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フェリロジカ  作者: 小林月春
物語
14/24

14話 「あなたが私を信じてくれるなら」

 何か視線を感じる気がする。眩しさも感じる。アランはそれらから逃げるようにブランケットの頭の上まで引き上げた。小さな笑い声が聞こえたが、アランはそれを無視した。幻聴だろう。

 もう一度夢の中に戻ろうとしたが、一度浮上した意識はもう戻れないらしい。アランは薄らと目を開けた。ブランケットの中は暗いが、隙間からは白い光が漏れている。ブランケットを顎下まで下げると、眩しい朝の光が視界を覆った。

「う……」

 目を擦る。明るさに目が慣れて、アランはようやく室内の様子を見渡せた。

「おはようございます、アラン様」

「ん、おはよう──うわっ!?」

 ベッドの横には、微笑むエリエントが立っていた。マントと軍服の上着を着ず、シャツにズボンだけの楽な格好をしている。長い金髪はいつも通り一つに縛られ、彼の背中を流れていた。

 そんな必要も無いのに、エリエントはアランが上半身を起こすのを手伝った。

「俺は病人かよ……」

「アラン様、どこか調子が悪いのですか!?」

「違う、ただの比喩だ」

 そう答えてから、アランはうんと伸びる。エリエントはそれを微笑みながら見守っていた。

(こいつ、まさか俺が起きるまでずっと見てたわけじゃないよな)

 アランは東の方を向くと祈りの手を組み、朝の祈りを済ませる。その後手櫛で髪を梳かすと、枕もとに置いていた髪紐で髪を縛った。縛ると肩より下くらいの長さになり、昔の夢を見ていたからかやけに短く感じた。

「アラン様、朝食はもうすぐ運ばれて来ます」

「そうか。あれ、マルは?」

 部屋の中にマルの姿が見えなかった。

「マルは町に行っています」

「買い出し……の必要は無いよな?」

「私から兄への手紙ですよ」

 ある程度の大きさの町には必ず鳩小屋が併設された郵便屋がある。遠い場所への急ぎの手紙は、基本的に伝書鳩が使われている。

「姉と会ったことを、兄に報告をしておこうかと思いましたので。いつもならばこんなことはしませんが、何だか吹っ切れてしまって」

 エリエントが珍しく照れくさそうに笑う。アランが「それは良いことだな」と返すと、扉が叩かれた。

「お食事をお持ちしました」

「入れ」

 エリエントが返事をすると、扉が開かれてメイドがワゴンを押して朝食を運んで来る。テーブルに三人分の朝食を並べると、彼女は静かに部屋を出て行った。

 良い匂いがして、アランの腹が鳴る。アランはベッドから下りると、半ば早足になってテーブルに向かった。朝食の内容はパンと野菜を煮込んだスープだった。しかもパンは平民が決して食べられない白色で、アランは目を輝かせた。王城にいる時はあまり思い出したくないが、あそこの食事で出てきていたこれだけは別だった。

「白いパン!久しぶりだ……!」

 椅子を引いて座り、祈りの手を組もうとして、隣に座ったエリエントを見る。

「マルっていつ頃町に行った?」

「気にする必要はありません。アラン様、食事にしましょう」

「今まで三人揃ってだっただろ」

 アランが不満を隠さず言うと、エリエントは「アラン様が仰るのであれば」と返した。

「マルが町に行ったのは、アラン様が一度ブランケットを頭まで被るより前ですね」

 あの時聞こえた笑い声は幻聴ではなく、この男のもので確定だ。

「……お前、いつから起きてた?」

「日は出ていましたよ」

 アランはそっと椅子をエリエントから離した。

「そんな!アラン様!何故ですか!」

「本能がそうしろって」

「私が何かしましたか!?」

「これもソリエールの導きかもしれないな」

「えぇっ!?」

 焦って言い訳を始めるエリエントが面白い。だが、言い訳は後半になるにつれ「夜はちゃんと寝ていました」「手紙を書くために早く起きただけです」「アラン様の寝顔を見るのは法律的に問題は無く──!」へと変わり、アランの目も遠くを向く。エリエントのこういったところはリリアンに言えばどうにかなるのだろうか。そんなことを考えていると、扉が開かれる。

「ただいま戻りました〜!あれ、アランさん、起きてたんですかぁ?」

 マルが戻ってきた。彼は中に入って扉を閉めると、鼻を動かし飛び跳ねた。

「温かいご飯〜!」

 空いている席はエリエントの隣か、そこから椅子を一つ挟んだ席だけだ。エリエントの隣に朝食があったが、マルはそれを持って後者の席に座った。

「おかえり、マル。そのままエリエントの隣でも良かっただろうに」

「いやいやいや、僕、これでも仕える立場なので〜。選択肢があるなら、こうやって離れるなりして差別化を図らないと立場上ダメなんですよ〜」

「それじゃあ俺も平民だから……」

「いいえ!アラン様は大丈夫です!」

「アランさんは追放されても一応今も王の位にいますから〜」

 マルは自分の目の前に持っていた朝食を置き、改めて料理を見ると「おぉぉっ!」と喜ぶ声を上げた。

「白いパン!僕もいいんですかぁ!?いやぁ、お坊っちゃんに着いてきて良かったです〜」

 袖を捲り、マルは大きな口でパンに齧り付いた。細めている目を輝かせ、言葉にならない声を上げている。

(俺も初めて食べた時ああだったよなぁ)

