15話 「あなたが望むならば」
「久しぶりだね、妹弟たち」
男はふわりと口を開いた。エリエントとリリアンを足したような面差しで、彼はエリエントの後ろにいるアランを見ると、ゆっくりと近づいてきた。エリエントやリリアンは唖然とし、
男の一挙手一投足を見ていた。マルは後ろに下がり、胸に手を当て頭を下げている。男がそれに手を振ると、マルはすぐに頭を上げた。
男はアランのところまで来ると、ゆったりと跪く。彼の格好と気品に溢れた動きが、彼がかなり高位の貴族であることを伝えていた。彼は胸に手を置き、アランに頭を垂れた。
「ご無事で何よりでございます。アラン陛下。御前失礼致します。リュシアン・アンベールにございます」
男はリュシアン・アンベール──剣聖とも呼ばれる当代のアンベール侯爵であり、エリエントとリリアンの実兄だった。彼とは爵位継承時に謁見して以来だが、その時と何も変わっていなかった。
「アンベール侯爵……」
「昨年の御前における謁見は紗幕越しにてございました。かようにお元気なお顔を拝することが叶い、安堵いたしました」
「そんな丁寧にならないでくれ。ここは王城ではないし、俺は……もう……」
眉尻を下げてアランが言うと、リュシアンは「仰せのままに」と返し、顔を上げた。彼は立ち上がり、高い位置からアランへ笑みを向ける。
「それでは、今ここでのあなたへの振る舞いは、このようなものにいたしましょう。それでよろしいですか?」
「うん。すまないな」
「いえ」
リュシアンは緩く首を振った。
「お兄様」
彼の後ろからリリアンが呼ぶ。振り返って、兄妹は顔を見合せた。
「リリアン。君も大変だったね」
「それはそうだけれど。お兄様、どうしてここに」
「そうです、兄上。アンベール侯爵領からベルトラン領まで近いとはいえ……」
「あの英雄ディディエがここに来ると、そう手紙に書いたのは君だよ、エリエント」
リュシアンは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。丁寧に畳まれたそれを開き、彼は一部の文章を読み上げる。
「アラン様は反乱軍の暴走を止め、宰相リシャール殿の危難を和らげたいとご所望です。また、軍主ディディエはこのベルトラン家迎賓館に向かっているとのこと。もし兄上がご助力いただけるのであれば、アラン様もきっとお喜びになられることと存じます」
アラン、リリアン、マルの目が一斉にエリエントへと向く。エリエントは三人に見られた理由に思い至らずに、兄の言葉に答える。
「確かに書きましたが、まさかそれで兄上が動くとは思わず……。ただの手紙の話題として出したまででしたから」
「ああ、君は手紙に慣れないと文中でも言っているからね。私もこんなことになっているとは思わず、ただ名高きディディエにお会いしたいのと、妹弟との仲を深めに来ただけだったんだ」
「それでは、本当に暴徒のことなどは知らなかったと?」
「そうなんだ。これもソリエールのお導きだろう。妹弟とアラン様の危険に間に合って良かったよ」
彼は祈りの手を組み、「ソリエールよ、感謝致します」と感謝の言葉を呟いた。
リュシアンは雰囲気が柔らかく、とても剣聖とは思えない。これまで剣聖と呼ばれてきた者たちは、記録によれば皆筋肉隆々の荒々しい者たちばかりで、彼のような剣聖は周辺国にもいないだろう
「お兄様。そのエリエントの手紙は、私も読むことが可能ですか?」
兄妹にしてはどこか距離を感じる言葉遣いだったが、それが普通なのか、リュシアンは気にした様子を見せなかった。
「それはエリエントに聞いてみないとね。エリエント、リリアンはこう言っているようだよ」
「別に構いません。ただの手紙ですから」
エリエントは何の恥じらいも見せなかった。リュシアンはリリアンに手紙を渡し、リリアンはアランを手招きした。
「え、俺も見ていいの?」
アランはエリエントを見上げた。エリエントはここになってようやく恥じらいを見せた。
「アラン様に私の字や文をお見せするというのは……恥ずかしいです。そうなると分かっていましたら、もっと整えました」
「ふぅん」
アランはそれだけを返して、リリアンの横に立った。二人で手紙を覗き込んだ。
拝啓
光満ちる日々の中、兄上におかれましては益々ご清祥の段、心よりお慶び申し上げます。
このように筆を執り書中にてご挨拶申し上げるのは、実のところ初めてのことでございます。エリエントにございます。
現在、私はベルトラン家迎賓館に滞在しており、昨日は久方ぶりにリリアン姉上と対面いたしました。姉上とは長く溝を抱えておりましたが、この度ようやく言葉を交わし、旧きわだかまりを解きほぐすことができました。姉上との和解は、私にとって大きな転機でございます。その折、姉上より「兄上とも歩み寄りを図るべきでは」との助言を賜り、このように書中をもってご挨拶申し上げる次第です。
とは申せ、私が筆を取った直接の動機は、他ならぬアラン様にございます。アラン様が、亡き姉君を語られた折に見せた涙と温かな想い。その御心に触れた時、兄姉を想うとはどういうことか、自分自身も理解したいと強く思い至りました。
