没落令嬢、魔法学園で氷の王子に拾われる
名門レーヴァンス伯爵家の名は、いまや城下の小さな市場で安売りされる古道具の値札より軽い。そう思い知らされたのは、私――エリサ・レーヴァンスが、質屋で母の形見のブローチを差し出した朝だった。銀細工の蔦に小さな青石がはめ込まれたそれは、幼い頃から「淑女の心は、凛として柔らかく」と教えてくれた母の匂いがした。店主は石の価値だけを測り、家名には眉ひとつ動かさなかった。
父は失脚した。王都の交易路整備を巡る入札で、敵対侯爵派の濡れ衣を着せられ、爵位は停止、財産の大半は凍結。父は遠方の親族に身を寄せ、病弱な弟は療養のために地方へ移された。屋敷を去るとき、私は母の部屋の鍵だけをポケットに忍ばせた。もう戻ることのない扉の鍵。
それでも、魔法学園だけは諦めなかった。かつての家庭教師が書いてくれた推薦状と、筆記試験で満点に近い点を取ったおかげで、私はかろうじて奨学生として滑り込んだ。合格通知には「学費免除」の印が押されていたが、寮費や教材費は別だ。私は市場の片隅で早朝の片付けの手伝いをし、昼は校内の掃除係の仕事を引き受けた。貴族令嬢だった手で箒を握る違和感は、二週間で消えた。筋肉痛と小さな豆だけが、本当の身分証だった。
学園の制服は、寄宿舎の古着庫で借りた三番手。袖口は擦り切れ、詰め物のほつれから綿が顔を出している。自分で針を持ち、夜なべで繕った。手元に残ったリボンは、母のブローチの青に似た細い布一片。最小限の飾りに縫い付けると、少しだけ胸を張れた。
杖は質屋で見つけた中古の黒檀。先端に魔力導石を嵌めるソケットがあるが、肝心の石はない。導石は高価だ。私は、魔力の流路を整えるだけの簡易キャップをつけて凌いだ。発動の安定を補うため、呪式を短く区切って詠唱する練習を繰り返す。効率は悪いが、ゼロではない。ゼロにしない――それが今の私の、生き方でもあった。
通学初日、教室の後ろの席に座ると、窓際の令嬢たちがひそひそ声を交わした。
「見て、あの袖。古着庫の三番手ね」
「杖も石なし? ありえなくない?」
「でも名前……レーヴァンスって」
「冗談でしょ。落ちぶれたって噂、ほんとだったんだ」
笑いは刃になって飛んでくる。私は黒板を見つめ、チョークのこすれる音に意識を合わせた。耳朶に刺さる言葉の棘は、反芻すればするほど深くなる。だから、聞かない。聞こえないふりをすることは、卑屈ではなく生存術だ。
授業の合間、私はノートに細い字で呪式を書きつけた。短い一句を呼吸の拍に合わせて区切る。導石がなくとも、空気と熱量と意志で魔力はかろうじて形になる。机の天板に置いた指先が、小さく淡い冷気を生んだ。くぐもった白がすぐに消え、誰にも気づかれない。その程度の魔法しか、今の私には撃てない。けれど、十分だ。私はまだ進める。
昼休み、食堂の列に並ぶための小銭が足りなかった。私は寮の裏手に回り、パン屑を集めて小さなスープに落とし、学園の畑で許可をもらったハーブを一枚だけ千切って香りを移した。塩は指先で一つまみ。舌に広がる味は薄いけれど、空腹は曖昧な恐怖を呼ぶ。食べることは生きることだ。私は匙を置き、深呼吸した。
掃除の時間には、磨き上げられた大理石の回廊を膝で拭いた。床に映る自分の姿は、肩を落とし、額に汗を浮かべたひとりの少女でしかない。そこへ、冷たい空気が一筋流れ込んできた。回廊の先から、規則正しい足音が近づく。
噂に聞いていた。氷の王子――リアン・アルヴェール。王家の第二王子で、氷属性の天才。政務の予習を欠かさず、学業も実技も常に首位。誰に対しても公平で、同時に容赦がない。無駄話を嫌い、温度のない微笑みで距離を測る人。