 さすがにマルのように大袈裟にはできなかったが。思い出して、アランは口の中で笑う。そして横から注がれている視線にはたと気づく。

「アラン様、これで揃いましたので朝食開始といきましょう」

 エリエントが笑みを向けている。アランは頷き、二人は揃って祈りの手を組み、神に感謝をして食事を始めた。

『リシャール、白いパンだった!ふわふわしてた!本当に俺が食べられるなんて!』

 過去の幻聴が脳内に響く。部屋に戻って、一緒だったリシャールに興奮して話す自分の声は十年前のものだ。

『そりゃあ君は王だもの。食べるものはこの国の誰より良いものだよ』

『……それはなんか違う』

『ははは。君ならそう言うと思ったよ』

『白いパン以外もさ、見たこともない食材があって……。凄く美味しかったけど、あの食材って……』

『ウェントース皇国からのものだね。あっちから見れば、危険分子がようやく消えたんだから、そのお礼も兼ねているはずさ』

『……あっちはいいよなぁ。平地だし、暖かいし。……ちょっとくらいくれねぇかな』

『無理だろう、普通に考えて』

 思い出して苦しくなる。自分はリシャールの言葉を無視してなんということを。そしてその咎を彼に背負わせているとは。

 スープに浸けずとも柔らかいパンを食べ終え、スプーンでスープを掬って飲む。温かいものが喉を通り胃に落ちていくと身体が緩み、ほぅと息を吐く。温かいものを食べると、暗かった思考が薄れていく気がした。

 マルは器に直接口をつけてスープを飲み干すと、頬を緩ませながら「美味しかった〜!」と言う。彼の明るい声に、昨日聞いたことは夢だったのではないかと──そう思いたいだけなのは、既に自覚している。アランはマルに「美味しかったよな」と返し、スプーンを置いた。腹がはち切れそうだった。

 さすがと言うべきか、王国軍人のエリエントは既に食事を終えていた。

「食器は僕が片付けて来ますよ〜」

「いいの?ありがとう」

 全員の食事が終わったのを見ると、椅子から飛び降りたマルが、ひょいひょい皿を重ね合わせる。曲芸師のような動きに、思わず小さな拍手が出た。

「あ、扉開けるよ」

 両手が塞がっては開けられないだろうと、扉に向かおうとしたアランより先に、エリエントが椅子から立ち上がる。エリエントが開けると、マルはひゅんと風を一陣残して厨房の方へと向かって行った。いつの間に間取りを覚えたのだろう。

「アラン様、本日は如何なさいますか?」

 扉を閉め、エリエントがアランに尋ねた。アランは「あー」と声を出して考える。彼には特にすることは無かった。

「ディディエが来るまでやること無いから、来た時のことを考えながら寝ようかな」

「アラン様、それではお身体が鈍ってしまうのでは」

「それもそうだけど、うーん……」

 そこでふと、アランは窓の外を見た。狭すぎない芝生の庭が広がっている。次に壁に立てかけてある剣を見て、最後にエリエントを見た。

「エリエント、手合わせしない?」

「えっ!?」

 エリエントが珍しく素っ頓狂な声を上げる。

「嫌だったら別にいいけど──」

「いいえ!やらせてください!お願いします!」

 頭を下げる勢いで言われる。エリエントは必死な形相だった。

「んじゃ、俺準備するから。ちょっとゆっくりになるけど……終わったら庭で手合わせしよう。真剣勝負だかんな」

「はい、アラン様!」

 忙しなく動く犬の尻尾の幻覚が見えた気がした。


 手合わせといえど、戦うために剣を抜くのは久しぶりだった。剣身が光を受けて煌めく。この剣の本当の主は殺されて、奪ったアランはこうして生きている。何者に殺されたのか、何故に殺されたのかは不明だ。もし救いがあるならば、この剣が、本当の主を殺したものの命を狙ってくれれば良いなと物騒なことを思った。かつて復讐を成し遂げたから、そう思うのだろうか。

 アランは剣を両手で持ち、真正面に構える。剣の向こうには、同じく構えたエリエントがいる。二人は基本の構えをしていた。

(……ちょっと腹がまだ痛いけど、大丈夫だよな)

 離れたところにはマルが立ち、二人の準備が整ったのを見ると片手を挙げた。

「それでは〜……始めっ!」

 マルの声の余韻が消える前に、アランが先に踏み出す。エリエントの脇腹を狙って下から斜めに斬り上げようとすると、エリエントがそれを弾く。予想通りだ。一度後方に飛ぶと、エリエントが斬り込んで来る。それを受け止め、流しながら、アランは「さすがだな」と思った。

(さすが剣聖の弟!出来損ないなんて嘘だろ。俺より断然強い)

 勝つ見込みなんて無い。それに、アランはこの十年──いや、革命軍の時ですらまともに剣を振るえてこなかったのだ、負ける気しかしない。だが、アランの口角は上がっていた。目は陽を受けて輝き、青色も相俟って水面のようだった。

 力を込めてエリエントの剣を大きく弾く。僅かにできた隙にアランは華奢な体躯を活かして入り込み、脇腹を狙い、そこで素早くエリエントの剣に弾き返される。

(やっぱダメか。無理だなこりゃ)

 エリエントの剣がアランに迫る。弾き過ぎて手が若干痺れている。あと一度弾き返すので精一杯か。アランが避けようとすると、不自然なほど間抜けに、ずるりと滑る。朝露が残っていてそれで滑ったのかと誰もが思うだろう。

「うわっ!?」

(胃から出る……ッ!)

 横に倒れそうになるアランに、焦ったエリエントが自身の剣を放って手を伸ばす。地面に倒れるその刹那、アランの手からすっぽりと離れて宙に飛んだ剣は、回るのを止めると垂直に落ちていく。軌道の先には、エリエントの姿があった。