アラン様の気持ちを知りたい。そのためには、私自身も“兄を想う行為”を形にすべきだと考えたのです。こうして手紙を書くことで、わずかばかりでもアラン様の御心に寄り添うことができればと存じます。そのような訳で、兄上、姉上、そして私の三人での親しき交流が、今後は叶いますならば幸いに存じます。
しかしながら、兄上に手紙を差し上げるのは初めてのことであり、非礼や不備も多かろうと存じます。報告書以外の文を綴った経験も乏しく、拙い部分もございましょう。どうか広い御心でお許しください。もし差し支えなければ、ご返信にてご指摘賜れれば幸甚にございます。
さて、私は先日よりアラン様とともに旅をしております。例の反乱軍の軍主ディディエを追うためのものにございます。アラン様がお優しい方であることは、兄上もすでにご存知でしょう。アラン様は反乱軍の暴走を止め、宰相リシャール殿の危難を和らげたいとご所望です。また、軍主ディディエはこのベルトラン家迎賓館に向かっているとのこと。もし兄上がご助力いただけるのであれば、アラン様もきっとお喜びになられることと存じます。
アラン様のご容態について少し申し添えます。お顔の血色はすぐれず、食欲こそございますが胃の容量は小さく、また睡眠も浅く、夜に魘されることがございます。見守る私の心労も積もるばかりにございますが、近頃は表情が柔らぎ、微笑まれる姿も増えてまいりました。その御姿の美しさは筆舌に尽くしがたく、この世のあらゆる光景を以てしても比肩し得ぬほどと申しても過言ではありません。殊に、心の底より笑われた時の輝きはこの地上のいずこにも存在しない美でありましょう。
とはいえ、兄上の執務に差し障りがあってはなりませんので、想像なさる際は、どうか時間を区切られ、ほどほどにされることを推奨いたします。
この手紙は明け方にしたためております。そろそろアラン様のお目覚めに備えねばなりませんので、この辺りで筆を置きます。アンベール侯爵領より離れてはおりますが、兄上の公務の益々のご繁栄を、空の下より祈念申し上げます。ソリエールの導きが常に兄上とともにありますよう。
敬具
エリエント・アンベール
読み終わって、アランとリリアンはどちらともなく互いの顔を見やった。いつの間にかアランの隣にはマルの顔もあって、マルは「わー……」と言葉にならない感想を漏らしている。彼はリリアンに気づかれる前に退くと、袖で口を隠しながら「お坊っちゃんやば」と呟いた。
リリアンは半目になって、弟へ呆れた視線を向ける。
「エリエント、君ね……」
「はい」
「お兄様と交流を図るための手紙で、どうしてアランくんの体調の話題になるの」
エリエントは無垢な目で首を傾げ、それを見てリリアンは大きなため息を漏らし、彼らの兄は言った。
「リリアン。エリエントは手紙に慣れていないのだからしょうがないよ」
それは優しさ故の言葉なのだろうが、彼の言葉はいつもエリエントの柔らかい部分を突き刺す。エリエントが眉根を寄せていると、彼の耳を暖かい声が震わせた。
「でも言葉遣いとか文字とか綺麗だよなぁ。俺、こんなの書けないわ」
エリエントは耳を赤くして、手紙を見たままのアランを見つめた。
「アラン様……!お褒めいただき光栄にございます……!」
彼は暗闇の中に光を見た気分だったが、一方のアランは彼を見ないようにしつつ口角を引き攣らせていた。
(いや、言葉遣いと文字は綺麗だけど、中身どうなってんだこれ……。兄に当てる手紙で、何でこんなに俺の話題が出てくんだよ。ってか、俺、魘されてんの?)
覚えが無くて首を捻る。夢見が良い日が少ないのはそうだが、魘されるほどだったか。
「とりあえず、これを読み、お兄様がここを訪れた理由は分かりました。アンベールの私兵たちは、お兄様の護衛ですね」
開け放たれたままの扉のすぐ外に待機する私兵たちをちらりと見る。彼らは直立不動で待機していた。
「そうなんだよ。ぜひにと着いて来てくれてね。ありがたいことだよ」
それから彼は申し訳なさそうな顔でリリアンに言う。
「リリアン。迎賓館を汚してしまった。すまない」
「お気になさらず。こちらは助けられた身ですから」
彼女は兄のもとに歩き、手紙を返す。そして、部屋の中の者にぎりぎり聞こえるくらいの小声で言う。
「……お兄様は、あたしを見てもおかしいと思わないの?」
それを聞いた誰もが、見た目が実年齢とそぐわないことを言っているのだと気付くだろう。彼女は三兄弟で唯一の眷族として生まれ、母によってベルトラン家に向かわされるまで成長速度が遅いことに苦しんでいたことを、アランは十年近く前から知っている。この迎賓館でエリエントに再会し、彼に見た目のことを触れられて青ざめ震えていたところも、先程暴徒たちに見た目のことを触れられ表情を無くしていたところも見ている。これ以上彼女が傷つけられることに、アランは耐えられなかった。
だが、リュシアンは人格者としても知られている。彼が自身の妹へと紡いだ言葉は、彼女を傷つけなかった。
「どうして妹を見ておかしいと思うんだい?」
受け取った手紙を折り畳んで懐に仕舞い、彼は笑みを浮かべる。
「でもドレスに血がついてしまっているね。早く替えた方が良い」
「……そうだね。そうする。メイドたちにも指示を出さなくちゃ。お兄様はこの後どうするの?」
「私兵たちには申し訳ないが、このまま強行軍で戻ろうと思っているよ。暴徒の数人は逃してしまったからね」
