もし、王国軍に成りすました、貴族の私兵だったとしたら?リシャール様が用意した兵士などでは無かったら?』
何故そこまで貴族を敵視しているのか聞いたら、彼は押し黙ったのだ。
処刑は作り話ではないだろう。作り話であんな切羽詰まったような表情や、詳しい「推測」をしたりなどしない。あの推測はどこから来たのか。彼はそもそも、どこから処刑の話を聞いたのだ?
エリエントといえば、彼はおかしなことを口にしていた。ブランシェ領からベルトラン領に向かう途中で、夜に、馬車の外で、何か──何だっただろうか?よく覚えていない。いや、今はそれではなく、目の前のことに対処すべきだ。
「……アンベール侯爵は、俺の処刑の話を聞いたことは?」
「アラン様を、処刑ですか……!?」
リュシアンの声は動揺を含んでいる。演技には見えなかった。
「それはいったいどこから、いったい誰が……」
「エリエントから聞いた」
リュシアンは口を閉じ、思考する様子を見せた。アランはもう一口山羊乳を飲んだが、喉が潤った気がしなかった。
「……弟は王国軍人ですから、王城で何かを掴んだ可能性はあります。しかし……そんな大事なことがあれば、知らせるはず……。いえ、抱え込む性格もありますから、私に知らせないことは有り得ます……しかし……。アラン様、それはいつ知らされたのですか?」
「俺が追放された時、あいつが馬車を止めて、そこで。……そうだ、その時護送してくれていた兵士たちは新兵のようだったんだ。それで、俺が逃げた後に誰かに殺されたらしい。犯人も動機も未だ不明。それを教えてくれたのもエリエントだ」
「追放は宰相閣下によるものなのに護送の兵は新兵だったらしいとは、リリアンからも聞きました。ですが、殺された?それは始めて聞きました。登城の時も誰も話してはいませんでした」
アランは思わず「そんなはずない!」と早口で言った。
「エリエントは確かに、上が騒がしかったから調べて、それで彼らの死を知ったと話してくれた。時期がズレたにしても、そんなことは有り得ない!」
「──まさか」
リュシアンが何かを言いかけた時、再び扉が叩かれた。リュシアンとアランは目を合わせ、リュシアンが扉の向こうに声を掛ける。
「何だい」
「マルです。戻りました」
「入るといい」
マルが頭を下げて入り、元のように閉めた扉の前に立った。リュシアンは柔和な表情に戻り、アランへと語りかける。
「興味深い話をありがとうございました。また話しましょう」
「う、うん」
「そういえば、アラン様は元々この地の出身だとか。エリエントの手紙にありました」
「あぁ、うん」
そうは見えないが、リュシアンはマルを、いや、エリエントを警戒しているのだろう。マルはこの家に仕えているとのことだったが、見たところエリエント専属に近いようであるし、どこからエリエントに話が漏れるか分からない。
(俺が兄弟の仲を引き裂いた……?)
アランが考えている間にも、話は進む。
「仕立て屋ラポルトが生家だったと聞いています。先代のご子息がアラン様ですか?」
「そうだ」
「懐かしい。一度、先代のラポルトに服を仕立ててもらいました。今も残っていたはずですね」
ぼんやりしていたアランの意識が引き戻される。
「残って、る……?」
「はい。母が私の息子のためにいつか仕立て直せと。私は未だ独り身ですがね。持って来させましょうか」
「いいのか?」
「構いません。服もいつまでも仕舞われたままでは可哀想だ」──リュシアンはマルに言う。「君、私の世話係に言ってくれるかな。その辺にいるはずなんだ」
「承知しました」
マルが再び執務室の外へと出て行く。扉が閉じ、アランはリュシアンに食い気味に聞いた。
「本当に?本当にラポルトが仕立てたものか?」
「間違いなく。そして覚え間違いでなければ、あなたもその場にいたはずですね」
「俺が、その場に?」
物心がついてすぐの四歳くらいの頃にアンベール侯爵家からの依頼のため、両親が侯爵邸に行く際にアランも連れて行ってくれた。壁がでこぼこして面白くて、家より広くて、貴族の前に出ると聞いて緊張し始め、いい子にしていたらお菓子を買ってくれると両親が言った。そしてちゃんといい子にしていたから、その帰りに褒美に菓子屋に寄ってくれたのだ。