「あっ、馬鹿!来んな!」

 アランが走り寄って来たエリエントの腹を容赦なく蹴り飛ばすと、アランの剣が彼の鼻先を掠めて地面に落ちる。そしてエリエントも、腹を押さえてアランの前の地面に落ちた。

「う、ぐ……アラン様……な、何故蹴る必要が……」

 アランは上半身を起こし、ついた土を払いながら、厳しい声で返した。

「剣が危なかったからだよ!!すぐ気づけただろ!!」

 立ち上がって、二人の間に転がる剣を拾い、鞘に戻す。エリエントは腹を押さえながら真面目な声で言う。

「アラン様が地面に頭を打ち付ける方が心配でしたので」

 アランは仁王立ちになってエリエントを見下ろした。

「馬鹿!真剣勝負って言ったら、こういうことも想定しとけ!剣に刺さるより頭ぶつける方がマシだっての!」

「……しかし──」

「言い訳は聞かねぇから!本当に剣掠めてないか?痛いところは!?」

「腹です……」

 ずっと腹に両手を当てている。本当に痛そうだ。アランは「う……」と声を漏らして、目を逸らした。

「それは……ごめん……」

「いえ……アラン様の御心を感じることができて、大変幸せでございます……」

「それ言えんなら元気だな」

 アランはエリエントの横にしゃがみこんで、震える金髪の後頭部を見ながら「大丈夫か?」と聞いた。エリエントは頷いていた。

「お二人とも〜、大丈夫ですか〜?」

 マルがゆっくりと歩いて来た。一応仕えている人間が倒れているのだから、もう少し急げばいいのに。だがそれがこの主従らしい。

 アランはしゃがんだまま彼を見上げる。

「エリエントが腹痛めたまま」

「そこまで強い蹴りには見えませんでしたけど〜。ああ、アランさんが蹴ったという付加価値のせいですかね」

「何だそれ」

 首を傾げると、マルはただ笑いを返しただけだった。

「エリエント、立てそうか?」

「はい」

 エリエントが顔を上げ、アランは彼の前に手を差し出す。するとエリエントはぐわりと目を見開いて、アランの目を見た。

「何だよ」

「あの、この手は……」

「立つの手伝おうかなって……。でも余計なお世話か」

 手を引っ込めようとすると、エリエントの手ががしりとアランの手を掴んだ。若干引っ張られ、アランは少し前傾する。

「ありがとうございます、アラン様。昨夜から良い事ばかりで胸がはち切れそうです」

「う、うん……?」

 エリエントはアランの手を握ったまま立ち上がり、逆にアランの方が彼に引っ張られて立ち上がる形となる。この分だとアランの手は本当は必要無かったのではないだろうか。

 立ち上がって見ると、エリエントの腹にはくっきりとアランの足跡が残っている。アランは申し訳なくなって、エリエントの腹を右手で優しく叩き、足跡を薄め始めた。

「ごめんな、服に跡が……」

「い、いえ。構いません」

「結構しぶといな、こいつ。ごめん、すぐ落とすから」

「アラン様が気にする必要はございません」

 マルがニヤリとエリエントを見る。エリエントは彼を無視し、アランの手を見守った。

「……ん、良し。これで落ちただろ」

「はい。ありがとうございます。しかし、アラン様の手も汚れてしまったのではありませんか」

「いいよ、こんなの。拭けばいい」

 アランが汚れた右手を自身の服に擦りつけようとすると、エリエントがその手を掬い上げた。懐から取り出した綺麗なハンカチで、アランの手を拭き始める。

「いいのに。それ、汚れるぞ」

「アラン様のためでしたら、これも本望ですよ。それに、こういったものは汚れるためにあるのです」

 宝石を磨くように大事にアランの手の平を拭く。アランにこんな風にしてくれたのは、母親かリシャールくらいだった。ミレーヌはもう少し大雑把だった思い出がある。

「終わりました」

「ありがとう」

 エリエントは汚れた面を内側にして畳み、ハンカチを懐に戻した。

「水が自由に使えたら楽なんですけどね〜」

 マルが袖を揺らしながら言った。

「川も井戸もここから遠いからなぁ」

「そういえば知ってます?かつてこの大陸には凄く発展した文明があって、そこでは水が無限に湧き出る道具があったらしいですよ〜!」

「そんな魔法みたいなもんがあったら苦労しないな」

 適当に流しながら、落ちている剣を拾う。

「おっ、信じてないですね!?面白いのに!あのですね、東の方には古代文明の遺跡が残っているらしくて──」

「それ、長い?」

「アランさんの英雄語りより短いですけどっ!?」

 アランは剣を鞘に納めると、同じく剣を鞘に戻したばかりのエリエントに声をかける。

「エリエント、また今度手合わせしよう」

「はい!また近いうちに」

「あ〜っ!僕の話を無視して〜っ!!」

 マルが頬を膨らませて、不満げに両袖を振り回す。アランは小さく笑って、屋敷内に戻りながら、マルの古代文明語りに付き合うのだった。

 そして屋敷内に戻ると、アランとマルは部屋に戻り、エリエントは姉の部屋へと向かった。彼女は昨日の宣言通り、マルがいる限り部屋に篭もり続けている。

「姉上、エリエントです」

 扉を叩くと、中で鍵を開ける音が聞こえ、その後扉が開かれる。昨夜ぶりに見た姉の顔は、何年経とうとも幼いままだ。それはアランも持つ特徴の一つだ。彼女の澄み渡った湖のような青色の目に見られると、落ち着かなくなる。アランの目を思い出し──今は亡き母を思い出すからだ。

「アランくんがいるのに、こっちに来るなんて予想もしてなかったよ」

「お話ししたいことがありますから」

「……分かった。どうぞ、入って」

 入室を許可され、エリエントは部屋へと入る。一人部屋で、テーブルの上には大量の羊皮紙が置かれていた。

「……この羊皮紙は」

 何故か目が離せなくなり、リリアンに尋ねる。

「ベルトラン領内の報告書。見ないでね。君はアンベール領民なんだから」

「なるほど、報告書でしたか」

 意味も無くホッとして、エリエントはリリアンに向き直る。

「それで、話したいことって?」

「反乱軍の軍主についてです」

「いいよ。聞いてあげる」

 許可をもらい、エリエントは一間置いて話し始めた。

「今回の反乱軍の軍主は、かつて黎明の傭兵団の団長をしていたディディエです。姉上は彼をご存知ですか」

「ディディエ……?聞いたことはあるけれど、もう既に隠居していたはずだよね」

 首を捻りそう答えるリリアンに、エリエントは「そうです」と返す。

「反乱軍の存在がアラン様の王政に影を落とすと思い、私は密偵として反乱軍に参加しました。実際はアラン様の王政を守るべく、反乱軍に潜入してその情報を王国軍に流す二重密偵ではありますが」