リリアンはじっと兄を見て、「……その方が良いかもね」と返した。
「あの」
ずっと黙って聞いていたアランが、リュシアンに声をかけた。私兵たちの耳を気にして、アランは小声になり、リュシアンもそれに合わせて声を潜める。
「あなたは王城での評判も良い。だから……頼む。リシャールの力になってはくれないか。彼は俺のせいで、俺が被るべき悪評を被っているんだ」
「勿論、協力はします。しかし、一つ質問があります」──リュシアンの表情は真剣なものとなる。「王城に戻る気は無いのですか」
「無い」
アランは間を置かずにそう返した。
「俺は追放された。そうされるべき王だった。俺も納得している。もう俺は国に関わるつもりは無い」
そこまで言って、アランは腹の前で両手を握り合わせた。
「ただあいつのためなら、俺は反乱軍たちを止めるし、必要があれば王城に行く。反乱軍の軍主が狙っているのは、リシャールの首だから……」
ディランの目を思い出し、アランの顔から血の気が引く。
どうして彼はアランに執着するのだろう。アランは自分にそんな価値があるとは思えなかった。彼もまた幻想に囚われているのだろうか。
「分かりました。しかし、王であってもなくとも一人では危険ですから、どうか我が弟をお連れください」
エリエントがアランから兄へと向く。彼は信じられない気持ちで兄の言葉を聞いていた。
「暴徒はこのベルトラン家の迎賓館を襲ったのです。ベルトラン家の特徴は黒い髪と青色の目を持つこと。貴族でも知る者が少ないこれを、暴徒は知っていることでしょう。アラン様の顔を民は知りませんから、どこで何が起こるか分かりません。弟は剣の扱いも上手く、常にあなたのことを想い最善の行動を取るでしょう。……そうだね、エリエント」
「当然にございます」
エリエントは胸に手を当て、アランへと頭を下げる。
「このエリエント、アラン様のためならば身命を賭しましょう」
狂乱の群衆を掻き分けてでも、兄に剣を向けることになっても、手足をもぐと脅されようとも、構わずにアランのために手を伸ばすだろう。彼が生きて幸福を掴んでくれるのならば、エリエントは何だって出来た。
「弟もこう言っていますから。弟が籍を置く王国軍にも、上手く伝えておきますよ」
「……う、うん」
アランはエリエントの言葉を軽く流せるリュシアンを尊敬した。アランではどうも重く受け止めてしまって、エリエントをまともに見れなくなる。
「その……エリエント」
「はい」
「嬉しいんだけど、身命は賭さなくて良いから。俺のせいでお前が傷ついたら、俺は苦しいよ」
それを聞くと、エリエントはふるふると震え出し、泣きそうな顔を俯かせた。
「なんと光栄なことでしょうか……。しかし……私もあなたが傷つけられるのは苦しいのです……」
「アラン様、弟はあなたのことがこれほど大事なのです。どうか受け入れやってください。兄としてのお願いです」
兄の擁護するような言葉に、エリエントは胸が詰まる想いがした。
アランは「う……」と言葉に詰まったあと、エリエントとリュシアンを交互に見て、そして項垂れた。
「……分かった」
リュシアンはそれに「ありがとうございます」と返し、エリエントはさらに頭を下げた。
(本当に身体も命もいらない。俺はそんなものを賭すほどの奴じゃない……。何で誰も分かってくれないんだ)
しかし、アランの心は暗くなっていた。
リリアンがぽつりと呟く。
「重すぎでしょ」
マルは彼女に見つからないよう気配を隠しながら、深く頷いた。
それからリュシアンが私兵たちを引き連れて帰ると、メイドが廊下の掃除を始めた。リリアンは着替えのために部屋に戻り、アランたちも元居た部屋に戻ることにした。掃除を始めたばかりの廊下は、鉄の匂いと赤色でいっぱいで、アランの足はフラついていた。
数日過ごしただけの部屋だったが、そこに辿り着くと緊張が解けた。その途端、先程のディランのことや暴徒たちのことが一気に脳内に溢れ出して、アランは靴も脱がずベッドへとうつ伏せに倒れ込んだ。
「アラン様、ご気分が優れませんか」
「飲み物貰ってきますか〜?」
アランはベッドに顔を埋めたまま、どちらへの返答なのか、首を横に振った。それを見てマルは自分のベッドで今日使った武器の手入れを始め、エリエントはアランの靴を丁寧に脱がせた。アランは抵抗する気も無く、彼の手にされるがままだった。
「アラン様、そのままでは呼吸が苦しくなります。せめて気道の確保を十分になさってください」
アランの耳に口を寄せ、エリエントが言うが、アランは動かなかった──否、動けなかった。もう彼の身体は疲労に染まりきっていて、脳内に言葉一つ浮かばないほどだった。エリエントは長考の後、「失礼します」と言って、アランの身体に手を触れた。抱えるようにして、丁寧にアランの体勢を変え、うつ伏せから仰向けへと変え、頭の下には枕を置き、胸もとまでブランケットを掛けた。アランの肺から、溜まっていた空気が漏れ出る。重く沈んだ表情に、エリエントは悲しげに眉を寄せた。
せっかく心も回復してきたと思ったのに、ディランのせいでこれだ。あのディランが、アランの憧れていた本物のディディエであればこうはならなかったのに。エリエントの中では、とうの昔にディランは要注意人物だったが、今日のあの件からは排除すべき人物となっていた。