室内を改めて見渡して、何となく当時の記憶が蘇ってくる。執務室ではない。おそらくあれは応接室だった。だが部屋の雰囲気は似ていた。飾り気は無く、実用的なものばかりが置かれ、幼いアランと父の座る椅子の向かいには当時の侯爵夫人が座り、アランはカチコチに固まりながら、父と夫妻の会話を耳に入れていたはずだ。そして母は、立っている侯爵子息の採寸を行っていた。記憶の奥底から取り出したばかりで姿も朧気な侯爵子息と、今目の前にいるリュシアンが重なる。あの子息も確かに金髪で、明るい緑の目を持ち、柔和な表情をした年上の人だった。
「母に採寸をしてもらっていた、あの時の?」
「懐かしいですね。あなたは緊張していましたが、とても礼儀正しかったと、あの母も褒めていました」
「ジョ、ジョルジェット様が……?」
「私も驚きましたよ。母が妹にあなたのことを話していた記憶もあります」
彼女は眷族としての誇りが非常に高かったとリリアンは言っていた。アランの容姿を見て眷族だと確信し、「身内贔屓」をしたのかもしれない。もしあの後何も起こらなかったら、アランがジョルジェットと会話することがあったのだろうか。その時に眷族のことを知らされたかもしれない。
「覚えていませんか?あなたが緊張のあまり固まり続けるものだから、あの母があなたに部屋の外に出ても良いと言ったんですよ」
「……すまない。全く覚えていない」
「あなたも幼かったですから、当然かもしれませんね。部屋を出て行く時も、右手と右足が一緒に動いていましたから」
リュシアンが抑えきれないというように小さく笑みを零す。覚えてもいない自分の醜態を想像し、アランは耳を赤くした。
「そ、そうか……俺にもそんな時が……」
「ラポルト夫妻がその日の仕事を終えて、あなたを迎えに行って帰ったと記憶しています。夫妻は何度か来邸して、私の服を仕立ててくれました。そして……」
言葉が途切れる。その先の言葉はアランも分かっていた。
「最初の来邸の一ヶ月後、両親は死んだ。両親はあの時の仕事を、ちゃんと終えられていたんだな」
「……はい。良い品でした。だからこそ、母も長く取っておくように私に言ったのでしょう。母は確かに気難しい人でしたが、そういったところがある人でもありました」
リュシアンの話すジョルジェットと、これまで聞いてきた彼女の話は別人に近いほど違った。リュシアンには暗い面を見せなかったか、リュシアンがなるべくその面を語らないようにしているのかもしれなかった。
扉が叩かれ、リュシアンの世話係とマルが入って来る。リュシアンの世話係の手には一着の服があり、それを受け取ると、彼は世話係を下がらせ、マルは扉の前に立った。
アランの目は服に奪われた。光沢のある分厚い布で作られた、子ども用の裾の長い上着だった。
「どうぞ。あなたのご両親の、最後の仕事です」
リュシアンは立ち上がり、アランのもとへ服を持って来る。アランは震える両手でそれを受け取った。
ほつれも無く、寄れた様子も無い。まるで今さっき仕立てたばかりのようだった。布は無限にあるわけではない。服にはなるべく大きい布を使われ、何度でも仕立て直せるように大雑把に縫われていることがほとんどだ。しかしこれはそういうものではなく、おそらく夜会用の、普段着ではなく余所行き用だ。当時のリュシアンの身体に合うように、しっかりと作られていた。布の手触りも良い。これを用意したのは父で、この形を提案したのは母だったはずだ。二人が真剣に仕事に向く横顔を思い出す。もう忘れていたはずの、あの真剣な顔。
アランの瞳から、涙がつぅと滑り落ちた。もうどこにもいない両親。本当に転生があるのなら、今はもう、自分のことなど、この仕事のことなどさっぱり忘れているだろう。だが確かにここに、両親がいた証が在った。彼らを覚えている人と物が在った。
「ありがとう。持っていてくれて」
「こちらこそ、仕立ててくださり、ありがとうございました」
アランが服を返すと、代わりにハンカチを渡された。それを拒否することなく、アランは止まらない涙を拭い続けた。
あなたのためならば「私」は何だってしてみせます。あなたのためならば。あなたの夢のためならば。あなたの生のためならば。あなたの幸せのためならば。
あなたの気持ちを知らないままで。