「知らないうちにそんな大それたことを、あのエリエントがやっていたとは驚きだね」

「アラン様のためですから」

 リリアンはため息を吐いてから、「それで?」と続きを促した。

「私は、ディディエの顔を知らないのです」

「軍主殿になかなか会わせてもらえなかった……というわけではないよね、その口ぶりじゃ」

 エリエントは頷いた。

「噂に聞くディディエは、年老いてもなお大柄で、槍の名手としての力は衰えていなかったとか。高慢な貴族すらも頭を下げる武人とも聞いております」

「そうらしいね。本題を言いなよ。自分主導じゃない有耶無耶な話って、嫌いなんだよね」

 青色の目が細く歪む。姉が聞けば泣いてしまうだろうから言わないが、そういうところが母にそっくりだった。

「私がお会いした軍主ディディエは、細身で、とても武人には見えなかったのです」

「隠居し、年老いてそうなったわけではなく?」

「そうは見えませんでした。ディディエが隠居したのは彼が五十を超えた時だったと記憶しています。革命より随分前でしたから、少なくとも十二年以上経っています。彼は平民の出ですから、既に亡くなっていてもおかしくはない。軍主はみたところ五十程です」

 リリアンは額に手を当て、眉根を寄せる。彼女は考える様子を見せながら、エリエントに話を続けるように言った。

「それに、彼は槍こそ持っていましたが、いつも壁に立てかけていて、使っているところを見たことがありません。戦いが無いからと言われればそれまでなのでしょうが、それにしては槍を放って置きすぎなのではないかと思うことが多々ありました」

「……つまり、君はこう言いたいわけでしょ?反乱軍の軍主ディディエは、ディディエの名を騙る別人だって」

「はい」

 エリエントはそこで一度口を閉じる。リリアンは額から手を離す。姉弟にしては似ていない二人だったが、この時はとてもよく似た表情をしていた。

「そして私の観察が間違っていなければ、彼は──」




 日は三日程過ぎた。アランは朝食を終え、ぼんやりとしながらベッドの縁に座って、朝の身支度を行っていた。服を着替え、髪を縛る。首筋に張り付いていた髪を払い、最後に靴紐を結んだ。指先が震えているのに気づき、アランは内心で苦笑する。

 昨日のことだ。部屋に篭もりきりのリリアンからエリエントへ、そして彼からアランへと伝言がされた──ディディエがベルトラン領に入ったらしい。関所から連絡があったそうだ。どれだけ遅くとも、今日中には迎賓館に着いてしまう。昼間か、夕方か、それとも今すぐになのか。憧れている一人でもあり、自分は親友と思っているリシャールの命を狙う者でもあり。緊張で指も震えるというものだ。

「アラン様、ご気分が優れませんか」

 そばに膝をつき、エリエントはアランの顔を見上げる。アランが「ううん」と返すと、彼は「失礼します」と断りを入れてアランの右手を彼の左手で掬い上げ、右手で指先に触れた。

「指先が冷えています。何か温かい飲み物でも持って来させましょうか」

「いいよ。別に大したことじゃない。ちょっと緊張してるだけだから」

 エリエントの温かい手に触れられると、自分の指先の冷たさを自覚する。エリエントの手のひらはアランのそれよりも大きく、剣を握るため非常に硬い。節くれ立ち、大人の男でもかなり立派な部類に入る。対してアランはどうだろうか。もうまともに武器も持たずに十年近くが経ち、容姿通りの手をしている。自分への情け無さと、エリエントへの羨ましさが募る。

(そういえば、前にもこんなことがあったような気がする……)

 あれは王になってすぐの頃だったか。ついさっきまでは「やってやるぞ」と意気込んでいたのに、夜になると急に不安になって、リシャールの部屋に転がり込んだことがある。その時にリシャールがアランを落ち着かせるために、手を握ってくれた気がする。大事な時、彼はいつもアランの手を握り、体温を分けてくれていた。

「アラン様?」

 名前を呼ばれ、はっとする。エリエントの手を眺める時間が長くなっていた。アランは手を引っ込めて、「ぼーっとしてた」と答えた。

「やはり緊張は解れませんか」

「無理だよ。だって、あのディディエだぞ」

 存在を知った九歳の頃から憧れていた。彼が持つアランへの幻想と、本来のアランを見た時にどう打ち砕かれ、その破片が彼を刺すのか。そしてその時、彼はアランをどう見るのか。少しでも想像しただけで心臓は鼓動を早め、呼吸も浅くなってしまう。

「エリエントは緊張とかしねぇの?」

「教会の地下で何度かお見かけしましたので」

「ああ、二十密偵。……バレないの?」

「今のところは」

 彼は非常に肝が据わっている。そういったところも羨ましい。アランはそこまで強い心を持てない。どうやったらそんなに強くなれるのだろう。

「緊張を解すために、手合わせしますか?」

「楽しそうだけど、いいや。余計ディディエのことを意識して緊張しそう」

「それはよくありませんね」

 この三日、アランは暇だったのでエリエントと手合わせしたり、マルと彼の手合わせを見学することが多かった。剣となるとマルやアランよりもエリエントの方が圧倒的に強かったが、彼はアランが相手だと隙が多くなる。剣は基本的に足もとや脇腹など、致命傷にならないところばかり狙って来るし、アランが懐に入り込むと一瞬固まってしまう。そのため、隙を狙えばアランでも勝つことがあった。マルとも手合わせしたかったが、エリエントに危険だからと止められた。実際、マルは短剣を投げつけたり、曲芸師みたいな身体の柔らかさを生かして回避や攻撃をしたりと、読めない動きの多い戦い方で、一歩間違えれば手合わせといえども傷を作りそうだった。