重い瞬きをして、アランがエリエントの名前を小さく呼んだ。エリエントはベッドのすぐ横に片膝を付き、「はい」と返事をした。
「何でディランは俺に執着するんだろう。そのせいでリシャールが危険な目に遭うのかもしれなくて……」
案の定、アランは自責思考になっている。エリエントは眉を寄せたまま口を開く、
「彼もアラン様に光を見たのでしょう。しかしアラン様のせいでは決してありません。あの男が全て悪いのです」
「光ってなに」
子どものように、拙い口調だった。ブランケットの下で、アランの手はぶるぶると震える。
「イネスもお前も言ってた。光ってなに。俺に何の光を見るんだ」
「それは……」
「みんな言う。光だって。俺、そんなの無いのに」
マルはアランの方を見なかったが、手を止めていた。
「アラン様はご自身のことですからお気づきになられないのかもしれませんが──」
「俺はリシャールに光に導かれたんだ」
エリエントは口を閉じた。アランは一度吐き出してしまったからか、言葉が止まらなかった。
「俺が見た光と、リシャールが見た光はよく似てた。リシャールが、俺の見た光に導いてくれたんだ。だから次はリシャールが見た光に、俺を導いてくれたんだ。ほら、俺はいつも導かれてばかりで、俺自身は光じゃない。光があるとするなら、それはリシャールだった」
アランの目がゆっくりとエリエントへと向けられる。青い目は水底のように暗く、焦点が合わずに揺らめいていた。
「こんな俺に何の光を見れるんだ」
リシャールならば、アランの心を照らせるのだろう。彼はアランが闇に落ちそうになる前に彼の笑顔を引き出し、ついには手を握り合ったのだから。だがこの場にリシャールは居らず、アランの手を離したのは彼自身だった。エリエントが何を言ったところで、アランの心はもう回復しないだろう。あのディランが余計なことをしたせいで。
エリエントは己の無力感に耐えきれず、唇を強く噛み、血を滲ませた。目と鼻の奥が刺されたように痛くなって、じわりと涙が溢れ出す。焦点が合わなかったアランの目が、それを視界に入れて、揺らぎを止める。彼の震える手が、エリエントの涙をそっと拭い、エリエントはハッと顔を上げた。
「ごめん。変なこと言った。なんか、疲れちゃってたみたいだ。泣かないでよ」
「っあなた様は……!」
エリエントは己の涙で濡れてしまったアランの手を強く握った。また冷たくなった手に、余計に涙が溢れる。
「あなた様はだから……だから光なのです……!自分の傷を隠して、人にそうして優しくするから!」
エリエントの涙はまた溢れ出し、頬を伝って落ちた。
「アラン様は、決して人を否定なさらない……!否定されてばかりの人間には、あなた様のその優しさが……光なのです……!」
「そんなことない。俺だって人を否定して──」
「あなた様が否定するのは、いつもご自身のことだけです!」
エリエントはアランへぐいと顔を近づけた。
「あなた様がそうやって人を否定せずにご自身を否定するから、皆があなた様に執着する。あなた様には確かに誰かに愛された気配が残っているのに、それから目を逸らして否定するから……!」
青い目の近くに、エリエントの涙落ちて横に流れていく。
「エリエント……」
「アラン様。あなた様がご自身を光だと認識できないのだとしても、どうかそれを言葉にはしないでください。エリエントはもう、胸が裂けてしまいます」
私の原初の光はあなた様なのだから。
エリエントはそう言うと、アランの手の甲に額を押し当てた。冷たい手には、エリエントの熱はいつまでも伝わらなかった。
「……分かった」
アランが言う。彼はもう片方の手を伸ばし、エリエントの頭に手を置いた。
「お前がそんなに泣くんだもん。俺はもう、自分の光を否定しないよ」
優しく頭を撫でられて、エリエントの喉が震える。エリエントがアランの手の甲から額を離すと、頭に乗せられていた手が、エリエントの手を包み込んだ。両手で握り合うような形になって、アランは上半身だけ起き上がり、エリエントは膝立ちになった。
「アラン様……」
「だから、エリエントも俺のことを英雄だって言わないで」
アランの目が伏せられて、隙間から涙が落ちる。それは光を通し、星のようにキラキラと輝いていた。
「俺はアラン・ペリエ。解放の英雄なんて幻想じゃない。本当のアラン・ペリエは、昔から泣いてばかりで、不安で、怖がりで、誰も守れないほど弱くて、人にすぐに流されて、過去に捕らわれてばかりで、本当は死ぬことが怖くて、でも生きるのも怖くて、忘れられるのが怖いんだ」
震える肩は薄く、少食のため細い首には髪が掛かり、幼い顔には疲労が浮かんでいる。良かれと思い、盲信的に彼に幻想を抱き、押し付けたつもりもなく押し付けてきた。こうして見ると、今にも死んでしまいそうな少年にしか見えないのに。そんな彼に──月のような光に受け止めてもらえるからこそ、皆が狂ってしまうのだと、どこか冷静になってエリエントは思った。
アランは太陽ではない。彼は月なのだ。
彼は皆の英雄になってしまった。そうしてしまった。
謝っても遅いことは分かっている。もう自分は取り返しのつかないことをしてしまった。そこだけは書き換えられない。だからこそ、今回だけは。この最後だけは。
「……はい」