顔を上げると、銀糸の髪が光をはね返し、その下で淡い青の瞳がまっすぐにこちらを射抜いた。私は反射的に頭を下げる。
「……失礼いたします」
返事はなかった。足音は私のほんの一歩手前で止み、氷のような気配が肌を撫でた。息をのむ音まで聞こえそうな静けさ。やがて、ほんのわずかに空気が動いた。彼は視線を床へ落とし、私の手元――濡れ布巾と、擦れた袖口――を無感動に一瞥したに過ぎない。けれど、その一瞥は、こちらのすべてを測る天秤の目だった。
私は背筋を伸ばし、布巾を絞って再び床を拭いた。彼は何も言わず、私の横を通り過ぎる。通り過ぎざま、靴の踵が小さな水滴を踏み、冷気がそこからすっと広がって瞬時に凍った。私の拭いた跡が、氷の糸で縁どられる。意図か偶然か、わからない。美しくて、少しだけ悔しい。
回廊に残ったのは、薄い氷の筋と、胸の奥に残る妙な震えだけだった。噂通りの冷たさ。けれど、ただの傲慢とも違う。氷は、傷をも閉じる。私は凍った筋を手の甲でなぞり、そっと息を吹きかけた。氷は静かに解けた。
その日の最後の授業は、魔力理論の初級。教授は「資源の乏しい状況で魔法を成立させる条件」について語り、必要なのは正確な構文と均衡だと黒板に図を描いた。私は導石のない自分の杖を膝に置き、図と手元を何度も見比べた。均衡とは、失った分だけ別のどこかで支えること――父がよく言っていた言葉に似ていた。
授業が終わると、教室の出口で小さな躓きを感じた。靴底が何かに引っかかったのだ。よく見ると、私の鞄のストラップが切られ、中身が床にばらまかれていた。ノート、安物の筆記具、折りたたんだハンカチ。教室に残っていた数人の令嬢が、口元に白い指を当てて笑っている。
「きゃっ、ごめんなさい。うっかり足が当たっちゃって」
ごめんなさい――便利な言葉。私は黙ってノートを拾い集め、破れたページの端を重ねた。怒りは熱を生む。けれど、今の私にはその熱を注ぐべき場所が別にある。私は鞄のストラップを結び直し、教室を出た。
寮に戻ると、同室の子はまだ帰っていなかった。二段ベッドの下段が私の場所だ。窓辺に腰を下ろして、ほつれたストラップを丁寧に縫う。針を進めるたびに、心が少しずつ整う。布の手触りは現実を繋ぎ止める糸だ。私は縫い目を揃え、結び目を裏側に隠した。
夕刻、清掃係として最後の持ち場――噴水広場へ向かった。白い石の円形の縁に腰をかけ、水面に落ちた秋の光が揺れている。噴水の中央には氷の彫像が立っていた。王家の先祖が魔物の軍勢を足止めしたときの姿だという。氷は陽に透けて、薄い青の影を地面に落としている。私は柄杓で縁を流し、藻をこすり取った。
ふと、噴水の向こう側に人影が立った。昼の回廊で見た銀糸の髪。リアン王子だ。彼は誰かに話しかけられている。相手は上級生の男子、濃紺のマントに色褪せた家紋。距離があるので言葉は聞き取れないが、態度は十分だ。男は王子に詰め寄り、何かを要求しているようだった。
王子はわずかに首を傾げ、淡々と一言二言返した。次の瞬間、男の足元の噴水縁に白い霜が走り、滑らせた。男は派手に尻餅をつき、水しぶきが上がる。私は思わず柄杓を取り落とした。王子は肩をすくめるでもなく、氷の彫像を一瞥してからその場を離れた。
彼の横顔が一瞬、こちらへ向いた。目が合った、気がした。昼と同じ、冷たい青。けれどその奥に、言葉にしがたい何か――測るでも、侮るでもない、無色の興味の影がよぎったような。私の胸の奥で、針が小さく跳ねた。