 アランは浅くなりかける呼吸を、深呼吸で整える。マルはディディエが町に入ったらすぐに報告できるよう、今は町の方に行っていた。これはアランを想ったエリエントの指示だ。つまりこの部屋にはエリエントとアランの二人きりだったが、旅の間ずっと一緒にいたおかげで妙な気まずさは無かった。ただ、彼からの視線は未だに慣れない。今も傍らに跪きながら、アランを見上げることを止めない。そんなに見ても何も変わらないから面白くないだろうに。

「エリエント、跪くのは止めろ。膝、痛めるぞ」

「アラン様のお傍に居たいので」

「なら隣に座ればいいじゃん」

 隣をぽんぽんと叩くと、エリエントの犬の尻尾──もちろん、これはアランが彼の様子から、それがあるように見えただけだ──がぶんぶんと振られる。

「ありがとうございます」

 アランの隣にエリエントが座る。少し軋んだ音がして、彼が細身に見えて案外筋肉のついた重い身体をしていることが分かる。筋肉の有無は大きい。アランも眷族などではなく普通の人間だったら、今頃は彼のような成長をして、剣の一撃も重くなっていただろうか。

 そんなことを考えていると、今度はつむじ辺りに視線を感じる。見上げると、緑の目と目が合う。

「さっきから見すぎ。息が詰まるだろ」

「申し訳ございません。そこにアラン様がいらっしゃるので、つい」

「……お前、やっぱり変だよ。俺なんか見ても面白くないよ」

「いいえ。アラン様がそこにいて生きていらっしゃることを確認するのは、至福ですから」

「……。あっそ」

 この男は変だが、一貫性のある変だ。

 アランはふいと顔を逸らし、呼吸に意識を向ける。そうでないと、すぐにまた浅い呼吸に戻ってしまう気がした。

 エリエントは今も未だアランへの幻想を捨てきれていない。もはや病気の域だ。一緒に行動して何日も経つのに、どうして幻想を捨てきれないのだろう。だんだん距離も詰めて来ている気がするし、そろそろ幻想が砕かれてもいい頃だと思うのだが。

(もしかして、俺が思っている以上に、こいつってヤバいのかな……)

 そう思うと背筋がぞくりとした。

「アラン様、寒いのですか。それとも緊張がさらに高まってしまわれましたか」

「あ、大丈夫。これはそういうのじゃないから」

 距離を置こうとすると、エリエントが見るからにしょんぼりとする。やはり犬の尻尾の幻覚が見え、アランは動けなくなった。彼に動物を虐める趣味は無い。

 その時、扉が開いた。入ってきたのはマルで、アランの心臓がどくりと跳ねる。

「来ました来ました、ディディエさん!ついさっき城門くぐりました〜!」

 来た。ついに来てしまった。城門からこの迎賓館まではすぐだ。

「エリエント。リリアンに報告行くべきだよな?」

「はい。ですが、今のアラン様のそばを離れるのは……」

「かといって、僕がお嬢様のところに行くのは危ないので〜」

「ってわけだから、エリエントが行って来いよ」

 エリエントがアランを見る。アランが「大丈夫だから」と答えると、渋々と立ち上がった。彼の身体の横に垂れた手が揺れる。

「それでは、姉上のところに行って参ります」

「うん」

 ついにディディエが来る。落ち着かなくなったアランの意思が、アランの手を動かし、目の前を通って扉の方へ向かおうとするエリエントの袖を握った。

「え」

「アラン様?」

「あ、いや、これは違うから……!」

 慌てて手を離し、その手をもう片方の手で包み込み、胸に押さえつける。落ち着くために、縋る相手を欲しがってしまったのか。いつからこんなに弱くなったのだ。いや、強かった時など無い。アランはいつも弱く、それを誰かが支えてくれていた。

 俯き、二十六にもなって幼い自分を恥じる。見た目は十六でも、中身までは同じになってはならないのに。

「……マル」

「はい!」

 エリエントがマルを呼ぶ。

「姉上に知らせるように、メイドに言って来い。私の名前を使え」

「はい、承知しました〜!」

 彼の指示を受け、マルが部屋を飛び出す。それを目を丸くして見ていると、エリエントが再びアランに身を寄せ、アランの手を両手で包み込んだ。

「アラン様。私を頼ってくださるとは思いもしませんでした。ありがとうございます」

「そ、んなこと言われるようなことじゃ、ないだろ……」

「いいえ。……いいえ。アラン様にこうして頼られる日が来るとは、夢にも思いませんでしたから」

 エリエントはとても柔らかな表情をしていて、まさに春を待ちわびていた花のようだった。

「アラン様。どうか私を信じてください。アラン様の望みのために、このエリエント、全力を尽くしてディディエに立ち向かいましょう」

「ディディエと戦うつもりかよ!?」

「アラン様のためならば、どんな英雄とも戦う所存です。国と戦ってもいい」

「王国軍人が何を言うんだか。……まあ、でも、その……」──視線を握られている手へと落とす。「……ありがとう」

 エリエントの手の力が強くなった。彼は口角の震わせ、輝く目でアランを見ている。

「アラン様……!」

「痛い痛い痛い!俺の手を砕く気か!?」

「も、申し訳ございません!」

 謝りながら手の力を弱めるが、彼の手はアランの手から離れようとはしなかった。彼の温もりが手を伝ってアランへと流れ込み、緊張を解し始める。アランはぼそりと、また「ありがとう」と呟いた。