エリエントははっきりとそう言った。
「約束します。私はあなた様を、あなた様自身を見ます」
「嫌じゃない?」
「有り得ません。私は決してあなた様を嫌になどなりはしない。ですから、どうか、あなた様の涙を拭うことをお許しいただけますか」
アランはそっとエリエントから手を離した。
「いいよ」
エリエントはアランに包まれていた手で、そっとアランの頬を流れる涙を拭った。綺麗な涙であっても、それが彼の悲しみからくるものならば、不必要なものだった。彼には笑顔が似合う。ようやっと、最近浮かべることが増えてきたのだ。あと少しできっと、心の底から笑ってもらえる。
「エリエント」
「はい」
「お前って堅苦しいからさ、もう少し気楽にしてよ。城を思い出しちゃう」
「はい。──あなたが望むならば」
エリエントが言うと、アランは「まだちょっと堅い」と呟いた。
「申し訳──すみません。ずっと、こうしてきましたから」
「いいよ、ゆっくりで。俺も、自分の光を否定し続けてきたから、すぐ変えるのは難しいと思うから」
「では、あなたもゆっくりで」
「うん」
アランは頷くと、疲れたように息を吐いた。ずっと言いたかったことを言えて、安心したのだろう。彼の目は虚ろになって、頭がかくんと揺れた。
「アラン様。どうぞ眠ってください。色々あって疲れたでしょう」
「うん……」
エリエントはアランの髪紐を解いて畳むと、枕もとに置いた。アランはベッドに横になり、ベッドのそばにいるエリエントに、眠気で緩くなった口で言った。
「エリエント、身命を俺に賭さないでくれ。お前が死んじゃったら、誰が本当の俺を覚えていてくれるんだ」
先ほど起き上がった拍子に下がってしまったブランケットをアランにかけ直し、エリエントは返す。
「私が身命を賭すのは、あなたに生きていてほしいからです。ですが、私はあなたの願いは叶えます。必ず、死なずに」
エリエントは立ち上がって、今にも眠りそうなアランを見下ろした。
「どうか、何が起ころうとも、誰があなたを死に引きずり込もうとしても、抗って、抗って、抗ってください」
「うん」
「あなたが流されないように、私が支えますから」
「うん」
「そして私が、脚色無しのあなたの本当の物語を書きますから。そうしたらあなたは、誰にも忘れられない。私も決してあなたを忘れない」
アランがぼんやりと笑みを浮かべた。
「うん」
それを最後に、アランの意識は夢へと落ちた。今日は魘されないことを祈り、エリエントは安らかな寝顔を見つめた。
武器をしまって、マルがそばにやって来る。アランを見るその顔に、いつもの貼り付けた笑みは無い。
「……アランさんは、時代と国がもっと穏やかだったら、ただの普通の人だったのに」
「どんな時代でもどんな国であろうとも、この方の光は、必ず人を惹きつけた。否定される人間がいる限り、それは変わらない」
マルの赤い目がエリエントを見る。
「僕は僕の大事な光を亡くしました。だから分かります」──エリエントは、マルの顔を見なかった。その目はアランへと向いたままだった。「お坊っちゃん、あなたも光を亡くしましたか」
エリエントの手が、枕の上に広がるアランの長い黒髪を撫でる。
「……もう二度と亡くさない」
それはマルへの答えではなく、彼の独り言だった。
良い匂いがした。アランが目覚めると、窓はカーテンで隠され、壁に掛けられた蝋燭たちに火が灯っていた。壁際の長いテーブルには食事が乗っており、良い匂いは、湯気が上るスープから漂うものらしい。お腹が鳴って、アランはふらりと上半身を起こした。
「アラン様、起きましたか」
楽な格好をしたエリエントが、アランへと近づく。アランは寝起きでぼんやりしたまま、こくりと頷いた。カーテンを見て、アランはエリエントに尋ねる。
「夜?」
「はい。昼食時にはアラン様は眠っていたので……お腹が空いたでしょう。ゆっくり召し上がってください」
「うん」
靴を履こうとすると、エリエントが跪いてそれを手伝おうとする。それを見て、ぼんやりしていた意識がはっきりして、アランは靴を持ち上げ「子ども扱いすんな」と唇を尖らせた。
「こんなナリだけど、もう二十六だぞ」
「私がアラン様のお手伝いをしたかったのです」
「だからって、靴を履かせる手伝いなんて、子ども扱いにもほどがある」
「しかし、靴は脱がせました」
アランは「う……」と目を泳がせる。その辺りの記憶は薄らとしていたが、確かに自分で靴を脱いだ記憶は欠片も無かった。
「そんなことはいいんで、さっさと食べちゃいましょうよ〜!」
マルは既に席についていて、ぱたぱたと袖を揺らしていた。アランはさっさと靴を履き、しょんぼりと肩を落とすエリエントを置いて席に座った。
「エリエント、早くしろよ」
「はい……」
靴に執着するな、本当に犬みたいだぞ──とはさすがに言えなかった。
エリエントがアランの隣に座り、二人で食前の祈りを捧げる。その間にマルは食べ始めた。
「アラン様。明日からの予定はどうしますか」
アランが柔らかいパンを千切っていると、エリエントが声を掛けてきた。アランはパンを口に入れて噛みながら考える。
(反乱軍の軍主はディランだった。それでディランは昼間に逃げて行って……でもあいつを止めないとリシャールが危ない。ディランはどこに行ったんだろう。反乱軍の本拠地?)
