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想い出のコインロッカー

作者: 密華

この物語は、幼いころに祖母から教わった言葉を胸に、遠い記憶がふとよみがえる瞬間を描いたものです。長い駅のプラットフォーム、そこに残されたコインロッカー──一見ありふれた風景のなかに、小さな奇跡が息づいていると感じたことはありませんか? 私自身、祖母が語ってくれた「記憶は、誰かの声に呼び起こされる」という言葉に何度も救われてきました。忙殺される日常のなかで立ち止まり、自分にとって本当に大切なものを再確認する。そんな時間を物語のなかで少しでも共有できたらと思い、この地平の先にある「再生の記憶」を綴りました。

夜のホームには、ほのかな蛍光灯の輪郭だけが浮かんでいた。列車の最終便を逃した人影はまばらで、ホームのベンチには古びた旅行鞄とカップ麺の容器だけが残されている。僕──村上奏かなでは、深夜の静寂に包まれたプラットフォームで、不意に遠い記憶をたぐり寄せていた。


小学校の頃、夏休みの夜に祖母の家を訪ねた夜がある。縁側の障子越しに聞こえる蝉時雨の中、祖母は古いラジオのダイヤルをゆっくりと回しながら、静かに語ってくれた。

「記憶は、誰かの声に呼び起こされると、もう一度鮮やかに流れ出すものなのよ」

そのときはただの思い出話だと思った。しかし今、僕の胸には祖母の声が確かに響いていた。──記憶は再生される、何度でも。


僕は駅舎の窓ガラスに映る自分の姿を見た。スーツに身を包み、腕には重たいビジネスバッグ。疲れ切った表情は、会社の業績不振による残業と、先週届いた母からの手紙が理由だった。母の手紙には「できるなら戻ってきてほしい」とあった。だが僕は、目の前の仕事の山を前に、帰省をためらっていた。

「もう少しだけ、このままでいてもいいのだろうか」

心の中で自問しながら、夜風に当たりたくてホームの端まで歩く。すると、ひとつの古いコインロッカーに視線が吸い寄せられた。暗い青の扉は、かつて祖母が持っていたレコードプレーヤーの色そっくりだった。僕の少年時代、祖母の家でよく耳にしたジャズの調べが、まるで今にも扉の奥から流れてきそうな気がした。


思わずコインロッカーの番号を確かめる。だが数字は何の意味もない、見慣れない番号「0番」。そんな番号は通常存在しないはずだ。僕が近づくと、かすかな振動が手のひらに伝わってきた。息を呑み、耳を澄ませる。微かな金属音が、鼓膜の奥でこだました。鍵穴に合わないはずの鍵が、一瞬だけ浮かんだように見えた。

「……夢か」

つぶやきながら後ずさろうとした瞬間、ロッカーの扉が静かに開いた。内側には小さな引き出しがあり、その上に一枚の絵はがきが置かれている。縁には古いフィルム写真のような埃がうっすらと積もっていた。絵はがきを手に取ると、そこには祖母の写った一枚の白黒写真が貼られ、その下に「再生の記憶」とだけ、癖のある筆致で書かれていた。


胸が高鳴る。僕はロッカーの扉を全開にし、中をのぞき込む。引き出しの中には、さらに四つの小箱が等間隔に並んでいる。箱の表にはそれぞれ、「声」「香り」「音」「触感」とだけ記されていた。まるで記憶を構成する要素そのもののようだ。

「記憶は、誰かの声に呼び起こされる」──祖母の言葉を脳裏で反芻しながら、僕は「声」と書かれた箱をそっと引き出した。箱の中には、小さな蓄音機の針が一本と、プラスチックの小片が収まっている。プラスチックには淡い琥珀色の丸い粒のようなものが埋め込まれており、触れると不思議なぬくもりが指先に残った。


蓄音機の針を手に取り、抑え込まれた鼓動のように震える胸のまま、僕は駅のベンチに腰掛けた。手元のスマートフォンには音楽アプリのアイコンが並んでいるが、僕はそれを開こうとは思わなかった。ここで奏でられるべきは――祖母の声を収めた「記憶の音」なのだ。

しかし蓄音機の針だけでは再生装置がない。だが僕の目には、先ほどロッカーの扉の奥にあった年代物のラジオのツマミが閃いたように見えた。夜中のホームに一台だけ残されたそのラジオに、僕は箱を近づけた。蓄音機の針をラジオの表面に軽く置くと、微かな振動がアンテナをつたって感電したかのように走り、チリチリというノイズの海が耳元で開いた。