夜、寮の消灯時間の少し前。私は机に向かい、明日の時間割を確かめた。午前は座学、午後は基礎演習。実技試験はまだ先だけれど、演習で結果を残せば、奨学金の維持条件も有利になる。導石のない杖でできること――小さな冷気の糸を、確実に形にする。短い呪式を、呼吸と一緒に編む。
ふいに、母のブローチの感触が指に蘇った。もう手元にない、青い石。私は引き出しから、リボンの切れ端を取り出して机に置いた。青に似た色。でも、違う。足りないものを、そのまま嘆く時間は、もう終わりにしたい。足りないなら、別の糸で補えばいい。均衡――教授が黒板に描いた言葉が、胸の内側で静かに光る。
窓の外では、夜気が冷え始めていた。私は寝台に潜り込み、毛布を肩まで引き上げる。明日の自分にできることを、ひとつだけ確かな声で胸の中に告げる。
――私は、学ぶ。私の手で。
遠くで、噴水の水音が細く続いていた。氷の王子に見られたあの一瞬が、まるで冷たい星のように、暗い空にくっきりと浮かんだまま消えなかった。背を向けるのではなく、見上げていられる距離に――いつか、並べるように。私は目を閉じた。
翌朝の講義は「基礎魔力演習」だった。実技に分類される授業で、各自が杖を用い、魔法を発動させる練習を行う。初級魔術の中でももっとも単純な「火花の呪式」と「氷結の糸」が課題だ。
私は教室に入る前から手のひらに汗をにじませていた。導石のない杖で発動を成功させるのは、熟練の術者でさえ骨が折れる。昨日から何度も練習して、かろうじて微弱な冷気を生む程度。見栄を張れるほどの成果は望めない。
演習場は広く、壁面には防御結界が張られている。魔力の余波や失敗の爆ぜる音はすべて吸収され、白い石壁に飲み込まれる。壇上に立った教授が短く咳払いをし、学生たちに課題を告げた。
「今日は初歩中の初歩だ。構文を正しく唱え、魔力を外界に解き放てるかを見る。威力は問わん。正確さと安定を重視する」
順番に前へ出て、魔法を発動させる。令嬢や御曹司たちは、よく磨かれた杖に輝く導石を掲げ、鮮やかな火花を放つ。見物する仲間たちが拍手し、互いに微笑み合う。私は手元の黒檀の杖を握り、指先に力を込めた。
ついに名前が呼ばれた。「エリサ・レーヴァンス」。会場に一瞬の沈黙が走る。昨日のひそひそ話が、まだ空気に残っている。私は歩み出て、壇上に立った。
――できる。できるはず。短く、正確に。
私は呪式を切り分け、呼吸に合わせて唱えた。
「冷気よ、糸となれ――」
杖先からわずかな白い霞が伸びる。しかし途中でふっと揺らぎ、すぐに霧散した。結界に届く前に、魔力は消えた。教室に小さな笑い声が広がる。
「やっぱり石なしじゃ無理よね」
「レーヴァンスって、もうただの平民でしょ?」
悔しさで喉が焼ける。だが、そのとき。壇上の端にいた銀髪の青年が動いた。氷の王子――リアン・アルヴェール。その冷徹と噂される眼差しが、私の杖をまっすぐ射抜いた。
「凡庸だが、素質はある」
低い声が響き、ざわめきが止まる。誰もが王子の言葉を否定できない。教授さえも口を閉ざし、場を見守った。
「式は正しい。ただ、媒介が脆弱だ。導石を欠いた杖では、流路の均衡が保てぬ。だが……それでも形をなした。凡百の努力では到達できん」
私は目を見開いた。冷酷な評価の中に、確かに小さな肯定があった。私の必死を、ただの嘲笑で終わらせなかった。
リアンは杖を掲げ、氷の糸を実演してみせた。澄んだ青白い光が一瞬で編まれ、結界にまで届く完璧な線を描く。その美しさに息を呑む者も多かった。
「力とは、与えられるものではない。選び取るものだ」
そう言い残し、彼は壇上を去ろうとした。だが歩みを止め、こちらを振り返る。視線が絡んだ瞬間、空気が一段と冷えた気がした。