そこまで考えて、アランはパンを飲み込んだ。
「反乱軍の本拠地に、ディランが戻ってないかな」
「やはり、奴を止めに行くのですね」
「リシャールが危ないから」
アランはパンをもう一度千切る。
「どうにかしてディランの動きを知っておかないと……。イネスは何か知らないかな」
パンを千切る手が止まる。瞬きも忘れたアランの名前を、エリエントが心配そうに呼んだ。
「アラン様?」
「……エリエント。イネスは、知ってたのか?」
「何のことですか」
「ディランのこと」
イネスは反乱軍を集めた立場であるし、軍主とも会話をしたようなことを言っていた。彼女がディランと何度も顔を合わせているのは間違いない。そして、イネスもかつてアランが軍主を務める革命軍に籍を置き、軍師であったディランの顔を知っているはずなのだ。
「それは分かりません。私もあそこに頻繁に顔を出す方ではありませんでしたから。ただ、彼女もディランも革命軍に居ましたから、知っていた可能性は十分に高いかと」
「やっぱりそう思うよな」
やはり一度イネスに会っておくべきか。しかし、アランの心は彼女から遠ざかりたがっていた。アランに幻想を抱く人と話すのは、いつも彼を疲弊させた。
「……アラン様。無理をする必要はありません。あそこは反乱軍の本拠地で、今日のような暴徒たちもいる可能性があります。ディランの動きを探るのであれば、兄上に頼みましょう。アンベール家の私兵を使えば、すぐに分かります」
「迷惑にならないか」
「有り得ません。兄上はこれも見越して、私をあなたにつけるとあえて宣言なさったはずです」
「そうですよ〜」
パンを食べ終わり、スープに手をつけ始めたマルが会話に入ってきた。
「それに、お坊っちゃんをつけなかったとしても、アンベール侯爵は断らないですって〜。頼れるものは頼っちゃいましょう!」
「マルもこう言っています」
「……分かった。……本当に迷惑掛からないんだよな?」
「はい」
アランはまだ躊躇いを見せていたが、エリエントが力強く頷くのを見ると「エリエントが言うなら」と落ち着いた。これまでのアランの強がりは、全て薄氷の上にあった危ういものだった。しかし、誰にも見せなかった本心を見せてから、アランは明らかに弱さを隠さなくなっている。エリエントは暴れそうになる心を必死に押さえつけるしかなかった。
食事は進み、先に食べ終えたのはマルだった。彼は満たされた腹を摩り、「げふっ」と小さなゲップを出して、エリエントに睨まれた。アランはゆったりと食事をしており、エリエントはそれに合わせている。だが、アランのフォークが途中で置かれた。食事の内容は、手のひら程の大きさのパンが二つ、肉料理、スープだったが、アランはパンを一つと肉料理を数口食べ、スープに関してはほとんど手をつけていなかった。
アランは眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしてエリエントを見る。
「エリエント、まだ食える?」
「はい。食べられます」
「ごめん。食べて」
料理の乗った皿がエリエントの前に押し出される。今朝までは出されたものは必ず食べきっていたが、無理をしていたことをエリエントは知っている。それでも止めなかったのは、それがアランのためだと信じて疑わなかったからだ。食事は身体を作り、身体の不調は必ず精神にまで及ぶことをエリエントは理解していた。
「アラン様。パンと肉は食べます。しかし、スープだけはご自身でお飲みください。身体に良いものですから」
スープの器をアランの前に戻す。アランは湯気が消えてしまったそれを眺め、スプーンを手に取った。
「うん」
スプーン半分のスープを掬い、口に運ぶ。喉が飲み込む動きをしたのを見てから、エリエントはアランの皿に手をつけた。
食べかけの肉を見て、一口がどれだけ小さいかが分かる。旅が始まって、少しずつアランの胃は食を拒否し始めている。フォリアで食べたパンですら、無理をしてももう食べきれないかもしれない。まるで彼の身体が生を放棄しようとしているようで、エリエントの背筋が凍りつく。
もう限界だというのか。彼がどれだけ生きる方へ舵を切ったとしても、その身体が、魂が──。
だからエリエントはアランに少しでも多く食べさせる。アランに生きていてほしいからだ。アランを生かすためならば、エリエントは何だってする。自身で魂を砕くことになろうとも躊躇わない。
時間をかけて、アランはスープを飲み終えた。エリエントが「さすがです」と言うと、彼は頬を緩ませた。
食事を終え、各々眠る準備に入る。エリエントは剣の手入れを始め、マルは着替えてベッドに潜り込んだ。そしてアランは、気配を消してふらりと部屋の外に出た。ふと外の空気を吸いたくなったのだ。
廊下には未だ血の臭いが残っていた。顔を顰め、アランは玄関へ向かう。玄関に辿り着いて扉に手を掛けると、後ろから声を掛けられた。
「アランくん、夜だよ」
振り向くと、寝巻き姿のリリアンが立っている。彼女は腕を組み、アランへと近づいた。
「まだ夜は寒いよ」
「この前、エリエントにも同じこと言われた」
「なら、尚更出たらダメでしょ」