「言ってきました〜!」

 マルが戻って来て、彼は扉から入ってすぐのところで立ち止まる。そしてアランとエリエントを指さすと、「うわー!」と叫んだ。

「まさかその体勢で会う気ですか!?」

「んなわけないだろ!エリエント、もう大丈夫だから離していいぞ」

「いえ、まだ指先が冷たい気が……」

「きっと冷え性になってんだよ!」

 アランが無理矢理手をすっぽ抜くと、エリエントは名残惜しげにアランの手を見たあと、体勢を直した。

 アランは落ち着きもなく立ち上がって、胸の前で手を握り合わせたり、指を擦り合わせたりして気を紛らわせようとした。

 逃げる気は無かった。ディディエに会って、リシャールと自分への誤解を解き、リシャールの命を狙うのを止めさせなくてはならない。アランの悪評を今も尚被り続けている彼に出来る、せめてもの償いだった。

(そうだ。リシャールのためだと思えば、このくらいの緊張も不安もどうってことない)

 廊下を誰かが駆け抜ける音がした。メイドだろう。ついにディディエが来て、それをリリアンに報告に行っているのかもしれない。少し経つと、奥の方から足音がして、玄関に向かって真っ直ぐ消えて行った。

「ついにですね〜」

 マルがいつものニコニコとした顔で言う。

「そうだな」

 アランは硬い表情で頷いた。

(もし俺に幻滅して槍を向けられるようなことがあっても、立ち続けないと……)

 立ち続けられる自信はあった。エリエントはまだ指が冷たいままだと言ったが、実際は随分と暖まっていた。彼は本当に変ではあったが、信頼に足る人物だ。彼がいるから、リシャールに追放され、色んなことを知ってボロボロになっても、正体が眷族だとしもまた人間らしさを取り戻せた。

 アランは真っ直ぐ扉を見つめた。少しして、メイドが現れ、応接室に向かうよう伝えられた。


 応接室の扉の前に、エリエントが立つ。リリアンが中にいるため、マルは扉の横に立ち、話が終わるまでそこで待機となる。エリエントがアランの顔を見て、「開けます」と小声で言う。アランが頷くと、彼の手により扉は開かれた。

 テーブルを挟んでリリアンの向かいのソファーに、細身の老人が座っている。およそ五十半ばに見える男だ。ディディエは十年前時点で五十を過ぎていたはずだが、若見えするのか、それともアラン自身の成長が遅い故に正確な判断が出来ないのか。彼の後ろには二人の反乱軍兵士の青年が控え、それぞれ剣を携えている。一人はディディエのものらしき槍を抱えていた。

 かつての黎明の傭兵団の団長にして、今代の英雄と謳われたディディエ。憧れの人が目の前にいる畏れと、親友を想うが故の緊張がアランの心臓を締め付ける。リリアンは静かにディディエと対峙しており、十年前、親書を持ってきた際にリシャールと対立していた時のことをアランに思い出させた。

 アランとエリエントが入ると、ディディエはゆっくりとアランを見た。年老いて落窪んだ目の光は鋭く、視線だけで人を殺してしまいそうなほどだった。

 エリエントが扉を静かに閉める音がやけに大きく聞こえる。リリアンは二人が入ったことをちらりと確認すると、二人をソファーに促さず、自分の後ろに控えるように手のひらで示した。何か意図があるのだろうと、アランは躊躇無くリリアンの後ろに立った。それにエリエントも続く。これにより、扉に一番近い位置にいるのはエリエントとなった。

 ディディエの目はアランを見ている。その眼光でアランをその場に縫い留めるように、ただじっと。

「先程話した通り」──リリアンが口を開き、彼女に全く目を向けないディディエに向かって話す。「あなたに話をしたいという者たちを呼びました。まずは彼らの話をお聞きください」

 いつになく丁寧な口調だった。

 アランは震えそうになる喉に力を込める。情けない声など出していられない。ここで彼を止めるのだ。

「まずは、お会い出来たことを嬉しく思います。俺の名前はアラン・ペリエ」

 ディディエの後ろに控える兵士が目を見開いてアランを見る。反対にディディエは動じなかった。

「お分かりかと思うが、一応この国の王ということになる。貴殿ら反乱軍は、王──つまり俺を、宰相リシャールから解放し、彼を討つのが目的だと聞き及んでいる。貴殿らに確認したい。それは真実か」

 ディディエは重く頷いた。

「……俺は既に宰相リシャールの手により王の座から解放され、俺自身もそれを望んでいる。王としてではなく、貴殿らが解放したがっていたアラン・ペリエ自身として願う。反乱軍としての活動の一切を止めてほしい」

「なっ」

 兵士の一人が声を上げかけるが、ディディエが骨張った手を軽く挙げると大人しく口を閉じた。

「宰相リシャールの悪評は本来、俺が負うべきものだ。彼は俺の悪評を全て被った。本来討つべきなのは俺だ」

 エリエントの視線を感じたが、アランは口を止めなかった。

「国のためを想うなら宰相リシャールを立てろ。血に飢えているのならば俺を討て。俺は逃げもしないし隠れもしない」

 エリエントの手がぴくりと動く。

「──だが、俺のことを守ろうとするやつは隣にいる。彼の剣の腕は相当なものだ。部屋の外にも待機している者がいる。俺を討つには時間が掛かるぞ」

 アランの目は、決してディディエのそれから逸らされなかった。

「今ここで決断しろ。反乱を止めるか否か」

 兵士たちがディディエを見る。彼らはアランの話だけで頭が混乱しているようだった。

 ディディエはただ静かに座し、アランを見つめている。長い沈黙の末、ディディエの口角が歪み、唇がぶるぶると震えた。彼は俯き、さらに間を置く。

「……なるほど」

 嗄れた声が沈黙を裂く。

「十年の時を経ても尚、変わりはしないか」

 ディディエは俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。アランは彼の言葉の意味が分からず眉を顰める。

「奴に依存するよう仕向けられたまま、ここまで来てしまったか。奴は実に許し難い」

「何を言っている?」

「あなた本来の輝きは今も尚曇り続けている。全てはリシャールのせいだ。許し難いことこの上ない」

 エリエントは静かに剣の柄に手を掛けた。

「俺に幻想を抱いているところ悪いが、俺は王としては最悪で、国を変えるために革命軍にいたというのに、むしろ国政を悪くした極悪人だ。貴殿らが抱いていた幻想は、むしろ貴殿らが討とうとしている宰相リシャールによるもの。幻想を抱く相手が間違っている」