「エリサ・レーヴァンス」
「……は、はい」
「俺の側に来い。婚約者候補として」
雷鳴のような言葉が、白い石壁に反響した。学生たちが一斉に息をのむ。教授でさえ、驚愕の表情を隠せない。私は呆然と立ち尽くし、声も出せなかった。
婚約者――候補? なぜ、私が? 昨日すれ違っただけの、孤独な没落令嬢を。
視線の圧力に胸が苦しくなる。だがリアンはそれ以上何も言わず、冷たい微笑みを一瞬だけ浮かべた。まるで「選択肢などない」と告げるかのように。
教室はざわめきで渦巻いた。嫉妬、困惑、好奇心。私はその中心に立ち、逃げ場を失ったまま立ち尽くしていた。
――「俺の側に来い。婚約者候補として」。
その宣言は、一夜にして学園全体を揺るがした。翌朝の食堂はざわめきで満ち、私が扉をくぐった瞬間、視線が一斉に突き刺さった。まるで炎天下に放り出された氷の欠片のように、私は居場所を失った。
「ほんとに氷の王子の婚約者なの?」
「昨日まで古着の三番手だったのに? 信じられない」
「どんな手を使ったんだろう」
耳に入れまいと歩を速めるほど、ささやきは鋭くなる。食堂の長椅子に腰を下ろすと、向かいに座っていた少女が椅子を引き、露骨に距離を取った。スープの香りより、嫉妬の匂いの方が濃かった。
私自身が一番、理解していない。なぜリアン王子が、没落令嬢の私を選んだのか。昨日の実技試験で示したのは、導石のない杖で糸をかろうじて形にした、それだけ。称賛には遠く及ばない。
食欲はなく、匙を置いて立ち上がる。背後で再び囁き声。
「役立たずが王子の足を引っ張るわよ」
「すぐに捨てられるに決まってる」
――その可能性を、一番恐れているのは私自身だ。
昼休み、教授に呼び出された。応接室の椅子に腰を下ろすと、正面には銀髪の王子がいた。教授は所在なさげに咳払いをし、形式的な言葉を並べる。
「アルヴェール殿下の仰せにより、君を婚約者候補として扱うこととなった。学園としては異例だが、王家の意向に逆らうわけにもいかない。……自覚を持って行動するように」
教授は深々と頭を下げ、部屋を出て行った。残されたのは私と王子だけ。空気は張り詰め、噴水広場の氷よりも冷たい。
「あの……どうして、私を?」
勇気を振り絞り、問いかけた。答えは簡潔だった。
「お前が最も邪魔にならないからだ」
「……え?」
「貴族の娘は虚栄と野心で固まっている。だが没落したお前は、縋るものしかない。利害の計算が単純で、扱いやすい」
胸を突かれ、言葉を失う。選ばれた理由が、無能さと従順さの証明だなんて。
「安心しろ。これは仮初めだ。役目を果たせば多少の恩恵は与える。だが――」
彼は氷の瞳で私を貫いた。
「役に立たなければ切り捨てる。それだけだ」
脅しでも虚勢でもない。事実の宣告だった。
寮に戻ると、部屋の前に小包が置かれていた。中身は見事なドレス生地と封蝋付きの書状。王家の紋章が刻まれている。
「次の週末、城で開かれる晩餐会に出席せよ。婚約者候補としての正式な紹介を行う」
筆跡は端正で無機質。署名はリアン・アルヴェール。
私はベッドに腰を下ろし、封書を握り締めた。拒否する選択肢は――あるのだろうか? 本当は逃げ出したい。だが、レーヴァンスの名を少しでも取り戻すには、これ以上の機会はない。父や弟に顔向けできる日を作るには、この婚約話を利用するしかないのだ。
小さな声で呟く。
「……渋々、でも。受け入れるしかないのね」
窓の外では、秋風が木々を揺らしていた。私は冷たい視線に怯えながらも、自分の中にわずかな炎を探した。利用されるのではなく、利用する。そうでなければ、すぐに切り捨てられる。