「でも、外の空気が吸いたくなって」
「……昼間あんなことがあったのに……ああ、もう。しょうがないな」
リリアンがアランの代わりに扉を開ける。夜の冷たい空気が、二人の身体を包む。
「庭までだからね。敷地内の外には出ないから」
「最初からそのつもり」
「……本当に?」
「うん」
「ならいいか。ほら、行こう。夜露に気をつけてね」
二人で玄関を出て、芝生広がる庭へと降り立つ。しんと静まり返った世界を、今日も月と星々が照らしていた。
「なあ、リリアン」
「なに?」
歩きながらアランは彼女に声を掛けた。
「明日には、ここを出ようと思う」
「ディランを追って?」
「……うん。早く何とかしないと、リシャールが危ないから」
数日前、エリエントと手合わせした場所を通る。この庭はそんなに広くはない。すぐに一周してしまえそうだった。
「リシャールくんなら、大丈夫だと思うけど。でも、君はそうしたいんだね」
「うん」
「なら止めない。止めないけど……でも……ねえ、本当にあの人も一緒なの?」
リリアンが足を止める。彼女の言う「あの人」とはマルのことだった。
「マルも一緒だよ」
アランも足を止め、リリアンと向かい合った。
「……リリアンがマルのことを避けるのはしょうがないと思う。俺も聞いただけでも驚いたし……。でも、マルと一緒にいた時間の方が、俺の心に残っていたから」
「あの目が怖くないの」
アランの指がぴくりと動いて止まる。
「……目」
マルの目は赤い。アランは意味も無く、昔から赤い目が怖かった。
「あたしは怖いよ。お母様のこともそうだけど……あの赤い目は、魔女様の天敵のものだもん」
「何だ、それ。魔女様って、始祖二人が友達って言ってた、建国の時の老人のことだよな?本当は女の子だったらしいけど」
「魔女様の認識については、間違ってないよ。眷族教育では、あたしたち自身のことや、本当の歴史を教えてもらうの。そして……当然、魔女様のことも」
寝巻きを両手で握り、彼女は目を伏せる。
「魔女様は、始祖様たちとこの世界に来て、東の国で保護された。そこのお妃様が酷い人で……全ての罪を一度魔女様に着せて投獄までしたの。でもそれがバレて……処刑になった時に、魔女様の魂を呪ったんだって」──彼女は低い声で続ける。「お前に平穏は訪れない。お前には必ず動乱がついてまわる」
「まさか、そのお妃様っていうのが、赤い目?」
「そう。あたしたち眷族に特別な色があるように、あっちにもそういうのがあったみたい。そのお妃様の呪いはとっても強力で、行く先々で魔女様は動乱に巻き込まれてしまった。人がいないところに行けば大丈夫だとこのセネテーラの山々に隠れ住んでみれば、隣国の皇子たちが来て……。国の歴史書には書いてないけど、かなりの動乱があったらしいよ。あたし、呪いなんて信じてなかったけど、これを聞いてからちょっと怖くなったの」
リリアンはそこで一呼吸置いた。
「お母様はあれでいて凄く眷族としての誇りが高かったから、あたし以上に……ううん、きっと始祖様たち以上だったかもしれない。お母様は赤い目を酷く忌避してた」
冷たい風が吹いて、リリアンの柔らかい髪を揺らした。エリエントやリュシアンの真っ直ぐな髪とは違う猫毛は、母親譲りなのだろうか。
「だから、まだ幼かったあの人を、わざわざあんな風に使ったんだと思うの。……あの人は悪くない。でも、あたしは怖い。お母様のことを思い出すからだけじゃない。あの時お母様の側に着いて、何も出来なかったあたしも、呪われちゃうんじゃないかって」
「リリアン……」
「アランくん、ずっと落ち着かなかったでしょ?今日もずっと顔色が悪くて……あんなことがあったんだからしょうがないことだろうけど、もしかしたらあの人に呪われたんじゃないかって、あたし……。違うって分かってるのに……」
「いいよ。大丈夫だから」
「君が死んじゃったらどうしよう……。ディランの連れてきた暴徒たち見たでしょ。あんなの正気じゃない。君まで殺されたらどうすればいいの。呪いのせいだと思って、あたし、またあの人のこと怖くなっちゃうよ」
リリアンが鼻を啜る。
「本当はさっき、アランくんたちの部屋に行こうとしてたの。ちゃんとあの人と向き合ってみようって。でも怖くて無理で、外の空気を吸おうとして……そしたら君がいて。もう、ダメだよね。君の前だといつもこう。本当のあたしはもっと強くて、もっとちゃんとしてるんだよ。弱くなんてないの。知ってるよね。……知っていて、くれてる、かな」
「知ってるよ。ディランと向かい合ってた時のリリアン、凄かった。あんな長い槍持って戦うしさ。昔、リシャールと来た時も、びっくりしたよ。険悪な感じだったけど。弱いなんて思わなかったよ」
「……お世辞じゃないよね?」
「そんなこと言うかよ。……それにさ、俺が言うことでもないんだけど」
アランは横髪を耳に掛け、言いにくそうに言った。
「……本当は弱かったとしても、良いんだと、思う。それを否定する人もいるかもしれないけど、みんながみんな否定するわけじゃなくて……。受け入れてくれる人は絶対にいる、から」
リリアンは目を瞬かせた。アランの顔をじっと見上げて、困ったように笑う。