その瞬間、遠い夏の夜が鮮やかに蘇った。幼い僕の耳に、祖母の優しい声が響いていた。

「奏、おばあちゃんが若いころ、レコードを集めてね…」

語り口は柔らかく、だが言葉の一つひとつが僕の心の奥底に刻まれる。祖母は戦後の混乱の中で出会ったアメリカからの兵士からジャズを教わり、大切なライフワークとしてレコードを蒐集していたという。戦火の中で命を落とした大切な友人の思い出を、音楽に託したのだと。

「記憶は、音に乗って時を越えるものよ」

祖母の声と共に、かすかに遠くから汽笛の音が聞こえた。電車がホームに滑り込む合図だ。僕はハッと我に返り、指先に残った針をそっと箱に戻した。そして、次の「香り」と書かれた箱を取り出す。


箱を開くと、中には小さな瓶が一つ。コルク栓が施された瓶には、淡い色の液体が満たされている。鼻を近づけると、まるで夏の田んぼを思わせる青田の香りと、祖母が庭で育てていたラベンダーの混ざった香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。遠い記憶の中で、庭の縁側に座った祖母と一緒に風鈴の音を聞きながらおやつを食べた日の匂いだ。

「記憶は、香りと共に閉じ込められる」

祖母の声は終わらない。だが今度は、胸の奥に優しい涙がゆっくりと溢れた。僕はその瓶をそっと閉じ、次の箱へと手を伸ばす。


続いて「音」と書かれた箱。中には古びたト音記号のブローチが一つ。見た目はただの銀の装飾品だが、手に取ると静かな音楽が頭の中で再生された。祖母が愛したビリー・ホリデイのバラードだ。深い夜の空気に溶け込みそうなほどに切なく、美しい歌声が、まるで真夜中の駅構内を漂っているかのようだった。

「記憶は、旋律となって心を揺さぶる」

ブローチを胸ポケットにしまい込むと、その余韻がほのかに胸に残り、僕の肩を優しく叩くようだった。


最後に「触感」と書かれた箱を開ける。中にはふわりと柔らかな布片があり、指先でそっと触れると、祖母の編んだ手編みのセーターの感触が蘇る。冬の寒い朝、縁側でお茶をすすりながら、祖母は編み物の手を止めることなく、僕に話しかけてくれた。

「奏、人生は編み物みたいなものよ。目を一つずつ積み重ねていって、やがて美しい模様が出来上がる。でも途中で糸が絡まったら、ほどいてまた始めればいいの」

その言葉を聞いたとき、僕はまだ小さな子供だったが、胸の奥に確かな温もりを覚えた。どんなに過去が複雑でも、自分の手でほどいてやり直せる──そう信じたかったのだ。


四つの要素を味わい尽くしたとき、夜明けの兆しがプラットフォームに差し込んできた。冷たいコンクリートの床がほんのりと温まり、僕の影が長く伸びる。コインロッカーに目を向けると、そこにはもう何も残っていなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、扉はきちんと閉ざされ、鍵穴だけが静かに僕を見返している。


僕は深呼吸をして立ち上がった。ポケットの中には、四つの箱と白黒の絵はがきだけがある。だが、それ以上に大きなものをプレゼントされた気がした。祖母の声、香り、音、触感――それらはすべて、僕が生きる糧となり、これからの人生の羅針盤となるはずだった。


帰省を決意したのは、その直後だった。故郷の家に辿り着き、母の寝室のドアをそっと叩く。母は驚いたように目を覚ましたが、僕を見ると、瞳に涙を浮かべて抱きしめてくれた。そこには、初めて会うような純粋な喜びがあった。僕は手に持っていた四つの箱と絵はがきをそっと母に差し出し、祖母が伝えたメッセージを語り聞かせた。


母は頬を濡らし、「あなたが戻ってきてくれたことが、すべてよ」と言った。僕は母の手を取り、穏やかな朝の光の中で、はじめて自分自身の記憶と向き合い、再生させることができたと実感した。


記憶は、誰かの声に呼び起こされ、香りに包まれ、音に揺さぶられ、触感に慰められて、再生される。その再生こそが、僕たちの人生を次の一歩へと運ぶ。祖母の教えは、今や僕自身の血肉となり、これから先の道を静かに照らし続けるだろう。


――記憶と再生。僕の人生は、そうして紡がれていくのだ。

「記憶と再生」をテーマに紡いだこの物語は、一度途切れた記憶の糸が、小さな気づきによって再び編み直される様子を描いています。誰もが胸の奥にしまいこんだ声や香り、旋律、触感を抱えて生きています。それらは形を変えながらも、私たちの心の羅針盤となり、次の一歩を踏み出す力をくれるはずです。書き手として願うのは、読んでくださる方がこの物語を通じて「自分の記憶」にそっと手を伸ばし、大切な何かを再生するきっかけにしていただけることです。夜のホームにひそむ静寂と、その先に広がる小さな光を感じていただけたなら、これ以上の喜びはありません。

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