仮初めの婚約――それが、私に与えられた唯一の道だった。
婚約候補の宣言から数日。学園はすっかり異様な熱気に包まれていた。授業の前後に交わされるのは魔術理論の話よりも、氷の王子と没落令嬢の奇妙な関係についてだ。私は歩くだけで無数の視線を浴び、囁き声が背中を追いかけてくる。
「なんであんな子が殿下の隣に?」
「裏で弱みでも握ったんじゃない?」
「すぐに終わるに決まってる」
食堂で一人席に座ると、わざと聞こえるように椅子を引く音が重なった。誰も私の隣に座ろうとしない。パンの欠片を口に運びながら、胸の奥に重い鉛を抱えているような孤独を噛みしめる。
だが、完全な孤立を許してくれないのが嫉妬の恐ろしさだった。ある日、寮の部屋に戻ると机の上に置いていたノートが真っ二つに破られていた。魔力で焼き切られた跡が黒く焦げている。ページの間に、小さな紙切れが挟まっていた。
「卑しい女が王子に近づくな」
震える指で紙を握りつぶす。悔しさと恐怖が混じり合い、心臓が早鐘のように打つ。だが、泣いても誰も助けてはくれない。私は新しいノートを買う金すら乏しい。仕方なく破れたページを糸で綴じ直し、授業に出席した。
嫌がらせは止まらなかった。教科書を隠されたり、制服の裾を切られたり。表向きは偶然を装い、誰も直接手を下した証拠を残さない。私は耐え、ただ歯を食いしばるしかなかった。
そんな折、廊下で一人の男子学生に声をかけられた。中位伯爵家の次男であるハロルド。彼は人当たりの良い笑みを浮かべ、わざとらしく私の荷物を拾い上げた。
「こんな目に遭うのはつらいだろう。もし困っているなら、僕が力になれる」
優しげな声色の裏に、別の欲望が見え隠れする。彼の視線は私ではなく、その背後にある王子の影を見ているようだった。利用価値があると思ったのだろう。
「……ご厚意には感謝します」
「遠慮することはない。君が殿下の婚約者候補なんて、誰も納得していない。僕なら君を守れる」
甘い誘いを断ろうと口を開いたその瞬間、背後から冷気が走った。空気が一変し、吐息が白く曇る。振り返れば、銀の髪を揺らしたリアン王子が立っていた。
「俺のものに触れるな」
低い声が廊下を震わせる。ハロルドの顔から血の気が引いた。足元に氷の霜が走り、彼は転びそうになって壁に手をつく。
「ち、違う! ただ助けようと――」
「言い訳は要らん。二度と近づくな」
王子の冷酷な瞳に射すくめられ、ハロルドは何も言えず逃げ出した。残された私は、凍りついた空気の中で立ち尽くす。
「……殿下」
声をかけると、リアンは視線を私に移した。
「俺の名はリアンだ。人前では殿下と呼べ。だが二人のときは違う」
その言葉に心臓が跳ねる。冷たい態度の奥に、守ろうとする意志が確かにあった。昨日までただの孤独だった心に、初めて小さな光が差し込む。
「覚えておけ。お前は俺の婚約者候補だ。誰であろうと、触れることは許さない」
冷徹な声音の奥に隠された真意を、私は探ろうとした。守られているのか、それとも所有されているだけなのか。けれど、その一瞬だけは確かに、孤独から解き放たれたような気がした。
王子に助けられた翌日から、学園内の空気はさらにざわついた。廊下を歩けば、羨望と嫉妬の視線が同時に突き刺さる。嫌がらせは減ったが、それは恐怖が彼らの手を縛っているからであって、憎悪が消えたわけではない。
私はなるべく目立たぬように振る舞い、講義の合間には図書館に籠もった。埃をかぶった魔術理論の古書を開き、導石のない杖で魔力を安定させる方法を探す。必死に文字を追ううちに、隣の席に気配を感じた。