「あなたを勝手に王に据えたものを信じているのか。あなたは決して王に相応しくなかったというのに」

 エリエントの剣が鞘とぶつかってカタカタと音を立てる。彼は我慢の限界のようだった。

「よく分かっているじゃないか。そうだ、俺は王に相応しくない。……誤解していたみたいだな。俺を玉座から解放しようとしてくれていたのか」

「ああ、そうだ。そして、ウェントース皇国皇家の血を今度こそこの国から消し去る。リシャールがあの血筋だとは、あなたもご存知のはずだ」

「知ってるよ。でもあいつの血は凄く薄い。だが不思議だな。貴殿の話を聞いていても、リシャールを討つ理由が血筋というのは取って付け加えたかのような印象を受ける。それらしく言っておきながら、本来の理由は違うだろ。リシャールへの私怨があるように見えるが?」

「ほう、あなたこそよく分かっているようだ」

 兵士たちは困惑した表情でディディエを見ていた。彼らはディディエが先程から言うことを、全く聞いたことが無かったのだろう。彼らの正義心はディディエが作ったそれらしい理由に騙されていたに違いない。

「反乱軍の活動を止める気は」

「有るように見えるのか」

「……だよな。宰相リシャールを失えば、この国はさらに傾くだろう。何故、反乱を起こそうなどと」

「奴を討ち、あなたを解放するためだ」

 ディディエが顔を上げる。その顔は笑っていた。

「そろそろ一つ誤解を解こう」

 彼は後ろ手に手を組んだ。

「私に見覚えが無いですか、アラン様」

 急に丁寧な口調に変わったが、彼にはその方が合っている気がした。しかし、彼の顔には覚えが無かった。アランは眉を顰めまま、首を横に振った。

「申し訳ないが、覚えが無い。あのディディエに会ったことがあれば、強く記憶に刻まれているはずだが──」

 ディディエの喉奥から、小さな笑い声が聞こえ、アランは口を閉じた。その笑い声は次第に低く大きくなっていく。最後には部屋全体を震わすほどで、笑い声というよりも嘆きのようだった。

「そうか、忘れましたか!あれ程お傍にいたというのに!」

 気迫に押され、アランの片足が一歩後ろに下がった。彼の言葉を受け、アランは必死に思い出そうとするが、彼の顔も声も、彼の記憶のどこにも無かった。

 ディディエは手を広げ、その存在を誇示する。

「あなたのことはッ!私が最初に導いたというのにッ!」

(知らない!誰だこいつは!)

 だいたいアランのことを導くだの口にしていたのはリシャールだ。彼のような男は居なかった──居なかった?

 アランの脳裏に何かが掠める。その正体を掴もうとするが、ディディエの声がそれを掻き消す。

「何故だ、やはり奴が!奴があなたの傍に居たからか!それともやはり……私の存在はその程度のものだったと!?」

 再び彼は笑い声を上げる。

「ははははッ!!それはそうか。私の仕事はほとんど奴の策の承認でッ!宰相の座もッ!奴に奪われたッ!」

 彼は兵士から槍をひったくると、そのままテーブルを越えてアランへと向かおうとした。それをソファーの後ろから飛び出したエリエントの剣が止める。テーブルの上に立った男の腹には、剣先が当てられている。

「アラン様に危害を加えるつもりか。ディディエ殿──いや」

 エリエントが鋭く彼を睨む。

「元革命軍軍師ディラン・ディディエ殿と、そう及びすればよろしいか」

 アランは息を飲んだ。ディラン──彼があのディランだというのか。

 記憶に残る姿は、確かに細身ではあった。だがそれよりも明らかに細く、まるで骨のようだ。最期に会ったのは十年前となる。彼は何も言わず宰相の座をリシャールに明け渡し消えた。最後の会話も覚えてはいない。その彼が、明らかにアランへの執着を持ってそこに居た。

「元宰相閣下殿とお呼びした方がよろしいのではない?」

 リリアンがソファーから立ち上がる。姉弟はディランの前に並び、アランにその背中を見せていた。

「どちらでも構いませんよ。どちらにせよ、アラン様自身で思い出さなかったのですから!」

 エリエントが口を開く。

「アラン様に責任転嫁するおつもりか?それだけでも大罪だというのに、黎明の傭兵団の元団長ディディエの名を騙るとは」

「ディディエは私の姓だ。騙ったつもりは無い」

「槍も使えないのに槍を持って?」

 リリアンがディランを蔑視する。ディランの口角がひくつく。

「黎明の傭兵団元団長ディディエは、隠居したまま。その生死は不明。その姿を知る者は数少ない。黎明の傭兵団員は王都に本拠地を置き、反乱軍には決して属さないでしょうから、近づいても来なかったでしょう。……いいえ、もしかしたら見逃されていたのかも」

 ディランの槍が動き、それをエリエントが剣で受け止めた。

「それは君が」──リリアンの口調が崩れた。「元団長ディディエの弟だから」

 兵士たちは剣を抜き、ディランの指示を待つ。その様子から、彼の正体自体は知っていたようだった。

「今回の反乱軍は一枚岩ではないようだね」

「そのようですね、姉上。二重密偵にも気付かないくらいですから」

「何ッ」

 ディディエが動揺を見せる。その隙にエリエントが彼の手に剣を向け、隙が出来たところで槍を横に蹴り飛ばし、その槍を小さな手が掴む。自分の背丈よりも長い槍を軽々と持ち、リリアンは余裕の笑みを浮かべた。