「それって、君にとってのエリエント?」
アランは一瞬動きを止めたが、少しして「……うん」と頷いた。
「でもエリエントだけじゃない。リシャールもなんだ。……あいつは、俺が……たとえ人間じゃなくてもいいって」
アランの胸の中に、暖かな思い出が蘇る。
『君はそのままでも良いんだ』
『そうだ。彼は化け物だ。凄いだろう』
リシャールの言葉は、アランにとって救いだった。彼の前でだけは、アランは眷族でありながら、人間として生きていられた。
リリアンは困った笑顔のままで言う。
「……そっか。きっとどちらが欠けても、今この瞬間の君はいないんだね。前までの君だったらきっと、弱さを肯定なんてしなかった」
アランは風に髪を任せながら、静かに頷いた。
「そうかもな」
「ふふふ。君も大人になったね」
「弱さを認めることが?」
「認めたんじゃなくて、君は肯定したの。それは難しいことなんだよ。そこに辿り着くまで、いっぱい苦しかったはずだよ」
「うん。ちょっと苦しくて泣いた」
「だと思った。ちょっと目の周りが腫れてるもん」
それからリリアンはまた歩き出した。アランも遅れて着いて行く。
「あたしももう少し頑張ってみるよ。明日、君たちが出る時、ちゃんとあの人も見送ろうと思う」
「大丈夫か?」
「大丈夫。君が大人になったのに、歳上のあたしが大人にならないのは悔しいでしょ」
リリアンはアランに背を向けながら、くすりと笑った。それは強がりに聞こえたが、アランは何も言わなかった。
冷たい空気がアランの肺を澄み渡らせていく。月と星の光が眩しい。
「アランくん、君はまだ外に?」
「うん。まだ外の空気吸ってたいし、部屋の中にいると、エリエントが早く寝てくださいって言いそう」
「言うだろうね……」
リリアンが乾いた笑い声を漏らした。
「風邪を引く前に中に戻りなね」
「うん」
アランが頷いたのを見ると、リリアンは逡巡の後、彼の頭の上に手を置いた。
「えっ、リリアン?」
「困り事があったら何でも言ってね。君はベルトランの子で、あたしの同族で……もう一人の弟みたいなものなんだから!」
ぐしゃりと頭を撫でると、リリアンは玄関へと駆けて行った。アランは呆然としてそれを見送る。乱れた髪に手をやって、それから柔らかい笑みを浮かべた。
(リリアンは、やっぱりエリエントのお姉さんなんだな)
アランは息を吐き、空を見た。いつものような不安は無かった。ただ何となく、輝くものが見たかったのだ。今なら太陽を見ても、眩しいと思わない。その明るさを正面から受け止めることができるだろう──きっとそれは、良いことのはずだ。
どれほどの時が経ったのか。アランが庭で空を眺めていると、駆けて来る足音が聞こえた。振り返るより先に、何か暖かいものに包まれた。
「……エリエント?」
後ろからブランケットが掛けられ、肩にはそれを押さえるようにエリエントの手があった。エリエントの息は上がっていて、目は若干血走っていた。
「いつまでも戻って来ないので……心配しました」
「ご、ごめん。外の空気吸いたくて……」
「いえ……。部屋に戻りましょう。何か温かいものを淹れさせます」
「いや、大丈夫。戻ったら寝るよ」
「本当ですか?」
アランは落ち着かせるようにエリエントの手を叩いた。
「本当だよ」
アランが歩き出すと、エリエントは肩から手を離し、アランの横を歩き出した。
二人で部屋に戻ると、マルは既に寝息を立てていた。アランのベッドにはブランケットがあり、エリエントのところには無かった。
「エリエント、ブランケットありがとう」
「いえ」
エリエントにブランケットを返し、アランは靴を脱ぎ、ベッドに乗り上げる。髪紐解いてごろりと寝転がると、エリエントによって蝋燭が一つ一つ消されていった。
暗い部屋の中、エリエントの優しい声だけが聞こえる。
「おやすみなさいませ」
アランはそれに目を瞑って応えた。
「おやすみ」
翌日の昼。リリアンが用意してくれた馬車──普通の馬車で、どこの家の紋章も描かれていない──に乗って、一先ずアンベール侯爵領に向かうことになった。先方には早朝のうちに、エリエントが手紙を出している。
リリアンは見送りのために玄関を出ていて、エリエントに半ば手伝われるようにして馬車に乗り込むアランを見ていた。エリエントも乗り込み、馬車の扉が閉められる。御者席に座ったマルは中からの合図を待ち、本来持っているべき馬鞭は、使われるまでリリアンから見えない位置に置かれている。
アンベール兄弟の母ジョルジェットは、鞭を得意としていた。
「……君も、気をつけてね」
リリアンはマルと目を合わせることは無かったが、彼にそう言った。マルが弾かれたように彼女を見た時には、既に彼女は背を向け、屋敷の中に入ろうとしているところだった。
中のエリエントから合図があり、マルは馬鞭を持つ。鞭で叩かれ、馬たちが歩き出した。
眩しすぎる太陽がそれらを照らしていた。
あなたが望むなら、あなたの全てを肯定します。あなたが見せてくれた本当のあなたを。ここまで辿り着くのに、どれほどの時間を有したでしょう。「私」はようやく、本当のあなたに触れることが出来た。