「随分と熱心だな」
顔を上げると、銀糸の髪が目に入る。リアン王子がそこに座っていた。周囲の生徒たちは遠巻きに眺めるだけで、誰も近づこうとしない。
「……殿下」
「ここでは名で呼べと、言ったはずだ」
「……リアン様」
彼は頷き、私の開いていた本に目を落とした。
「導石を持たぬ杖で均衡を取る方法か。無駄ではないが、成功例はほとんど記録されていない」
「それでも、試してみたいんです。今のままでは、殿下のお傍に立つ資格がありませんから」
口に出した瞬間、自分で赤面した。だがリアンは表情を変えず、静かな声で続けた。
「資格など、最初からお前に求めてはいない」
「え……?」
「俺が選んだ。それがすべてだ」
冷たい断言だったが、妙な重みがあった。私の努力や過去ではなく、彼自身の意志で選ばれたという事実。それがかえって心を揺さぶった。
しばし沈黙が落ちたあと、リアンは図書館の奥の書庫へ私を連れていった。誰も入らない古文書の棚。彼は周囲を確認し、小声で言った。
「外では言えぬが……俺は常に監視されている」
「監視?」
「王家の血筋であるがゆえに、派閥争いの標的だ。幼い頃から側近に囲まれ、心を許せる者は一人もいなかった」
初めて聞く告白に、息をのんだ。彼の冷徹さは、生まれながらの性質ではなく、孤独に根ざした鎧だったのだ。
「……だからこそ俺は、お前を選んだ」
「私を?」
「没落したお前には、権力を狙う力も後ろ盾もない。お前ならば、俺を裏切る理由がない。……少なくとも、そう信じられる」
氷の瞳にわずかな揺らぎが走った。初めて、彼が人間らしい脆さを見せた瞬間だった。
胸が熱くなり、思わず言葉がこぼれる。
「孤独なのは、私も同じです。家も名誉も失って、寄る辺がなくて……でも、だからこそ分かります。誰かを信じたいって思う気持ちを」
リアンはじっと私を見つめた。時間が止まったように、長い沈黙が二人を包む。やがて彼は視線を逸らし、わずかに口元を緩めた。
「お前は愚かだな。だが……悪くない」
それだけ言い残し、彼は踵を返した。冷たい背中が棚の間に消えていく。けれど私は確信した。今、確かに心が触れ合ったのだと。
その日から、私とリアンはときおり人目を避けて言葉を交わすようになった。授業後の静かな庭園や、誰もいない講義室。話題は魔術理論だったり、彼の政務の愚痴だったり、私の失敗談だったり。笑い合うことは少ないけれど、沈黙さえ心地よかった。
秘密を共有するたびに、氷の殻に小さなひびが広がっていく。彼が冷たい王子であるのは、誰も寄せつけないための盾であり、本当の彼は孤独に傷ついたひとりの青年なのだ。
そして私にとっても――彼は初めて孤独を分かち合える存在となりつつあった。
王城での晩餐会に出席せよ――その命令が届いたとき、私は小さな震えを抑えられなかった。王子の婚約者候補として公式に紹介される。その意味を考えれば、恐怖と緊張で胸が締めつけられる。
問題は衣装だった。没落した私には新しいドレスを仕立てる余裕などない。寮の箪笥を開けても、そこにあるのは質素な制服と古着の外套だけ。どうすればよいのか途方に暮れていたとき、同室のリナが声をかけてきた。
「ねえ、エリサ。お姉様のお下がりでよければ、使ってみない? 少し丈は合わないかもしれないけど……」
リナは裕福な商家の娘で、いつも気さくに話しかけてくれる数少ない友人だった。差し出された箱を開けると、そこには淡い藍色のドレスが収められていた。少し古い型だけれど、布地はしっかりしていて光沢も美しい。