「こう見えてあたし、槍はそこそこ得意なの。我がベルトランの子とその友人と、あとついでに弟を守るくらいはできるんだよ」

「ついでですか」

「文句があるの?」

 軽口を叩き合う二人とディランの様子は全く違う。ディランの目が再びアランに向き、その暗さにぞっとする。

 兵士の一人がディランに指示を乞う。

「ディラン様!どうなさいますか!」

「決まっているだろう」

 ディランはアランを見たまま口を開いた。

「やれ!!」

「はっ!」

「はっ!」

 ディランが後方に飛び退き、兵士二人が前に飛び出して来る。彼らの剣を姉弟はそれぞれの武器で受け止めた。ディランは走り、扉から出ようとする。

「待て!!」

 アランが剣を抜き追いかけようとすると、扉を開いたところでディランは動きを止めた。彼のつま先を掠めたところに、短剣が突き刺さっている。

「とりあえず〜、止めればいいんですよね?」

「マル!」

 マルは袖を捲り、両手に短剣を二本ずつ持っている。彼が光って見え、アランは思わず彼の名前を呼んだ。

(マルがいれば──!)

 ディディエが憎々し気に口を開く。

「短剣投げか。面倒臭い」

「こっちも投げれば投げるほど武器の回収が面倒臭いんです。動かないでくれますよね〜?」

 貼り付けていた笑顔を消し、赤い目でディランを見上げる。ディランは悔しげな顔をしていたが、すぐに笑みを浮かべる。

「私が何の策も立てずに来たと思ったか」

 彼がそう言った途端、玄関からメイドが一人走って来る。

「リリアン様!リリアン様!」

 彼女は扉前の三人を見ると顔を青くし、こちらに近づくのを止め、中にいるリリアンに大声で知らせを届ける。

「暴徒です!暴徒が門の外に!」

 中ではリリアンが兵士の一人の首を斬り付けたところだった。血飛沫で汚れたドレスの裾を揺らし、彼女は扉の方を見る。

「何故そんなものがソムニウムに!?」

「暴徒?失礼な。反乱軍ですよ」

 ディランは後ろ手に手を組み、悠然と立つ。アランはその背中に剣を向けるが、彼は顔色を変えず、アランを見た。

 エリエントが兵士を倒し、アランの前に来る。彼はアランを背の後ろに庇うと、剣を払って血を床に弾き飛ばした。

「この町に来るまでに集めておきました。ただ、なかなか関所を通してくれなかったものですから、あそこの兵士には悪いことをしてしまいました」

 リリアンの髪が殺意でぶわりと広がる。

「我がベルトラン家への反逆と見なすよ」

「まさか!そんなつもりは無かったですよ。ただ……」

 玄関の方から大きな音が近づいてくる。メイドが悲鳴を上げて奥へと駆けて行く。

「アラン様がより特別な存在になるには、あなた方は不必要ではないですか?」

 その言葉を誰も理解出来なかった。ただベルトラン家を排除しようとしていることだけは伝わり、リリアンの槍が、エリエントの剣が、マルの短剣が彼へと向かう。ディランはそれらを間一髪のところで避け続け、辿り着いた暴徒たちの向こうに消えてしまう。エリエントはアランのそばに戻り、アランを背に庇いながらじりじりと後退した。マルも部屋の中に入り、暴徒たちから距離を取る。リリアンだけは退かず、暴徒たちと正面から睨み合った。

「君たちは何をしようとしているのか……本当に分かっているの!?」

「おいおい、本当にチビだぜ」

 暴徒の先頭に立つ男が、嘲りを込めてそう言った。リリアンの手がぴくりと震え、彼女の顔から一切の表情が消える。

「こんなナリでも俺たちより歳上なんだと」

「こんなナリで?ディラン様が言ってたのは本当だったか」

「気味悪いったら無いな」

「こんな化け物のせいで、俺らの王様まで化け物扱いされちまう」

「そんなの許せねぇよなァ!?」

 暴徒たちの嘲笑が、雷鳴のように響く。彼らの中で、ベルトラン家とアランは無関係となっているらしい。アランが前に出ようとすると、エリエントが「いけません!」と止めた。

「彼らは危険です。数も多い。いくらあなた様でも何をされるか……!」

「でも、俺が正体を明かして前に出れば──!」

「それは彼らが信じればの話です!彼らは今、暴力に狂っている。正常な判断は出来ないでしょう!」

 暴徒たちが武器を構え、一番前に出ているリリアンにその矛先を向ける。圧倒的な数を前に、勝ち目は無い。出入口である扉の前を占領されている以上、逃げることも難しい。

 アランは剣を強く握り、いつでも飛び出せるようにした。エリエントが止めても、彼は飛び出すだろう。アランはもう誰も失いたくはなかった。

「化け物狩りだァ!!」

 男が先陣を切った──その時。

 暴徒たちの後方の乱暴な声が、悲鳴と絶叫に変わった。前方にいた暴徒たちは動揺し、動きかけた足が止まる。リリアンも何事かと息を詰めた。

「アラン様、私の後ろから決して出ないでください」

「でもエリエント!」

「あなた様を失いたくないのですッ!!」

 エリエントが顔だけをアランに向ける。その表情に胸が締め付けられ、アランは言葉を続けられなくなった。

 絶叫は前方へと移動する。剣戟は僅かしか聞こえず、絶叫よりも人を斬る音の方が多くなっていく。暴徒が逃げ出すよりも早く、剣が、弓が、彼らを床に落としていく。廊下には、暴徒の代わりにどこかの私兵がいた。

 私兵たちが道を開ける。廊下を静寂に変え、血に染った床を歩き、応接室へとやって来たのは、一人の男だった。四十近くに見えるが、金髪はくすみもせず、緑色の目は場に似合わず穏やかに緩められている。アランは彼の顔を見て呆然とした。彼の顔は、エリエントとリリアンを混ぜ合わせたような造りをしていた。

 そして、男はふわりと口を開いた。

「久しぶりだね、妹弟たち」

 それならば「私」は正しいのですよね?「私」は間違ってなどいませんよね?正しいあなたが、「私」を信じてくれるなら。


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