「……いいの?」
「もちろん。あなたには必要だと思うから」
胸の奥に温かいものが広がる。誰もが敵意を向ける中で、こうして手を差し伸べてくれる人がいる。それだけで涙が出そうになった。
晩餐会の日。城の大広間は、金と白を基調とした壮麗な装飾で満ち、シャンデリアの光が星々のように輝いていた。各地の貴族たちが集い、笑顔の裏に駆け引きを隠している。私は藍色のドレスに身を包み、震える手で裾を握りしめていた。
そのとき、リアンが姿を現した。銀糸の髪が光を弾き、冷たい青の瞳が会場を一掃する。彼は迷いなく私のもとへ歩み寄り、差し出した手を取った。
「行くぞ」
その一言だけで、背筋に力が通った。彼の手は冷たいのに、不思議と心が落ち着く。人々の視線を浴びながら、大広間の中央へと進む。
「紹介しよう。彼女が俺の婚約者候補だ」
王子の宣言に、会場は一斉にざわめいた。誰もが信じられないという表情を浮かべ、私を値踏みするように見つめる。だがリアンは堂々と私をエスコートし、舞曲が始まるとそのまま踊りへと導いた。
不器用なステップに足をもつれさせながらも、彼が巧みにリードしてくれる。会場の中心で二人きりになったような錯覚を覚え、ほんの少しだけ微笑むことができた。
だが、その夜の試練はまだ終わっていなかった。
晩餐会が佳境に差しかかったころ、突如として会場の片隅に異様な気配が生まれた。重苦しい空気とともに黒い魔法陣が床に浮かび上がり、低い唸り声が響く。誰かが禁術を用いて魔物を召喚したのだ。
炎をまとった獣が姿を現すと、悲鳴が会場を満たした。人々が逃げ惑う中、私は足がすくんで立ち尽くした。
「エリサ、下がれ!」
リアンが前へ出て、氷の魔法を展開する。青白い冷気が獣を包み、炎と氷がぶつかり合う。激しい衝撃で窓ガラスが砕け散り、破片が降り注ぐ。私は咄嗟に腕で顔を覆ったが、逃げ遅れた子供が魔物の前に取り残されているのに気づいた。
体が勝手に動いた。杖を握りしめ、必死に呪文を紡ぐ。導石のない杖から生まれたのは、小さな冷気の糸。獣の足元を凍らせ、子供が逃げ出す隙を作る。
魔力が一気に消耗し、膝が震えた。けれど、それでも立ち尽くしてはいけない。
リアンが氷刃を放ち、獣を一撃で貫いた。轟音とともに魔法陣が崩壊し、闇は消え去る。
静まり返った大広間に、王子の低い声が響いた。
「誰であろうと……俺の婚約者を狙うことは許さない」
その言葉に、震えていた心が温かさで満たされる。私の存在はまだ仮初めのはずなのに、彼は命を賭して守ってくれたのだ。
人々は呆然と見守り、やがて拍手が広がった。だが私は拍手の音よりも、手を差し伸べてくれたリアンの瞳に引き込まれていた。氷の奥に、一瞬だけ確かな光が宿っているのを見た。
舞踏会の混乱は、王子の氷魔法によって収束した。だが、魔物召喚が偶然であるはずはなかった。調査の結果、禁術を仕掛けたのはリアンの政敵にあたる親族の一派だったと判明する。標的は、氷の王子自身と……その婚約者候補である私。
真相を耳にしたとき、背筋が震えた。私はただの没落令嬢であり、誰も狙う理由がないはずだった。けれど、彼の隣に立つだけで命を狙われる存在になってしまったのだ。
数日後、王子は私を王城の庭園へと呼び出した。月明かりに照らされた噴水のほとり。人払いがなされ、静寂だけが満ちている。
「……なぜ、私を狙ったのでしょうか」
恐る恐る問いかけると、リアンは短く答えた。
「俺を揺さぶるためだ」
その瞳は夜の氷のように鋭い。けれど次の瞬間、彼はわずかに目を伏せ、低い声を漏らした。
「……本当に失うかと思った」
今まで一度も聞いたことのない脆い響きだった。冷たい鎧の奥に隠された、素顔の痛み。
「殿下……」
「リアン、だ」
彼は私に近づき、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「お前だけは失いたくない。俺はずっと孤独を選んできたが……お前が隣にいて、初めて孤独が苦しいと知った」
胸が熱くなり、視界がにじんだ。これまで蔑まれ、見下され、居場所を失ってきた私にとって、その告白は眩しすぎるほどだった。
「私も……同じです。失うのが怖かった。けれど、リアン様が守ってくれたとき、初めて自分の居場所を見つけたと思えました」
涙が頬を伝うのを止められない。けれどそれは恥ではなかった。やっと誰かと心を通わせた証だった。
リアンはためらいがちに手を伸ばし、私の頬に触れた。指先は氷のように冷たいのに、不思議と温かさを感じる。
「俺の氷は、お前にだけ溶かされる」
その言葉に、胸が強く鳴った。
私たちは互いの孤独を知り、痛みを分け合い、そして同じ未来を望むようになった。もう仮初めではない。偽りではない。
月明かりの下で交わされた絆は、本物だった。
王城での舞踏会から数週間。学園の空気は、以前とはまるで違っていた。
かつて私を嘲笑していた令嬢たちも、いまや距離を置いて静観している。陰口は消え、敵意は影を潜めた。氷の王子が公然と私を守り、絆を示したのだから当然だろう。
図書館で本を開いていると、そっと声をかけられる。
「ノート、写させてもらえる?」
笑顔を向けられ、驚いて顔を上げる。以前なら見向きもしなかった同級生だ。胸の奥がじんわりと温かくなった。私の居場所が、少しずつ学園の中に根を下ろしていく。
けれど私が誇らしく思えたのは、人々の態度が変わったからではない。リアンが私の隣に立ち続けてくれる、その事実が何よりも力になった。
ある日の放課後、噴水広場でリアンが言った。
「近日、正式に発表する。俺の婚約者として、お前を王城に迎える」
胸がどくんと跳ねた。仮初めではなく、本物の婚約。夢物語だと思っていた言葉が、現実として告げられたのだ。
「……私なんかで、本当にいいのですか?」
恐る恐る問いかけると、彼は氷の瞳をまっすぐに向けてきた。
「俺の氷は、お前にしか溶かせない。だから俺はお前を選ぶ」
その瞬間、込み上げる涙を抑えられなかった。
数日後、王城の大広間で正式な婚約発表が行われた。煌びやかなシャンデリアの下、リアンは堂々と立ち、参列した貴族たちに告げた。
「この者を、俺の婚約者として迎える。いかなる派閥の思惑にも関係なく、俺自身の意志で選んだ」
その言葉は氷を砕く鐘の音のように響き渡り、誰も逆らうことができなかった。人々の視線が私に集まり、驚きや羨望が入り混じる。だが、私はもう怯えなかった。隣にリアンがいる限り、胸を張って歩ける。
式典のあと、二人きりになった回廊で、彼は私の手を取った。
「エリサ。もうお前は没落令嬢ではない。俺の花嫁だ」
彼の瞳は冷たさを帯びながらも、奥に確かな温もりを宿していた。
「……はい」
涙が溢れる。けれどそれは悲しみではなく、幸せの証。
没落から始まった私の学園生活は、孤独と屈辱に満ちていた。けれど、その先で出会ったのは、冷たい鎧をまとった一人の王子だった。
彼の氷は、私だけに溶かされ、私の心は彼によって温められた。
こうして、没落令嬢は――氷の王子の唯一の花嫁となった。
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